みどりの帰路
高校二年ももう半分を過ぎ、俺は何にもなれない日々を続けていた。それに決して満足はしないまでも、不幸ではあり得ないと自分で納得していた。今日も変わることのない一日を過ごすはずだった。はずだったと言うのはすなわち、そうではないと明らかになったということだ。
小学校から使い古した学習机の上には、なにやら小さな生き物が立っている。見た目は人間とそう変わらない。比較的白い肌と赤い髪を除けば、小さい子供と同じ形状をした生き物だった。そいつはじっとこちらを向き、不満げな視線を向ける。
「なんだ、お前は」
俺は犬や猫に話しかけるようなタイプでもない。だからこそ自然に発せられたこの言葉に、他ならぬ自身の耳が違和感を覚えた。
「なんだ、とは何じゃ。われ、まさかわいが見えるのか」
そして事もあろうに、言葉を発してくるではないか。
「しゃ、喋るのか」
「無礼であろう。わいを何ぞと思うておる」
驚きこそあれ、危険ということはなさそうだ。俺はこの甲高い澄んだ声の生き物に、状況の説明をさせることにした。
「ああ。で、お前は何者で、どうしてここにいる」
「なにを言うか。われが連れてきたのじゃろう」
「俺が? 詳しく説明しろ」
この生き物は深くため息をしたのち、先ほどより一層不満げな上目遣いを見せた。
「仕方のない奴じゃの。わいはわれが学校で拾うてきた遺思じゃ。遺思というのは、人の喜びや悲しみの感情が溢れた時に生ずる、結晶のようなもの。そしてわれは、落ちているわいを拾って連れ帰ったというわけじゃ」
「さっぱりわからん。俺はそんなことしてないし、第一そんなの今まで見たことないぞ」
生き物から苦笑交じりのため息が漏れる。そんな顔をしたいのは僕の方だというのに。
「せーじ、いつまで寝てるの。遅刻するよ」
「はーい」
母に荒っぽい声で返事をする。ほどなくして俺は、閉口している場合ではないことに気がついた。予鈴の時刻はあと十分。まだ制服も着ていないのだ。辺りを見渡す生き物に、尋ねることにした。
「おい、俺は学校に行くがお前はどうしてる」
「お、われ、青磁というのか。わいも行くぞ」
全休符があった。
「そ、そうか。それでお前、服はあるのか」
よく見ると薄い布を全身に巻いているのみで、どうも頼りない。見えないとしても人目は気になるというものだ。
「ああ、着物が必要じゃな。われ、何かあるか」
「ねえよ、そんな定規で測れるようなやつの服なんて」
「そのような無理は言っとらん。われ、何か着物を見せろ。わいはそれと同じものを生み出して着ることができる」
「なかなか便利なものだな。てか、お前もしかして女か」
「そうじゃが、何か文句あるか」
「ふん、何もないが。お前見えないんだから何着ててもいいか」
「いかん。もし他の遺思がおったら、笑われてしまうわ」
「はあ? いち感情のくせにそんなことを気にするのか」
「人の形をする以上、大事なことじゃ」
はいはい。俺の家に女物の服なんて母親のものしかないため、この学校の制服のパンフレットを見せた。この生き物はくるりと反転すると、一瞬でその姿に変わった。
「おう、似合ってるぞ。じゃあ行くか」
「なあわれ」
「何だ」
「腹が減った」
用意が終わってあと七分という状況で、さすがにこれには怒りを覚えた。
「今何時か分かってんのか。お前に飯が必要なのも納得いかんが、ともかく後にしろ」
「朝げは食わねばいかぬぞ。われ、その顔を見るに昨夜食っておらぬじゃろ」
俺は菓子パンをひとつ取り出し、肩に乗るこいつの口に突っ込む。そして靴のかかとを踏んだまま家を飛び出した。この時僕は、表情を変えず平静を装えただろうか。
「お前には、関係ない。行くぞ」
「われ、苦しい。ちぎって食わせよ」
俺は菓子パンごと、こいつをかばんのポケットに突っ込んだ。
「これでいいだろ」
「む。不服じゃが、致し方なし。あ、これうまい」
家から学校への道のりは近く、五分で教室までたどり着くことは不可能ではない。だからペースを上げ過ぎず、暗い気持ちを抑えて走った。
「お前、名前は」
「ない」
「じゃあなんて呼べばいい」
かばんの中の生き物はひとつ思案顔を作ったのち、あるはずのない言葉を口にした。
「であれば、われの記憶の中に柚葉という名があるな。これにするか」
「それは、だめだ」
「なぜじゃ」
「何でもだ。待て、考える。お前はじゃあ、みどり、と呼ぶことにする」
「なぜじゃ」
