母と呼ばれた者

 ―療養所 カウンセリング室


 白を基調とした清潔感のある部屋で、クリーム色のカーテンで窓からの光を遮っている。木製の机を挟み、医師と患者が座っている。

 患者は頭を項垂れぎみの男性で、肉体的には健康そうではあるものの青白い顔をしている。無造作に跳ねた髪と伸びた髭、水色の患者衣と相まってか、あまり生気を感じられない。

 向かい側に座る医師はその様子を冷静に観察し、会話を切り出すタイミングを見計らっている。医師、天月蒼空は茶髪のショートボブを空色のカチューシャで留め、同じく空色のブラウスと黒いタイトスカートに白衣という恰好だ。

 そして片手にペンを握り、空いている手には患者のカルテを持っていたが、静かにどちらも置いて机の上で手を組んだ。

それから程なくして天月が患者に話し掛けた。

「あれから……何か変わったことはありました?」

しかし、患者は頭を上げようともせず、無言で机の一箇所を見つめている。

続けて天月は声を掛ける。

「見たところ、きちんと食事はされているのでしょう。目の下の隈も前回より薄くなっていますし、良い傾向ですね」

天月の穏やかな声掛けに対し、患者はまた無言のままだ。

相手が何を考えているか、どうして反応がないのか。天月はそれを考え分析を始めた為、暫くカウンセリング室は無言に包まれた。

 しかし沈黙のままではいつまでも終わらない、そう思った天月は思考を巡らせ慎重に言葉を選んだ。そして、患者を真っ直ぐに見て伝えた。

「■■さん、私はあなたが元の生活を送れるように手助けする事しかできません。あなたは確実に自分を取り戻しつつあります。あともう少し、もう一歩進んでみませんか?」

その言葉を聞き、患者は小さく震えた。そして細い声でゆっくりと語りだした。

「……少し、進む?」

「そうです」

と、天月が肯定した途端、患者は顔を上げて訴え掛けた。

「……そ、そうしたら、自分はあの子共たちを救えますか?無慈悲にも未来を奪われたあの子たちを……!」

渇ききっていた患者の目がじわりと潤っていく。大粒の雫となって頬を濡らし、机に零れた。この男性は救えなかった犠牲者たちに対し、己の無力さを強く責めていたのだ。

それを見て、天月は患者に柔らかく微笑み、答える。

「えぇ。もちろんです!あなたにしか出来ない、とても大切な事がありますから!」

この言葉を聞き、患者が事件以来初めて口角を上げる。目尻を下げ、瞼は自然と閉じられた。


 彼にしか出来ない事。それは事件現場に突入して見たもの、気づいたもの、それら全てを法廷で証言する事である。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 同時刻、場面は事件現場の一軒家へと戻る。


 一歩ずつ壁に片手を付きながら歩み寄ってくる異形の怪物を、一行は息を押し殺していた。物音を立てた一行の近くを、異形の怪物は暗い廊下で頭を頻りに動かしている。

 小鳥遊の目の前に迫っているにも関わらず、彼の異形は彼女に攻撃を仕掛ける様子もない。寧ろ気づいていない様子でもある。

異形の怪物が目と鼻の先まで迫っている小鳥遊だが、その表情は嫌悪や畏怖を表していない。どちらかと言えば小鳥遊の後ろにいる、口を手で押さえている鷲北の方が険しい顔をしている。最後尾にいる朝凪は動きが読めない異形の怪物を睨みつつ、すぐに猟銃を取り出せるように構えていた。

 あと一歩、彼の異形が踏み出せば小鳥遊と接触してしまう。ぬたりとした手は何かを掴もうとしたものの空を掻く。そこには何もないからだ。

異形の怪物はその先に壁がない事を悟ったらしく、のそりと後ろを振り向いて歩きだした。聞き取り難い言葉を発しながら、壁伝いに一番手前の部屋に入っていった。

 扉が閉じたのと同時に、小鳥遊が後方の二人に合図する。どうやら彼の怪物が入った部屋の向かい、階段から見て正面で二つ目の扉を指差した。どうやらそちらへ行こうと言っているらしい。

