後編
最高に気分がいい。
智彦にとっては何でもない朝食も、おれにとっては初めての体験だ。味覚だけではない、嗅覚も、触覚も、新鮮で驚きの連続だ。
「おかわり!」
茶碗を突き出すと、お袋は目を丸くした。
「あんた、よく食べるわねえ」
「母さんのご飯が美味しくて」
まあ、とお袋は少しだけ嬉しそうな顔をする――かと思ったが、むしろ疑いの眼差しを向けてきた。
「あんた、何か隠してんじゃないの?」
「ま、まさか……」
どこまで信用ないんだ智彦。
「それに、あんた胃腸が弱いのに朝からそんなに食べると――」
「――うっ!?」
突然、腹に鈍痛が走った。まさか、強引に魂を取り換えたことによる弊害が……?
『ただのウンコだろ』
そう言ったのは智彦だ。奴は今、おれと入れ替わるようにおれの背後霊をやっている。
『おまえ、毎日見てたんだろ? トイレだよ、トイレ。そこに辿り着くまで肛門を締めろ。頼むから漏らさないでくれよ』
「これが……トイレに行きたくなる気持ちか……」
信じられない。智彦は毎日のようにこの苦痛を耐えてきたのか……?
いや、智彦に耐えられておれに耐えられないわけがない!
「ちょっとあんた!?」
お袋が真っ青な顔で叫ぶ。その視線を追って、おれは自分の足元を見た。股間から溢れ出てきた液体でズボンがびっしょり濡れていた。
『そうかー、見てるだけじゃションベン我慢するって感覚知らないよな』
小便を垂れ流してはいけないことは知っている。だけど我慢の仕方を知らなかったのだ。
高校生にもなってお漏らしをすることが、どれだけ恥ずかしいことかは理解していた。だが羞恥心を感じているどころではなかった。
「おええええええ!」
生まれて初めて嗅ぐ小便の臭いは、おれにとって耐えきれないほどの悪臭だった。次の瞬間、おれはさっき食べたばかりの朝食を吐き戻していた。
吐瀉物の臭いもまた最悪だった。さっきまでの食欲をそそるかぐわしい香りが、何であんな酸っぱい臭いに変わるのだろう。
そして嘔吐によってかかる身体への負荷もまた、おれにとっては耐えきれないほどの痛みだった。
ぶりぶりぶり。
力んだ拍子に尻から何かが出る。この悪臭と不快感も想像を絶するものだった。
この世界は、こんなにも汚らしい臭いと不快感であふれていたのか――。
おれは意識を失った。
3日後、なんとか排泄を我慢することをマスターしたおれは、本格的に高校生男児としての生活を送ることとなった。
見ていろ、智彦。おれはちゃんと勉強して、身体も鍛えて、バラ色の人生をつかみ取ってやる。
その時になってから、やっぱり生きて頑張ればよかった、身体を戻してくれと言ってももう遅いのだ。
『はいはい頑張ってね。昨日までウンコの臭さに耐えられなくて泣いてたくせに』
「うるさい」
下駄箱で靴を取り換える。そして教室へ直行――しようとして、だがおれは足を止めた。
前方に男子生徒が3人立ちふさがったからだ。
「よう田上。死んだかと思ったけどまだ生きてたのかよ」
「おまえが勝手に休むから昼飯食い損なったじゃねえか。罰金な」
こいつらは知っている。智彦をいじめのターゲットにしているチンピラだ。昼飯を献上させたり、財布から金を奪ったり、いきなり殴りかかってきたり、好き放題やってくれている。
だがそれも、智彦が何も言い返さないのが悪い。嫌なことを嫌と言う勇気さえ持たないから、奴らを際限なく調子づかせる羽目になる。
どうせ無抵抗の相手に凄むしかない、くだらない連中だ。
「やめろよ」
いつものように財布を奪おうとしてきた1人の手を、おれは弾いた。
「おれは今までの智彦とは違うんだ。カモが欲しけりゃ他を当たるんだな!」
5分ほど経っただろうか。
おれは男子トイレの床に這いつくばって、泣きながら許しを乞うていた。
「すみませんでした……。ぼく如き虫けらが皆様に舐めた口を利いて申し訳ありませんでした。2度と楯突きませんので許してください」
殴られるのがこれほど痛いとは思わなかった。
それはたった一撃で、おれの闘志や勇気といったものを粉々に破壊してしまうほどのものだった。
小さい子供の頃、智彦が転んだだけで大泣きしていたのを馬鹿にしていたが、幼児の身体でこんな痛みを受ければ、そりゃ泣いても仕方ない。むしろ泣くなという方がどうかしているのではないだろうか。
『毅然とした態度でやめろって言うだけでいじめられなくなるんなら、戦争だってなくなってるよな』