「出まかせだ、気にするな」
「みどり、か。うむ、よい名前じゃ」
存外みどりを気に入ったらしい。俺の期待が、気取られてはいないだろうか。
「そら良かった。じゃあ、ここから揺れるからしっかり掴まってろ」
「うわあ! これ、もっとゆっくり登らぬか」
階段を駆け上がる。二年教室は三階にあり、二回山場がある。
「これ、われ! ゆっくり登れと言っておろうに!」
「あと二十秒。みどり、もう少し我慢してくれ」
教室に入ると、いつもとはがらりと違う空気があった。それは俺に対する視線もあった。だがそれ以外に、何か本質的な違いがあるような気がしたのだ。
あの人は。よかった、変わらずそこにいる。
ホームルームで声を出すことはできないため、筆談になる。みどりにはシャープペンの芯を渡し、それでコミュニケーションを取ろうというわけだ。
――妙じゃな。
――なにが。
――わい以外の遺思がある。
――それの何が妙なんだ。お前だっているだろ。
――遺思はひとつの場所には集まらぬものじゃ。
――普通の遺思は、お前みたいにうろうろしないからじゃねえのか。
――確かにそれもある。じゃが弱い遺思はすぐ消えて無くなるし、同じ場所でふたつ以上生まれることはごく限られた場合を除きあり得ぬのじゃ。
――まあ、でなきゃ世の中お前みたいのばかりになるしな。
「はい、じゃあホームルームは終わりだ。最近四組で風邪が流行っているから気をつけるように」
授業はいつも通り行われた。学校の方は何も変わらないようだ。学校祭も終わった秋の教室には、小さな遺思がいた。だがもうほとんど消えかかっており、目の前で消えてしまった。やはり遺思とは強い力を持って存在するものではないのだろう。だが今に消えゆく意思の、どこか寂しげな表情がやけに記憶に残った。
だがそれにしても、疑問が多すぎた。俺は誰もいない教室で、質問を続けざるを得なかった。
「みどり。なんで俺には遺思が見えるんだ?」
「それなのじゃが、わいにもよくわかっとらん。聞いた話では、一定以上の強い感情に支配されたときに起こるらしい。であれば、われの中の何かしらの感情が、遺思を生み出すではなく遺思を可視化する方向に動いたのじゃろう」
「ふむ。では、みどり。お前は俺の遺思なのか?」
「違う」
みどりは即座に返答した。
「遺思とその主の性は一致する。つまりわいは女の遺思ということになるな。本来であれば、主のこともはっきりと知っておる。じゃがわいは、柚葉という名前しかわからん」
「お前を生み出したのは、柚葉という人なんだな」
「それは間違いない」
「では、お前はいつ生まれた」
「昨日の、申四つ。この学校のちょうどあの辺りじゃ」
やはり、そうか。俺は多くの不可解なことについて全くわかっていないものの、その発端が何であるか今になって確信した。
俺は昨日午後四時半ごろ、岡野柚葉という同級生に告白をした。もしよければ、付き合ってほしい。それだけを言うのに、大変な勇気を要した。そして日常を壊すための乾坤一擲の勝負は、しかし儚くも壊れ去った。ごめんなさい。そう言って走り去っていく彼女を見て、悲哀という感情はなかっただろう。俺などでは、という後ろ向きな気持ちがあった。だがあの時、経験がなく形容しがたい感情が俺を支配していたことはまちがいなかった。
柚葉はきっと、自分に好意など持っていなかったのだ。その時は当然そう思った。だがみどりの存在は、彼女が強い感情を抱いたということを明確に示している。
「みどり。お前はゆず、柚葉のいかなる感情から生まれたんだ」
「それが、どうもはっきりせん。喜び、悲しみ、諦め、これらが混ざり合った曖昧な感情らしいのじゃ。まあもっとも、そういう感情の時にわいが生まれることがあるのじゃがな」
「そうか」
それが何を意味しても、俺の好意を受けなかった事実は変わらない。だが俺は、俺の中の弱い部分は、縋るようにこの言葉を口にしたくなった。
「お前は、なんのためにここにいる」
「はて。何のために、とな」
「お前は何のために生まれ、そして何を成して消えていく存在なんだ」
これに驚いたのはみどりの方だった。
「せっかく生まれたのなら、ひとつ俺の頼みを聞いてくれないか」
ゆずの、柚葉の真意が知りたかった。高校入学と同時に知り合い、はじめはこちらから見ているだけだったが次第に話せるようになった。そして仲間内だったのが、ふたりで遊びに行くようにもなった。学祭でも、他の友人より多くの時間をともにした。俺の学校生活に確かな割合、彼女はもう存在しているのだ。