いや、二人の返答を待つこともなく歩き出した為『こっちの部屋行ってきますねー』と、言う意味合いとも受け取れる。

 先に部屋へ入ってしまった小鳥遊の後を追い、鷲北と朝凪は中腰のまま慎重に廊下を歩いた。二人の直感としてあの異形の怪物はだと仮定を立てた。


 部屋の中は他の部屋と同様に暗く、部屋全体の埃が強いように思う。この状態では何も見えないと思い、鷲北が小型の懐中電灯で目の前を照らす。

懐中電灯の青白い明かりが最初に照らしたのは、小鳥遊の顔だった。いつもの不真面目そうな表情ではなく、まるで証明写真の様に完全な正面顔だ。

突然の事に驚いた鷲北は思わず声を上げそうになったが、ここで大声を上げれば異形の怪物を呼ぶことに気付いた。驚きの声を喉奥に堪え、抑えた声で苦言する。

「小鳥遊くん……君っていう人は―――」

という言葉を遮り、小鳥遊が悪びれる気もなさそうに言う。

「すみませんねぇ、空気が緊迫し過ぎてたのでつい!」

「全く……」

ここで感情に流されては意味がない上、時間や体力を無駄に消費するだけなのだ。そんな事よりも、と鷲北は部屋の中を照らしだした。

 部屋の中央にはくすんだ緑のシングルサイズのベッドが二つ並んでおり、同じ色のカーテンで窓はキッチリ締められている。右の壁際にはシンプルなデザインの焦げ茶色をした書き物机があり、左の壁際には背の高い収納棚が置かれていた。

一通り照らしたあと、ずっと黙っていた朝凪が口を開く。

「……寝室か」

「ですね。恐らく、犯人の本当の両親はここを使っていたのでしょう」

と小鳥遊が言いつつ、取り出した懐中電灯でベッドを照らす。照らされたベッドの掛け布団を軽く払うと綺麗な深緑色が現れた。

もし、この布団にあの異形の怪物が寝ていたとすれば、埃が被る事なく醜い表皮から出る生臭い粘液でベタついているだろう。

「たぶん、あいつは目が見えてないと思うんですよ」

と、小鳥遊が語り始める。それに二人は同意した。

「階段で遭遇した時、海がライターを落とした音に反応はしていましたが、結局ボクらを見つけられてませんでしたし。たぶん、特段耳が良いとかでもないでしょう」

「なぜそう言い切れる」

そう問いかけたのは朝凪だ。そして続けて疑問を投げかける。

「アイツの目が不能なのは私にもわかった。だが、聴力に関してはまだ分からない。何か確かめたことでもあるのか?」

それを待っていたと言わんばかりに、小鳥遊は誇らしげに微笑んだ。

「それはですね……!」

と言い、小鳥遊はベッドに乗り、数回弾んだ後に高く飛び降りた。当然ながら埃も多く舞い、鷲北と朝凪は顔を覆わざるをえなかった。そして小鳥遊の着地はそれなりの音が出た。

小鳥遊は体操選手宛らの姿勢でニコニコと笑っているものの、二人は入口の方を向いて警戒態勢になった。


しかし、一向に異形の怪物が来る気配がない。


 不思議そうにしている二人に、誇らしげな小鳥遊が埃舞う部屋で解説する。

「お二人とも、少し前の一階でのボクの勇敢な行動を覚えていますか?」

そう言われ、鷲北は少し考える。一方で朝凪は呆れた顔で答える。

「知らん、常に紫ばっかり見てるわけないだろ」

「えぇー、酷いなぁ」

と言いつつも、大して傷ついておらず自慢気に語り始めた。

「ボクの勇敢な行動って言えば、廊下で素敵な歌を大きな声で歌った事ですよ!もう忘れたんですかぁ?」

煽るように言うが、正面の二人は黙ったまま話を聞いている。部屋全体に埃が舞っており、鷲北はハンカチで口許を抑え、朝凪は袖口で塞いでいる為、口を挟む余裕もないに等しいからだ。

こういった場所でも語り慣れているのか、お構いなしに言葉を続けた。

「ボクのボクによるボクの為のとっても素敵なボクの歌、我ながらよく声が通っていたと思うんですが、一階と二階にいたどちらの異形も廊下に姿を現さなかったじゃないですか。という事はですよ、二階の異形は目が見えない上に聴力もあまり良くないと考えられるわけです!」

