悪役の憂鬱
舞
悪役の憂鬱
暗い森。その中心にある1本の巨大な木の巨大な枝に、2人の若い男女がいた。男の方は血まみれで、苦しそうな顔をして寝転がっている。目はうっすらと開いているが、誰が見ても彼はあと少ししたら死んでしまうということが分かるだろう。それほど彼は弱り果てていた。
その隣りに、ボロボロの服を着た女が座っていた。今にも死にそうな男を、じっと見下ろしている。
「『正義は勝つ』っていうだろ?」
女のガサガサの唇から出たその声は、貧相な見た目とは裏腹に、透き通っていて、鈴の音のように美しかった。
「だからよ、あの人たちじゃなくて、私たちが勝つと思ってた。私たちには、国を守るっていう使命があった。そしてその使命を果たすことが、私たちの『正義』だった。でも…。」
女は男の頬を白い手で、そっと撫でた。何人もの人間を殺して傷つけてきたその手で、優しく撫でた。
「あんなにいた仲間は皆死んで、結局私たち2人だけになっちまった。つまり、私たちが信じていたのは『正義』じゃなかったんだよ。私たちは、負けてるんだからな。」
男はほんのわずかに、胸を上下させていた。まだ生きている証拠だった。
「『正義』の反対は『不義』。だからまぁ、『悪』だよな。たくさんの人を無闇に殺した、大量殺人鬼。取り返しのつかないことをした悪魔…。」
涼しい風が吹いた。葉が揺れて、女の顔に木漏れ日が当たる。その顔は穏やかだった。
「あれだけ殺したのに、結果は出せなかった。『悪』だと言われても仕方がない。でも、向こうだってやってることは同じなんだよ。勝っているから『正義』かもしれない。だけど向こうだって、私たちの仲間や国の人を大勢殺した。私たちから見れば向こうこそ『悪』だよな。それなのに、客観的に見ればこっちが『悪』なんだよな。」
女がうつむいて、表情を曇らせる。
「同じことしてるはずなのに、なんで…だろうな…。」
そのとき女は、男が自分の服の裾をつかんでいることに気づいた。女ははっとして男を見る。ただ横たわって息をするだけで精一杯のはずなのに、もう彼の生命はとっくに限界のはずなのに、彼は震える腕を伸ばして、女の服の裾をつかんでいた。そのことに女は驚く。
彼の胸から流れる血は、まだ止まらない。しかし女は、彼の生々しい姿から目をそらさなかった。
「あんたは本当に、悪役に向かないね。私よりあんたの方が強いのに、私をかばうなんて。あんたはいつもそうだった。私が危険にさらされるたびに、真っ先に駆けつけてくれた。」
女は目を細めて、慈しむように笑った。みるみるうちに、目に涙がたまる。
「あんたは悪役になるには、優しすぎた…。」
涙が溢れる。太陽の光を受けて輝くそれは、乾いた血のついた彼女の頬を伝い、ズタズタの服にぽとっ、ぽとっと落ちた。
遠くで、人の声が聞こえた。女は涙をぬぐって顔を上げ、森を見渡す。
敵に違いない。2人を追って、この森に入ってきたのだ。2人がいる木は、森の中で1番大きい。彼らはすぐに、この木を見つけるだろう。
「そうだよな。殺しにくるよな。たとえ2人しか残っていなくても。」
トン、と音がした。見ると、さっきまで服の裾をつかんでいた男の手が、枝の上で動かなくなっていた。ほんの少し開いていた目も、今では完全に閉じている。それを見て女は口元を緩ませて眉を下げ、悲しそうに笑った。
「いや、1人か…。」
女は再び、男の頬を撫でる。まだ温かかった。だがそのうち、冷たくなるのだろう。男の顔は痛みに耐えているかのように歪んでいて、安らかな眠りについた、とはとても言い難い表情だった。今までの人生の苦悩のすべてが、この死に顔に表れていた。
「ロキ…。」
彼の名前を呼ぶその声は、潤んでいた。細い腕でロキのがっしりした上体を起こし、その背中に腕を回す。そして、彼の左胸――もう二度と動かない心臓に耳をつけた。当然、何も聞こえない。そのことに、彼が死んだことを強く実感する。止まったはずの涙が溢れ出した。
「辛かったな、苦しかったな。でも終わったんだよ。もうあんたは、国のために戦わなくていいんだ。」
敵の声が近くなってきた。女はロキの胸から顔を離し、包み込むような優しい笑顔を彼に向ける。顔は血と涙でぐしゃぐしゃだったが、日の光を浴びたその顔は、とても美しかった。
「私を生かしてくれて、ありがとう。」
ロキを枝に横たえて、汚れた袖で涙を拭き、立ち上がる。敵の声がする方を向いて、女はつぶやくように言った。
「結果はもう見えてる。でも、ここで逃げるわけにはいかない。」
腰にある剣を、すらっと抜いた。銀色の刃が、鋭く光る。
「悪役なら悪役らしく、正義のヒーローたちに倒されないとな。」
そう言って、女は木から勢いよく飛び降りた。
悪役の憂鬱 舞 @setamai46
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