良王の死

 前王様は素晴らしいお人だった。二十年以上も前から、それが国民の口癖になっている。今の君主、イヴェール七世が悪いということはない。だが戦争を終わらせ治世の時代を作ったのも、農業改革で国中を豊かにしたのも、先の君主であるマレスフィールドだったのだ。

 イヴェール王は先代の崩御とともに十歳でバイール国王に即位した。彼ははじめのうちは有能な摂政に助けられていたものの、それでも歴史上の名君と比べ遜色ない良政を敷いている。遠国との貿易収支が黒字に傾いているのも、南のノイマン公との緊張状態が一部解消しているのも彼の手腕あってこそなのだ。しかし国民の目に、それらが目覚ましく映ることはない。良王の幻影は国全体に蔓延し、あるいは国を守っていた節もあろうが、王にとってそれは懸念材料でしかなかった。このままではいずれ、民が付いてこなくなる。

 だが幻影だけであれば、他の君主も向き合ってきたことだろう。王は名声において前王を超えて、初めて評価されるというもの。だが先代には、若き王の手に余る問題があった。

 それはその死因である。彼が肺を患っていたことに間違いはない。だがそれにしても、急すぎたのだ。確かに発作が起きたと言われればそれまでだ。だが崩御した日は奇しくも建国記念の祭の前日である。厭な憶測はいくらでもすることができただろう。直系の男子はおらず、傍流では最も色濃く血を受け継いだブラム家に男子がいた。それがイヴェール七世だ。マレス王が男子さえ設けなければ彼に王位が継承される。そして、歴史はそのようになった。

 端的に言ってしまえば、国王マレスフィールドは殺されたかもしれないのである。

 彼は五十になっても男子を成さなかった。三人の子は皆女であり、バイールは男子にしか王位を継承しない。そこで王は老齢となった妻に替わり、側室を娶った。おそらくあと一年もあれば、世継ぎは生まれていたであろう。

 政務顧問であるロアンは、資料を漁りながら自らの運命の数奇さを嘆いていた。王の死に関する調査の依頼は、ふたつの場所から来ている。

 ひとつは枢密院。王に最も近い組織のため死因もわかっていそうなものだが、さすがに王の解剖などできるはずもない。外傷によるものか病によるものか、あるいはそのほかの要因か、それはもはや知る由もないことだ。

 であれば客観的事実から暴き出すほかないと、比較的融通の効く立ち位置のロアンに頼んだのだろう。

 そしてもうひとつに軍がある。これは相当にきな臭い。彼らはそもそも前王の時代にクーデタを企てており、首謀者含む十人以上が処刑されている。前王亡き後、未だ彼らの中に叛逆の火種が燻っているとすれば、この一件はとても重要であった。彼らがなぜ今さら王の死因を求めるのか、よく見極めねばならない。そこには必ず、表に出さぬ真意があるはずだ。

 扉を叩く音が聞こえる。ロアンは手を叩き、入室を許可した。大柄だがどこか頼りなさげな、ロアンより四十も年下の男だ。

「バーナード、どうだ」

「どうも手がかりが見つかりません。依頼主から賜った文書をもとに探してはいるのですが、先代の周辺に国外の人や物が入り込める隙はありませんでした」

「では内部か」

「それこそ考えにくいかと。マレスフィールド国王陛下は信義のお人であられました。国のどこを探したところで、彼を恨むような人などおりますまい」

「そうだな」

そう言ってロアンは文書に視線を戻す。本当にそうだろうか。どれほど信望の厚い人物でも、国中の好意を集めた人でさえ、恨みのひとつやふたつは買うものだ。金利政策は暴利を貪っていた金貸しの地位を脅かした。農業改革も豊作地の地主などはいい顔をしなかっただろう。外を見ても、ノイマン公のタカ派などは戦争でこの国の領地を分捕るつもりだったため、不満も大きいはずだ。王は百万の弱者をまもるため、ひと握りの強者に服従を強いる。ことマレスフィールドはそれを当然と信じて疑わなかった。それがロアンの知る、彼にとっての王だったのだ。