奴等が意気揚々と去って行った後、智彦が話しかけてきた。どこか面白そうだ。
『生きるの、嫌になった?』
「……まさか。勉強して出世して、あいつらを見返してやる」
鼻水を拭きながらおれは言った。半ば強がりだったが、智彦の前で弱音を吐きたくなかった。それではおれが智彦と同レベルみたいじゃないか。
「真面目に頑張れば人生を変えられるって、教えてやるよ」
期末テストは散々だった。
そもそも毎日のように不良どもにパシられ、殴られ、金を奪われ、精神的にも肉体的にも消耗したおれに授業を聞く余裕なんてあるわけない。
授業中もどうやって奴等から逃げおおせるか、そればかり考えていた。
家に帰ってからも怒りが発作的にわき上がってきて勉強どころじゃなかった。怒りの対象は不良どもだったり、見て見ぬふりをする周囲の人間達にだったりした。
「なんであいつら、すぐ近くで人が痛めつけられてても、平気で会話ができるんだ!?」
『……そりゃそうだろ。関わりたくねえもん。おまえでさえ、俺がいじめられてるの、俺に勇気がないせいだって思ってたんだろ? あいつらだって同じだよ』
バレていた。その通りだ。殴られる痛みと恐怖を知らない背後霊だった頃は、智彦が何故やり返さないのか不思議に思っていた。反撃すればいいのに。嫌だと言えばいいのに。
――それができれば、苦労はしない。
「でも――」
『いじめを見て見ぬふりをするのもいじめです――って? だからなんだよ? ――誰かがいじめられていたら、身体を張って止めましょう。しかしそれによってあなたがいじめられる側になっても、同じように助けてもらえる保証はないし、誰も責任をとりません――。それで止めに入る奴なんかいるわけないだろ』
その通りだった。
だとしても――おれは答案用紙を見る。過酷な環境でも、おれは最大限頑張ったはずだ。けれども結果は、努力に見合うほどのものではなかった。
どう見てもおれより遊んでいる奴の方が高得点だったのを知ったときは、泣き叫びたい衝動に駆られた。
『やり方が悪いのかもよ? まあ、俺はいい勉強法なんて知らないけど』
「助けてくれよ……」
『嫌だね』
智彦の声はぞっとするほど冷たかった。
『おまえ、今までずっと俺を嘲笑ってたんだろ? 痛みも知らない、悪臭も知らない、勉強もしなくていいお気楽な立場で、俺がいろんなものに挫折してつまずいてもがいてるのを眺めて笑ってたんだろ? 自分ならもっと上手くやれるって思ってたんだろ? そういうのなんていうか知ってるか、岡目八目っていうんだ』
奴の声はもはや怨霊のようだ。地の底から響くように、俺を弾劾する。
『俺が死にたいほど辛かった気持ちなんて、考えようともしなかった。挙句の果てには、生まれたくても生まれなかったおれの気持ちを考えろ、だと!? 助けてくれ、だと!? ……笑わせるな! どこまで自分勝手なんだ、おまえは!』
ずっと嫌いだったんだよ、おまえのこと――智彦は吐き捨てるように言った。
「……すまない。おれは、頑張れば道は開けるって思ってた。おまえが頑張らないだけだと……」
『確かに俺は頑張っちゃいなかったかもしれない。そもそも頑張ろうにも目標がなかった、この世界に生きる値打ちを見出せなかった……っていっても、おまえみたいなのに言わせればただの甘え、踏みつけても心が痛まない相手の戯言なんだろうがな』
智彦はクローゼットを指差した。
『俺にはおまえを助けられない。でも、あれを使えば少しは救われる――かもな』
クローゼットの中には、智彦が収集していた古いゲーム機がソフトごと箱に詰められて封印されている。
封印したのはおれである。こんなものに手を出している時間が惜しい、少しでも勉強しなければと思っていたからだ。
おれは散々迷った挙句、封印を解いた。電源を入れると、電子音と共に画面が点灯する。
ゲーム機にセットされていたのは、オーソドックスなRPGだった。
おれはそれにすっかりのめり込んでしまった。そしていつしか、おれは涙を流していた。
ゲームの中では、モンスターを倒せば倒すほどレベルが上がる。倒したのに経験値が入らないとか、むしろ下がるなんてこともない。努力すればするほど、頑張れば頑張るほど、その効果は如実に表れた。
そしてゲームに登場する仲間達はプレイヤーであるおれを殴ったり、無視したりすることもない。窮地に陥れば助けにきてくれる。それがただのフィクションで、現実とは違うとわかっていたが、その美しさにおれは感動した。
