刺突のソナタ

 まず最初に、僕がなぜペンを取っているか、ここからお話ししよう。回りくどい話になると思うが、どうか聞いてほしい。

 風の噂で、友が事故に遭ったことを耳にした。遠くバイールから、バルドゥくんだりにまで届くのだ。彼の名声は──本来得られるべきものとは程遠いものの──ようやく知れ渡ったのだろう。報せには馬車に轢かれたとあったが、彼の歳では命を失っていてもおかしくはない。かつての友の姿は、あるいはもう失われてしまったのだろうか。

 僕は後悔をしている。友に対して犯した三つの過ちを。そしてそれが、ついにはふたりの離別を決定したのだろう。ああ、あの時取るに足らぬ杞憂などを起こさなければ、この痛みが毎夜僕を切り裂くことはなかったろうに! 主よ、このフリッツをお叱りください。そして僕に、贖いの機会を!

 声をあげても、もはや朽ちゆく過去が残るのみ。であればこそ、僕は書くのだ。

 わが友、フレディ・フロラン・シャンポリオン。僕の知る限り、君は最高の男であり、最高の剣士だった。ああ、今でも思い出す。都での研鑽の日々を。ついに君とともに笑うことはかなわなかった。だが、そのようなことはどうでもよいことだ。剣を取れば、そこには僕と君しかいなかったのだから。

 だがなぜ僕と君は、栄誉という栄誉を欲しいままにしていないのか。僕は、あるいは君は、何を誤ったのか。その答えが導かれることを信じて、ここに独白をしよう。



 帝政バルドゥの片田舎に生まれた僕は、五歳で剣を志した。初めて剣を取ってから、二年が経っての決意だった。その時期にはすでに、剣士としての将来を確実視されていた。さもあろう。僕は誰よりも速く剣を振るうことができたし、どんな形でも書を読むだけで体得することができた。それには実践不可能と言われた古式の形も含まれる。十歳になり十分な体格を得ると、もはや故郷に僕の敵は誰もいなくなっていた。

 その後ハイスクールに入り、帝都の若い剣士と決闘、メイザー*を行う機会を得た。そこで僕は、ある結論を得るに至った。ここにいては、僕の剣が今より磨かれることはない。確かに新たな研鑽法や技巧への習熟を深めるよい機会とはなった。だが、それだけだ。敗れなければ、強くはなれない。

 そして二十になった僕は、故郷バルドゥを離れることとなる。より強い相手を、より高度な技法を求めたのだ。そして王政バイールを経て、砂漠の王国エハンスにたどり着いた。

 噂に聞く通り、首都ゼールはまさに剣の都であった。この街で最大の名誉は、大衆演劇のスターでもピアノ演奏家でもない。ラピエーを取り試合を行う、剣士たちだった。街のいたるところには簡易的な試合場があり、彼らはその日常でいつでも雌雄を決すことができる。

 その日も試合が行われていた。群衆の視線の中で得意げに右の拳を突き上げる男は、どうやら連勝しているらしい。立ち止まって見るでもなく見ていると、男と目が合った。そして、僕の腰に携えられた剣にひとつ笑みを浮かべる。来いよ。旅装束の異邦人を嘲るように、気取ったエハンス語でまくし立てた。

 外套を脱ぎ、それと引き換えるように使用人から防具を受け取った。これは研鑽のための試合であり、命を賭すものではない。ゆえに切っ先にはカップが付けられ、防具の決められた刺突点に向かって剣を振るうのだ。僕は慣れた動作でベルトを締め、点の位置を確認する。

 そして僕はブーゲンビリアに彩られたイヴェール公会堂前の広場にて、最初の剣を抜いた。彼の立ち合いの一瞬を見ても、剣都ゼールの名に恥じぬレベルの高さが伺い知れた。

 だが、硬い。これならば、読みをはずしたときに攻めを継続することはできないだろう。僕は今まで何度もそうしてきたように、踏み込みで揺さぶり、一撃で決めてみせた。衆目を集めたのは、言うまでもない。もとより、そのために来たのだ。