だからこのすれ違いのまま、進んでいきたくなどない。
「お前は、俺が告白したとき生まれた柚葉の遺思。だったらもういちど、かつてと同じに戻るために協力してくれ」
「何じゃ、そんなことか。遺思が人助けなど、これも前例を聞かぬのう。だが問題ない。わいに任せい」
「すまない、頼む」
みどりはふわりと笑う。濡れた瞳にやわらかな頬、風を含んだ髪。古風な言葉遣いを除けば、俺の好きな人によく似ていた。
「なあ、われ」
「なんだ」
「腹が減った」
そう思うと、なんだかこの変な生き物が可愛らしくも思えてくるのである。
「われ、われ」
「なんだよ」
「起きぬか」
「今日土曜だろ。もう少し寝かせろよ」
「そういうわけにもいかん。わいに飯を食べさせい」
「そこにパンがあるだろ」
「昨夜のうちに平らげてしもたわ」
ベッドの上にまで上がってくるこの生き物は、遠慮というものを知らないのだろうか。どうせゆずの遺思なのであれば、すこしくらいゆずらしく振る舞ってもよいではないか。
おかげで目が覚めてしまった。憎らしいことに、声色はゆずと全く同じなのだ。そんな者に寝起きざま声をかけられては、おちおちまどろんでもいられない。もう両親は仕事に行っているため、自分で作るほかなかった。
見た目通り和食が好きなようで、白米を頬張り、豆腐とお揚げの入った味噌汁を美味しそうにすすった。といっても醤油皿だが。
「で、今日は何をするのじゃ」
「そうだな。ちなみにお前、ゆずのことどれだけ知っているんだ」
「これ、青磁。柚葉、までが名前じゃろう。深く落ち着いた、美しい色じゃ」
「そうか。じゃあ訂正するよ」
「よろしい。それですまぬが、遺思は主の感情しか示さぬのじゃ。わいの場合、柚葉の一言では言いあらわせん複雑な感情、としか言えぬな」
「その複雑の中身がしりたいんだけど」
「われ、柚葉と連絡は取れるのか?」
「一応携帯があるから、できるよ」
みどりは心底わからないといった様子で口を開け、首を傾げる。
「それならば、わいなどいらぬではないか。ほれ、早く会ってこればよかろう」
「それができれば苦労はしないんだよ。告白を断られてるんだぞ」
「だがこうは思わぬのか? なにか事情があって、われの好意を受けられぬだけなのかもしれぬと。わいの遺思に決して嫌悪、失望の感情はなかった。であれば」
「他に好きな人がいるんだ」
「それは、まことか」
「確証はない。だがここ一ヶ月、俺といるときも誰かと連絡を取り合っていることが増えた。だから俺は、確かめたかったんだとおもう。先を越されたくなかったんだと思う。でも、手遅れだったんだよ」
ごちん。うつむいた額にみどりの頭がぶつかる。僕はとっさに向きなおすと、みどりは今までにない表情を見せていた。それは怒りだった。
「何を勝手に夢想しておるか。われが今言ったことの中で、なにか柚葉を気にかけた言葉があったか。疑っておるだけではないか。われがそのようならば、わいは手伝わぬ」
「ふん、勝手にしろ」
驚きのあまり、僕はみどりから目をそらした。そしてベッドに横になると、身を隠すように掛け布団を被った。そんなこと、わかっている。でもそうとしか考えられないではないか。
目覚めると日は高く昇っていた。もう昼のようだ。みどりは机の上で寝ている。頭もだいぶ冷えてきたため、そろそろなにかを始めなければならない。
「おい、みどり」
「ふあ、起きたか。われ」
「あの、さっきはごめんな。行こう」
きょとんとした表情。もしや覚えていないのではないだろうか。そう思うと、途端にこの小さな生き物が憎らしく思えてきた。
「行くぞ」
「お、おい、われ、掴むな」
「お前、今日はこれになれ」
それは同級生の集合写真。そのうちのひとりを指さして見せた。みどりはくるりと回ると、黒のパンツに栗色のチェスターコートを纏った。少々戸惑ってはいたが、みどりにこれが似合わぬはずがない。あとは少し喋らないでいてくれると素晴らしいのだが。
外に出ると、肌に突き刺さるような冷たい風が吹いている。数分市街地への道を歩いてから、俺は全く何の計画もなくそとに出たということに気が付いた。
「それで、どうするのじゃ」
「うるさい、これから考える」
「早う連絡したらよかろう」
「わかりましたよ」
――いきなりでごめん。今日、もし暇ならどこか行かない?
