死んでも死んでも死に足りない

ロッキン神経痛

死んでも死んでも死に足りない

 唐突ですが、皆さんは自殺を考えた事はありますか?


 僕には、一度未遂に終わった経験があります。せっかくの機会ですので、今回はそれを投稿してみようと思います。


 それは、僕が高校3年の夏の事でした。今思えば大したきっかけではないのですが、当時の僕は、付き合っていた彼女に酷い振られ方をしてしまった事のショックで、日々を抑うつ状態で過ごしていました。それは周りの風景が灰色に見え、分厚いもやの中に閉じ込められたような毎日でした。


 ちょうど受験も間近に控えた時期でもあり、勉強に対するプレッシャーも強かったのでしょう。苦しみの上手なはけ口をまだ知らなかった僕は、思春期の極端な発想の飛躍からやがて死を意識するようになりました。


「死にたい」


 そんな独り言を言ってしまう経験は、誰でもあるのではないでしょうか。

 僕の中にあったぼんやりとした希死念慮が、より具体的な自殺願望へと変化したのは、とある噂話がきっかけでした。


 それは「この学校の屋上は自殺の名所としてかつて有名だったらしい」というものです。と言っても、高度経済成長期に設立された高校ですから、そこまで古い歴史はありません。僕自身も疑問に思って、地元の女子校育ちの母にそれとなく聞いてみると、母は首を傾げながらも、確かに30年程前にはそう言った話が近隣の学校にも届いていた時期があると言いました。学校の生徒が一年の間に立て続けに飛び降りたり、部外者である若いカップルが所謂心中を行った事もあったそうです。これは当時の新聞にも大々的に載ったらしく、普段から話をしていた友人達も同じ証言をしていた事から、僕はこれが単なる噂話ではない事を知りました。


 それまで希死念慮に近いものを抱えてはいたものの、自殺という手段を考えた事も無かった僕は、この話を聞いた以降、幾人もの人々が飛び降りて命を落としていったという屋上をなんとなく意識して生活するようになりました。今思えば、この時既に、あの世の理とでもいうべきものに魅入られていたのかもしれません。


 学校の校舎はコの字型になっていた為、授業中であっても窓の外を見れば屋上の錆びた茶色のフェンスが見えます。このフェンスは先の見えない不安に苦しんでいた僕にとって、全てを一瞬で消し去ってくれる希望として、いつしか精神安定剤のようなものになりました。


 どれだけ酷い思いをしていたとしても、過去沢山の人が飛んだように、あそこから飛び降りればすぐに楽になる。一瞬で苦しみから解放されるのだ、と本気で思っていました。


 そんなある日の事です。唐突に僕は自殺を決意しました。季節は移り変わり秋になっていました。僕を死へと突き動かした原因は、別れた彼女が吹聴していた僕に関する流言飛語でした。それはここに書くのも躊躇うような酷い虚偽に満ち溢れたもので、数少なかった友人の僕を見る目は変わり、僕は孤立しました。クラスの誰もが僕を指差して笑っている、と感じました。


 その頃の僕は、勉強もまともにしておらず、当初希望していた志望校への合格は絶望的とまで担任に言われていました。そして同時に、それを半笑いで聞き流してもいました。人を信じられなくなっていた僕は、既に生きる意味を見いだせなくなっていたのです。


(もうどうせ死ぬんだから、先の事なんてどうだっていいじゃないか)


 内心そんな事を思いながら適当な返事を返す僕の態度に呆れる事なく、何度も呼びつけてはあれこれと親身に話してくれていた担任教師には今でも申し訳なかったと思っています。


 自殺の決行は、月曜日の深夜に決めました。親が寝静まった後、こっそり家を抜けて自転車で学校に向かいました。補導されないように夜道を進む途中、ふと今警察沙汰になったら進学に影響するかもしれない、などと思ってしまい自分でおかしくなってしまいました。あらかじめ日中に1階にある準備室の窓を開けておきました。ほとんど物置として利用されていた教室であるのと、当時は今のように警報設備が設置されていなかったので侵入は容易かったです。校舎内に入ると、職員室の壁に掛かった屋上の鍵を持ち出しました。鍵の位置は、何度も担任に呼ばれている内に把握していました。


