黄色の縞

 臆病者。男のことを、そう呼ぶものは多かった。伊牟田いむた一輝。彼は世界王座という拳闘において最大の名誉に挑戦する権利を得ながら、忽然と姿を消した。彼は何も言わず、社会の外に逃げたのだ。当初、彼を見たものは口汚く面罵した。それがだんだんと減っていったのは、ある理由によるものだった。

 自分を臆病者と呼ぶものを、男は捨てておいたことがない。身辺を調べ、隙を晒す瞬間を待ち、そして仕掛ける。それに失敗したことはなかったし、露見したこともなかった。法のない街に、またひとり人が消えるだけのことだ。

 いつしかそれが、彼の生業になった。それは大通りを歩けない男に、生きるために十分な収入をもたらした。

 この日男は、狭い街路にいた。ちょうど、仕上げに入るところだった。標的となる犠牲者は、一ヶ月に数度だけこの道を通ることがわかっている。治安は悪いが、人通りも少なく近道にもなる。彼はここを、仕事を早く上がった時に通る傾向があった。そしてこの日は、その条件に合致している。男は浮き上がるような熱情を隠し、ただ歩いていた。

 近道は遠回りというが、今この道には巨大な不可視のクレバスが横たわっている。落ちれば、そこには人知れぬ死が待つのみ。

「もしもし、俺だ。ああ、すぐ帰るよ。何たって國枝くにえだのタイトル戦があるからな。最近は遅くなってばかりだったから、今日くらいは――」

その顔を見た時、誰であろうとすぐには状況を理解できない。何食わぬ顔という仮面を、男が貼り付けているからだ。

 それゆえ、犠牲者には軽く手を振る余裕さえある。目の前の男が真っ当な人間だと、この際になっても信じているのだ。その蒙昧を、男は愛していた。

「迎えに来たぜ」

男はそう言って、ここで初めて笑う。犠牲者の顔が恐怖で歪むのは、もう全てが終わった後だった。苦痛は、遅れてやってくる。内臓に打ち込まれた拳は、犠牲者を内側から破壊し尽くす。死のほかに終わりのない痛みに落とし込み、男の表情は乾いていた。事が終われば、そこには狂気に慣れ始めた自分がいる。ここまでのことをして、なお自尊心を満足させている自分がいる。

 あえて語るまでもなく、男は臆病者だった。

 男は短刀を取り出し、腹部から心臓付近の動脈へと刃を突き立てる。すると身体の血すべてがそこから出ていくのだ。無論、数秒ののち死に至る。男は干上がった肉体を担いで、夜の街に消えていった。たとえ戸籍のある人間でも、ここで死ねば誰にも探されない。法の抑止力など無いに等しかった。

愛未なるみ、いるか」

廃ビルのドアを開けた男は、部屋の中も見ずに声を上げる。聞いた女はそれを見て苦笑した。不器用なこの男にしては、演技がうますぎる。これでは彼が酔いどれの介抱をしているようにしか見えないだろう。

「素材ね。今すぐやったほうがいい?」

「ああ、頼む」

女はカウンター越しに笑みを浮かべ、長い髪をなびかせる。男が持つその塊に目をやったのち、ひとつ手を叩く。すると奥から部下と思しき男がふたり現れ、それを運んでいった。女はふたりを見送ったのち、貼り付けた微笑に含みを持たせた。