「では失礼します。バーナードは官庁で聞き込みをしていると、やつに伝えておいてください」

「ああ、わかった」

窓から吹く秋風に昔と同じ怜悧さを感じたロアンは、暫しの間その流れに身を任せた。

 依頼時に受け取った文書を見ても、王家の周辺に不審な点は特に見つからない。むしろ平穏すぎて、その先に起こるものなど誰が予期できただろうか。そこには下手人はおろか凶器の気配すら見受けられなかった。

 となれば、より多くの情報が必要だ。機密文書に手が届く者のほか、実際に周辺にいた人にも探して会う。生きている者はもう限られるだろうが、それでも重要な鍵となりうる。ロアンはひとまず、話がしやすい場所からつぶしていくことにした。




 軍には、よく知った人がいる。

「政務顧問のロアン・ドラクロワ? 何用であるか」

「は。前王様の死について調査をするため情報の提供を求む、とのことです」

「ふん、今更何を。文書なら送ったではないか。まあいい、奴とは多少の接点がある。通せ」

ひとまずは、陸軍を総括する大将軍のもとを訪ねることにした。今は女性であるアイシャが任されている。彼女ならば、他の官僚などよりも余程話が通じやすいだろう。

「よく来てくださった、ドラクロワ殿。こたびは我々の依頼を引き受けていただき、痛み入る次第で」

「よしてくれ、アイシャ。そんなことを言っている場合ではないのだ」

「ふん、ロアンこそ柄にもない。羊皮くさい官吏なぞになりくさって。まあいいだろう、話してやる。私の考えはこうだ」

アイシャは兵士出身の叩き上げであり、豪傑肌で粗野な部分が目立つ。だが女性らしい器量も備えており、終戦後の大将軍を歴任するだけあって軍全体の情報は掌握している。

 話によれば、当時、今上王の祖父にあたるイヴェール・ブラム六世の周囲で不穏な動きがあったという。先代崩御の前日も六世老人は孫である当時の七世と邸宅にこもり、しきりと人を出し入れしていた。今上王即位の詔がめざましい速度で出されたのも、その死があらかじめ決められたものであるとすれば納得がいく、そう言うのだ。

「後半は私の推測に過ぎん。だが当時護衛をやっていた老兵は、この言葉を聞いたと言うぞ」

イヴェール王。その言葉は今でこそ当然用いられるが、先代が崩御される前であれば話が違う。この国の歴史にあって、イヴェールの名を持つ王はひとりとして存在しなかったのだから。

 そも、発音がこの国のものではない。

 その血の起こりは、数百年前に王族としてイヴェール・ブラムという男を招き入れたのが始まりとされる。将軍でかつ敵国の王子であった彼は、我が国の侵略を事前に察知し、内応することで信義を示した。その戦勝の功で彼は、この国の王の一族となったのだ。

 だが、ブラム家は順調に代を重ねつつも、王になる機会を逸していた。今上王から数えること十五代前の時代、イヴェール・ブラム三世は政略の限りを尽くし王になることを望んだ。彼は文書を書き換え、政敵を蹴落とし、ついには人を殺した。だが最後の最後で王が男子を、世継ぎを成した。これが決定的となり、彼の王への道は絶たれたのだ。

 その後王族の再編などもありブラム家は王家の傍流としての地位を確立していく。その中で幾度か血の交流がなされ、直系の男子がいない時はブラム家からと定められた。実際ブラム家出身の王は四人おり、名君とはいかないまでも無難な政治を敷いている。

 だがそれでも、イヴェール・ブラムの名を持つ者を王にしたことはない。それは穢れ多き叛逆の名。だから枢密院は六世老人に特別に目を光らせていたし、彼がその孫に自身と同じ名を授けたことはある種事件だっただろう。

