何度でも、君の元へ

水無月 漣花

何度でも、君の元へ

グラウンドではサッカー部や陸上部が汗を流しながら走っているが、それは室内部の私も同じである。冷房のない美術室で筆を握っているのは私一人。


誰もいないのをいい事に、私はいつも特等席でキャンパスに向かう。サッカー部の部長としてグラウンドを駆け回る彼氏、亮汰の姿を堪能しながら、鮮やかな青色を筆に乗せた。


絵を描いている時間だけが私にとっての救いだ。進学校と称される公立の高校に進学した私の心はもうズタボロだった。毎日のように母と衝突し、成績は下がる一方。やりたいことも見つからず、いっそのこと放浪の旅にでも出ようかと考えもした。自殺というものを考えたこともあったが、あいにく私はそれらを実行できるほどの勇気を持ち合わせていなかった。


日々の疲れの癒しとなっていた彼氏と過ごす時間も、最近では鬱陶しく感じる始末だ。重い溜息が溢れでる。自分が何をしたいのか、何をするべきなのか、いまいち分からなかった。


ーーそんな私の日常は、高校二年生の夏休み、たった七日間で変わった。蝉の声が轟く、暑い日だった。ーー






いつもは彼と帰る家路が、寂しく感じられた。一人で歩く住宅街には忙しく鳴きわめく蝉の声。この世に生まれた歓喜を訴えかけられているようで、酷く腹が立った。


「あーもう、うるさいなぁ‼︎」


八つ当たりまがいの私の叫びに、辺りは静まり返る。先ほどまでの喧騒が一瞬にして消え去ってしまい呆然と立ち竦む中で、頭の中に別の声が轟いた。


「蝉の声に一々腹立ててたらやってけないよ?」


嘲笑を含むかのようなその音色は、とても冷ややかでありながら何処か惹かれるものがあった。しかし、周りは一軒家の立ち並ぶ住宅地。その声の主は見当たらなかった。


辺りを見渡した私の視界に映ったものと言えば、小さな公園くらいだ。私は気づくと、導かれるようにそこへと歩いていた。


夏の猛暑から逃れるように、彼はそこにいた。生い茂った大樹の幹に背を預けながら、空を仰いでいた瞳が私を映す。


「さっきの声はあなたなの?」


日陰に座っているだけなのに余りに美しく見える彼が、さっきの声の持ち主に違いないと確信があった。


「そうだけど……なに?」


冷たく突き放すような声は、私の求めていたものと同じだった。まるで拒絶とも取れるその音色が気になった。


「あなたの名前は?」


久しぶりに心が躍っていた。緩んだ頬は、酷く彼を困惑させたことだろう。


その日が一日目だった。冷気を纏ったままの眼差しと声は変わらなかったが、翌日の約束をした際の貴重な笑みは忘れもしない。


次の日も私は公園へ行った。昨日と同じように休んでいる彼は、私を見つけると言葉を放った。


「……また来たんだ」


「だって約束したもの」


決して愛想があるとは言えない会話の数々だったが、張り詰めた空気が流れる学校や家よりは穏やかだった。


その日はたくさんの話をした。大したことない内容だったけれど、親身になってアドバイスをくれる彼に確かな優しさを感じた。


次の日の約束をする頃には、彼は普通に笑うようになっていた。


彼に出会って三日目。この日は朝から彼に会いに行った。近くのショッピングモールに新しくクレープ屋が入ったのだと話をすると、珍しく彼が瞳を輝かせた。


「食べに行く?」


しばらく考えるような素振りを見せてから頷くその姿に、胸が弾んだ。


街へ出て改めて思い知らされたのは、彼の美しさ。クレープ屋の前でたたずむ姿でさえも絵になっている。綺麗な顔をしながらイチゴのクレープを頬張り、笑みを零す姿は大層可愛らしかった。


「あ、お金」


公園までの帰り道、思い出したかのように彼が呟いた。別にいいよと笑った裏には、彼を連れて人混みを歩けた優越感が混ざっていた。


その優越感を引き連れたまま、四日目の朝が来た。その日は珍しく、昨日よりは遅い時間に会いに行った。


昼下がりの公園で、私は亮汰の浮気現場に遭遇した。端正な顔立ちをした女の子を抱き寄せる彼と、不意に目があった。気まずそうに視線を逸らした亮汰は彼女の背を引き公園を去る。


呆然と立ち尽くすことも出来ぬまま、私は彼の元へ歩みを進めていた。無理やり作った笑みが痛々しかったのだろう。どうしたの、とかけられた声は優しかった。


彼氏の浮気現場を見たなど、他人に話すには難儀であろう話題だ。けれども、彼にはいとも簡単に話ができた。険しい顔で相槌を打っていた彼が、ふと私に問いかける。


「なんで君は笑ってるの?」


素朴な疑問だと彼の顔が語っていた。その質問の答えを、私は持っていなかった。さあね。仰いだ空は、私の心の様にくすんだ曇天だった。


五日目。今までは楽しいだけだった彼との会話が、この日だけは憂鬱に感じられた。


「もう会いに来なくていいよ」


言葉すらうまく出てこない私を畳み掛ける様に、彼の発言は勢いを増していった。


「いいかげんにしてよ‼︎」


それ以上聞きたくないと絞り出した音色は、言葉などではなかった。溢れ出た心の悲鳴はただの八つ当たりにしか過ぎない。それでも止める術を持たなかった私は彼に全てをぶつけ、逃亡する他できなかった。