メールの言葉選びがここまで大変なものだとは知らなかった。どうにも拙く、脈絡のない文になってしまっている。みどりは鞄の中から満足げな視線を寄せているが、期待に応えられそうにない。
「見せてみい」
「俺、やっちまったかも。一昨日の今日だって言うのに」
ふむ。みどりは文面をじっと見たのち、ひとつ頷く。
「よいではないか。余計なことは書いておらぬ。これで一歩進んだわ」
「え?」
「じゃあ、どこぞで時間を潰さねばな」
たどり着いたのは、商店街から一歩入った静かな喫茶店。あまり入ったことはなかったが、お菓子が美味しいと有名らしい。
「ここは、何じゃ?」
「茶店みたいなものだ。お前は抹茶ラテでいいか?」
「お、茶が飲めるのか。それでよいぞ」
「お前の想像とは違いそうだがな」
湯呑みで抹茶ラテが来ると、みどりは目を丸くした。ミルクピッチャーにすくって渡すと、くいっと両手で口に運んだ。他の人間が見たらポルターガイストに見えただろう。何か言いたそうに腕を振っているため、メモ帳とシャープペンを取り出す。芯をきゅっと握り、メモ帳に書き走る。
――われ、これうまいな。もう一杯くれ。
――はいはい。時間はあるからゆっくりな。
湯呑みからすくって入れてやると、緑は柔らかな笑みを浮かべる。
返信はまだだろうか。みどりを気ににしてばかりで、携帯を見る暇がなかった。通知が来ているようだ。
――今日は予定があって三時には帰らなきゃいけないけど、それでもいい?
無論のこと、それでもよかった。ちらと画面を見たみどりは、鈴を転がすように笑った。
――それでもいい。じゃあカルチエ・ヴェールに一時半に集合で。
――わかった。
俺は出てくるため息の大きさに閉口した。
――まだ時間があるの、わいは甘味がほしい。
「向こうでこっそり食べろ」
そう言うと、みどりはふくれっ面をしている。
――あいわかった。柚葉には見えぬから、包の中じゃな。
会計を済ませ、駅前に向かう。足取りは思っていたよりは軽かったが、それでも一歩進むのに労力を要した。
喫茶店カルチエ・ヴェールは、この辺りの学生や会社員の一部が落ち着きを求めて利用する場所だ。老齢の無骨なマスターが切り盛りしており、味はいいが少し値段もする。そのため気位の高いオフィスレディでも稼ぎの悪い人は敬遠している。
「ほう、よい雰囲気じゃのう」
「そうだろ」
時計は一時二十五分。時間より前に着いた。だからこそ、俺はその姿に驚きを隠せなかった。
「あ、ゆず。待った?」
「ううん、まだ時間より前だし」
「そっか、いきなり呼び出しちゃってごめんな」
「いいよ、座って」
ゆずの向かいに座る。その表情は曇っていた。
「注文、カフェラテでいい?」
「うん」
目を見ることができない。ひとつひとつの言葉を絞り出すのにたいへんな努力を要した。
「それで、要件が、あるのよね」
うん。ここから先の言葉が言えずに、二人はただ向かい合った。
飲み物とお茶菓子が運ばれて来る。時間はあまり残されてはいない。僕は酸味が強いと評判のブレンドコーヒーをひと口含むと、切り出すことにした。
「あの」
「ん?」
「一昨日は、ごめん。俺、どうかしてた」
「ううん、いいの。青磁の気持ちが分かっただけでも、よかった」
手が震えている。今間違えば、この先ずっとこのままだという恐怖に支配されているのだろう。腰のあたりでは、みどりがしきりに俺を叩いてくる。
「あの」
声が大きすぎた。慌てて辺りを見渡すと、マスターが手振りでサインを寄越す。慣れているのだろう。毛恥ずかしさ少しだけ赤くなった頬は、口を動かすのを助けてくれただろうか。
「なに?」
「できれば、今まで通りに戻りたい。友達のままでいたい」
言えた。ここからはゆずだ。ゆずが何を思って俺の告白を受けなかったのか。それを聞くために、ここに来たと言っても過言ではない。