 アイシャが言うには、この叛逆の血をして、良王マレスフィールドを殺さしめたということだ。

 そのような可能性は、しかしはじめから考慮の上にあった。ロアンはそう口走ることをせず、ただ淡々と今日ここに来た目的を述べることにした。

「軍内部の、人と物の移動に関わる文書を全て見せてほしい」

「何を言うか。依頼の際送ったもので不足はないはずだ」

「お前こそ何を言っている。あれには最も重要な、崩御直前の情報の一部が欠けているではないか」

それを聞いたアイシャは、驚きを隠さなかった。

「そんなはずはない、文書は全て集めた。崩御直前のものなどはひとつのこらず、将軍から一兵卒にまで出させてお前に送ったはずだ」

「だからそれが、僕のもとに届いていないというのだ」

アイシャは頭を抱え、うめきながら上下左右に振る。こういう時、彼女は見るからに狼狽しているようだが、そうではない。彼女はむしろ深く思考しているのだ。無論士気に関わるため、部下の前ですることはないが。一分が経ち、頭の動きが止まると、彼女はまっすぐにこちらを見据えた。

「始めに言っておくが、私は部下を疑わない。文書が消えていたのならばお前の方の管理に問題があったと考えるだろう。だが軍にも、それを抜き取れる立場にある者がひとりだけ存在する。参謀長のメイならば、ひとりで文書の前に立っても誰も疑わないだろう。実際に各将軍から集めたのは他ならぬ彼なのだからな」

「わかった。メイに話を聞いてみる。お前の方でもなにかあったら教えてくれるか」

「承知した。枢密院もお前に依頼しているらしいな。奴らには気をつけろよ。本当に何をしでかすかわかったものではない」

「ああ、心配は無用だ」

「言い忘れていた。エドのところに向かうことがあれば、よろしく伝えておいてほしい。六十になる小娘が会いたがっていたとな」

要件はもうないだろう。振り向いてからロアンは、口を突く言葉に気がついた。

「アイシャ」

「何だ」

「僕は、誤りを犯しただろうか」

「知らないわ。この依頼は私の一存ではない。死んだ人間のことを詮索するのは好かないが、お前がすべきと思うならば止めはしないよ」

「わかった」

それだけ聞くことができれば何も問題はない。ロアンは手を振って軍務局をあとにした。しかし、ひとつの疑念が残った。アイシャはメイについて示唆したが、彼女も当然ひとりきりで文書を見る機会はある。そして彼女は軍内部に燻る思惑に気付いているはずだ。彼女自身がということはなくとも、不都合な真実を隠さないとは言いきれない。また彼女は自由を好むため、統帥権を王に委譲する軍事改革をあまり好ましいこととは思っていなかった。




 さて、メイである。世が世であれば、彼は十万の軍を操る軍師となっていただろう。その手腕にまつわる逸話は枚挙に暇がない。ノイマン公との戦時講話の際、王の意向を最大限盛り込んだこの講話に成功したのも彼ひとりの手腕だといえるだろう。

 ただ逆に言えば、それだけ王の考えが道理に適っていたということでもある。今上王は決して暗君ではないし、むしろ聡明なお方だとロアンは信じていた。だからこそ、時に怜悧すぎるメイを重用するのを拒んでいる節もあるのだろう。

「メイ殿。ロアンが参った」

「おう、ロアン殿か。こたびは何用かな」

「ああ、前王のことで少し話がしたくてな。人払いをお願いできるか」

メイは腕を組み、数秒の間目を閉じた。そして開いたとき、その双眸は鋭く光っていた。

「それはできん」

「なぜだ」

「できんというのだ。それが要件であるならば、帰ってくれ」

ロアンはすぐには踵を返さなかった。邸宅へ去っていくメイに向かい、声をあげた。

「メイ殿。真実はどこにあるとお思いか」

「欺瞞の政務顧問よ。大将軍はお前を評価していても、俺は認めていない。真実の所在など、たとえ知っていても教えるものか」

メイは足を止め、振り返らずそう言った。また歩き始める背中を、立ちつくしたロアンは消えるまで見ていた。

 とは言え、収穫がなかったわけでもない。抜かれている箇所があるとすれば、そこが重要なポイントなのだろう。物資や人の出入り自体を無かったことにはできない。自然と穴は生ずるはずだ。

