蒼に酔う
体を包む外気が地獄のように熱い。断熱圧縮で船体が炎に包まれ、私もそろそろ燃え尽きるだろう。大気圏突入用の装備がこの船にないことくらい、はじめからわかっていた。
だが、だからといってここまで来ることをやめることなど到底できはしなかった。船体にはひびが入り、もはや空気も残っていない。これはもはや、地上に万に一つの希望もないことを意味していた。
そんな終末の中で、私はひとり満ち足りていた。これが焦がれていた場所なのかと問われたら、今でもそうだと即答できる。蒼い海と緑の大地はすぐ目の前にあるのだから。耐圧服にももはや切れ目がある。意識は既に虚空に溶けてしまった。それでもなお、ふたつの目だけはひとつの場所から決して離れなかった。
私は待ち焦がれていたのだ。私は恋をしていたのだ。
私は、この星の蒼に酔っていたのだ。
少女は窓を見て、いつも泣いていた。溢れ出る涙で霞む視界には、いつもひとつの蒼い星がある。月から遥か故郷を見ると、色鮮やかな思い出が頭の奥を目まぐるしく渦巻く。
花萌ゆる草原を駆け、眼下に海を見下ろす。少しずつ崩壊の序曲を奏でつつある星にとって、それはかすかな命の輝きだったのだろう。
だがここはどうだ。黒い空の下に、見渡す限り白と灰色の海が広がる。命さえ与えられないこの景色に比べたら、思い出はあまりにも美しすぎた。
背後から荒々しい声が聞こえる。どうやら何度も呼ばれていたらしい。
「お前またここにいるのか。諦めろ、もうあそこには帰れない。おまえもここで暮らして分かっただろう。あの星は俺たちを捨てたんだ」
「でも、帰るもん。 ……ぜったい、帰るから」
「まあいいさ、気がすむまで見てろ」
こう突き放されるのもいつものことだ。去っていく男は、少女が身を寄せている家の子だ。肉親のいない少女は彼を兄のように思っていた。兄にしてみれば、地球に帰るなど世迷いごとだ。食料プラントの建設や資源の採掘など、すべきことが山ほどある。そのようなことを考えている暇はないのだ。
「……お兄ちゃんは帰りたくないのかな」
少女は窓をもう一度見やる。故郷はいつもそこで待っている。踏み出せないのは自分なのだと、少女は強く思っていた。
食事の時刻が近いことに気がついた。少女は窓に背を向け、二歩進んだ足を止めた。
「もうすぐだからね」
少女は聞こえないほどの声で、それだけを口にした。
居住区はいわば長屋のようなものだ。手に届く範囲にいつも死が存在する世界では、近隣との繋がりも非常に重要になる。月での生活に慣れすぎた者は、知ったような口でものをいう。だから少女は、家族も家族が連れてくる友人も大嫌いだった。
確かに月でずっと生きていくならば、 生活のために自らのすべきことをやらなければならない。だが少女には、それがどうしても嫌だった。幼い頃から複葉機で地球の空を飛び、青と緑の星を見てきた。だからこそ少女はその景色が誰よりも好きだったし、そこに戻りたいと思っているのだ。
食事が終わるとひとり街へ繰り出し、耐圧服を着て外に出る。重々しい工具も重力加速度の小さいここでは大した荷物にならない。少女はいつものように暗い月面の海へと向かった。
思い出の海。ここには、月面開発時代の連絡船が一台廃棄されている。初めて見た時はいくら手を尽くしても動かなかったが、根気よく整備していくにつれ動力装置が稼働するようになった。回路を繋げるごとに、計器が安定していく。そろそろ試験飛行も可能になる頃だ。音も光も届かない暗い海の底で、少女はひたむきに夢を見ていた。蒼い空の夢。蒼い海の夢。そして緑の大地の夢。離れれば離れるほどその像は濃く、鮮明になる。時計を確認すると、もう数時間が経っていた。居住区は狭い世界であり、誰かに見られるのは非常にまずい。繁華街に遊びにいくと偽っているが、家の工具を持っているのが知られるかもしれない。故郷でのつてで住まわせてもらっているためあまり迷惑はかけたくないが、それでもこの想いには逆らえなかった。
