病夢とあんぱん その外 ~詩島志吹のビーフシチュー~⑥
「は?交渉したい?」
とある廃ビルへと向かう車の中、
「本気で言ってんのか?交渉で、なんとかなるとでも?」
「なんとかなる・・・と思ってるよ。多分、ね」
僕が疫芽君に提案したのは、これから戦おうという相手に対して交渉を呼びかけ、
もちろん、上手くいくなんて、これっぽっちも考えていない。そもそも、莉々さんを返してもらおうという気さえ、今の僕にはない。
目的は別にあるのだ。
「俺は話し合うつもりなんざ、さらさらねぇ」
顔をしかめて、彼は僕の提案に反対してくる。
「そんな面倒くせぇことはやりたくねぇし、第一、殺せと言ったのは
「躊躇っているつもりは、ないんだけど・・・」
むしろ、機桐さんが本心から人を殺せと言っているのならば、積極的にそれに従うつもりだ。
それが、本当に本心ならば。
「あんたが人を殺したくないっていうなら、サポートをしてくれるだけでもいいんだぜ?人殺しの役割は俺が担うし、無理してあんたが手を汚す必要はない。それでも、あんたは交渉をしようっていうのか?」
「ああ。それでも、交渉するよ」
「莉々さんを渡してくれ」と、交渉するのではない。
逆だ。
「莉々さんを取り戻してくれ」と、交渉するのだ。
『シンデレラ教会』の場所を、機桐親子の大切な家庭を、彼らに明かすつもりだ。
敵からすれば、わけが分からないだろう。
けれど、殺すなんて、できるはずがない。僕の力不足はもちろんだが、あの機桐さんの態度を見て、そんなことをできるはずがないのだ。
殺人を犯すことを、彼は望んでいない。本音を言えば、莉々さんの誘拐も、殺人も、心の底からやりたくないと思っているはずだ。あのときの機桐さんの様子から、それは充分に察することができた。
・・・・・もちろん、僕の個人的感情を含んでいるのは間違いない。
僕を救ってくれた人が、誘拐なんて企むはずがない。
僕の命を助けてくれた人が、他人の命を奪おうとするわけがない。
そういう思いが混じっていることを、否定したりはしない。
だけど。
だけど。だけど。だけど。
だけど!
ハンドルを握る手に、力が籠る。
あの人に、人殺しになってほしくはないんだ。殺人の罪を背負った父親には、なってほしくない。他人を殺してまで奪った娘と向き合うなんて、辛すぎる。
機桐さんだって、辛いはずなんだ。なのに、その辛さを受け入れてまで、娘を取り戻したいと思っているんだ。それだけ強い思いが、彼の中にはある。
真正面から、彼を裏切る形だ。恩を大仇おおあだで返すことになる。
でも、それでいいんだ。そうしたいんだ。
「他人を殺してもいいほどに、娘を取り返したい」という願いの裏にある、「娘を諦めていいほどに、他人を殺したくない」という懇願を叶えたい。
独りよがりな、交渉。
「どうかな?疫芽君。僕の交渉に・・・協力してくれないかな?」
微かな望みを信じて、疫芽君に協力を要請する。
だが・・・。
「嫌だね」
即座に、彼は否定する。
「交渉なんか、上手くいくはずがねぇ。あんたはいろいろ考えてるみてぇだが、それなら勝手に一人でやれよ。悪いが、俺は協力しねぇ」
「・・・・・そうかい」
やっぱり、協力はしてもらえないか。残念ながら、彼とは、そこまでの信頼関係は築けなかったようだ。
でも・・・まあ、それもそれでいいのだろう。
あの人を裏切るのは、僕一人でいい。
疫芽君も、
僕は非協力的で、酷い人間だ。思い込みで・・・思い違いかもしれない思い込みで、勝手な行動をとろうとしているのだから。
分かっている。
・・・・・分かっているとも。
「ただ・・・交渉しやすいように、セッティングくらいはしてやるよ」
顔をしかめたまま、彼は言う。
僕は、少し驚いた表情を彼に向ける。まあ運転中なので、すぐに前へと視線を移さなければならなかったが。「おい。前見ろ、前」と注意されてしまった。
「ったく・・・こんなことで驚いてんじゃねぇよ。本当に、交渉なんかできんのか?」
呆れたように頭を掻く、疫芽君。
「やってくる奴らのうち、交渉できそうな奴を、お前の担当にしてやるよ。饒じょう舌ぜつで、話しやすそうな奴が、お前の相手になるように仕向けてやる。それなら、ほんの少しくらいは交渉の成功率が上がるだろ?」
「・・・・・本当に驚いたよ、疫芽君。そんなに気を遣ってくれるとは、思いもしなかった」
「うるせぇよ」
彼は、不機嫌そうに口を尖とがらせる。
「その代わり、上手くやれよ。交渉で簡単に終わるなら、それはそれでいい。失敗すんなよ?」
「・・・・・ありがとう」
疫芽君の激励を受け、僕は決意を固める。
機桐さんを裏切る、決意を固める。
それから僕らは、到着まで、一言も言葉を交わさなかった。
これが、彼との最後のまともな会話になる。
