ひとよの恋

「月夜に霜の降りるがごとく」

 古来より、銃を撃つ時はこのように引き金を引けと言われている。力任せでは筒先がぶれ、狙いを誤るのだ。

 木星のあかるい新月の夜。ビルの屋上にいる男の見つめる先には、ひとりの女がいた。

 美しいと、かねがね思っていた。そのしなやかで豊かな胸を貫くのは、視線だけではない。殺意だけでもない。脳天から背中にかけて浮き上がるような感情が、女をまっすぐに捉えていた。女はその突き刺すような意思に気付かない。さもあろう。この高さであるし、男が女を見初めたのはつい数日前のことだからだ。

 曇った音が反響する。それと同時に、体が踊るような興奮を覚える。男はこの瞬間を何よりも愛していた。そのために、誰にも知られず遂行する術を男は心得ていたのだ。

 その銃がどこから来たかなどわかるはずもない。当然であろう。その銃はどこで譲り受けたものでもないからだ。

 崩れ落ちた後、残った肉に興味はない。

 男は自らの傑作を手に、星の夜に消えていく。治安の悪く法の日陰たるこの街は、男にとって天国のような場所だった。だがその頬に張り付いた微笑は、不思議に乾いていた。

 男の恋は、いつもこうして終わる。



 この日も星の降る夜だった。男はその日常で、いつも女を探している。だからおそらく、この夜も恋に敗れるだろう。対象は決まっていた。この廃屋の窓から、女がいつも通る道が見える。廃屋は二階建てであり、いつもよりずっと距離が近い。この道に射線を通そうと思えば、他にもよい位置はあった。それは外したくないという意思の表れなのだろう。それは外さぬという自信とは別のところにあるが、男があえて近い場所を選んだことはない。男はごく自然と、この廃屋を選んだのだ。それは女が、美しいだけではなかったからなのかもしれない。

 照準を合わせながら、男はいつもとは違う感触に疑問を抱いていた。どうも、当たりそうにないのだ。サイトの中心にいる人を撃ち抜けないと思ったことはない。それは初めての感覚だった。

 とまれ、引き金を引いてみることにした。引いてみると言ったが、渇望しているのに違いはない。しっかりと固定し、予測地点を割り出し、その心臓にまっすぐ--。

 果たして、その弾は当たらなかった。避けたそぶりもない。外したのだ。女は見渡すこともせず、まっすぐこちらに首を向ける。そこにいることを、知っていたのだろうか。この距離なら目がよければ男の顔まで見ることができるだろう。だが男が、女から目を離すことはない。できなかったのだ。

 外した驚きこそあれ、遂げられなかった失望はなかった。それが男にとって不思議だった。

 そして視線が交錯し、男は女の微笑を見た。射抜かれたのは、男の方だったのだ。

 女はくるりと向きを変え、歩き去っていく。男は釘付けになったまま、その場で立ち尽くしていた。

 男の恋は、こうして始まる。

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