「こっちの方だぞ」

神田 るふ

「こっちの方だぞ」

 大学時代の飲み友達であり、今も親交が続いているSから聞いた話である。


 まず断っておくが、Sは自分を「お化けぎらい」と言って憚らないほどの怪談嫌いである。

 別に怖がりという訳ではない。大学時代は近道だと言って何時も霊園を通り抜けて通学していた。もちろん、帰宅時、夜遅くになっても、である。

 それから、怪談嫌いの特性としてよく上げられるような“科学の信奉者”でもない。彼の専攻は英文学で、むしろ、科学的思考は苦手であった。二次関数すら解けないと今でも笑いながら言っている。

 臆病でもない、科学が得意でもない。

 そんなSが何故怪談を嫌うのか。

 それは、極めて“倫理的な理由”からであった。

 常々、Sは私にこう語ったものだ。

「怪談とは概ね幽霊だの心霊だのという存在なり現象を扱うジャンルだろう?つまり、怪談とは人間の死という前提があってこそ成り立つものなのだ。僕は問いたい。退屈な時間の無聊の慰めに人の死で盛り上がっていいものか?非業の最期を遂げた人の無念の死を小説のネタにしたりテレビで放映したりしてお金を稼ぐことは是なのか?答えは断じて、否だ。例えば、自分の家族や友人の死を幽霊出現の材料にされてごらん。気分がいいものではないだろう?怪談や幽霊話なんてものは死んでしまった当事者や遺族、関係者の気持ちを蔑に

するものだ。だから、僕は怪談が大嫌いなんだ」

 正論と言えば、正論である。

 怪談とは人の死を勝手に拝借して、ぞっとする恐怖やスリルを楽しむものだからだ。

 命を大切にしなさい、人殺しはいけません、事故で亡くなった方々の冥福を祈りましょう……。そのような美辞麗句を言いながら、我々は怪談という人の死によって成立する文化を楽しんでいるのである。

 やはり、怪談とは罪深いものなのだ。


 ここまで私の話を聞いてくれた方は、きっとSは幽霊や心霊の存在を認めていないのだろうと思ったかもしれない。

 だが、Sはそのような霊的な存在や現象は肯定する側に属する。

 Sにとって重要なのはあくまで怪談によって霊や人の死を無下に扱うことが問題なのである。

 実際、Sは幽霊を見たことがあった。

 そして、その体験がSを「お化けぎらい」にさせたのだ。

 私は長らくそのSに起こった出来事を聞いてみたくてたまらなかったが、上述の如く、怪談嫌いのSが私の求めに応じることは決してなかった。

 

 大学四年生の十一月初旬の頃である。

 そろそろ卒業論文の作成で学業が慌ただしくなってきた頃、本格的に忙しくなる前に一杯やろうじゃないかとSに誘われ、私は大学近くの焼鳥屋にSと二人で出向いた。

 それぞれビールを二~三杯空け、地鶏の炭火焼きのお代わりを注文しかけようとした時だった。

「ちょうど今頃の時期だったんだ。僕が彼女を“視た”のは」

 ふと、Sが語り始めた。あの話だ、と私は直感的に悟った。


 Sが高校二年生の時である。

 仲のいいクラスメートたちで心霊スポットに肝試しに行こうという話になった。

 その当時から既に「お化けぎらい」の境地に達しつつあったSは当初断ろうかと思っていたが、密かに思いを寄せていたKさんが肝試しに同行すると聞いて参加を決意した。臆病者と思われるのが嫌だったらしい。だが、Sは少々不思議に思っていた。Kさんは大人しい性格で肝試しのような悪ふざけは好きではない筈だったからだ。

 肝試しの当日。十一月の第一金曜日。午後七時半頃。

 集まったのはSやKさんを含めて六人ほどだった。男子が四人、女子が二人だった。Kさんとは別の女子の兄が車を用意してくれたので、彼の運転する車で当の心霊スポットに向かうことになった。

 さて、その心霊スポットであるが、かつてその家で一家が皆殺しにされた事件が起こり、今でもその一軒家には殺された家族たちの霊が出るというありきたりな話であった。

 市街地から車で移動すること約三十分。

 寂れた港町の小高い丘の頂に小さな公園がある。そこから二十メートルほどやや下った所にその家はあった。一旦、公園の駐車場に車を止め、全員で心霊スポットの家へと徒歩で向かった。十一月だというのに、その日は奇妙なまでに暖い日だったという。やがて、一行の前に建物が現れた。

