弥平

 帝大に通うため越してきたのは、古い暮らしの残る下町だった。うだつが上がり、商店街が立ち並ぶ通りはいつも人で賑わっている。僕は学校にいない時間のほとんどを過ごすこの町で、妙な話を聞いたのだ。

「あらあなた、その様子じゃよそから来たのね。もう弥平さんには会った?」

「いえ、まだお会いしたことなくて」

「そう。もし見かけたら、ちゃんとご挨拶しておくのよ。きっとよくしてくださるから」

 初めは何も感じなかった。ただ、弥平さんなる人がいるのだろうという事だけだった。有力者だろうか。それとも気のいい人気者の類だろうか。会ったことのない僕はその程度の想像をしていた。さほど広い町ではなく、いつか見ることになるだろうとも思っていた。

 だが僕がそれを異変と思うのは遅かった。遅かった、というのは今省みればの話である。それほどまでに町の人々の話は信用に足り、僕はたまたま会えていないのだと信じたのだ。だがそれにしても、この疑念を抱くのに半年は少し遅すぎたか。

 弥平さんという人は、果たして実在するのか?

 詮索しすぎれば奇異の目で見られるだろうし、最悪の場合ここに居づらくなるかもしれない。

 だがそれとなく聞いて回るだけならばと、僕は調べることにしたのだ。



「なるほど。その町では弥平という人がいて、いつもどこかに出没する。だが君は、その人を一度も見たことがないんだな?」

「ああ、そうだ」

 ふむ。目の前で顎を手に乗せる友人は哲学を専攻しており、思索好きであるがゆえ思索以外に興味を示さない。完全な書生肌で僕とは少し気が合った。

「ならば、場合はふたつしかないだろう。ひとつは、その町の人にしか見えない。もうひとつは、君だけが見えない。この場合、俺は見えるということになるな」

「では君が来てくれれば、そのどちらかがわかるということだ」

「その必要はないよ。おそらく、前者だから」

 返された回答には、納得しかねる部分もあった。

「すると、町の人にしか見えないのか」

「ああ、俺はそのように思う。といっても、本当に見えているわけではないはずだ。さしずめ集団心理のようなものだろう」

「なるほど。わかった、調べてみるよ」

 僕は大学から家に戻り、軽い用意を済ませたのち街に出ることにした。




「あの、弥平さんは今どこにいらっしゃいますか?」

 話しかけたのは、商店街で呉服屋を経営する男。店に用はないが、町のことについてよく教えてくれる気のいいおじさんだった。

「うん? 弥平さんの場所が知りてえのか」

「はい。まだお会いしたことがなくて」

 いかにもわざとらしく自らの額を叩き、はあとひとつため息をついた。

「そいつはいけねえ。さっきは鳴海さんとこの店にいたはずだから、まだ近くにいるんじゃねえかな。弥平さんが立ち寄った店はたちまち繁盛するんだ」

「そんなこともあるんですか」

「弥平さんはすごい人だからな。俺んとこの呉服屋だってあの人がいなきゃとっくに潰れちまってた」

 ありがとうございました。僕はひとしきり話を聞いたのち、こう言って去ることにした。呉服屋のする弥平さんの話は、つまるところ月並みだった。未亡人のスナックのオーナーとの恋物語。豆腐屋のお家騒動の仲裁。彼がいることの効果に比べて、彼が実際にしたことはいたって人間的でありきたりだった。

 商店街で聞き込みをしていると、いつの間にか手元に荷物が増えている。人付き合いでもあるため、食料品などの店では買っていった方が賢明だろう。

 そして気になっていたことだが、この町の人が弥平さんの話をする時どこか誇らしげなのだ。弥平さんは俺たちを笑顔にしてくれる。弥平さんはこの町の救世主だ。彼らは疑うことを知らないかのように、ただひたすら「弥平さん」を肯定した。

 わからないのは、奇怪なのはつまりそこなのだ。

 さらなる情報を得るため、僕はスナックに向かうことにした。覚えたての酒は身を守る武器としては心許ないか。だが弥平さんの存在を除けば、賑やかで気のいいこの町でそんな心配をすること自体が杞憂のように思ってしまう自分もいた。

「あら坊や、何の用?」

「弥平さんが懇意だった人がいると聞いて。あとお酒を少々」

「いいのよ、気を遣わなくて。お子さまには飲ませないから。それで、弥平さんと恋仲だったというのはあさぎという人ね」

「あさぎさん、ですか」

「もう亡くなったんだけど、美人で器量のいい人だった。弥平さんはうちに来たとき、お酒と一緒に持ってきたこれを飲んで行ったのよ」

 そう言ってカウンターにグラスが置かれる。色は暗いが白い泡を浮かべており、麦酒に近いものだと思った。

「え、お酒は出さないって」

「それ、コカコーラって言うの。弥平さんね、ハイカラなものが好きだったの。甘くて素敵な味よ」

 促されるまま、僕はそれを一口飲んだ。独特な香りと強い甘味。それに麦酒のものと同じ爽快感。これは経験したことのない味だった。悪くはないが、彼がこれを好むことは疑問だった。