記入の通りかどうか、今一度聞き込みを行う。さすがに依頼者である枢密院の言葉はある程度信用するが、口裏を合わせているということも考えられる。ロアンはひとまず活路を見出すため、自ら足を運んだ。

 部屋には日を追うごとに文書が積み上げられる。ひとつひとつが貴重な情報であるため、部屋を空けることはできない。ロアンは自宅に帰ることもせず、使用人を呼んできてここで寝泊まりをした。

 あまり大規模にすると面倒に巻き込まれかねないため、ロアンは数人の手勢だけで調査を進めた。場所は官公庁やブラム邸、枢密院などを重点的に行う。記載との食い違いがあればそこを掘り下げる。

「枢密院の出納記録の中に妙な支出がありました。これが単独で必要になってくることはありえないはずなのですが……」

見るとそこには、明らかに異質な項目が存在した。調度品の類でも、日用品でもない、明らかに「王の即位」にしか使われないようなものがあるのだ。それはここいらでは見かけないような植物でできた織物に、獣の肉。予行をしたとも思えない。長い歴史の中で王の即位は細部まで形式化され、余分な動作の入り込む余地がないからだ。

「ふむ。レオ、君はどう思う」

「はい、これはおそらく真に隠したい事実を隠し通すための囮でしょう。わざわざ虚偽の支出を書き足したように見えます。でなければこんな見え見えの手は打たないでしょう」

「ああ、おそらくその通りだろう。君は引き続き枢密院周辺を漁ってくれ。バーナードも今の作業が終わり次第そちらに向かわせる」

「あの唐変木まで構ってられませんよ」

露骨に嫌な顔をしたこの子飼いに、ロアンは微笑を浮かべる。それが本心からであるかのように、できる限り演出した。

「そう言うな、あれで頼りになる」

「まあ、何でもいいですけど。僕は僕の仕事をするんで」

レオは資料の一部を手に去っていく。枢密院関連は二人も行かせれば十分だろう。懸念材料は多いが、それよりも軍内部の火種をよく見極めければならない。矛先は王なのか、参謀長メイは関与しているのか、といったところだろう。外に出るため、ロアンは戸締りのための整理を始めていた。




 王都には初秋の柔らかな雨が降っていた。似合わぬとアイシャに笑われたつばの広い帽子を雨具にし、ロアンは石畳の道を歩く。距離が距離であるため、馬車は使わないことにした。

 行き先は決まっている。メイが文書開示に応じたのだ。

 地面と靴との間で締まらない音を立てながら道を歩いていると、宵時の街が妙に閑散としていることに気が付いた。おおかた、どこだろうな。ロアンは苦笑しつつも、辺りを見渡してみることにした。だが気配のみで、襲ってくるということもなさそうだ。じっと目を光らせているのだろう。

