大という字

 白昼に訪れた来客に、男は座敷で顔をもたげる。持て余した広い借家で、男は脱力したまま差し出された紙を見ていた。

「もう一度考え直しちゃくれんですか」

「すまん、肇君。もう決まったことだ。以前から君の歌風は、うちの方針と合わなくなっていた。奥さんを亡くされてからは特にな。悪いとは思っているが、受け入れてくれ」

そう言って、帰り支度を始める。多少の後ろめたさもあるのだろう。ひとつの封筒を、置き忘れたかのように座卓の上に残した。その影が消えるや否や、男は飛びつくようにそれを手に取る。餞別の内容は、大黒天一枚。普段男がもらう給金とは、比較にならぬほど小さな額だった。

「十円ぽっちで、どう生きろというのか」

言いつつ男はそれを懐に収め、仏壇へと向かう。そこで手を合わせ、目を閉じる。そのまま、男は眠りについていた。

 そして西日が彼を起こし、導くように行く末を照らす。彼はそれにつられて、ふらふらと駅へ向かった。

 数日かけて、男は海を目指した。海ならばどこでもよい、というものでもなかった。終わりならば、ここがよい。ここは周囲を岩場に挟まれているが、ほんの小さな砂浜もある。彼は赤潮の海を見て、ひとつ口ずさんでいた。

「人待ちて渚に寄りし夜光虫、昼は血溜り、夜は灯火」

目の前に広がる赤黒い水面も、夜になれば偽りの光を灯す。男の目では仮に透明な海を見たとしても、その奥にありもしない闇を幻視するだけだ。この陰鬱さが好かれぬのだと苦笑してみても、それしか歌えぬ身を笑うほかない。

 男に行き先はなかった。才能のない歌人に、住みよい場所などありはしない。社会に何ら力を加えない夢想家が生きられる時代は終わったのだ。

 だがそんな彼さえ、幸福の幻想を見たことはある。妻は献身的に彼を支えたが、元来の病弱ゆえ二年前に世を去った。そこから男は世を疎み、そうすれば世に疎まれ、寄る辺はなくなった。そして最後の望みが絶たれたこの日に、終わりにしようと思ったのだ。

 年に数人自殺者を出すというこの海岸は、平生はほとんど誰もいないと聞いていた。だから男は、あるはずのないその気配に驚いたのだ。女は不透明な波打ち際に座り、こちら側に膝を向けてなにかをしている。口ずさむ歌は違えど、男はどこかこの小さな女に親近感を覚えた。

「侘しさの流るる先の夜光虫、ゆらり笑いつ波間に揺れる」

様子が気になった男は、それを覗き込んでみることにした。女はこの書生風の男を奇妙に思ったか、やや目を細め見上げた。女学生だろうか。落ち着いた瞳に似合わず、頬に幼さを残していた。

「おじさん、どしたの?」

「少し、君のしていることが気になってな」

女は手にした木の枝で、砂に文字を書いていた。同じ字が、縦書きでいくつも書き連なっている。それは、大という字だった。

「大、か」

「そだよ」

「だが、なぜその文字だけ」

女は意に介さぬというように、手を動かす。

「自分にとって大きなこと、自分にとって大事なもの、そんなのを思い浮かべて書くの。すっきりするよ」

女はどこかうわのそらでそれを口にすると、視線を砂に戻す。すると向かって左に一歩位置を変える。それを見て、男は首を傾げた。

「そこから向こうには、書かないのか」

「おじさん知らないの? この下に書いても、波にさらわれちゃうんだよ」

そう言いながらまた大を書き、一歩動く。そして男の方を向いた。やや訝しむ様子でじっと見たのち、女は表情を変えた。

「ね、おじさんも一緒に書こうよ」

それは意外な申し出だった。女に言われるがまま、男は流れ着いた枝を取る。そして女の邪魔にならぬ位置で、大という字を書いた。書くと、ふっと軽くなるような感覚を覚える。これは、何だろうか。大事を思い浮かべているのに、それが小事であるかのように思えてくるのだ。ただひとつを除けば、ではあるが。

「おじさん」

不意に呼ばれ、男はゆっくりと首を向けた。

「なんだ」

「おじさんは、どうしてここに来たの?」

「死にたくなったからさ」

あっさりと答えてしまったことに、男は閉口した。あるいはもう、そんなつもりなどなくなっているのだろうか。

「どうして?」

その質問に、男は答えない。目を閉じて、小さく首を振るだけだ。

「ね、どうして。教えてよ」

再三の催促にも、折れなかった。女はひとつ納得したように、淡い笑顔を見せる。

「ねえ、でもおじさんは、もう死なないよね」

「わかるのか」

「うん。来た時とは、違う顔してるもん。その顔になった人は、大丈夫なんだよ」

やはり。男はひとり納得した。女はここで、何人もの死に向かう人を見てきている。そのたびに、何かしら声をかけているのだろう。

「そうか」

男は枝を置き、立ち上がった。百は、書いただろうか。少し不足しているかもしれないが、それは問題ではなかった。どうも死ぬのは早かったらしい。ここに来た時に比べ、その赤潮を見る目も変わり始めていた。見ようによれば言うほどに醜悪なものでもなく、あるいはこれもひとつの在り方なのではないかと思えるようになった。

 すっかり気が変わった男は、しかし女について疑念を抱いた。見た目のわりに、ずいぶん達観している。ずっと、ここでこのようなことをしているのだろうか。死を暗喩するこの赤潮を、どう見ているのだろうか。

 そして日は陰り、海の闇は血溜まりを灯火へと変える。そんな中で女は、最後に大という字をひとつ書く。それは、波の届かないぎりぎりの線だった。そしてその蒼の渚の向こう。女は隠すように、淡い枝遣いで“好き”という字を書いた。

「想い人がいるのか」

「うん、文通してるの。ちょっと照れるけど、大事なことはちゃんと書かないと」

「だが、そこから先は波にさらわれると――」

その言葉を、小さな手が遮る。女は男から目をそらし、青く光る海の先を見た。ひとつの波が砂を洗う。女の想いは、光の中に消えていた。

「だから、文通なんだよ。ああ、会いたいな」

今までとは打って変わって、その声は細く震えていた。だから男は、それ以上を問えない。問えぬなら、もうここにいる意味はないのだろう。男は帰ることにした。踏み出す男の足取りは、来た時よりわずかに軽かった。帰途は迷うこともなく、一昼夜もあればもとの住処に戻ることができた。電車に揺られる男の中に、ひとつの問いが浮かぶ。自分はこの海に、本当は何を求めたのだろうか。あるいは。女はこの海に、何を願うのだろうか。

 出る前と違い、男にはすべきことがあった。旅費で餞別の多くが消えてしまったが、食い扶持などはこれから見つければよいだろう。思えば出版社に売り込んだことなど一度たりともなかった。

 男は文芸社に入り、もう一度歌をやり直すことにした。暗い歌風は変わらなかったが、それでも世捨て人の暮らしを詠んだ歌は十分な評価を得た。結局代わりの何かを得ることこそかなわなかったが、いつしかあの海のことを忘れるほどには男は死から遠ざかっていた。

 そして数年が経ったある日、新聞の小さな記事を目にした。そこで男は、あの女が歌人であったことを知った。そして女が、あの海で死んだことを。

 女が身をゆだねたのは、あの海の赤だろうか、それとも、青だろうか。

 そんな問いに答えがなくとも、男はただあの海に描かれた文字を思い出し、ひとつ手を合わせた。

 侘しさの流るる先の夜光虫。

「大を想いて、生を捨てれば」


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