 そしてバルドゥ人剣士レーベルの名は、瞬く間に広まった。メイザー仕立ての剛腕剣士とは、いったい誰が言い出したのだろうか。有頂天だった僕は、その触れ込みに満足した。

 そして公開試合に参加するようになると、僕にも支援者が現れるようになった。有力貴族がひしめくゼールとなれば、それだけ高い地位に近づくこともできる。高額な参加費用も工面でき、毎週欠かさず参戦することができる。それは僕自身の権威にもつながるほか、師にも巡り合える。剣士にとってみれば、よいことづくめであった。

 僕のために仕立てられた衣装に身を包み、公開試合で剣を振るう。それは僕の自尊心を大いに満足させた。そしてそのまま、僕のように貴族の寵愛を受けた強敵どもをねじ伏せられると信じた。

 だがさすがに剣都と言わざるを得ない。僕はメイザーで醸成された技がいかに素朴なものであったかを思い知らされた。僕はただ、剣先の速度だけを意識していた。速ければ速いほど受けることは困難になり、相手が姿勢を崩せばそこで確実に決められるからだ。

 だがゼールの剣士たちは、単純な仕掛けでは決して落ちなかった。それは受けの技術が多様であることに起因する。僕はそれらを徹底して学んだ。特に試合の日の夜などは、修練場と書斎を何度も往復したものだ。この頃に師事をした老齢の剣士により僕は超絶技巧を得、フリッツ・フォン・レーベルとしての完成を見た。彼は言った。世に形の技巧を体得したものは数多いるが、形を超えて理合いを表現できるのはお前だけだと。そして十一戦目を最後に、僕は負けることがなくなった。僕は勝ち続け、一年と数か月が過ぎた。

 あれは二十三の頃だろうか。僕はある形の手順書を手にした。剣士が自らの技を編み出し、それをしたためることは珍しくない。そして、その全てが洗練されているわけではない。中には実用性のないものや、理合いを無視したものもある。手に取ったこれは一見して、良しあしが判別できなかった。そのようなことは初めてだ。とまれ僕はガウンのままに剣を取り、修練場へと向かう。そして暗記した文言をもとに、剣を振るった。

 異変を感じたのは、その直後だった。十分に動けない。身体的に不可能というわけではない。むしろ誰にでもできる動きだ。ただ、その動きをなぞるだけならば。僕は数十もの試行を経て、ようやく理解するに至った。

 つまり、この形には膨大な量の行間が含まれていたのだ。それは説明不足であることを意味しない。自分と相手との呼吸であったり、立ち合いの流れであったり、その時の感情であったり、それを剣に乗せなければならないのだろう。僕はいつの間にか汗だくになっている肉体を冷笑で拭い、使用人に尋ねた。作者は何者だ。この時はじめて、君の名を聞いたのだ。

 フレディ・フロラン・シャンポリオン。僕は君に会いたいと願い、もう深夜だというのに予定を取り付けさせた。君も驚いたろう。ゼールに来たばかりで、不敗神話のレーベルから立ち合いの申し入れが来たのだから。

 そして燃えるような日差しの中で、僕と君は出会った。意外と大柄なのだと驚いたのを今でも覚えているよ。そして僕たちは、何も言わず剣を取った。ああ、覚えているかい? あの時僕は負けた。僕はコンマ一秒の間合いを幾度となく見出し、攻め込んだ。そのたび君は、いじらしい恋人のようにふわりと受けてみせるのだ。そして、言い寄る僕を突き放すべくそっと触れた剣先は、一年も替えていない打突点を破裂させた。あの時の僕の感情は、今でも説明が付かない。驚きでも、屈辱でもなかった。むしろその敗北は、いままで掴んだどんな勝利より甘美だった。僕はまだ、成長できる。

 そして君はすぐに去っていった。そのことも、僕の対抗心のよい燃料になっただろう。

 この日以後、僕は公開試合から距離を置いた。内にこもり、磨き直そうと思ったのだ。これに怒り狂ったのが、当時のパトロンだった。彼女は伯爵夫人であり文筆家としての顔を持っていたが、その実破廉恥な批評家に過ぎない。差し詰め、お抱えの剣士が強いものだから大言壮語が過ぎ、それで退くに引けなくなったのだろう。身に余ることなぞ、はじめから書かねばよいのだ。