ゆずの口が、小さく震えた。
「それは、できないの」
ごめんね。そう言って俯く彼女に、これ以上何かを言うことはできなかった。
二人の間を沈黙が包む中、僕はただ杭のように引っかかるコーヒーの酸味を口の中で転がしていた。
「のう、われ」
「慰めならいらないぞ」
――甘味がほしい。
ゆずを見送ったのちも、俺たちはカルチエ・ヴェールにいた。こいつは失意の俺をよそに元気なものだ。
――そんなにか。
――くれると言ったではないか。
「はあ。マスター、フレンチトーストひとつ」
「あいよ」
――よろしい。
ふふんと鼻を鳴らすみどりはテーブルに腰をかけ、ウェイトレスの服装になってポージングなどをしている。本当にこの生き物はわからない。
――お前さ、遺思としてなんか目的とかないの?
――ない。ないが、わいは生まれたらいつも、辺りのこと知るために歩き回るな。どうせ感情などいつかは消える。それまで気長にこの世界を生きるだけじゃ。ま、腹が減ったりなにか嫌になったらこっちから消えることもあるがな。
――感情のくせに、やけにさっぱりしてるんだな。
――飽いたのじゃ。われもいつかそうなる。
名物のフレンチトーストと、コーヒーが運ばれてくる。コーヒーは頼んでいないはずだが。
「少年、残念だったな。これは新しく仕入れたトラジャだ。ゆっくりしていけ」
マスターは人の少ない時を見計らって声をかけてくれる。それは高校での都市伝説だったのだが、本当のようだ。奇妙なのは、親指くらいの小さなカップまで付いてきたことだ。
「マスター、これって」
マスターは振り向きもせず親指を上に立てる。その背中は頑張れと、そう言っていた。
――う、これ苦いのう。
――まあ、コーヒーだしな。
すかさずフレンチトーストを口に含むと、渋かった顔にきらきらと笑みがこぼれた。口どけ柔らかでふわりと甘い人気メニューだ。
見ると他の客がいなくなっている。マスターも何やら理解がありそうだし、声を出すことにした。
「これから柚葉、誰かとどこかへ行くのかな」
「今日に関しては、われが前もって連絡しなかったせいじゃろうに」
「もうだめなのだろうな」
「わいが消えることがあれば、柚葉の感情も消えたということ。諦めるのは勝手じゃが、それを忘れるでないぞ」
答えなかった。その方がいいかもしれないと思ったのだ。ゆずの中にこの感情がないのならば、また一緒にいられることがあるかもしれない。今すぐにでも、無かったことになりたかった。
そこから数日が経ち、俺はみどりともあまり話さなくなった。金がかかる上に、ゆずとよく似た小人などつらくて見ていられない。だが引っかかる言葉もあった。
遺思が消えるとき、感情も消える。
この日クラスで、ある噂を耳にした。ゆずが家の都合で海外に転校するらしい。初めはそんなわけないと話半分で聞いていたが、最近のクラスでのゆずを見るにどうも本当のようだ。
だが俺は、特別な感慨を抱かなかった。それは俺には関係のないことだ。ゆずは俺にそのことを打ち明けることはなかった。土曜日もあったし、ましてやメールで言ってくれてもよかったのに。
教室でも、どこか蚊帳の外にいる気分だった。俺が浮いているのか、それとも他の皆が先へ進んでいるのか。クラスメイトには、考え事ばかりしていると思われていただろう。
「おい、せーじ」
「あ、西ちゃん。どうした」
見ると西田がいた。ばかの黒川も後ろにいる。脳天気カップルとして知られるふたりだが、今日は様子が違うらしい。
「ゆずのとこ、行ってあげないの?」
「俺はいいよ。ゆずは嬉しくないだろうし」
「ふうん。あんたって、ほんと馬鹿よね」
――その通りじゃ。
「な、何を」
「出発は再来週月曜の十一時、行かなきゃ後悔するよ。うちも、ばかも心配してるんだから。あ、あんたじゃなくてゆずをね」
「ばかとは何事だ。青磁、こういうものはな」