 ごくごく普通の二階建ての家だった。茶色い屋根と手入れがされていない所為か灰色に変色した壁、小さな庭。七人は恐る恐る敷地に入り、カーテンが閉じられた縁側を横目で見ながらぐるりと反時計回りに一周した。

 特に、何事も無く、心霊スポット見学は終わった。

 Sはもちろんのこと、皆、期待外れと安堵感で少々気持ちを大きくして公園に戻った。

 公園からは眼下の湾口や港町の灯りが一望できる。

 誰からとなく、今夜は暖かいし眺めも綺麗だからちょっとここでおしゃべりして帰ろうという話が出てきたので公園のベンチに座って他愛のない雑談が始まった。

 三十分程経った頃だろうか、Sは公園のトイレに用足しに出かけた。手を洗ってみんなの所に戻ろうした時である。

 Sの目に、淡い光が映った。

 やや緑がかった光の玉がふらふらと公園を抜けて道を下っていく。

 まさか人魂かとぎょっとしたSだったが、その光と飛び方にSは見覚えがあった。

 蛍だ。

 子供の時、実家の田舎の川で見たことがあった。

 今夜は初夏のような暑さだから、生き残りの蛍が迷い出てしまったのだろうか。

 ふと、ベンチの方に目をやると、みんな雑談に夢中で蛍には気づいていないらしい。

 せっかくなので、Sは一人でその蛍の後を追うことにした。

 十一月の深夜を飛ぶ蛍。

 Sは柄にもなく詩情の心を抱きながら蛍の光を追いかけた。

 蛍は、先ほどSたちが肝試しをした家の前を通り過ぎて、どんどん道を下っていく。

 やがて、例の肝試しの家から三十メートルを過ぎた辺りにある平屋造りの空家の中に蛍は吸い込まれていった。

 蛍は縁側の窓ガラスの枠に器用にとまると、ぴかり、ぴかり、と蛍光色の光を灯し始めた。

 その美しさに吸い寄せられるように、Sは縁側に近づき、蛍を間近に見ようとガラス窓に顔を近づけた。

 蛍が照らす光が、窓ガラスにSの顔をはっきりと映し出していた。


 違う。

 自分の、顔じゃない。


 思い込みで自分の顔が映っていると勘違いしていた。

 白い顔、長い黒髪。

 窓ガラスのすぐ向こう側の縁側に、少女が、座っていた。

 窓ガラスに映っていたのはSの顔ではなく、少女の顔だったのだ。

 少女はSを見ても全く表情を変えることなく、ガラス越しにおぼろげな目でじっとSを見つめていた。

 そのあまりに動きがない少女の様子を見て、Sは一瞬、人形かマネキンではないかと思ったらしい。

 Sがそう思いかけた矢先のことだった。

 少女の口の両端が、つっと、上に上がった。


 少女が、笑った。


 理性のつっかえ棒が折れかかり、思わず両手で口をふさいだSの目の端に。

 はじめはぼんやりと、次第にはっきりと。

 縁側で笑う少女の横に、もう一人の少女の顔が浮かび上がった。

 限界であった。

 Sの喉の奥から絶叫が駆け上がってきた。

 だが、その叫びが発せられることは、なかった。


「お姉ちゃん」

 