 そんな女に構うことなく、僕は剣を磨いた。様々に名と装いを変え、裏通りの試合に繰り返し出た。夜通し形を覚え、そしてわずかな睡眠ののちに街へと繰り出す。その時は、前夜覚えた技のみを用いる。変則の剣士ジャン=バチスト、二刀流アラン、一撃必殺のマルセル、全て僕の変名だ。今まで培った剣ではなく、まさに付け焼刃を振るうのだ。マイン・ゴーシュ*をとることも少なくない。そして、幾度となく敗れた。大抵は行間を読み誤ったか、そもそも理合いが誤っていたかだ。

 浮浪剣士に交じって君もいたね。名も顔も、技すら偽ったとしても、僕にはわかるのだよ。奇妙なことだが、偽りの技で立ち合った君と僕は、よく膝を突き合わせ語り合ったものだ。君の声はここで初めて聞いた。わずかに湿った低音は耳に心地よく、時間を忘れてしまったよ。そんな嘘の中に、君は巧妙に本当を混ぜ込んでいたね。バイール人剣士エリックではなく、フレディとしての言葉を。だから僕も、君にだけ伝わるようひとりのフリッツを編み込んでいった。

 そしてそんな日々を二百日も過ごしたのち、僕は公開試合に戻ることにした。それだけ籠ったのだからさぞ技巧に磨きがかかっていような、とはかの女の言葉である。僕の復活に皮肉しか吐けんとは、肩書が泣くというものだ。

 そして僕は再び、試合場のビロードを踏んだ。剣先は以前とは比較にならぬほど軽く、そして敵のいかなる動きも手に取るように分かった。緒戦を全て五秒以内で仕留め、僕はついに君との立ち合いに臨んだ。覚えているかい? 君は男用の背広に身を包んだ女とともに現れた。彼女は才気ある戯曲作家と聞いており、僕の飼い主とはえらい違いだった。背後から、あの皮肉女の声が聞こえる。負けることは許さない。これに勝てば、お前は――ああ、この女はいつも僕をお前呼ばわりするのだ――王宮で存分に剣を振るえる。そして私は、あのおとこ女にほえ面をかかせられる。

 僕はそれを黙殺した。剣を取れば、無意味に華美な試合場は静寂に包まれる。そして構えたとき、君の大きく開かれた目に僕の視線は吸い込まれた。ああ、エリックとして振る舞っても、その目だけは偽れなかったのだね。

 そして百六十秒に渡る剣戟ののち、僕は勝った。君の底知れぬ優美な動きの、わずかな空白を穿ったのだ。だがその右手に、勝利の実感はない。それが僕の全身に、激しい憤りを抱かせた。どうして、そのようなことを。そして僕は、敗者として去ってゆく君に対し、こう言い放ったね。ムシュー・シャンポリオン、この貸付は高くつくぞ。ああ、今でもわからない。君は手加減をしたのか? 僕を自分と同じ地位に引き上げるために。いずれにせよ、憤激に任せて悪態をついたことを詫びねばならない。もっともその機会が与えられるならば、だが。

 その日から、僕と君は好敵手として取り立てられた。人気を博し、月に二十を超える試合のうち、君との試合は三度以上必ず組まれていた。文芸誌では互いのパトロンが舌戦を繰り広げ、それに応じて不仲であることを求められた。僕と君はすれ違ってもそっぽを向くか、時折立ち止まって嫌味を口にしたね。僕にとって、意味のない言葉を交わすことは無視をするよりつらかった。

 僕と君は、人目を忍んで顔を合わせた。君の剣を、振るわせてもらったこともあったね。君の技を助けるように、柔らかくよくしなる。よい鍛冶を雇っているのだろう。注文から手入れまで自分でやっている僕とはえらい違いだった。

 そんな幸福のひとときは、しかし少なくなっていった。紙面を彩る僕と君の言葉は次第に激しくなり、より下品な言葉で罵り合った。君名義で何度も痛罵されると、さすがに疑ってしまう。あの男装作家がしたたかな女であることはわかっていたが、僕は少しずつ変えられていったのだろう。わが皮肉女のことすら戦友であると錯覚し、愛の幻想を抱くほどに。