謝りたい。けれど、会いに行くことが怖い。正直な本音だった。嫌われたかもしれないと考えると、どうしても動けなかった。結局会いに行く事を決心したのは、日が傾いてからだ。


六日目の夕方、彼はいなかった。いつもの日陰には、誰かがおとずれた形跡すら残っていない。仕方が無いと、謝罪を述べたメッセージカードを置いて私は公園を立ち去った。


その日の夜、弱い筆圧で書かれたカードの返信が届いていることを、彼が人間ではない上にもう長く無い事を、私は翌日の朝に知った。


部活終わりの夕方、新着メールを知らせるランプが点灯している携帯を開くと、亮汰からのメールが来ていた。文面を理解するのとほぼ同時に、心のささくれが取れたこことは誰にも言えずに今も抱えている。


なぜ呼び出されたのかは、痛いほどに分かりきっていた。


「別れよう」


理由は聞かない。傷つくことを恐れる私は、頷くことしかできない。それでもこの別れが私にとって、亮汰にとって良いものとなるように言葉を紡ぐ。


「亮汰のこと、好きだったよ。キラキラ輝けるあなたを本当に尊敬してた。でも私は、恋人としてあなたの支えになれてなかった。......足の故障、気づいてあげられなくてごめんね」


目を見開く彼の様子からして、私が気付くはずも無いと思っていたのだろう。ある日突然グラウンドから姿を消したことを不思議に思い、彼の友人を回ったことは教えない。そんな話、今は必要ない。


「ありがとう」


微笑んだ私に、彼も歪な笑みを浮かべる。歩き出す彼の背中は、いつ見たものよりも輝いていた。


バイバイ、喉に引っかかった言葉が嗚咽になり口を滑りでた。泣かないつもりだった。疲れきったこの体は、涙を流さないだろうと勝手に思い込んでいたのに。


私は彼を好きだった。ちゃんと好きだった。溢れ出る涙が、心の底で渦巻いていた不安と疑惑を肯定するようで、酷く安堵した。


そしてそんな事を思ってしまう自分自身に嫌悪感を抱きながらも、私は進まなければいけないのだ。



「ーーーー君!」


焼け付くような喉の奥から、無理やり言葉を引きずり出す。乱れる呼吸は整わない。久しぶりの全力疾走に心臓が暴れ狂う。苦しい、辛い、と脳が酸素を求め、視界がチカチカと火花を散らす。


未だに言葉を紡ぐことすらままならない私を心配する彼の顔色は酷く、それが何を意味するのかわからないほど、私は子供ではない。現実を見つめなければいけないのだ。タイムリミットはすぐそこに迫っている。


言わなければいけない。どうしても伝えたいことがあったのに、喉に絡みつく熱が、くるくると回る思考が私から言葉を奪っていく。


「ゆっくりでいいんだよ」


宥めるような優しい声。初めて会った時に彼から向けられたものとは程遠いその音色が、酷く私を落ち着かせた。


「私、あなたに伝えなきゃいけないことがあったの」


やっと滑り出た声は震えていた。これを伝えたならば、私は彼と二度と会うことは出来ないだろう。


「毎日毎日、話を聞いてくれてありがとう」


彼が小さく笑みをこぼす。


「たくさんのアドバイスをくれて、ありがとう」


彼の左手が私の右手を包み込む。初めて握ったその手は、驚くほどに冷たかった。


「この七日間、辛いこともたくさんあったけど、その分成長できたと思うよ。ありがとう」


指と指が絡み合う。私は俯向いた。


「 私の、背中を押してくれて……っありがとう」


笑ったはずの顔には涙が伝っている。腕を引かれた私の体は、彼の胸へと飛び込んだ。


「七日間、俺の元に通ってくれてありがとう。大切な思い出を、ありがとう」


制服の肩口が湿っていくのを、勘違いにはしたくなかった。彼から伝わる鼓動も、思わず零れた笑い声も、全てが暖かいはずなのに、私に触れる彼の手のひらだけが現実を伝えていた。


どれ程の時間そうしていたのかは、わからない。すでに日は暮れて周りは暗いが、彼の顔が涙で濡れていることだけは不思議と感じ取れた。


ふと気づいたとき、彼はもう私の隣に居なかった。まだ温もりの残る手のひらを握りこみ、私は星の瞬く空へと大声をあげた。


「ありがとうっ‼︎」


その言葉は、群青の静かな世界に飲み込まれる。彼と出会って七日目の夜、蝉の声は聞こえなかった。




それから三年後、澄み切った青空が広がる早朝、家の庭には多くの朝顔が花を咲かせていた。絶妙なグラデーションを乗せた花弁が鮮やかだ。


紫がかった朝顔を愛でる中、垣根の外から声が届く。


「綺麗な朝顔ですね」


少し低いその声は、数年前のものとそっくりだ。振り向いた私の視界に映ったその男性は、散歩中の犬のリードを握りながら笑っていた。あの頃のクールさなど消え去り、無邪気に笑う彼がそこにはいた。数回の瞬きの後、ええ、と声を漏らすことで精一杯だ。




眩しく照る太陽の下で、蝉時雨がどこまでも轟いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

何度でも、君の元へ 水無月 漣花 @renka0609

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