えっへん、と胸を張っている小鳥遊に鷲北が尋ねる。

「その仮定だが……もし、異形の目が見えておらず移動するには手を壁に付けていなければいけないのであれば、階段の構造か犯人の指示でのではないかね」

この家の階段は踊り場があるU字型で、手狭な階段が廊下とL字に交わっている為、目の見えない者が壁に手を付いて歩くとすれば転倒する危険がある。犯人にとってこの異形は大切な親であり、掛け替えのない存在だ。それを自分が不在の間、怪我をさせまいと何等かの対策をするのが当然だろう。

 この異形の者らは不完全な形をしているとはいえ、召喚した者の支配下である事に変わりない。一階の異形は言葉が通じないが、家具を避けて歩きまわる事が出来る。一方で目が見えない異形はあまり細かい物が置かれず、部屋数も少ない二階にいるように言われたのだろう。

 程なくして埃が地面に落ちきった頃、朝凪が口を開く。

「……という事は、そういう事だろう?」

これまでの行動を振り返り、一同は同じ結論に達した。

「あっ」

小鳥遊がこれから起こるであろう事に気づき、思わず声が出たと同時に、部屋の扉が勢いよく開けられた。



 のそり、のそりと一同の懐中電灯で照らされながら姿を現す彼の異形は、先程階段で見た時より幾分か小さく見えた。しかし、実際は大きさなど変わっていない。

薄暗い階段で見たあの時と比べ、懐中電灯で照らされている分はっきりと姿が見えるからだ。

 ぶよぶよの皮膚は生臭い異臭を放ち、ぬたりとした肢体は壁や床に触れる度に埃を巻き込んでいく。開け放たれた扉に手を添えていた場所は、粘性のある液体がべっとりと垂れている。ゆっくり近づくその巨体の頭部は包帯で何重にも巻かれ、本来目がある筈の場所に暗い色の液体が滲んで固まっている。

 至近距離で異形の怪物を見てしまった影響か、鷲北はその場で硬直してしまった。他の二人は見慣れた存在なのか、この異形より悍ましい者と遭遇したためか、精神的な苦痛を得ていない様子だ。

 朝凪は極めて冷静に持っていた懐中電灯を懐に収め、背負っていた猟銃を取り構えた。普段狙いを定める獣と比べ、この異形は目が見えていないだけ楽に片付けられそうだ、と彼女は考えた。

 小鳥遊は先程の”ぐちゃぐちゃタイム”で使用していたナイフを取り出し、回収出来なかった部位を採取するつもりらしい。

「とりあえず瀕死まで追い込むぞ」

と言い、歩み寄る異形に照準を合わせた朝凪が引き金を引いた。発砲音と同時によろめく怪物だが、先程討伐した異形と同じくあまり傷を負っていない様に見える。

 それでも少なからず負傷しているらしく、朝凪による2度目の発砲で膝を着いた。やけに耳に残る呻き声を発している異形の存在に対し、小鳥遊は白く輝く刃を突き立てる。

「あはっ!よく効いてるみたいですねぇ!!」

絶えず粘液を垂れ流す醜い皮膚をナイフで深く抉る小鳥遊。その表情は楽しさを隠しきれず、無邪気な笑みが零れていた。

そして、肉を剥ぎ取られた異形はその巨体を地に打ち付け、激しい痛みからけたたましい絶叫を発してる。痛みのあまりに叫ぶことしか出来ないというのは、人であろうとなかろうと同じであるらしい。

 次弾装填の片手間に小鳥遊のナイフを見ていた朝凪は、先程見た時と様子が異なっていることに気がつく。明かりがほぼ無いに等しいこの部屋で、鷲北の懐中電灯とほぼ近しい光を放っているのだ。

「紫、それどうした。新しい照明か?」

そう声を掛けられ、小鳥遊は手元のナイフと朝凪とを交互に見た。それから程なくして、吹き出すように笑いだした。

「ぷっ、あははっ!海が冗談言うなんて、今日はとってもご機嫌なんですね!」

小鳥遊が脇腹を抱える様に笑っていると、朝凪がそれを咎める様に短く声を掛ける。

「……紫、黙れ」

その忠告を素直に受け入れ、小鳥遊は自分の手で口許を覆った。この時はまだ理解していなかったのだが、数秒も経たぬ内にすぐ聞き入れて良かったと思えた事だろう。

 先程の談笑の隙を見てか、異形の怪物は立ち上がっていたのだ。そして、自分が殺すべき人間を探る為に頭を揺らし、どこにあるかも分からない耳で探り当てようとしている。

 もしここで物音を立てようものなら、直ぐ様あの水掻きのある鋭い爪の餌食となるだろう。異形の怪物が纏う未知の粘液が付着する可能性も合わせ、彼の者から傷を負う事は避けなければならない。