 いつしか僕と君は、知られている通りのふたりとなった。僕は時折負けた腹いせに君を前にして悪態をついたことがあったね。あの時は、男装女の頬からにじみ出た愉悦の意味がわからなかった。今では愚かと言うほかない。君は失望したろう。剣しか知らぬあまり、僕は取るに足らぬ女どもに弄ばれたのだ。

 また月日を経た。僕は君に対し、負けが込んでいたね。百九勝百四十敗。卓絶と呼ばれた僕の剣は、しかしラピエーの魔術師たる君に届かなくなっていた。今思えば僕は、心の弱さをその剣に読まれていたのだろう。僕は君の才に嫉妬した。そして剣を取らずとも、君と争ったね。憂いを帯びた君の目は、その時の僕には侮辱としか映らなかった。

 そして忘れもしない。この日は天覧試合であり、記念すべき二百五十戦目だった。ああ、忌まわしい。君の顔は苦痛に歪んでいたね。この時の僕は何も知らず、ただ好機と見た。信じてくれ、本当に何も知らなかったのだ。鈍った君の剣ひとつひとつを執拗にはじき返し、君の避けられない一撃を放つ。僕は勝った。あの時と同じ、喜びのない勝利だった。僕は今でも、君の顔を覚えている。その目は失望に濡れていた。

 わが皮肉女は、新大陸原産の毒花を手に言った。ラピエーの詐欺師は――ああ、我々は恥知らずにも、君をこう呼んでいたのだ!――、お前の名を世に知らしめてくれた。無論、感謝しているとも。だが、それも終わり。奴にだけ、舞台を去ってもらおう。

 そして、その通りになった。国王陛下の前で精彩を欠いた君は徐々にその立場を失っていった。対照的に、僕の敵はいなくなった。優れた剣士は騎士に叙任され、王の庇護を受ける。僕は名実ともに、ゼールの剣士二千人の頂点に立ったのだ。だが僕の心は、求めた栄華を前にしても乾いていた。君がいない。それでは、だめだったのだ。

 僕はまた、裏通りに足を踏み入れた。自由の利かぬ騎士の身になれば、公開試合を休むことはできない。今度はただそれを見るだけのつもりだった。

 エリックと言う男が、ひとり剣を振るっていた。バイールの剣士はゼールでは邪道とされ、実力を伴ったとしても栄達はない。であればこそ、なのだろう。君がその剣を振るうのは。

 試合の受け付けには、まだ時間がある。僕は記名し、鞘を右に移した。変装屋に頼む時間はなく、時折用いている舞踏用の仮面を手にした。左利きの曲芸師、ジャック。仮装に手間がいらず技も嫌われやすいため、かえって気に入っている変名のひとつだった。

 トーナメントを勝ち上がれば、そこにいる相手は決まっている。正対し、その目をのぞき込んだ僕は悲壮とともに理解した。彼はひとりのエリックでしかない。であれば、そう考えてため息をついた。もう、どうにもならないのだろうか。

 最初突き入れた剣を、エリックは前に出て弾いた。バイール流は左相手の研究も進んでいるため、強く出てきた形だ。だがエハンスの技術は、より洗練されている。ジャックは左の出足を浮かせ、追撃をかけた。ああ、他人事のはずなのに、僕ははっきりと覚えているよ。ふたりの試合は三分が過ぎ、体の開いたジャックをエリックの剣が捉えるまで続いた。否、この表現は正しくないのだろう。僕の心は、僕の体はその一閃の主が誰であるかを知っていた。

 賞金を受け取った異国の剣士に、僕は裏路地で声をあげた。フレディ・フロラン。君は立ち止まり、しかし振り向かない。ああ、なぜ僕はここで行かなかったのだろう。そして次なる一歩を踏み出す君を、僕はただ見ていることしかできなかった。