「傷が多いようだけど」

「少し、興じた。俺を愚弄した咎だ」

「感心しないわね。肉の価値は、その瞬間で決まる。あなたには興味のないことかもしれないけれど」

「そうだな」

苦言を冷笑で流した男は、女の指折り数える仕草をちらと見た。とは言え、生活には関わるのだ。

「買い取る身としては言わせてもらうわ。今日はあまり値段はつけられない。素材は良かったけど、血が残ると価値が落ちるから」

女はそう言って、カウンターから紙幣を取り出す。こんなものよ。突き放すように口にされた言葉は、どこか湿り気を帯びていた。

「すまない」

男はそれを懐に収めながら、それだけを口にした。

 すべきことを終え、男は外に出ようとする。ねえあなた。女はその背中に対し、つややかな声でそっと問いかけた。

「拳闘は、もうやらないの? あの頃のあなた――」

男の目が見開かれる。振り向いた男は瞬時に女に詰め寄ると、胸に引き寄せた左手を細かな動作で振り抜いた。衝撃は背後にある壁に逃れ、女は言葉を失っていた。

「道を外した。俺はもう、光には戻れない」

固く食いしばった歯の隙間から吐き捨てた言葉には、行き場のない強い諦念が込められていた。




 お前のような臆病者に、ここにいる資格はない。決して広くはないジムで、父は子に拳を突き立てる。

 それ自体は、珍しいことではなかった。父は子を自分と同じ拳闘選手に仕立て上げようとし、そして子もそれを志していた。であればこそ、気を奮い立たせるために非情な言葉を用いるのは真っ当なことだ。子は父に認められていると信じ、毛ほどもそれを疑うことはなかった。十五になる頃には並の者では触れることすらままならなくなり、その才能を開花させていった。プロになってからも危なげなく勝ち続けた彼はしかし、一度たりとも満たされることはなかった。

父は自分を超えることを願った。そこに父の、重大な誤りがあった。本来であればもっと凡庸で具体的なもの、例えば世界タイトルなどを望むべきであった。それならば、彼にはいともたやすく叶えられる。そして子は、その父を頑なに信じ続けた。それでは、超えることなどできないというのに。

 子を真に失望させたのは、父の眼に浮かんだ侮蔑の色だった。それはいうまでもなく初めて見た景色で、彼の何もかもを否定した。そうして、大一番を間近に控えた日のこと。彼は全てを放りだし、ジムの外に広がる夜の闇を見た。入れば堕ちていくだけの、深い、深い、闇の中へ――――。

 男の寝覚めは最悪だった。あの夜のことは、悪夢となって五年が過ぎた今でも彼を苛ませる。収入を得たばかりで余裕があるため、今日はこの憂さ晴らしに終始することが決まっていた。

 男がすることは、まずは道を歩くことだった。ここには暴走族くずれの不良から年老いた傷痍軍人まで様々なものが、おのれの自尊心をひけらかしている。裏付けのないプライドなど、彼にとっては踏みにじられるべき存在でしかなかった。

 彼は道に自分以外にはひとりしかいないタイミングを探っていた。とは言え、自分から行くことはない。彼はただ、道の真ん中を歩くだけだ。

「おい」

その声に、目深にかぶったフードから視線を返す。

「何だ」

「邪魔だ、どけよ」

男は冷笑を隠すこともせず、顔を上げる。体格はやや相手の方が上回っていた。

「聞こえねえのか。邪魔だと言ってるんだ」

「断れば、どうなる」

その先に言葉はない。振り下ろされる拳は、男にとって止まっているも同然だった。下から左手で軽くかち上げてやれば、もう勢いを失っている。こうなってしまえば、あとはジムに吊るしてある砂袋と同じだった。

 向かって左の腹に二発、鳩尾に一発与えてやれば、もう立ち上がることすらままならない。男は決して、気を失わせることはしない。ただ苦痛のみを与えられる場所を心得ているのだ。拳闘では相手の体力を奪うため有効であるが、それでも決定打とはならない。

絞り出されるうめき声に対し、男はもう一度だけ拳を叩き込む。すると声は止まり、何もかもが停止する。短刀は持っておらず、血抜きをすることはできない。この状態で持って行ったところで価値はなく、捨てておくほかない。男は唾をひとつ吐き捨てると、その場を去ろうとした。

「そこで何をしている」

声に対し男がまず確かめたのは、その人数だった。足音から察するに三人か、ならば去るに限る。勝てぬとは言わないが、危険を冒す理由もない。今日の男はただ気を晴らしているだけなのだ。そしてこの道を逃げるならば、男には心得があった。だから男は振り向かずに走ることにしたのだ。

 だが意外と言うほかない次のひと言に、踏み出した男の足は止まった。よく聞けば、覚えのある声だった。

「お前、伊牟田の息子だろう。落ちぶれたものだ。あの場から逃げなければ、何もかもが手に入ったというのに」

おそらく、銃を構えている。短刀であれば受けられたが、あいにく何の装備もない。だが、だからと言って許すわけにはいかなかった。

「知ったような口を利く。俺が何を求めたか、それすら知らずに」

男はそう呟きながら、近づいてくる足音を聞いていた。外さないという距離に入る前に、すべきことをせねばならない。

 足音に呼応して振り向くと、予想通りの場所にその男はいた。引き金に力を籠める瞬間に姿勢を低くし、下から突き上げる。敵の上腕を肘でかち上げることができれば、もはや殺したのと同じだった。

 緻密にプログラムされた身体は正確に動作したが、しかし十分な成果を得ることはなかった。腹部にもらった一撃が、男の足を一瞬だけ止めたのだ。そして反射で繰り出した右の拳が相手の拳と真っ向からぶつかった。その時、男は対峙する者の顔を初めて目にした。彼の眼には、光がなかった。