 Kさんの声がSの恐怖の声を遮った。

 窓ガラスに映ったもう一人の少女は、Sの後ろから近付いてきたKさんだったのだ。

 そして、Kさんの声を待っていたかのように、ふっと、縁側の少女は消え去った。

 いつの間にか、蛍は何処かに飛び去っていた。


「すると、心霊スポットというのは……」

「そうだ。僕たちが最初に行った家は本当に只の空家だったんだ。実際に霊が出る家は僕とKさんが行った方の家さ。そして、そこはKさんが中学まで過ごしていた家だった」

 Sはビールをぐいと飲み干し、店長にお代わりを注文した。

「だが、待ってくれよ。確か、霊が出る家は一家が皆殺しにされたはずじゃなかったのか。そうなると、何故Kさんは生きているんだ?」

「それもガセなんだ。ある出来事を元に周囲の人間たちが勝手に妄想と噂を膨らませて、一人の少女に起こった悲劇を胡散臭い怪談話にしてしまったんだよ」

 Sはお代わりの分のビールを一息で三分の一も喉に流し込んでから、続きを話しはじめた。


 ようやく落ち着きを取り戻したSの横でKさんはお線香の束に火を点けると、縁側の下に置いて手を合わせた。

 思わず、Sも続けて合掌した。

 やがて、顔を上げたKさんはそのまま縁側を背にして腰を下ろし、Sを見上げた。

 隣に座って、という合図だと受け取ったSはKさんの傍らに膝を組んで座った。

「ここ、私が住んでた家なの。中学までだけどね」

「さっき、お姉さんって……」

「うん。私のお姉ちゃん。今日、私のお姉ちゃんの命日だったの。お姉ちゃんね、ここの縁側で……自殺したんだよ」

 淡々と、Kさんはこの家と家族に起こったことを説明していった。

 Kさん姉妹は元の両親の事情で養子に出された。養父母は別段親切にしてくれるわけでもなく、とりわけ厳しく当たるわけでもなく、ごくごく普通にKさん姉妹を育ててくれた。

 転機になったのはKさんが中学一年生の時、市街地からこの借家に引っ越してきた時だった。

 引っ越してから二か月後に、Kさんの一つ上のお姉さんが、縁側で手首を切って自殺をした。 

 座ったままの姿勢で、自殺していたという。

 何故自殺したのか、今でもわからないとKさんは言っていたそうだ。

 その後、Kさんと養父母は即座にこの家から引っ越した。

 さらに、何故か養父母はKさんの親権を突然手放し、Kさんはさらに別の養父母に引き取られた。新しい養父母はKさんをとても可愛がってくれたという。

「この家を引っ越してから一度も来てなかったの。でも、ちょうど肝試しとお姉ちゃんの命日が重なってね。ついでに立ち寄ろうと思った。不謹慎かもしれないけど、でも、何故か行かなきゃいけない気持ちになっちゃって。頃合いを見てみんなの所から離れて家に来たら、S君と、そして、お姉ちゃんが……いた」

 Kさんは、泣いていた。

「待ってたのかな、お姉ちゃん。私のこと」

「ああ、きっとそうだよ。Kさんに会えてうれしかったんだろう。だって、お姉さん……」

「笑ってたよね?」

「ああ、笑ってたよ」

 顔を覆って泣き崩れるKさんの肩に、Sはそっと手を置いていた。


「なるほど。君が怪談嫌いなのも納得がいったよ。一人の少女の自殺と一家離散。それが何処かで一家惨殺に変わって怪談話として広まったんだな。確かに、これは酷すぎる」

「そう言ってくれるとうれしいよ。Kさんのお姉さんも浮かばれるだろう。いや、もう浮かばれているか」

「どういう意味だ」

 Sはちょっと恥ずかしそうに鼻の頭をかきながら、視線を天井に向けた。

「実はあの夜の翌年、Kさんと一緒にKさんのお姉さんの命日にあの家に線香をあげに行ったんだ。もちろん昼間にだぜ。ところが、線香になかなか火がつかなかった。ついても、すぐ消えてしまう。おかしいなと思いながら次にKさんのお姉さんが眠るお墓に墓参りに行ったんだが、その時はすぐに線香に火が付いた。お姉さん、あの家からお墓に戻ってきているんだとKさんは泣きながら喜んでいたよ」

 それを聞いた私は身を乗り出してSに問いかけた。

「じゃあ、あの家にはもう行っていないんだな?……うん。まあ、不法侵入になるわけだから行かない方がましだよ。ところで、いいのか?こんな怪談なんかして。君は怪談は人倫に反すると何時も言っていたじゃないか」

「お姉さん自身はもう成仏している。Kさんの元々のご両親は完全に音信普通だし親権を手放した養父母同様、もう親とも呼べないだろう。つまり、当事者も関係者にも気兼ねすることはないということだ。それに、話している僕はもうKさんにとって他人ではない。あの体験は二人の共通の宝物、財産となっている。だから、僕がこの話を語ることによって割を食う人はいないのだ」

 焼き鳥をつまもうとした私の箸が、止まった。

「待て。つまり、ということは?」

「ああ。実は先週、KさんにプロポーズしてOKを頂いたよ。僕が来年から隣の市の市役所で働くことは知っているね?その年の六月にKさんと式を挙げるんだ。もちろん、来てくれるよな?」

 私は笑みを浮かべたまま、無言で中ジョッキを持ち上げた。

 Sも恥ずかしそうに微笑みながら中ジョッキを持ち直す。

 乾杯!