 間もなくして、僕は剣都を去った。歳は三十。剣士寿命から見ればまだまだであり、超絶技巧も数年は健在だろう。だが僕には、去るべき理由があった。剣が僕を、満たしてくれなくなったからだ。僕はバルドゥへ帰り、後陣の育成に努めた。僕のような男にならぬよう、しっかりと教えてきたつもりだ。だが、ある時気が付いてしまった。剣を取らぬ僕には、何もないということを。だが、もう手遅れだった。剣と呼吸が合わない。おそらく肺を患っているのだろう。僕は何もかもをやめた。

 今に至る僕の旅路は、これですべて語りつくしたよ。僕は君に、取り返しのつかないことを何度もしてきた。君が手加減をしたと思い込み、不仲の発端を作った。飼い主のしたこととはいえ、小細工で試合を汚したことを謝らなかった。

 そしてあの裏路地。きっと許してもらえないだろう、殴られるかもしれない、そのような些細なことを気にして、僕は君を引き留めなかった。ここまで罪を重ねておいて、僕はひとり書き綴ることしかできない。

 僕は所詮、その程度の男だったのだ――――




 さびれた修練場の固い扉が開く。誰だろう。僕はペンを止め、その扉を開いた。外の風の異物感に小さな咳をした僕は、その来客を見た。小さな男だ。僕はそう思った。

 だがそれは、誤りだった。帽子を目深にかぶり、珍しいゴム製の車輪を付けた車いすに腰かけた男は、下を向いたままだった。何も言わないので、僕が聞かねばならなかった。

「失礼ながら、お尋ねする。どなたかな?」

「エリック・レッドフォード」

その名に、心当たりはない。道場を閉めてからは、来客もなくなっている。

「存じ上げぬお名前ですな。して、誰に御用が?」

「ジャック・ブルゴー」

僕ははっとした。その名を知っている者はそうはいない。変名、それもゼール三番街の野良試合だけで用いたものだからだ。

 だが、知人ということもある。答えねばならなかった。

「いかにも、私がジャックだが」

男は傍らからひとつの箱を取り出す。中には、一振りの剣が厳重に収納されていた。そしてそれを手に取ると、帽子の広いつばの下で口を開いた。

「立ち合いをお願いしたい」

一瞬、意味が分からなかった。目の前の男は荷を僕の使用人に預け、車いすから何やら部品を取り外した。そして彼は、さも自分が剣士であるかのように剣を抜く。よく見ると、両ひざから先がなかった。

「ご冗談を、そのようなお体では」

「私は真剣です。ちょうど、このラピエーのように」

左手で車輪をこぐと、軽快に車いすが動く。剣は彼の言うように、鋭い刃が付いていた。彼が何を求めるのかはわからない。だが彼の言葉に、嘘はなかった。であれば、剣を取るだけだ。上着を脱げば、もう戦える服装になっている。僕はぬるま湯で喉を潤し、ひとつ咳払いをした。

「非礼をお詫び致す。では、立ち合いを。ですが、お恥ずかしながら貴殿のような方とは経験がない。間合い等、条件を指定していただけるとありがたい」

いえ、何も。男はにべもなく口にした。

「側面や背後を取らないでくだされば、あとは構いません。お好きになさってください」

そう言われては、もはやこちらからは何もない。母屋から審判を呼び、正式に執り行うことにした。

 礼。両者、前へ。僕はその高さの変化に戸惑いつつも、左足を前に出す。はじめ。その号令とともに、僕は姿勢を低くし踏み込んだ。まずは、出方をうかがう。

 男は上体を反らしその剣を受けた。筋はバイールの伝統的なもの。だが高い水準だった。そして弾いたそばから剣先を浮かせ、突き入れてきた。左手は、車輪の上。見た目よりも、踏み込みは深い。であれば僕も、様子見はなしだ。

 ジャックは本来、曲芸のような変幻自在の足運びを得意とする剣士だ。動かぬ敵相手に、それは効果的なはずだ。踏み込みの深さは、直前まで決めない。そしてどこに足を置いても、異なる攻めの脚本を描ける。読み漁った中で、最も気に入った形だった。ジャックはそれに、左利きのエッセンスを加えたものだ。ゆえに彼は、僕の変名の中でもオリジナルに近い技を持っていた。