「木嵜、お前」

「確かに、父親譲りの非凡な才だ。僕などでは、到底太刀打ちできないな。今も、あの時も」

「ならばなぜ、そんな状態で俺の前に立つ。ここにいる肉のようになりたいのか」

目の前の男は嘆くように首を振ったのち、笑みを見せた。

「そうかもしれないな。君がふたたび拳闘を志すならば、ここで死んでも構わないよ」

男にはわからなかった。なぜそのようなことを言う。目の前の男、木嵜佑弘ゆうこうは自分を恨んでいるはずなのだ。彼は小学校から拳闘をしており、将来を有望視されていた。その若い芽を摘み取ったのが、同年代のこの男だった。均衡した五ラウンド目に男が放ったただ一振りの拳は、彼の視力を永遠に奪ったのだ。当たり所が悪かったといわれればそれまでだろう。だが、その破壊的な威力がなければ、ここまでになることはない。

 なあ一輝。木嵜はあえて親しみを込めてそう呼んだ。その手には、黄色い縞模様のタオルが握られている。それは男にとって、最大級の侮辱だった。

「いつまで続けるつもりだ。僕を殺して、それで最後にしろ」

我を忘れた男は、正確な動作で一発二発と叩き込む。木嵜は倒れ伏し、起き上がらなかった。残る二人は彼ほどの実力はないのだろう。一歩後ずさったのち、逃げようと背を向けた。それは男にとって、見せてはならない隙でしかなかった。

「おい、俺を捕まえるのではないのか」

「ば、化け物」

その悲鳴にも似た声は、中途で切れた。後頭部に叩きこんだ拳は頚椎を破壊し、もう動くこともかなわないだろう。残りは腰が抜けていたため、仕留めるのは簡単だった。ここで消さなければ、ことを大きくするだけ。汚れた手がきれいになるわけではなかった。

 予定もないのに、荷物ばかりが増えた。男は携帯電話を取り出す。運べないならば人を来させればよいのだ。

――お電話ありがとうございます。炭竃すみがま精肉店です。

「愛未、俺だ。肉を三体、取りに来てほしい」

女はひと呼吸の間ののち、手を動かし始めた。

――状態は?

「一体は屑だ。金はいらんから、引き取ってくれ。残る二体は頚椎を壊した。息はあるから先のことはそちらでやってくれ」

――わかったわ。いまから若いのを行かせる。でも、どうしたの。いつもと様子が違うようだけど。

女も、彼の逆鱗に触れることなどもはや考えなくなっていた。無頼を貫き妄執の中で生きる男の、微かな変化を感じ取ったのだろうか。

「何も。俺には変えられないことだ」

男は場所を指定すると、通話を切った。二度と動かぬそれらを路地の物陰に隠し、男は木嵜に目をやった。じきに起きるだろう。彼は確かに、男が臆病者だと示した。であれば、殺すべきなのだ。自分を愚弄したものに対して、男の行動は常に一貫していたはずだ。男にはわからなかった。なぜ殺せないのか。

 男は木嵜を担ぎ、裏路地を後にした。




 目が覚めた木嵜は、見知らぬベッドの硬さを感じた。起き上がろうとすると、節々が強く痛む。打撃を受けすぎたようだ。だが彼をそれでも起き上がらせたのは、小さなアパートの一室にひとつの気配を感じたからだろう。

「一輝、なぜ」

男は飲み干したコーヒーの缶を握りつぶすと、振り向いた。

「わからねえ。俺はお前を、殺せなかった」

「それは、お前がまだ拳闘を捨てきれていないからじゃないのか。親父さんは、今でも君を超える才能を探している。そんなもの、あるはずもないのに」

「無理だよ。俺は自分を愚弄するものを、誰も許せない。いずれ、同じことをする」

「お前の罪は死んでも消えないが、しかし誰も裁けないよ。お前は臆病者のまま、殺人鬼のまま、何もかもを手に入れればいいじゃないか」

なあ。男は木嵜に近づく。

「そんなに言うなら、お前はやらないのか。お前、目が見えなくなってからの方が強いんじゃねえか」

世辞を言う男ではない。だが、会話をそらす意図のみということもなかった。

 無理だよ。そう言って木嵜は笑った。男の拳に触れながら、木嵜は見えない目で遠くを見ていた。

「今の力があって、それに加えて目が見えたとしたら、国内タイトルは取れるだろう。それでも、君には一生かかっても勝てないよ。それではだめなんだ。だから、二度とやらないと決めている」

