正体

一上悠介

正体

母の作るおにぎりが嫌いだ。

米粒をこれでもかと覆う塩が、歯の上でざくざくと不快な音を立てる。塩っぱさを通り越して寧ろ苦味まで感じることと、塩分を多く摂取することの身体に対しての罪悪感。食べ終えべたついたラップをたたむときが、一番虚しい気持ちに襲われるのだ。

母のおにぎりは私の胃袋に毎日おさめられている。


昼休みは決まって会社近くのカフェに向かう。飲み物だけ頼んで、母から送られてきたおにぎりをかじるのが日課だ。

「......不味い」

唇にくっついた塩を拭き取りながら独り言つ。

おにぎりを珈琲で流し込むと、何故だか高校時代のことを思い出していた。


昔から私は「良い子」だった。

反抗期というものがなく、規則を守り平和と協調を重んじる。誰でも分け隔て無く接していたからか、いつもクラスの中心にいた。

そんな「良い子」の私が崩れ去ったのは、高校三年の春の日のこと。

『初めまして、今西花乃です。これからよろしくお願いします』

その転入生を目にしたとき、心が震えたのを今でも覚えている。

真っ直ぐに背中まで伸ばされた黒髪も、すらりと長い手足も、まるでお人形のように不気味なほど整った顔も。全てが完璧だ、これ以上ないというほどに。

一年のとき現代文の教科書で見たミロのヴィーナス。黄金比が何とかだとか、両腕がないことが何とかだとか、芸術の方面に疎い私にはそれの良さが分からなかった。

でも、目の前の彼女がうつくしいことははっきりと分かる。いや、うつくしいどころか、私にとっての美というものが彼女であると言ってもいいくらい。

凛とした彼女の目を見、何かの衝動に駆られた。しかし初めの頃はまだ、それが何かは掴めなかった。


初めて彼女の消しゴムを隠したとき、何かが私の中で弾けた。

授業中、筆箱の中を必死になって探す後ろ姿と揺れる髪に口元が緩む。パズルのピースがはまっていくようにしっくりきた。

これはただの遊び。しかし何にも代えがたい、私にとって至高の遊び。新しい玩具を与えられた子供のように心は浮き立ち、次はどんなことをしてあげよう......それだけで頭が一杯だった。

行為は日に日にエスカレートしていった。靴や財布を隠したり、ノートやシャツを切り刻んだり、彼女が入ったトイレの個室の上から水をかけたりもした。つんと冷たい彼女はクラスの嫌われ者だったため、クラスメイトたちも彼女を苛めることに溺れていった。

それでも彼女は俯かない。どんなに悪口を言われても、足を引っ掛けて倒されても、健気に前を向き続ける──文句一つ言わず、誰にも相談せずに。

唇を結びこちらを睨みつける彼女を見下ろすときが、私の至福の時間だった。


一応バレないようには気をつけていたのだけれど、あるとき一人の男子が彼女の足に痣をつくってしまい、主犯格の私が担任に呼び出された。

『どうして苛めたんだ』

『分かりません』

嘘じゃなかった。本当に分からないのだ。薄くなった彼の髪をぼんやり眺める。あ、白髪があった。

『嫉妬か』

『......あ、そうかもしれません』

『態度が気にくわないのか』

『そうかもしれません』

『憂さ晴らしのつもりか』

『そうかもしれません』

はあ、と担任が溜め息をつく。あら、もう一本の白髪も発見。

結局特に怒鳴られることも無く、『もうするなよ』という言葉にはあい、なんて間の抜けた返事をして職員室を後にした。


言うまでも無く苛めは続いた。挫けない強い彼女の心も、ゆっくりと破綻していく。綺麗だった髪は艶が無くなり、目からは生気が消え、睨む元気も無いらしい。

あれほどうつくしかったものを、自分の手で壊した。私が彼女を壊したんだ。

うずくまるぼろぼろになった姿。それでもやはり、目を見張るほどにうつくしかった。


思い出に浸りふと腕時計を見れば、昼休みはもう残り十分。おにぎりの残り一欠片を飲み込み、ラップをビニール袋に突っ込む。

カフェを出、曲がり角で危うく人影とぶつかりそうになる。

「すっすみません!」

両手に抱えた大きなビニール袋と、そして──。

思わず息をのむ。

視界の端で捉えたその顔は、やつれていたけれど確かにそう。間違えようがない、だってあの頃、いつも見下ろしていたんだもの。

振り返ると、スーツ姿の彼女の向かった先には数人の先輩らしき人たちがいた。

「遅い!」

「本当あんたって鈍くて腹が立つ。ちゃんと言われたもの買ってきたんだろうねえ?」

言われる度にびくつく後ろ姿は、一回りくらい小さくなったよう。

「何か言えよ!」

「すみません、すみません......」

何度も頭を下げる彼女を見つめながら、胸の辺りをそっと押さえた。


──どうして彼女を苛めていたのか。

この感情の正体は何なのか。

ざらつくおにぎりを口にする度に、何故かいつも浮かぶ疑問。その答えが今、出よう出ようと頭を上げかけている。


『寂しくなるね、遠くへ行っちゃうなんて』

実家から遠く離れた会社に内定を貰ったと知ったとき、涙声で母が言った。

溺愛され育てられた私は、母親のしがらみから逃げ出したかったのだ。やっと離れられると内心喜んだけれど、さすがに母の涙には胸が痛んだ。

しかし次いで母が口にした言葉に、目の前が真っ暗になる。

『もしあなたが病気にでもなったら、戻って来なさい。お母さんがあなたを支えてあげるから』


塩にまみれたおにぎりを、母はどんな顔で握っているのだろう。

それでも毎日朝昼晩食べ続ける私は、結局逃れられていないのだ。こんなに距離をとっても、歪んだ母の感情からは。


「ああ、そうか」

やっと気づいた。どうして、彼女を苛めていたのか。

両親に愛情を注がれず育った子供は、大人になったとき自分の子供に愛情を持てないことがあるらしい。それはきっと、逆のほうもあり得る。

おにぎりから溢れた異常な母の感情。溺れて息が出来ず持て余したを、私は彼女に与えることにしたのだ。母と同じ、いや母よりもっと歪んだやり方で。


口元が緩む。

私に壊された彼女は、大人になった今でも私の感情から逃れられない。見えない糸に絡められ、もがいてももがいても、永遠にはついてくる。



塩で乾いた喉が、つきりと痛んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

正体 一上悠介 @senoa_0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