 そして男の剣は、その刺突をじっと待ち受ける。そして時に、車輪を動かす。そのわずかな前進及び後退が、間合いに与える影響は大きい。巧い、僕はあっけに取られていた。

 だが一分、二分が経過し、なお膠着していた。エリックは決定機を作り出せず、かといってジャックも攻めきれない。肺が酸素を供給しきれず、数度攻めが止まった。ジャックは老いに弱かったらしい。

 エリックの一撃を返したジャックの剣が、帽子のつばを払う。はらはらと落ちていくそれをよそに、僕は男の顔を見た。ああ、なぜ気が付かなかったのだろう。名も剣も変えず、君は戻ってきてくれたというのに。

「フレディ・フロラン」

声が震えている。君は僕の胸を小突くと、ふっと笑みを浮かべた。主審はすでに、手を挙げている。

「ほら、ジャックの負けだ。次の試合に移ろう」

そう言って君は忙しく車輪を動かし、開始位置に戻る。僕は礼をして下がると、剣を右手に携えた。

「フリッツ、久しくだな。また会えるとは思わなかった」

「フレディ、その足」

君はその空白の膝にひとつ笑みを浮かべたが、その目は毅然としていた。

「ああ、醜いだろう。暴走した馬車に気づかないとは、焼きが回ったのかな。だが、この剣まで醜くなったとは思わないでくれよ」

僕は首をふる。そのようなことは、ありえないのだ。

「しかし、どうして僕なんかのところに」

「あの日ジャックは、いや君は、俺の名を呼んでくれた。嬉しかったんだ。でも、零落した俺に振り向く勇気はなかった。そのまま合わせる顔がないと二の足を踏み、時間だけが過ぎた。そして老いさらばえた今になって、やっと言おうと思えたのさ」

僕は瞬きをし、その目の光を隠す。僕は怯懦な男なのだろう。口に出せば、済む話ではないか。君はそんな僕を見て、微笑を浮かべた。

「お互い卑屈はよそう。そして始めよう」

そう言うと、君は手に剣を握る。僕もそれに合わせ、再び君と向き合う。これは夢ではないか。そう思えるほどには、僕は幸福の中にあった。

 二回目の、開始の合図。それだけで僕を穿つほどに見開かれた目は、確かに君のものだった。であればこそ、僕も燃えるような感情とともにあった。

 そして立ち合い。仕掛けたのは僕だ。踏み込みを遅らせ、蹴る力を溜める。僕はこのとき、自らの体が老いを忘れていることに気がついた。呼吸もぶれていない。であれば、憂うことは何もない。そのまま右足が地上に降りる瞬間、最大速度で突き入れた。

 君はそれを受けた。切っ先はかつてと同じように、踊るように僕の眼前を通り過ぎる。そして内側に剣を払い、君は前進した。そのまま僕の剣に一瞬だけ圧をかける。反発する力で加速すると、まるで僕の心を覗くように剣を波打たせた。来る、そう思い僕が受けようとするも、君は肘を固めたまま止まっていた。君が突くまで、僕はこの姿勢を崩せない。機先を、制されていた。

「ラピエーの、魔術師」

「昔の渾名さ」

頬に微笑を浮かべ、君は突き入れる。その一撃は速度こそないが、まるでこちらの時間が止められているかのように対応が困難だった。僕は何とかそれを逃れると、主導権を奪い返すために大きく踏み出した。

 腕だけで二合、その後、三つの部位に対し連撃を仕掛ける。瞬発力に物を言わせ、圧倒的な速度と深さで相手の胸をえぐるのだ。だが足運びのない君は、その絶技を受け切った。左手で後退し、右手の剣で全ての切っ先をずらしてみせたのだ。打突点に、傷はない。

「超絶技巧は、相変わらずだ」

「衰えたよ」

そう返しながら、僕は心躍っていた。踊るように僕の視線を惑わせる君の剣は、いじらしく気を引く恋人のよう。強引に突き入れても、お見通しだというように後退し流されてしまう。足の踏み込みがない代わりに、左手を縦横無尽に動かし姿勢を取る。その技は、もはや卓絶と呼ばざるを得ない。君は磨いていたのだね。僕が剣を捨てたのちも。結局、不甲斐ないのは僕ばかりではないか。