「おいしいですね。弥平さんは外国に詳しい方なんですか?」

「そうね。あてのない旅人のようなものだから、外国にも行ったんじゃないかしら。珍しいものも持っていたし」

「それが、なぜこの町に?」

 女性の頬が緩んだ。老いに逆らうことを諦めるように、皺を頑なに拒んできた頬で笑ったのだ。

「この町には笑顔がなかったの。昔ながらの暮らしとか町並みとか持て囃されることもあるけど、その実惰性で生きてるだけ。つまらない人しかいなかった。そんな町に弥平さんは来たの。なんでも名家の三男だとかで、お洋服を着てたのが印象的だったわ。たまたま旅の最中に立ち寄ったここで、彼はただ二晩を過ごした。その時、この町は変わったの」

「変わった、と言いますと」

「あの人はね、町に出れば誰とでも仲良くなった。お昼にまずい定食屋に入るってんでやきもきしてたら、彼ったらすごく美味しそうに食べるのよ。もうみんな、彼のことが好きになってしまったの」

「それは、あなたも?」

「ええ。何も弥平さんに恋したのは、あさぎだけじゃないのよ」

 でもね。笑みは霧散し、その表情に冷たさを残した。

「そんなひとが今ももてはやされ続けているのは、良いことじゃないと思うの。この街はあの人によって変わった。でもいずれ、綻びが出ると思うの」

 突然放たれたこの言葉が、妙に僕の内側を動揺させた。それは初めて聞いた、否定的な意見だった。

「なにか、わるい影響が出ているのですか」

 あなたは帝大に通っているのよね。不意にそのような問いをかけられ、僕はとっさに首を縦に振った。

「下宿してるだけでいつかここを去っていく人に、余計なことを知らせたくないしね。ただ、よそ者のあなただから最後に言っておくわ」

 店主は暗い影を振り払うように、まっすぐこちらを見つめた。

「弥平さんなんて人は、もういない」

 入ってくる客の様子から見るに、夜は深く町を覆っている。僕は店主の迷惑になってはと思い、店を出ることにした。

「あの、お会計を」

「いいのよ、今回だけは見逃したげる。大人になって、もし来たくなったらまた来てね」

 僕は追い出されるように店を出た。疑念は確信へと近づいている。冷ややかな夜風がお前はよそ者だと言っているようで、かえって心地よかった。




「へえ。弥平さんなる人は実在したが今はいない、と」

「そうなんだ。でも町の人は弥平さんの話ばかりしているし、昨日見たなんて人もいる。僕はもうわからないよ」

 頬に手を当てて思案顔を作る友人は、興味深そうに口にした。

「思い込みが人に及ぼす力は大きい。加えて町全体が集団心理としてある人の存在を信じているならば、その空間はただならぬエネルギーを持つだろう。それは十分、人ひとりの像を結び得るのではないか」

 僕はそれを聞き、思考をまとめる。

「つまりこういうことだな。弥平さんが存在すると皆が信じて疑わないからこそ、町の人の前に弥平さんは虚像として現れる、と」

「いいや、あるいは実像かもしれないよ。意思の力というものは大きいんだ」

 ここまできて僕は、動揺した。

「そんなこと、あっていいはずがない。人の営みとして、間違ってる」

 だけどね。友は諭すようにこう言った。

「神や仏。ありもしないものを信じて、人は生きてきたんだよ。そうでなければ、生きられなかったんだ。であれば俺は、その営みを肯定するね」

 それでもなお、腑に落ちたとは言い難かった。

 僕がこんなことをしている間にも、町はいつもと同じだった。商店街の肉屋に弥平さんが来たとくれば、どの家も夕飯はすき鍋だった。僕もだいぶこの町に馴染んできたか。だが弥平さんのいる生活は何も変わらず、僕の周りで展開されていたのだ。

 顔も知れ、なじみの人も増えてきた僕は、何度か試みた。どこにいらっしゃいますか。ぜひお会いしてみたいです。そんな言葉は決して嘘ではなく、その像を知らねばならないという意志の元だった。いる、という場所にも何度も訪れた。はじめは不自然に見えるとも思ったが、いわゆる熱狂的なファンも同じ言動をとっていたため僕はそれに紛れていた。

 やはり、虚像ではないか。僕はそう結論付けなければならない。彼らが指さす場所には、誰もいないのだから。僕はいつしかそのような試みもやめ、弥平さんで広がった人間関係を大事にしていこうと思うようになった。

 数ヶ月が経ったある日のことだ。商店街の雑踏の中で、僕ははたと立ち止まる。人を見たのだ。折り目正しい洋服姿、すらっと通った背筋、一目で好人物だとわかる表情。それらは下町ではあり得ないほどに品があった。

 その顔は僕の姿を認めると、大輪の笑みを見せる。それに意味するものがあるとすれば、僕がこの町の一員だという証のようであった。そう思うにつけ、奥底から充足感が湧き上がってくる。彼の本当の姿を知らずとも、笑顔だけでそうなってしまうのだ。在りし日に出会った人などは、よりはっきりとした感覚になるのだろう。僕ははじめて、この町を知った。

 過去に囚われるのではなく、過去とともに今を生きる。これを狂気とは、今の僕にはとても言えなかった。

 弥平さんはこの町で、明日も笑う。

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