第8話

「でも、一度友達ができてしまうと、別れが辛いからな。高校辞めるのためらっちまうよ」

「日比野君の友達って誰よ?」

 聞き返した私の声は無理やり涙をこらえて鼻声になったけど、日比野君はそんな私の鼻先を指差す。

「うん……」

 まるで、唸るように日比野君はそう言った。

 私はその指先を見詰め、ついつい寄り目になってしまう。

 そのまま、日比野君はその人差し指をどんどん私の鼻先に近づけて、最後に、ちょんと軽く押した。

「わっ!」

 私はバランスを崩して後ろに転げそうになり、思わず宙に浮いた両手をばたつかせた。

「あーらら、俺の友達が大変だぜ!」

 そんなことを言って、日比野君はすんでのところで私の両腕をしっかり掴み、後ろ向きに仰け反った私の体を引き寄せてくれる。

 でも……今、聞いたよ。ちゃんと聞いた。「俺の友達」って日比野君が言ったの。

「もう! 危ないじゃない! ふざけないでよっ!」

 どの道、涙はこぼれる。私の涙、怒ってる涙なの? それとも感動の涙なの? 日比野君にはわかる?

「わりぃわりぃ」

 おどけたように言った後、日比野君はしばらく私の腕を掴んだままで、放そうとしなかった。

 私も日比野君に腕を掴まれたまま、じっとしていた。

 その一瞬が、どれほど長く感じたことか。何も考えられずに、私はひたすらドキドキしていた。

 日比野君は私の方を向いて、真顔で言った。

「なあ、早瀬。これって、青春じゃねぇか」

「え……?」

「こういうのって、青春っぽくねぇか」

「セイ……シュン?」

 何だろう、直前の涙やらドキドキがその一瞬でどっかに吹っ飛んで、訳もわからず私は日比野君の言葉を繰り返した。

 そして、おもむろに日比野君は私の腕を解放し、今度は自分のお腹を抱えて笑い出した。

「青春だよ! 青い春と書いて青春さ!」

 目の前であまりに愉快そうに日比野君が笑うから、最初は呆気にとられていたのだけど、次第に私もおかしくなってきた。

 青い春で青春……この当たり前過ぎる言葉がおかしくて。それとも「青春」なんていちいち言葉にすること自体がバカバカしくて。とにかく、日比野君がこんなことでウケてる姿がおかしくて。どうして、こんなにおかしいのか、よくわからないことが、おかしくて。

「な、何が……そ、そんなに、おかしいのよっ!」

「お、お、おかしか、ねぇーよ……別に。おかしくないから、早瀬だって、笑うなよ」

「わ、笑いたく、ないけど……なんか……なんか……おかしいんだもん」

 今度は笑い泣きだ。笑い泣きの涙は、流れるに任せてどんどん出てくる。ぬぐってもぬぐっても。日比野君まで笑い泣きしてる。

 二人ともベンチに伏してひとしきり笑って、それで、日比野君の背中が、笑い疲れた後のため息みたいに、ふと呟いた。

「あーあ……友達もできたし、青春したし……思い残すこと、もうねぇな……」

 日比野君は、独り言のつもりで言ったのかもしれなかった。

 でも……

 急に複雑な感情が私の中に押し寄せてきた。

「日比野君っ!」

 私は屋上全体に響き渡るほど大きな声で叫んだ。

 いいんだ。別に人に聞かれたって。どうせ屋上は暑くて、もう誰もいないんだから。

 日比野君はびっくりしたように顔を上げ、私の方を向いた。

「笑ってる場合じゃないよ! こんなこと言って笑ってる場合じゃない! そんなこと……日比野君が高校辞めるとかさ、友達が聞いたら、絶対引きとめるにきまってるでしょ! 全力で阻止するし! 豆腐屋の人出足りないなら、私だって一緒に働く! 日比野君が高校辞めなくて済むように、できることは何だってするに決まってる! もし、日比野君に友達が一人でもいるなら……その友達を泣かすな!」