 手のひらの中に薄い鍵の感触を確かめながら僕は、最後にひと目見ておこうと自分の教室に行きました。暗い教室は、差し込む月明かりで全く違った表情を見せていました。ノートに遺書を残そうかとも考えたのですが、綺麗さっぱり消えるのが僕の望みだったのでやめておきました。なんとなく、隣のクラスの元カノの席も見に行きました。恨みがましいメッセージを残してやろうかと思ったけれど、軽く机を蹴るだけにしました。本当に女々しい男だと思います。けれど死ぬと覚悟を決めたのだから、ある程度のわがままは許されていいと思っていました。死ねば仏という言葉もあるくらいですから。


 屋上へと向かう階段は、暗くて埃臭いものでした。一歩一歩踏みしめ歩きながら、最後に何か美味しいものを食べておけば良かったとその時思いました。衝動的に動いていたので、これから死ぬという実感があまりなかったせいでしょう。しかし、今から踵を返して日常の中へ戻っていく勇気は、疲れ果てた僕にはありませんでした。


 年季の入った南京錠を開けて外に出ると、冷たい秋風が流れ込んできました。空は雲一つない星空です。月は半月だったと思います。満月でないのが残念だなと思ったのでよく覚えています。屋上には人がほとんど入らないらしく、地面は風雨に汚されるままに黒ずんでいました。


 そして僕は、向かって左側のフェンスの方に向かいました。ちょうど校舎に面している側です。死ぬならこの位置が良いと、前から考えていました。下にはよく手入れされた花壇があります。


「花に囲まれて死ぬのだ」とそんなロマンチックな事を大真面目に考えるほど、その時の僕は死ぬという事に陶酔していました。


(この後、どうすればいいんだろう)


 僕は、錆びたフェンスを少し離れた位置から見ながら、この後の行動について考えました。2メートル程の高さのフェンスは、上に返しもなく、よじ登るのは容易く思われました。後はそこを上って屋上の縁から飛び降りるだけのはずです。しかし僕は、身動きがとれなくなってしまいました。


 そう、ここでやっと僕は、死ぬという事の意味を自覚したのです。たとえ花壇が下にあろうとも、この高さから真っ直ぐ落ちれば間違いなく僕は死ぬでしょう。それはここに来た目的であったはずなのに、僕はそれがとんでもない事だと思い始めていました。


 その時、背筋がぞくりと震えました。

 最初は夜風のせいだろうかと思いましたが、そうではありませんでした。あれはきっと、生物の本能からくる直感のようなものでしょうか。

 立ちつくしている僕の横を、スッと誰かが通って行ったのです。

 突然の事に驚愕する僕は、その目でしっかりとした足取りでフェンスに向かって歩く女性の後ろ姿を見ました。

 彼女の着ている紺色のセーラー服は、僕の見慣れていたものと少し形が違いました。丈長のスカートは風にも揺れず、両手をぴったりと身体の側面につけていたのが印象的でした。


 僕にはそれまで霊的な体験はありませんでしたが、これが生まれて初めて見る幽霊であると察しは付いていました。この夜更けの屋上に、僕以外の人間が居るはずがありません。案の定その女生徒は、足音も立てずに歩き、目の前でフェンスを乗り越えずにすり抜けていきました。


 圧倒的な超常を前にすると、人間の身体は凍りつくという事をその時初めて知りました。強く下唇を噛みしめる僕の前で、まるでテレビ越しに映像を見ているかのように現実感の無かった女生徒は、こちらをゆっくり振り返りました。

 乱れてぼさぼさの髪からその横顔が覗いた時、僕はどうかこれ以上こちらを向かないでくれと心から祈りました。しかし、彼女はこちらを向く事を止めてはくれませんでした。僕の背後に昇る半月が彼女の顔を照らしました。瞬間、全身が瞬く間に泡立っていくのを感じました。身体が浮遊していくような、腰が砕けるような感覚に包まれたのです。