 あの時のお互いのジョッキが奏でた心地よい響きは、今でも私の耳に残っている。


 それから小一時間ほど焼き鳥屋で過ごし、私とSは店の入り口で別れた。

 私は満足感に浸りながら、その一方で、安堵の気持ちを抱いていた。

 何故、安堵したか?

 SとKさんがもうあの家に行っていないことを知ったからだ。

 実は、あの家の話には別の話がある。

 私の大学時代からの友人Uが体験した話だ。立地条件がぴったりだったので、あの家の話かとピンときた。

 私がUからその話を聞いたのは大学時代のことだった。聞いた時はさほど怖くもなんとも思わなかったが、Sの話を聞いている間、私の背中には冷や汗が流れっぱなしだったことを記憶している。

 Uの話は以下のようなものである。


 Uが大学二年生の頃、同じ大学の女子同士で肝試しを計画した。

 場所は県内でも有名な心霊スポット。港町が一望できる丘の頂上付近にある家で、嘗て一家惨殺事件があった家らしい。

 肝試しの当日の深夜、Uたちは心霊スポットと噂される家にほど近い公園に車を止め、女の子五人組でその家に向かった。家を一周したが、特に心霊現象が起こることはなかった。

 拍子抜けした気持ちと安堵感からUたちは笑いながら車に戻り、帰宅しようと坂を下り始めた。

 車内で談笑しながらUたちの車が空家と思しきとある平屋建ての家の前を通りかかったその時だった。


「こっちの方だぞ」


 点けてもいないラジオのスピーカーから男の声が低く響いた。

 一瞬静まり返った車内は、直後、悲鳴が錯綜する修羅場となった。

 Uは震える手でなんとかハンドルを操作し、真っ暗な坂道を降り切った。

 明るい街灯が照らす大通りに出てファミレスに駆け込んだところでようやく皆落ち着いたという。

 温かいコーヒーを飲みながら先ほどの出来事を皆で確認しあったが、ある奇妙な点がわかった。

 Uが聞いたのは確かに男性の声だった。だが、他のメンバーが聞いたのは女性の声だったり、子供の声だったりとバラバラだったのだ。

 一家惨殺事件。

 この響きがUたちの頭の中に思い浮かんだ。

 あの声がした家が本当の心霊スポットだったんだろうね。

 そう言いあいながら、Uたちは体を震わせあった。


 以上がUの話である。

 間違いなく、SとKさんが、Kさんのお姉さんの霊を視た家であろう。

 Uの話が本当だとしたら、その家で実際に一家惨殺事件があったと考えることもできる。

 Kさんの話は数年前の話で、もし、それ以降にそのような陰惨な事件が起こっていたらTVのニュース等で私も覚えているはずである。ここ最近、私の県ではそのような大規模な殺人事件は起きていない。おそらく、Kさんたちが引っ越してくる前に事件が起こったと考えるのが普通だろう。

 思えば、Kさんの話には不可思議なところがいくつかある。

 何故、Kさんのお姉さんは理由もなく自殺したのか。

それも、座ったままという奇妙な姿勢で。

 そして、何故、義父母は逃げるようにその家から引っ越し、Kさんとも離縁したのか。

 Kさんのお姉さんの自殺と義父母の失踪はその家で起こった惨殺事件と何か関係があるのだろうか。

 私には、わからない。

 だが、SとKさんがあの家に近づいていないという事実に私は心から安堵した。

 そして、おそらく、Kさんのお姉さんの霊もあの家から解放されていることにも。

 Sが語った線香の話だが、SとKさんには悪いが、私はKさんのお姉さんからのメッセージを真逆にとっていた。


 もう、あの家に行ってはいけない。


 お姉さんはそう言いたかったのではないだろうか。

 今年、Sと旧姓Kさんとの間に待望の第一子が生まれた。女の子だという。

 S一家は隣の市内で幸せに暮らしている。

 そして、あの家は、今も現存している。

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「こっちの方だぞ」 神田 るふ @nekonoturugi

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