メイがいるという軍の施設の前まで、無事にたどり着いた。

 彼は入り口で雨に濡れていた。その目は鈍く霞み、気勢は以前より半減している。

「メイ殿、こんなところで何を」

「政務顧問。お前、枢密院に探りを入れているのか。悪いことは言わん、やめておけ。今はいつになく黒い噂が立っている。下手をすれば、死ぬぞ」

「そう言われても、やめられんのよ。残念ながらな。借りがあるんだ」

「借り? 誰にだ」

「ふん、じじいの昔話よ」

そういって皮肉に笑うロアンの表情は、メイにあることを決意させた。

「まあいい、深くは聞かん。年寄りの考えはわからんからな。年寄りといえば、そうだ。エドリー殿下が危篤だそうじゃないか」

初耳だった。とは言うものの、エドリー・ブラムは齢七十を超えている。昔から健康な方ではなかったため、いきなり死んでしまっても誰も不審には思わないだろう。

「ほう、もうそんな状態なのか。歳は僕とそう変わらんはずだがな。だがこちらにも、まだ他に調べるべきことが」

「いいのか。あれに死なれたら、全部紛れるぞ」

おそらく、その通りである。全て明らかにするために、彼に接触する必要があるだろう。だがそれには、ロアンの側に提示できるカードが全く足りていない。

「しかし、彼が口を開くとは思えん」

「その辺のことは俺にはわからんが、行くなら早めに行ったほうがいい」

取り返しのつかんことになる前にな。ロアンの耳にはそれが妙に残った。むしろ、自分は逃げているだけなのかもしれない。メイの言葉には、そう思わせるだけのものがあった。

 結局、メイが提示した文書に有用なものはなかった。彼が話す通り、本当にこれが軍の情報全てなのだろう。ただ、軍内部にマレス派などという集団があることは想定外だった。この事実には眉をひそめざるをえない。軍の一部は前王の時代にも陰謀を企てていた。だからこれも、前王という虚像を利用しようというのだろう。

 国王マレスフィールドという像は実体を超えて肥大化している。おそらくは、扇動者さえいれば暴走するだろう。あるいはクーデタも成立するかもしれない。もしそうなれば、薄氷を渡るような外交で成り立つこの国は崩壊する。

 明らかにならなければ、そういった火種がいつどこで暴発するかわからないのだ。

 文書を持ってブラム邸へ向かう必要がある。今ならまだエドリーも起きているはずだ。この材料で彼に話を聞きさえすれば、真実は明るみになる。

ひとまず部屋に戻ったロアンは、ドアの前に赤黒い足跡を見た。

「おい、誰かいるのか」

うめき声のような、か細い返事が聞こえる。

「ロアン様、申し訳ありません」

そこにいたのは、血まみれになったレオだった。体は冷え、頬は青ざめている。出血しながら雨の中戻ってきたのだろうか。

「レオ、どうした。何があった」

「枢密院で調査をしていた時、後ろから刺されたのです。幸い傷は浅く、バーナードがとっさに応戦したため僕は逃げることができました。ですが、そのせいでバーナードは殺され、おそらくは他のふたりも」

「そいつらの所属はわかるか」

「マレス派、とか言っていました。おそらく軍の将校でしょう。情報はほとんど抜かれました。申し訳ありません」

「いい、お前がまだ生きているのなら手は打てる」

「やはり、真実はもうどこにも」

「あるさ。今なら間に合う」

ロアンは使用人を呼びつけ、レオの手当をさせる。見ると槍の刺突を受けた跡があった。内臓には達していないらしく、丁寧に消毒すれば重症化の心配はなさそうだ。

 作業室の簡素なベッドに寝かせると、ロアンは一枚の紙にペンを走らせる。そして文書をまとめ、書いた紙を上においた。

「レオ、ここからはお前の仕事だ。これまでの調査の報告をしなければならん。そこに書いてあることを順に行ってくれ。政務顧問権限は移譲してあるから、誰であれこちら側の人間はお前を守ってくれるだろう」