 感極まって、せっかく笑いとともに流しきった涙が、また戻ってきそうになった。こんなにも、思ってることをそのまま相手に伝えたことは今までになかった。私は、どうしていいかわからず、今自分がどんな顔してるのかも想像できず……本当に、どうしよう。どうしたらいいの? 日比野君。

「高校辞めるとか、言わないでよ。……日比野君せっかくの私の友達なのに」

 やっぱりこんなときには本当のことしか言えない。本当のことしか言いたくない。

 日比野君は、しばらくフェンス越しの風景を見つめて頭をかいてたけど、じきに私の方を向いて、優しい笑みを浮かべた。

「そう……だよな。友達泣かすってのは、よくねーよな。……よし! わかった! 俺が今の生活ギブったら、早瀬に頼むよ。豆腐屋の手伝いな。もちろん、そんときは無料で働いてくれんだろ?」

「高校、辞めない?」

「おう! まだ辞めない」

「まだ?」

「うん……先のことはわかんねぇけど、とりあえず、今は」

 白昼夢。素敵な素敵な白昼夢だ。

「まぁいいや。今だけでも約束してくれたら、それでいい」

「……ま、これからもよろしく頼むぜ、早瀬さん!」

 彼は私の肩を遠慮しがちにポンと叩いた。

「さあ! 早く豆腐食えよ。ぬるくなるとまずくなっから。旨い豆腐食べさせようと思ってさ、わざわざ保冷剤入れて冷やしてたんだぜ。今朝作ったばかりの俺の豆腐だ。おぼろ豆腐って言って、一番うまい状態なんだからな」

 日比野君が差し出してくれたスプーンで、私は一口豆腐をすくった。私のよく知ってる白くて四角い豆腐ではなく、どこか出来損ないのドロドロした豆腐だった。それをそっと口に入れると、冷たくて仄かに甘いような、優しい感触が口の中に広がった。

「美味しい! 信じられない! もの凄く美味しい! 豆腐じゃないみたいに美味しい!」

 私は続けて二口目を口に入れた。

「最高! こんなお弁当って最高!」

 豆腐を食べながら、私は日比野君の気持ちを食べてるんだって気がした。なんとも言えない、この暖かい味。感動的すぎるよ、幸せすぎるよ。もう泣かないけど、日比野君は何度私を泣かせようとするのだろう。

「いいね、その笑顔は。豆腐屋冥利につきるってもんだな!」

 いっぱしの職人さんのように日比野君が言うのが面白くて、私はまた笑った。そして、私が笑えば、日比野君も笑う。

 私と日比野君の笑い声が屋上の青い空に吸い込まれていくみたいだった。


 そして、日比野君は食事の後にはやっぱり、いつものごとく眠るのだった。

「でもさ……俺、これからもずっとこんなだよ。休み時間は、寝てばっかだ」

 ベンチに転がって眠る間際に、日比野君が私に言った。

 わかってる。それは仕方ないことだよ。ちゃんと理由があるんだから。

 日比野君を大好きな気持ち、それは本当にネコがコタツの上で丸くなるような感じに似てる。そんなネコの気持ちが少しわかるんだ。

 夏が来ればもう屋上では過ごせない。暑くていてられないから。

 日比野君と私があの教室に戻ったらどうなるだろう?

 少し前の私ならそんなことを考えると不安で仕方なかったはずだ。でも、今は平気だった。そんなことはどうにでもなるような気がしたし、どうでもいい気がした。日比野君のいる場所ならきっと、どこにいたって屋上みたいに気持ちよくて、きっと私の大好きな場所に違いない。

 ——それでいいよ。日比野君はそのままでいい。

「私、強くなったよ。中学のときより、ずっとさ。それに……ずっとずっと自由だもん!」

 それは眩しい空に向かって言った、私のおもいっきりのいい独り言だった。


 【おわり】


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コタツ君とネコ娘 十笈ひび @hibi_toi

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