こうあるはずだったのに。
おれが智彦の背中から眺めていた世界は本当はこうあるはずで、実際の現実こそ、この狭い画面の中に閉じ込められているべきなのに。
だけどそうはならなかった。画面の中の美しい世界はどこかの誰かにとっては当たり前にあるものなのかもしれないけど、おれの前にはその片鱗さえ見えない。どうすれば手に入るのか、道筋さえわからない。
死にたい、と思った。
それから2年後、親父の会社が倒産した。
頑張って成績を上げても、どのみち大学に行くことはできなかったのだ。奨学金という手もあるだろうが、おれの成績では借金の方が高くつくだろう。
その翌年、両親は他界した。事故死だ。借金と葬儀代を払うと、家さえ残らなかった。それ以来、おれは安いアパートに引っ越して1人で暮らしている。
アルバイトをはじめた。それはおれにとって多大な勇気を必要とした。またいじめられるのではないかと思うと、怖くて仕方がなかった。でも普通の人には何でもない、当たり前のことなのだろう。
正社員になれるという触れ込みだったけれど、3年間働いてもそんな話は一切無かった。
精一杯働き、時にはこうすればもっと客が来るかもと提案してみたりもした。鼻で笑われた。以後、空気の読めない奴として爪弾きにされる。おれのような奴が経営に口を出してはいけなかったらしい。耐えられなくなってやめた。
恋もした。昔のように頑張ればなんとかなるという気分に誘われて、精一杯身だしなみを整えて告白してみた。ストーカー扱いされた。そこから起こったことはもう思い出したくない。
傷つく度におれは数ヶ月単位で引きこもってあのゲームを起動した。相変わらず涙が出るほど感動的だったけど、どんなに助けてと心の底から念じても、画面の中の仲間達が助けてくれるのは画面の中の主人公でしかなかった。
そんなおれを、智彦は他人事として眺めていた。かつてのおれのように。
そんなある日のこと。おれはあのビルがまだ立っているのを知った。
おれは決心した。
死のう。
智彦はまさか嫌と言うまい。最初に死のうとしたのは奴だ。あれはいつのことだったか。気がつけば10年近く経っていた。
なにひとつ得るもののない10年。もしかしたら実りのある10年にする方法があったのかもしれないが、その方法はおれには皆目見当がつかないし、それをする余裕があったとも思えなかった。
10年前同様、そのビルにエレベーターはなかった。
階段を少し上ったところで、おれは足を踏み外してしまった。胸を打ちつける。滑るように一番下まで落っこちた。
身体が止まってようやく、おれは自分の身に何が起きたか理解した。
「……痛いよう」
おれは大声で泣いた。10歳児でももっと恥を知るだろう。それでもおれは幼児のように泣きじゃくった。身体的苦痛というのは慣れることがない。だが今痛むのは、打ちつけた胸ではなく、その奥だった。
おれは、こんな階段を上ることさえ満足にできないのだ。それが悔しかった。
そしてこうして泣き喚いても、おれをあやしてくれる人はこの広い世界に1人だっていやしないのだ。
今までも、これからも。
「死のう」
階段を上るのは苦痛だった。さっきの拍子に骨が折れたのかもしれない。
でも大丈夫だ。この階段さえ登り切れば、おれはもう痛みも悲しみもない世界に行けるんだ。
だけど――。
屋上から大地を見下ろしたとき、おれは睾丸が縮む思いをした。
こんなに高かったのか、このビル?
階段から落ちたときの痛みが甦る。ここから地表に叩きつけられるのは、あれの何倍も痛いだろう。
「嫌だ」
ビルの淵などに立っていられなかった。
死にたい。それは本心だ。
なのに怖い。これも本心だ。
本能的な恐怖が理性的な死への希求を押しとどめている。だけどその本能は幸せに生きられるプランなどなにひとつ持ち合わせちゃいないのだ。そのくせ、生きろと無責任なことをいう。
「頼む」
智彦に向かって叫ぶ。
「おれと入れ替わってくれ。代わりに飛び降りてくれ。おまえだってそのつもりだったじゃないか。おまえの気持ちはわかった。もう偉そうなことはいわないから、自殺させてくれ!」
智彦は笑った。一流の喜劇を見る観客のように手を叩いて肩を大きく波打たせる。
だがこの観客は、まだカーテンコールを許してくれそうになかった。
頼む代わりに自害しろ 鯖田邦吉 @xavaq
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