「あんたがいると話こじれるから、しっしっ」
ふたりの会話を聞いて笑みがこぼれる。久しぶりに友人の顔を見た気がした。俺はようやく、なにかを間違えていることに気がつけたのだろうか。
「今時空港で告白なんて、漫画でもできすぎててやらないわ」
「それでも俺たちなんかはけっこう」
西田の拳が飛ぶ。応戦する黒川の体は大きいが、意外と本気に見えるのが面白い。俺はひとりで、重りを抱いていただけなのかもしれない。それを彼らは、少しだけ持ってくれた。だからこそ、苦しくて見えなかった視界が、今目の前に存在するのだ。
――当然、行くじゃろ。
――ああ、行く。
ゆずが学校に来なくなるまでは、俺はひとりだった。ときどき西田たちが来てくれるほかは、友人はほとんどゆずの近くにいた。当然だろう。俺とゆずの校内での交友関係は、そう差異のあるものではないからだ。休日も暇だった。だからゆずが学校に来なくなってからは、別のことを思うようにした。
そして俺は時間のほとんどを、この他でもない人とうり二つの生き物と共に過ごした。こいつは遺思としてこの世界に生まれ落ちて、よかったと思えるのだろうか。俺の望みが果たされないとしても、みどりだけはなにか得て帰ってほしいと思うようになったのだ。
みどりの変化がわかるようになってきた。こいつはお菓子の食べ過ぎで最近太っている。まあそれは、言うと夜通し叩かれるため気づかないことにするのだが。
それよりも重要なのは、みどりと世界との輪郭が濃くなっている気がするのだ。
「お前、存在感強くないか」
「わいの見え方は、生み出した者の感情の大きさじゃ。柚葉の感情は今までになく膨れあがっておる。それが誰に対するものなのか、われ。言わねばわからぬあほうでもあるまい」
じゃが、これを見てみい。みどりはそう言うとロングスカートをたくし上げた。あられもない姿に一度は目を背けたが、なにか意図があるのならと見てみることにした。
「こ、これは」
脚の膝の辺りまでが、向こうが透けて見えるほど色を失っているではないか。
「はっきり見えるということは、すなわち消えかかっているということ。柚葉は、この感情を忘れることにしたのじゃろう。それがよい選択かどうか、われも考えればわかるじゃろうに」
わかったよ。俺はそう言って金曜の夜を終えることにした。
最後の土日は、みどりにこの世界を見せてやった。遊べる場所こそ少ないが、いろいろなものがある街だ。昔風の町並みや、大型商業施設、遊園地。遺思は生まれ落ちた場所の近くしか知ることはないだろう。その多くは人の声を聞き、そして消えていくだけの存在。仮に人に宿ったとして、人の方が見えなければ同じことだ。
俺は思ってほしかった。みどりに、俺と出会ってよかったと。
ここまで考えて気が付いた。これでいいではないか。俺の、ゆずに対する思いは。今更なにかを遂げようとは思わない。であれば、全てよくならなくていいから、終わりだけでもよくしたいと願うのは当然ではないか。
月曜日の朝は、夜明けより早く起きた。隣県にある国際空港まで行かねばならないからだ。
「母さん。行ってくる」
「どこ行くの、せーじ。今日も学校あるんでしょ」
「用があるんだ」
むっとした顔を向ける母は、しかしこちらを見ると穏やかな表情に変わり、これだけを口にした。
「行ってらっしゃい。しっかりね」
俺は家を飛び出す。この電車に乗れば、問題なくたどり着けるだろう。だから別に走る必要もない。だが俺は、走っていたかった。電車で揺られながら、俺はひとつのことだけを考えていた。
空の玄関口たる国際空港の威容を肉眼で見るのは初めてではない。だがこう広いと場所を間違えたりしかねない。事前に西田が出発予定を聞いてくれていたから、いつどこにいるかはわかる。だから、館内図を見てそれに間に合わせるだけだ。