 ふいに、君が口を開く。

「あの日は、すまなかった。俺が不覚を取り、毒を盛られてしまった。君との最高の舞台を、汚してしまった」

そんな。出足を手前で止め、僕は叫んでいた。

「謝るのは僕の方だ。あの女を張り倒して、すぐにでも再戦を要求すべきだったのに」

「いや、それをしてはいけないよ。剣を取った先の結果は、変えてはならないんだ」

君の目には、僕への非難はなかった。ああ、こんな僕を許してくれるとでもいうのか。

 白銀の軌跡が交錯し、僕と君が衝突する。真剣の一撃は打突点を外しても、当たりどころによっては傷を負うこともある。後から知ったことだが、君も決闘育ちなのだね。その刃を見て恐れをなす者は多かったが、君は静けさと熱を持って僕を見つめていた。

 互い五十を過ぎ、もう傷ひとつとて死に直結する。しかし、そのようなことはどうでもよいのだ。過去の全てが、ここに集約されているのだから。

 いつしか僕も、足運びをやめた。上体をわずかに揺らし、剣だけで剣を受ける。その方が、より君と心を通わせることができる。無限とも言えるような時間の中で、僕は確かめなければならなかった。君はあくまで優美に剣を振るう。僕をまどわせ、隙を晒すのを待つように。

 だが、僕には――ああ、これは本当に僕だけなのだろう――その空白が見える。君は待っている。鮮やかな返す手を用意しながら。だから僕は、渾身の力で突き入れた。それがふたりにとって、最高の結末となるために。

 しかしその剣は、虚しく君に突き刺さった。君の剣は、止まったままだった。

 どうして。僕は叫んだ。その声はかすれ、後半は音になっていない。剣を抜く手は夢から醒めたかのように、まるで力がはいらなかった。

 布をあてがい、腰を入れてなんとか引き抜く。君は申し訳なさそうに目を閉じ、その傷口に手を当てる。その姿は、来た時よりもよほど小さく見えた。

「どうして避けなかったのか、そうだろう。簡単さ、避けられなかったんだよ」

「嘘だ。君の受けの技巧は、どんな剣でも」

君は遮るように、手招きをした。僕はそれにつられて、指さされた君の目を見た。その鳶色の虹彩には、靄を思わせる黒い孔があった。

「その一点だけは、見えないんだ。だから、受け切れなかった。すまない」

ああ、そうなのか。僕は頷いたのち、君の肩に触れた。こうしている間にも、君は消えていきそうだった。

 医者を。そういった僕の手を、君は払う。

「手間取らせたりはしないよ」

「いいや駄目だ。僕はもう、後悔をしたくない」

現れた医師は彼の右わき腹にある傷を見て、小さく首を振った。

「どうだ」

「できる限りはいたします」

消毒したのち、包帯を巻く。内臓までは達していないが、しかし感染症の危険はあった。

「シャンポリオン様、当分ここで休まれた方が」

「いきなり押しかけて、そこまで迷惑はかけられない。ありがとう、僕は帰るよ」

そう言って、車いすに戻る。その目は毅然として、すでに決めたことだと言っていた。

 見送りのため外に出て、僕は驚いた。視界を覆うほどに、街は霧に包まれていた。ああ、これは夢なのだ。であれば、主は僕をお許しになったということ。僕はこの際になって、全ての力が抜けていくのを感じた。

 君は手を振ると、僕に背を向ける。その小さな影が少しずつ白く消えていくのを、僕はただ見ていた。

 僕が最後に眠ったのは三日後、彼の訃報を聞いた夜だった。


脚注


メイザー……主に帝政バルドゥで学生が行う剣を用いた決闘を指す。流血をもって決着とする古典的な方法もあるが、作中当時では安全確保のため防具に刺突点を設けそれを突く方式が一般的。【プレ・――】ハイスクール以下の青少年が行う決闘。より安全性が考慮され、剣先は丸く防具は頑丈になっている。


マイン・ゴーシュ……左手に持つ剣。主に敵の剣を受け流すために用いられるが、体を開けないため独特の技術が求められる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

北家の短編 北家 @AnabelNorth

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