男はその言葉を、冷笑で流すことができない。木嵜は男と同じだった。

 木嵜を帰すと、男は部屋に目をやる。この部屋を見れば、男が拳闘を捨てているなどとは誰も信じないだろう。ここにある砂袋も縄跳びも、父のもとを去ったのちに揃えたものだ。男は部屋の中央に立ち、ポーズを取る。そして目を閉じると、虚空に対し拳を打ち込んだ。

 人を殺しすぎた男は、どこかで人間でありたいと思っている。そのための唯一の手掛かりが、拳闘なのだろう。それはもはや業とさえ呼べるものだった。なにかに憑りつかれたようにシャドウをしながら、男はその臆病ゆえ逃げ続けてきた結論と向き合い始めていた。

 



 その後も、男の日常は変わらなかった。違いといえば、もはや誰も伊牟田一輝のことを話したがらなくなったことか。黒い噂は後を絶たず、タブー視されるのに時間はかからなかった。だが彼が法の裁きを受けることはない。遺体も、現場も、凶器も、手が届かぬ深い場所にあるからだ。

 そうして彼は人を殺さなくなった。彼が変わったわけではない。収入はないが、元来どんな状況でも生きていけるためそれでもよかった。

 肉屋の女、愛未は定期的に男と連絡を取ろうとしていた。男が電話に出ることはないが、解約されていないことは確認できた。それならば、問題はないだろう。女は余計な世話とは知りながらも、知己に声をかけ始めていた。

男は貯金を切り崩し、トレーニングを始めた。まだ何が決まったわけでもない。だが自分を他者に見せる以上、相応の用意が必要だった。暴食により百八十ポンドまで上げ、そこから体を作っていく。自分の中にある弱さを調べ、探し出し、徹底して追い込む。食えなくなればさらに食い、足が止まればさらに走った。そうして肉体の壁をひとつ破壊するごとに、確かな手応えを得た。だが男は、どこまでいっても自身に納得することができなかった。

 この日、街には突き刺さるような春の雨が降っていた。男はもう何時間も走っており、足はろくに動いていない。だが男は、ここで倒れることができなかった。すれば、それが一生消えぬ弱さとなる。手には黄色のタオルが握られていた。男が頑なに拒み続けてきたその言葉は、しかし男の本質を正確に捉えていた。

 足元がふらつく。もはや筋肉は自身を酷使する脳髄に反旗を翻しており、彼自身の力で止められるものではなかった。

 支柱を失い崩れ落ちた男は、その身に迫る危険を感じ取っていた。彼はあまりにも多くの人を殺してきた。彼を見ただけで、仇討ちとばかりに襲いかかる者もいるだろう。法がなく仁義もないこの街でなくとも、男を守るものなど存在しない。男は、そこまでわかっていた。

 であればこそ、男は安堵していた。生きたまま弱さを露見するより、死んだ方がよほどましだ。男は目を閉じ、強い雨に溶かされていく自分を冷笑で迎えていた。

 男がまず驚いたのは、自分が生きているということだった。その確信を得たのはほかでもない、目の前によく知った女の姿を見たからだ。

「なぜ」

そう問うた男はまだぼやけた視界の中で、頬に強い衝撃を覚えた。彼は驚きのあまり目を見開いたが、女の熱のこもった視線に動きを止めた。

「いい加減にしなさい。死ぬことは許さないわ。貴方の手は取り返しのつかないところまで汚れている。泥にまみれても、雨に打たれても、臆病者らしくしぶとく生きるの」

男はこれに、激昂しなかった。男は自分に対する侮蔑は許さなかったが、それ以外の感情であればそこまでにはならない。臆病者という単語自体に、意味があるわけではないのだ。

 男が驚いたのは、自分が乗っているのが寝台ではなく解体用の調理台であることだった。

「俺を食らうか」

「そうね、筋張ってるけど物好きには需要あるんじゃない?」

女は冗談を言っているという風でもなかった。男は苦笑したのち、起き上がろうとした。体が動かないことを知ったのは、この時だった。両手足には枷がはめられており、男の力でも振りほどくことはできない。

「お前、本気なのか」

「食べちゃいたいのは本当だけど、別の目的があるわ」

女はそう言って注射器を取り出した。ここでのそれには見覚えがある。さしづめ麻酔薬だろう。それも屠殺に用いられることもある強力なものだ。穏やかな微笑を張り付けたまま、それを腕に近づける。