 先程からずっと硬直状態にあった鷲北はようやく正気を取り戻し、目の前の状況に適応しようと周囲を見渡した。しかし、彼に出来る事などほぼ無いに等しく、ただじっと息を殺す他ない。

というのも、異形の怪物に近いのは小鳥遊と鷲北の両名で、どちらかが動けば片方を巻き込む事になるだろう。鷲北の持つ懐中電灯で照らされた巨体は、人間にとって脅威と呼ぶに相応しい。

 異形の怪物がゆっくりと一歩進み、壁を探る様に手を伸ばす度に額から冷や汗が流れる。とうとう小鳥遊の顔のすぐ前まで手を伸ばしてきた異形の怪物だが、その手は一瞬で弾き飛ばされた。


朝凪による発砲だ。


 何時まで続くか分からないこの状況を焦れったく思ったらしく、暗い部屋である事も相まって鬼の様な形相をしている。

その一方、腕が半分千切れかかった事で異形の存在はかつて無い叫び声を上げた。その声は部屋全体を震わせ、窓をカタカタと鳴らしている。

 当然、至近距離でそんな声を聞けば耳を塞ぐのが道理である。鷲北と小鳥遊は頭を全力で押さえる様に両手で塞いだ。

 しかし、朝凪は違った。獲物に対して真っ直ぐ照準を合わせ、眉間に皺を寄せて歯を強く喰いしばっている。

彼女が増悪を表情に出しているのは手元が狂わぬようにであって、実際はそれほど感情的ではない。あくまで冷静に、引き金へ添えた指に力を入れた。

ずどん。

重い鉛玉が異形の怪物の頭を貫き、ぽっかりと空いた穴を塞ぐように粘液が垂れる。怪物が持つ血液と粘液は混ざり、崩れ落ちる巨体と共に埃っぽい床に雪崩れた。

 愛銃が問題なく動作することを確認している朝凪に小鳥遊は駆け寄り、少しむくれたような顔付きでこう言った。

「殺しちゃダメって言ったじゃないですかぁ!もしかして、天才たるボクへの当てつけですか?」

悪意なき丸い瞳を朝凪に向けたが、小鳥遊の皮肉も猫かぶりも特に効果はない。しかし、それとは別に小鳥遊は額を軽く叩かれた。

「たぶんまだ死んでない、動けはしないだろうがな」

「そうですか。それなら良しとしましょう!」

と、いつになく上から目線の小鳥遊は、手に持っていたナイフを異形の怪物に突き立てた。本日二度目のぐちゃぐちゃタイムである。

 それを見ていられない鷲北はすぐに察し、逆の方向を見て事なきを得た。

何を思ったのか、手が空いた朝凪が鷲北の方へ歩み寄って声を掛ける。

「なぁ、鷲北さん。あんたはこの先に進まない方が良いと私は思う」

「……確かに、私が踏み込んで良い類ではありませんが。それは朝凪さんも同じでは?」

恐る恐る答える鷲北の言葉に少し考えた朝凪。しかし、さほど時間が経たぬ間に彼女の中で結論は出たらしい。

「いいや。私は……はもう引き返せないところまで来ている、今更真っ当にはなれない」

そう呟く朝凪の表情はどこか穏やかで、今までで一番柔らかい表情をしていた。

 その一方で、鷲北と朝凪の背後ではぐちゃぐちゃと粘性のあるものを切る音が絶えず聞こえ、切り取ったサンプルをせっせと特殊ケースに納めている。いったいどこに収まっているのかは謎だが、天才であるらしい小鳥遊だからこそ為せる技なのだろう。


 暫くして、不愉快な擬音が止んだ頃に小鳥遊が声を上げた。

「あっ!これって―――!」

そう言って小鳥遊が摘まみ上げたのは金属製の輪の様なものだ。恐らく一階で入手していた鍵の差し込み部分と組み合わさるのだろう。

 小鳥遊が持っていた部品を取り出してぴったりと合わせ、まるで魔法の様に本来の形に戻した。それから再びベッドに飛び乗り、満足そうに鍵を見せびらかしながらこう宣言した。


「やっぱりボクって天才だー!」


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見えぬ聞こえぬ 柊 撫子 @nadsiko

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