 その女には、顔面がありませんでした。

 目や鼻があるべき場所には、ざくろのように割れた肉がこちらを覗いており、窪んだ眼窩の片方に、かろうじて眼球のようなものが一個残っていました。下半分にいくつか白い粒が見えたのは、まばらに残った彼女の歯でしょうか。暗いはずの月明かりの下で、そういった細部が手に取るように分かりました。見えていないのに見えているといった不思議な体験でした。


 きっとこの女生徒は、一度ここから飛び降りて死んでいるのでしょう。著しく損壊した彼女の頭部が、それを物語っていました。

 なぜか首元の肌は、今も脈打っているかのように瑞々しさを保っており、そのアンバランスさがより不気味で禍々しく、恐怖と表現するのでは足りない感情は僕の目から涙となって溢れました。


 絶対に目を背けてはいけないという直感が僕の視線を縛りつけ、ただ僕は、目の前の髪の生えた肉塊を涙しながら、しばらく見つめていました。もはや何に泣いているのかは自分にも分かっていません。ただ、とめどなく悲しみの涙が溢れては頬を伝っていきました。


 ほんの数秒の間の出来事だったでしょうが、僕にはもっと長く感じられました。

 そうして、顔面の惨状に反して何故か全く汚れていないセーラー服を着た彼女は、ニヤリと笑いました。表情と言えるものはありませんが、確かに笑っている事が僕には分かりました。


 歯を打ち鳴らし震えている僕の前で、女生徒はこちらを向いたまま、後ろ向きにゆっくり倒れました。まるで何かを我慢するかのように、両手の拳をしっかりと握りしめたまま、棒立ちの姿で彼女は落ちていきました。


「――――」


 そこで何か声を聞いたはずなのですが、幸いにも今となっては覚えていません。静かになった屋上には、僕一人が残されました。それきり落下の衝撃音も何も聞こえませんでした。僕はただフェンスの向こうの暗闇を見つめたまま、大粒の涙を流していました。


 既に、僕には自殺をする気など全く無くなっていました。いや、最初から覚悟などなく、不幸な自分に対する自己陶酔の延長上に過ぎない行為だったのでしょう。しかし同時に、いっそ勢いに任せてここから飛び降りてしまおうかとも思いました。なぜなら、校舎に戻るのが恐ろしくて仕方なかったからです。もし途中で、あの女が屋上へ上がってくる所に鉢合わせてしまうと思ったら、きっと自分は正気でいられないという確信がありましたから。


 結局僕は、その後意味の分からない事をわめきながらも、屋上から階段を降りて行きました。一番近場の窓を乱暴に開けてそのまま外に飛び出すと、一目散に家へと帰りました。鼻水を垂らしながらシャワーを浴びました。そのまま一人で居るのが恐ろしく、寝ぼけ眼の両親に無理を言って一緒に寝てもらいました。次の日学校は休みました。そうして……結局自殺をする事なく今日まで生きています。


 その後志望校を下げて入試に挑んで合格し、大学卒業後はそのまま都内で就職をしました。数年前には結婚をし、子供もつい最近出来ました。

 ちなみに高校時代の元カノは、卒業と同時に一回りも違う男と結婚したらしいです。どうやら当時から悪評があったらしく、周りの声も本当は僕に同情的だったのだと聞きました。つくづくあそこで死ななくて良かったと思う日々です。


 今でも僕の母校は、改築される事無く同じ場所に建っています。先日のお盆に横を通ったのですが、屋上には綺麗になった緑色のフェンスが見えました。あの顔面のないセーラー服の女生徒は、十年以上が経った今でもあそこから飛び降りを続けているのでしょうか。


 いつまでもセーラー服姿のまま死に続ける彼女は、あの時恐ろしい外見を見せて、僕に自殺を思いとどまらせたかったのか。それとも、志を同じくする自殺志願者が1人躊躇っているのを見て「死ぬのは簡単だ」と僕を励ましていたのでしょうか。

 その真実は今となっては分かりませんが、あの瞬間、聞こえた気がする女の優しげな声だけが、ぼんやりと頭の片隅にだけ残っています。

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