「あなたが起きたのは誤算だった。本来であれば、このまま運ぶつもりだったから」

「そんなものを打てば、死ぬぞ」

「死なないわ、あなただもの」

男はこれが最後になるかと思い、右腕以外の全身を硬直させた。淡い針の痛みとともに、今度は本当に意識が溶けていった。




 最初に見たのは、低い天井に吊るされた目を焼くほどの照明だった。何やら人の声も聞こえる。状況がつかめずにいると、脇腹に衝撃が走った。

「いつまで寝ている」

それは懐かしく、そして忌まわしい声だった。伊牟田一男。かつて世界王座を二度防衛した伝説の拳闘家は、子に多くを求めた。だが、求めすぎたとは思っていない。子はいつも、期待に応えたからだ。

 視界が定まると、そこがリングの中心であることがわかった。子は跳躍して立ち上がると、父に対し拳を構えた。ヘッドギアとグローブははめられている。トランクスは黒に黄の縞模様。世界のすべてに、戦えと鼓舞されていた。

 だが父の姿を見たとき、その拳は降ろされることとなった。彼は見違えるほどにやせ細り、もはやジャブをひと振りすることすらたいへんな重労働であるように見えた。

 一輝。そう呼ぶ父の声には怒気が混ざっていた。しかし子にとっては、感情が込められてさえいればそれでよかった。

「お前の相手は俺ではない。ひとり、用意してある」

父が指さした方向には、よく知った男がいた。國枝健洋けんよう。男の記憶が正しければ、彼は国内王者のはずだが。そうでなくとも、父のジムの中量級では最も勢いのある選手だろう。こちらを睨みつけると、リングに唾を吐き捨てた。

「血筋だけの臆病者と聞いているが、はん、確かにその通りだ。すべきことから逃げ続け、あげく無理やり連れてこられたのだからな」

男の表情は変わらなかった。この男を、殺すことができる。涼やかな怒りの中で、男はそれだけを理解した。

 狭い部屋にゴングがやかましく反響する。その高音域が男の奥深くに共振し、沸き立たせた。

 男はまず前に出た。腕を下ろし攻撃を上体で躱しつつ、ジャブで圧をかけていく。周りの者には、男が怒りに任せて攻め立てているように見えただろう。だが受ける國枝は、自分の拳が数度虚空を切り裂くにつれその仕掛けの巧妙さに気が付いていた。

 一ラウンドが終わり、コーナーの対角にもたれながらふたりはにらみ合っていた。國枝はその状態のまま、背後からの声を聞いた。

「どうだ」

「したたかですね。厄介な相手ですよ」

「そうだな。算段はあるか」

「無論。あいつのお気に入りですからね、壊さない程度に遊びますよ」

「気をつけろよ」

「はん、何を。今日だけは、奴に何もさせませんよ」

國枝はその言葉を、スクイズボトルの水とともに吐いて捨てた。

 二ラウンド目以降、誰もが國枝の反撃を想像した。そしてそれは正しかったが、周囲の想像とはわずかに異なっていた。

 的確に打ち込まれる拳に対し、男は足と位置取りで対応する。運動量が多くなるも、まだ息は上がっていない。一方、男の厳しいジャブは國枝の固いガードを砕くほどの力があった。二発目を打つことができればダウンもあるだろう。一進一退の攻防が続いた。

 均衡を破ったのは、男の方だった。攻撃のペースを上げ、受けのリズムを崩そうとした。そして、それはうまくいった。五ラウンド目までに二度のダウンを奪い、確かに圧倒していたと言っていいだろう。

 しかし決定打を欠き、最終十ラウンドまでもつれ込んだ。國枝の目の動きが変わったのは、動きを見せぬまま二分を過ぎ、判定までもつれこもうとしたときだった。

「許せ」

男の渾身の右に対し、カウンターを合わせる。ケアしていなかったわけではない。それは一瞬の隙をめぐる経験の差だった。

 男は崩れ落ちた。意識は飛んでおり、続行できる状態ではない。

 そして男は、見下ろす父を見た。

「おい。負けたぞ、立て」

差し出された手をはじくと、男はよろめきながら立ち上がる。すると、かつてと何も変わっていないジムが見えた。見知った顔がほとんどであり、愛未や木嵜の姿もある。皆、おそらくは國枝でなく自分を見に来たのだろう。それは男の自惚れではなく、事実だった。

