幽霊さんとくだらない夜

成瀬なる

足のない幽霊

 廃ビルの屋上で夏の涼しい夜風が、伸びきった僕の髪をなびかせた。ただ切るのが面倒で伸ばしていた髪を掻き上げ、そっとつぶやく。

「今日は涼しいな」

 何か月ぶりに外へ出たのだろう。クーラーから出る人工的な風ばかりを浴びていた体は夏終わりの自然の風を最後に浴びることができ、とても喜んでいた。でも、心だけは、どんより沈んでいる。

 僕は大きく息を吸い、空を見上げた。

 夏の夜空は月もなく真っ暗だ。

 吸った息を大きく吐き出す。

 きっと、煙草を吸っている大人は、こういう感傷的な気分の時に煙草を求めるのだろうと思い、その後、今日は新月なのではなく、雲がかかっているから月が見えないのだろうと思った。

 僕は、この廃ビルへ訪れる前にコンビニで買った缶のお酒を開け、屋上を囲む胸ほどの高さのフェンスへ肘をつく。未成年の僕の喉は、初めて感じるアルコールの感覚に驚き、焼けるように痛む。でも、食道を通り、胃へ垂れるアルコールの感覚は嫌ではない。

 それに、最初で最後のお酒だ。未成年だとか、子供が語れるような味ではないなんて批判はやめて欲しい。文字通り、これが最初で最後のお酒だ。

 僕は、今日、自殺をする――理由は、疲れたから、それだけだ。

 廃ビルの下を行き来する車や人の姿を見ていると、自分だけ非現実的な世界に放り込まれてしまったと錯覚する。だが、現実から逃げようとすると強引に均等に配列された火傷の跡や土と赤いしみで汚れた体が腕を引く。

 遠くからクラクションの音やサイレンの音が聞こえてくる。アルコールを一口飲んだ。決しておいしくはない。


 半分もお酒を飲んでいないのに、なんだか全てがどうでもよくなった。そして、胸ほどの高さのフェンスをひょいと飛び越える。

 すると、いよいよ僕のいる世界が現実味を帯びなくなる。腕を引く傷も汚れもフェンスの後ろから遠巻きに僕を見つめ、こちらを睨みつけている。

 僕は、そいつらに「ざまぁねーな」と呟いた。

 目を閉じる。心は小刻みに震えていた。それでも、体は死ぬことを求めていた。どちらが僕の本心なのかは分からないし分かるつもりもない。

 一歩踏み出して、あとは重力に従うまでだ――体が、垂直から斜めになるのを感じる。しかし、それ以上の落下を感じることはなかった。

 僕は、全てが終わったと思い目を開ける。だが、依然としてそこは現実だった。

 ただ一つ違うことは、ということだ。いや、もっと具体的に言うのなら「目に見えない何かが、僕を引き留めている」。体を掴まれている感覚はない。背後にも人気を感じず、体が硬直したかのように止まっている。

 意味の分からない状況に困惑していると声が聞こえた――誰もいないはずの僕の隣から。

「どうだ! 怖いだろ! 金縛りだぞぉ~」

 幼い声だ。でも、風鈴の音のような凛とした美しさも備えた声だった。

 僕は、何とか動く首を動かし隣を見る。そして、驚愕した。

「なっ……足がない」

 足のない白い服を着た少女が笑いながら、両手を胸のあたりで曲げ、お化けの代名詞ともいえるポーズをとっている。

「幽霊ですもの、足はありません! 常識です!」

 幽霊という彼女は、僕の鼻先を指ではじき、にっこりと笑う。そして、両手で傾いていた僕の身体を垂直に戻し、こう告げた。

「落ちるところだったねー でも、ギリちょんセーフ!」

 手足を動かせるようになったものの、その場から動けない僕はせめてもの抵抗で幽霊を睨みつけた。

「あー、人のこと睨んだ! それって駄目なんだよ!」

 僕の目の前で、頬を膨らましながら両手を使いバッテンを作る。頭一つ分はある身長差が少しだけ縮まり、彼女が背伸びを――足はないのだけど――したのかなと思った。でも、決して楽観的な気持ちになっているわけではない。

「余計なお世話なんだけど」

 動けないその場で、フェンスに寄りかかりぶっきらぼうに言った。でも、彼女は、僕が思っていた反応を他所に、首を傾げながら「私は、金縛りをしただけだよ?」とわざとらしく返す。

 小さく舌打ちをして、その後、幽霊が何を言おうとも僕が答えることはなかった。彼女が「遊園地って行ったことある?」と尋ねても何も答えない。シンとし過ぎている夜のせいで、九月の朝を待つ夜の寝息が聞こえてきそうだった。

 どのくらい時間が経ったのだろう。幼稚でくだらない話題ばかりを振っていた彼女が、やっと黙り込み、ゆっくりと気配を消す。

 これで僕の身体も動くだろう。

 足を少しだけ前に出してみる。その場から動けなかったはずの身体は、自由に言うことを聞いた。フェンスに寄りかかっていた体を離す。その時「ねぇ……危ないよ」と優しく、悲し気に告げられた。

 僕は、振り返る。フェンスの向こうには、やはり、足のない幽霊がいる。そして、もう一度「危ないよ」と告げた。

「心配しなくていいよ。 君には関係ない」

 彼女の声など無視して、飛び降りてしまえばよかった。だけど、笑顔が失われている悲し気な表情を無視することは、僕の本心が許さない。

「関係なくないよ。 ここから飛び降りたとしても、何の解決策にもならない」

「ありきたりな言葉だな。 つまらない」

「そうだね。 とてもつまらない言葉。 私もよくわかるよ」

 僕は、その言葉に苛立ちを感じた。

 幽霊である彼女に何がわかるんだ――死んでしまった人間が、苦しんでいる僕の何が分かるというのだ。

 それを言葉にするよりも先に彼女が続ける。

「私も同じ言葉をかけられて、君と同じことを思った。 だけど、死んでみて思った。 あぁ、自殺は解決策なんかじゃないんだって。 自殺は、意地悪なタイムカプセルなんだよ。 生きて、どんなに惨めでも抗い続けていれば、いずれ隠すことのできる傷を自殺は剥き出しのままにする。 自然に治ることはないよ。 だって、タイムカプセルの中の傷だからね、いつまでも残り続ける。 そして、永遠に誰かを悲しませる」

「綺麗ごとだな。 もう一度言う。 余計なお世話だ」

 彼女は、表情を変えずに僕をじっと見つめ「わかった」と言い、初めて会った時の幼さのある笑顔で続けた。

「私、遊園地に行ったことがないんだ! だから、君が死んだら一緒に行こうね」

「あぁ、約束――」

 、と言いかけた時、彼女「しない!」という大きな声を被された。彼女は、もう一度「約束はしない」と強く、ゆっくり言った。

 僕は、小さくため息をついて背を向ける。

 また、振り出しだ。タイムスリップをして彼女と出会う直前に来たように感じる。

 ずっと沈黙していた夜が、急に騒がしくなり、遠くからクラクションやサイレンの音が聞こえてくる。

 夏風が吹き、空を見上げる。空にかかっていた雲は晴れ、三日月が顔を出していた。

「はぁ……最後まで、嫌味な幽霊だ」

 嫌味を言われ続け、苦しかった世界から逃げる折角のチャンスを潰された彼女への仕返しは、彼女の楽しみを奪うことかもしれない。

「遊園地には、一緒に行かないよ」

 僕は、振り向く。でも、そこに足のない幽霊は居なかった。ただ凛とした夏の静けさと淡い月明かりだけが、そこに立っていた。


【幽霊さんとくだらない夜 完】

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