「あなたは何を」

「何、すべきことをやるだけさ。それでは、政務顧問レオナルド・ワーカー。あとは任せたぞ」

薄暗がりの街に消えていく上司の背中に、レオはただならぬ危うさを覚えた。

「レオ様、今動かれては傷口が広がります」

「いいさ。どうやらあんたの主人、死ぬつもりらしいからな」

使用人は目を丸くして、かろうじて口を動かした。

「ロアン様が、ですか」

「ああ。あの人もあの人で、いろいろあったのだろう。ほら、これを読んでみな。全部わかる」

手渡された紙には、使用人に対しても綴ってあった。かすかに表情がこわばり、声は震えていた。

「ロアン様が、このようなことになられるとは」

「ああ。それで、僕は僕の仕事をする。今となっては、それが最も必要なことだからな」

レオは紙の下の文書を見て、ひとつ深呼吸をする。透明度を増した思考の中で、彼はただならぬ責務に駆られていた。




 ブラム邸に着くまでに雨は勢いを増した。初めは柔らかな霧雨だったのが、今では矢のように肌に突き刺さる。

 だが突き刺さるのは、水滴だけではなかった。視線がふたつ。今回も、動向を監視しているようだ。だがその真意は以前と異なる。もう少し踏み込めば斬る、といった間合いの問題であった。構わずに道を進んでいくと、ロアンの前にひとつの影が立ちふさがった。

「通してくれると助かる」

「欺瞞の政務顧問か。身の程をわきまえず探りを入れているようだが、進展はどうかな?」

「マレス派、それがお前らの名前か」

「良王の死は影のない国に影を生んだ。それが我らだ。幻影が膨らむのを、二十年も待ったさ」

「殺したのは軍の将校、つまりお前らだと思っていたのだが」

「それは我らではない。概ね機を逸り粛清された、改革派の馬鹿どもの生き残りだろう。だが皮肉にも、我らマレス派が切り捨てた者どもが、最も重要な布石を打ったことになる」

「では、クーデタは成るということか」

「成る。幻影は簒奪者を殺し、そして新たなる高みへ国を押し上げるのだ」

「では、こちらも動かせてもらうよ」

「政務顧問。もはやお前の行き場はない。知りすぎたのだよ」

すると闇から数人の影が姿を現す。ロアンはとっさに懐剣を取り出すと、男の腹に突き刺した。一瞬、静寂には二人の荒い吐息だけが響いた。

「な、貴様は」

「この世代は僕のこと知らないのか。まあいい、君には関係のないことさ」

あとは走って逃げるだけだ。老体において、体力は高利貸しだ。一度に多く使えば、あとでそのつけが回ってくる。だが、ここで殺されてはならない。それだけを念じながら、力の限り走った。

 ロアンはこの国に、他の国にあるような闇が存在しないと信じていた時期があった。それを明るみに出したのはマレス王であり、彼により幾分小さくなりはしたが確かに残っている。

 この闇が国を食いつぶさぬように、自身にできる仕事がひとつだけ残っている。ロアンはそう信じていた。

「政務顧問のロアン・ドラクロワだ。エドリー殿下は何処におられる」

「お待ちください。今確認を」

「いるのだな? ではすぐ参ると伝えろ」

現れた男を追い返し、自分も入る用意をする。案内されるまでもなく、まっすぐに部屋へと向かう。もう数十年も足を踏み入れていないというのに、部屋の所在は心当たりがあった。

「人払いをしてくれ」

見立て通りの場所から聞こえてくる声は、ロアンにとって昨日のような懐かしさがあった。

「ロアン、久しいな」

「あの日以来だろうか。老いたな、エド」

「ふん。死にゆく者の気持ちなど、若造にはわからんよ」

「若造というがな、僕ももう七十近い。あんたの五つ下だからな。少しくらいは、死というものについて感慨もある」

「だろうな。私もそんな事を、五年も前であれば言ったはずだ」

「そういえば、アイシャが会いたがっていたぞ」

「あの小娘がねえ。袂を分かって久しいが、達者でいるか?」

「ああ。マレスも彼女の才を愛していたからな」

この男、エドリー・ブラムは六世の甥にあたる人物で、政治的手腕はなく、ただ好人物として知られていた。

「して、要件があるのだろう」

「ああ、あの日のけじめをつけにきたのさ」

窓を開ければ雨音が体の芯にまで刺さるようで、ロアンはひとつ身震いをした。

 テーブル越しに向かい合うと、かつて皆で酒を囲んだ記憶が蘇る。そこにはわが国初の女将軍だったアイシャ、そして若かりし日の王太子マレスフィールドがいた。ロアンは自嘲気味に、参謀長だった自身のことを思い出していた。