 喧騒の中で、父は子に声をかける。

「今一度聞く。やるのか」

「ああ。俺はあんたを、越えねばならねえ」

「厳しいぞ」

「上等だ。何だってやってやるよ」

子は立ち尽くしながら、自然と口から洩れていく言葉を聞いていた。根拠はない。だが彼にはもはや、退く場所も理由もなかった。人として持つべきものは全て捨てたが、伊牟田一輝が身を滅ぼして冀ったものはそこにあった。



 復帰した男は、当然ながら暖かくは迎えられなかった。さもあろう。彼は世界戦から逃げ出した、臆病者なのだから。加えて黒い噂も、まことしやかに囁かれていた。

 だが、実力が本物であることが知れ渡るのに時間はかからなかった。初戦を僅か七十秒で終わらせた男は、二戦目にして既に王座戦が組まれた。そして國枝と壮絶な打ち合いを演じた末に、彼をマットに沈めた。

 特徴的なトランクスと繊細で狡猾な仕掛けを目にした人々は、彼を「イエロウ・ストリーク」と呼んだ。彼は当初激怒したが、しかしその意図を知ると態度は軟化していった。彼はこの自身の変化を、どこか冷ややかに見ていた。

 その後も勝ち続け、賞賛を浴びた男はその生き方に違和感を覚えていた。泥にまみれた手を、穢れなきものと偽る必要があったからだ。

 彼は己の愚劣な本性、憎悪のためだけに幾人も手にかけ、それでいて憚らない殺人鬼の姿を隠さねばならない。それは少なからぬ苦痛があった。

 この日廃ビルに立ち寄る男に、訝しげに女が声をかけた。

「ねえチャンピオンさん。こんなところに何の用?」

男は愛未を引き寄せ、荒々しく唇を奪う。愛未は驚きつつもそれを受け入れた。何かを求めるようであり、何かを吐き出そうとしているようでもあった。

「チャンピオンじゃない。人殺しだ」

「人殺しでも、あなたは強い人よ」

ねえ。愛未は男の背に手を回し、きゅっと抱きしめる。そのまま重力に任せ、調理台で仰向けになった。

「あなたが光に包まれるためなら、私は何でもする。だから、今は私を見て」

女は、男の孤独と喪失に気が付いていた。であればこそ、彼がこの世界に求める何かでありたかった。

 そしてついに世界王座戦が組まれ、男の期待は否が応でも高まっていく。人々は皆、この臆病者の勝利を信じた。その中で彼は、夢想していた。あの日に戻ってきたのだ。勝てば全てが、なかったことになる。この際になって男は、闇から逃れることを望んでいた。

 場所は家からほど近いアリーナだった。敵は重量級との二階級制覇を成し遂げた米国の男であり、最強の呼び声高い相手だった。だが誰も、我らが臆病者が負けるなどとは思わない。

 一万の観衆が突き上げる拳の中で、男は勝った。駆け寄るセコンドの父の涙を見た時、男は全てを悟った。これでなにもかも、終わりなのだと。

 祝勝会も早々に切り上げ、男は帰路につく。その時、ふらりと路地裏へと立ち寄った。表の道は人が多く、それに辟易したのだろう。だがこの細い道にも、声をかける人はいた。

「おい、臆病者。かかってきやがれ」

男は微笑を浮かべ、それに答える。その言葉が持つ感情は、決して自分を否定してなどいない。その変化はしかし、男にとって決して快いだけのものではなかった。

「いいぜ、俺のフックが受けられるかな?」

青二才のつたない構えに、冗談交じりに応じる。かつての彼であれば信じられないことであるが、警戒はすでに解いていた。

 であればこそ、道でひとりになった彼が背後からの影に気づくことはない。そして結末は、あっけなかった。

 彼を発見したのは、愛未だった。彼女は泣き崩れたが、しかしすべきことをせねばならなかった。この世でただひとり、彼女は彼を葬ることができる。

 女は伊牟田一輝が帰る場所を知っていた。返り血で濡れた拳は、拭っても綺麗になどならない。張りぼての栄光で本性を隠しても、報いを受けるときが来る。世界王座など、彼には過ぎた光だったのだ。

 しかし、これで良かったのかもしれなかった。彼はきっと、認めて欲しかっただけなのだろう。女の見立てでは、それは叶った。叶ったから、何も言わず消えてゆくのだ。

 であればこそ、百五十ポンドの体をひとりで担ぎながら女は物言わぬ肉に語りかけた。

「ばかなひと」

 踏み違えば落ちていくだけの夜の闇に、ひとりの男が吸い込まれていった。

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