それにしても、時間に余裕があるわけではなかった。荷物はもう出し終わっているだろう。ゲートの向こうに消えてしまうまでが勝負だった。
「われ、急ぐのじゃ」
「最初は揺れるとか何とか言ってたくせに」
「今はそんなこと言っておる場合じゃなかろう」
「ああ、急ぐさ。後悔したくないしな」
旅行客の合間を駆け抜け、ときどき警備員に注意されながら、俺は走った。走る必要があった。
そこには、家族と共に他ならぬ人の姿があった。手荷物検査をして、先に行くところらしい。この距離であれば、声をあげる必要があった。
「ゆず、いや、柚葉」
風を含んだ髪が、ふわりと揺れた。
肩が震えているのが見えた。そうしてゆっくりと振り返った彼女は、濡れた瞳から一対の線が流れていた。そうしてゆずは、俺が入れる限界のところまで駆け寄ってくる。
「遅いよ、青磁」
「ごめん。俺はやっぱだめだ」
「あの時、もう決まってたんだ。でも青磁のこと考えたら、言えなかった。こっちこそごめんね」
「いいよ、最後に一目見たかっただけだから」
俺は耐えられなくなって目をそらす。
「青磁」
呼ばれて振り向くと、そのやわらかな頬はひとつ笑みを浮かべる。
「早ければ一年で戻れるって。続きは、そこからね」
去っていく柚葉が消えてから、俺は初めて涙を流した。気が付けば、あの可憐な小人はどこにもいない。俺にとってはそれだけが、今のゆずを知る縁であり、救いだっただろう。
なにもない俺は、ただ何もなく家に帰った。西田に連絡だけをして、心身共に疲れ切った体を眠らせることにしたのだ。
一週間が経ち、ようやくクラス全体が日常を取り戻しつつある。俺はなぜか病欠ということになっていたため、特に月曜のことを聞いてくることはなかった。相変わらず絡みに来るのは西田と黒川が多く、僕はそれだけの生活を楽しんでいるということにした。
それができないとわかったのは、それから数日が経ったあとのことだ。たとえそれ以上でなくても、友人としてゆずは必要な存在だった。この頃になると携帯を見るのもおっくうになっており、西田からの誘いも無下にしてしまっているだろう。
その日の夕飯は、父がいなかった。おおかた仕事が遅くなっているのだろう。食べ終わった頃に、母がひとつ切り出した。
「そういえば、柚葉ちゃんから荷物届いてたよ」
「え、ゆずから?」
「柚葉って呼ばなきゃだめよ。この子が怒っちゃうから」
この子? こ、この子? 事態が掴めない俺をよそに、小さな生き物は母親の肩に飛び乗る。
「その通りじゃ、母君はよく物事がわかっておる」
「え、待って。え? 母さん、これって」
「柚葉ちゃんのお母さんから電話があったの。そっちにも連絡、来てるでしょ?」
俺は部屋へと戻り、慌てて携帯を見る。
――青磁、いかがお過ごしですか。こちらは手続きが多くて大変ですが、友達もでき楽しい生活を送っています。あと、みどりちゃんがどうしても行きたいというので、送りました。私が帰るまでは、その子で我慢してください。
「お前、どうして。消えたんじゃないのか」
「また生まれてしまったのじゃ。それでどうやら柚葉も見えるようになったらしくての。青磁を見張っておいてほしいと、直々に頼んできおったわ」
「お前ゆずと、柚葉と言ってることが違うじゃないか」
「そういうわけで、われ。これからもわいが面倒を見てやる」
みどりはころころと笑う。それは柚葉のものとは少し違う、彼女自身の中から生まれた笑みかもしれなかった。
「あ、わいの体が消えかかっておるぞ。さては変な男にたぶらかされておるな」
「何を、許さん」
「あ、戻った」
「ふう」
「われもかたなしじゃな」
「うるさいわ」
これからの何もない日々が、すごく楽しみだ。
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