「もう、これだけになったのか」

「ああ。この建物には、あとは使用人しかいない」

では調査の結果を話すぞ。ロアンは苦笑とともに鞄いっぱいの資料を取り出し、口を開いた。

「まず出納管理の不詳な点について。書き足したのではなく、意図的に消し忘れたのだと思われる。アイシャらに繰り返し要求した軍内部の文書からは、本件に直接関わるものは見つからなかった。まあ、それについては当然のことなのだがな」

「確かにブラムは、前夜にして王の死を知っていた。だがその理由を誰も知らない。風の噂を、家の誰もが本気で信じたのさ」

「少し違うな。それは実行するものの手によって、事前に通達されていたものだ。それが誰によるものだとしても、前王の死により今上王が即位することは明白。より深い闇が国を覆う前に、計画された死が必要だったのだ。そしておそらく――」

エドリーはその言葉を遮った。

「何が君を、そこまで駆り立てる」

「罪は、償わねばならん」

エドリーからすれば、奔走するロアンの姿は哀れにすら映っただろう。だから目の前の旧友に対し、こう伝えることにした。

「私が背負うこともできるのではないか」

「それはできん。ブラムの者の仕業だとなれば、マレス派のいい口実だ」

「その話なんだが」

実際のところ、誰が殺したというのだ。これは、自らの無実を知るブラムの家の人間だからこそ抱く疑問だろう。

「爺はブラムの悲願が叶ったというのに、浮かない顔をしておられた。優しいお方だったからな。マレスとも懇意であったようだ」

「今は亡き六世老人か」

「ああ。だから私は、真実が知りたい」

「エド、そんなことはもうどうでもいいんだ。この国が再び前に進むためには、王殺しの犯人が必要。それは、マレスの旧友でかつ閑職に追いやられた僕より他にいない」

事実として、下手人を除けば王に最後に面会したのはロアンだった。それは記録として存在していたが、さらに秘すべき真実と共にかき消されている。

「その点、わかった。だがお前は、ロアン・ドラクロワはそれでいいのか」

「なぜいけない。これはマレスが望んだことだ。彼は僕に言った。世継ぎがないと言われるが、イヴェールは聡明な子であり王の器であると。軍の改革派に自分が殺されれば、彼らによるクーデタが成ってしまう」

だからお前の手が必要だと、良王はそう言ったというのだ。

「ということは、つまり」

「ああ、後の作業は全て任せてある。僕の仕事は終わったよ。最後にエド、ひとつだけ頼みがあるんだが」

ロアンは請うような表情でそこまでを口にした。エドリーは全てを悟り、ひとつ微笑を浮かべる。

「ブラムの血、そうだろう?」

老爺の目に、不思議と憂いの色はなかった。

「血の穢れは血でしか洗い落とせん。俺はもう長くない。だから最後にすべきことをせねばなるまい。この国が、再び前を向くために」

血に濡れた懐剣は、もう一度赤く染まった。



 政務顧問代行のレオナルドが発表した調査結果に誤りはなく、だからこそ容疑は明確だった。王族エドリー・ブラム殺し。また二十年前の国王マレスフィールド殺し。そして人々はブラム家の潔白を信じ、軍内部と枢密院の火種は潰えた。大義が消えたからだ。そのどちらもを満たすのは、このタイミングをおいて他になかった。

 だからこそ、断頭台に立ったロアンは満ち足りていた。治世の名君は正しく評価され、幻影は正しい大きさに戻る。

 それならば、その首の頬を濡らしたのはいかなるものだったか。それは喜びや悲しみでは決して無く、ただ安堵であっただろう。

良王は、ついに死んだ。

 

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