そんなことはもちろん、知る由もない。
疫芽
饒舌で、話しやすそうな奴。
しかし、そういう人間が、「まともな奴」であるとは限らないのだ。
「・・・どうかな?教えてくれるかい?」
「・・・・・ええ」
目の前の男のそんなセリフで、僕は勘付いてしまった。
・・・・・ああ。
きっと僕は、この人に殺されてしまうんだろうなぁ。
半年前の「黒い何か」に出会ったときのような恐怖心を感じたわけではない。あのときほどの怖さは、今は感じない。
でも、なんとなく。
なんとなく思ってしまった。
僕はここで死ぬんだ、と。
しかし、伝えるべきことは、きちんと伝える。
『シンデレラ教会』の本拠地を。
機桐さんたち家族にとって、大切な場所を。
僕にとって、大切な居場所を。
これで、全部だ。僕が機桐さんのためにできることは、これで全てだ。
つまり、何もできなかったということだ。最後の最後まで、僕は機桐さんの役には立てなかった。
半年前と変わらない、役立たずの僕。
半年前と変わらない、自信のない僕。
半年前と変わらない、マイナス思考な僕。
機桐さんの下で働いてれば、少しでも自分を変えられるかと思ったけれど・・・・・どうやら、そんなに上手くはいかなかったみたいだ。
一体、僕はなんのために機桐さんの傍にいたのだろう?
「娘を取り戻したい」という思いに応えることができず、「娘のために戦ってくれ」という頼みに応えることもできず。
結局、「大切なものを取り返すのに協力してほしい」という、機桐さんの最初の要請に、真っ向から反旗を
とんだ反逆者だ。
機桐さんは娘を取り戻すべきかどうかを迷っているはずだとか、機桐さんは他人を殺したいとは思っていないはずだとか、そんなのはきっと、言い訳にすぎない。
命の恩人に、誘拐犯になってほしくない。殺人犯になってほしくない。
そんな自分勝手な願いの、言い訳にすぎない。
「・・・ふむ。分かったよ。しっかり覚えた」
僕からの情報を受け取った男が、そんなような言葉を言った気がする。正直、もう、まともに話を聞いていられる気持ちの余裕がなくなってきていた。
半年間、ありがとうございます。機桐さん。
今のうちに、心の中で感謝しておく。
死ぬであろう未来のために、今のうちに。
そして、ごめんなさい。期待に応えられなくて、ごめんなさい。
今のうちに、謝罪もしておく。
ただ・・・・・後悔しているのかと聞かれれば、そんなことはなかった。後悔という気持ちは、僕の中にはなかった。
僕は、機桐さんにとって、なんの役にも立たない人間だったかもしれない。使えない部下だったかもしれない。
それでも、ほんの少しくらいは、正しいはずなのだ。
間違いばかりだけど、間違いだけじゃない。
自信のない僕だけど、この点に関しては、少しだけ自信を持てる。
機桐さんだって、望んでいるはずだ。
娘を諦めることを、犠牲者を出さないことを、望んでいるはずだ。
機桐さんの、あの寂しそうな背中を見ているからこそ、そう思える。
命を救ってもらった恩なんて、ちっとも返せていない。迷惑も、たくさんかけてきた。
それでも。
彼の役に立てたという、勘違いくらいはすることができた。
だから、後悔はしない。
「そういえば、まだ、ちゃんと自己紹介していなかったねぇ。僕は、
と、氷田織という男は、自己紹介と共に左手を差し出してきた。
「必ず、僕らの願いを成就させようじゃないか」
その言葉が、上っ面だけのものであることは分かった。
どうやって僕を亡き者にしようとしているのかは知らないが、「これから殺す相手に、興味なんかない」という感じだ。
「・・・・・僕は、
氷田織さんの気持ちに気付かない振りをしつつ、僕もまた、自己紹介をする。
「死」に気付かないようにしながら、名乗る。
そして、握手をしようと、左手を差し出す。
「どうか。どうかお願いします、氷田織さん・・・。当主と莉々さんを、救ってあげてください」
その言葉が遺言になったのは。
僕にとって、唯一の誇りだ。
詩島志吹。
恩人の幸せを望み、恩人にとって大切な人の幸せを望んだ彼は。
まったく望まない最期を迎えた。
ただし、その顔は。
幸せそうに、笑っていた。
彼のせいで、機桐
彼のせいで、機桐莉々は再び家を出ることになった。
だが、望みが叶わなかろうと。
娘が出て行こうと。
彼のおかげで、機桐孜々が自分の気持ちに正面から向き合うことができたのは、事実である。
「昨夜、住宅街の一角で、ビルの崩落が起こりました。周辺被害は小さく、崩落に巻き込まれた被害者もいないようです。しかし、ビルの
病夢(びょうむ)とあんぱん ちろ @7401090
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