今日の作業を終えることにした。明日には垂直離陸させてみようと思う。だが少女は見つけた時から、あることに気がついていた。少女は部屋に戻り、隠し持っていた工具をしまう。ギターケースに入れて運んでいるため、部屋に入って空の工具箱とギターを見られない限り問題はない。バンドには週に一度しか顔を出していないが、外出の回数が増えると怪しまれるため致し方ない。使える時間の全てを蒼い星に捧げていたかった。
「おい、俺だ。入るぞ」
ドア越しに声が聞こえる。少女は慌てて工具箱に戻し、ギターを抱えた。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「お前、最近よく外に出るがどこに行ってるんだ」
「バンドの練習だよ。来月にはミニステージもあるの」
ほおん。兄は訝しげに部屋を見渡した。
「その割には、ギターを持っていかない日もあるようだが」
「そ、それは、皆で遊びに行くからで、カバンよりケースの方が見栄えいいからで」
しどろもどろになりながら取り繕う。おそらく兄は、工具を持ち出していることもわかっているのだろう
「今一度聞く。お前はどこに行っているんだ」
こうなれば少女には口を閉ざすことしかできない。まっすぐに見つめる兄を前にして、ヒステリックに追い出すことを考え始めていた。
「まあいい、お前の好きなようにすればいい。ただ、無事でいてくれれば」
視線を外した兄がやけに曇った表情をしていることに、少女はわずかな驚きを覚えていた。
この日も少女は、耐圧服を着るために繁華街まで来ていた。外の世界の入り口は今や労働者用に解放されているのみ。許可証などは形骸化しており、役人は通る人が何者かさえ知らない。耐圧服の貸し出しと通り一遍の注意だけが彼らの仕事だった。
「あら、こんなところで会うなんてね。一緒に行こ」
それはバンドの仲間だった。ギターケースを持っているため目的地が同じだと思ったのかもしれない。
「ごめん、私は別の用があるから」
「そう? なんかあなたっていつも心ここにあらずよね。知らない間にどこかへ行ってしまいそう」
「そんなことないよ。みんなとのセッション、すごく楽しいよ。あ、でも、ミニステージには行けないかも」
「そっか、じゃ暇なときにまた来てね」
あ、そーだ。彼女は振り返ると、ひとつのストラップを手渡した。
「これ、あなた好きだったよね。猫ちゃんが幸せを呼んでくれるんでしょ。ほら、これでどこに行っても大丈夫だね」
「あ、ありがと」
招き猫をギターケースのジッパーに取り付けると、彼女は駆け足で去っていく。それを見送りながら、少女はずっと目の前にある目的地に入ることにした。
「ご苦労さま」
一言だけ労ってやってから、慣れた手つきで耐圧服に袖を通す。月の重力加速度に慣れてしまうと、重い耐圧服を着ることが困難になる。そのため筋力をつけておくのが少女の日課だった。
ハッチを開けるごとに空気の総量が減る。それを避けるために狭い部屋で低圧にしてから外に出る決まりとなっていた。
白と黒の世界はどうしても好きになれない。それはひとえに蒼い星のせいだ。故郷で見る月が美しいならば、異郷の地から見るふるさとに魅了されるのは当然のことだ。
いつもの斜面を下る。耐圧服には推進装置も付いているため、ある程度谷に落ちてしまっても問題なく復帰できる。急がなければと、少女はその歩幅を次第に大きくしていった。
思い出の海にひとつの連絡船。これでここに来たのは二百回目だろうか。制御室に置いた整備日誌には、だんだん動くようになっていく船体のことが綴られている。少女はいつものように気密ハッチを開け、中に乗り込もうとした。
その時、後ろに何者かの気配を感じた。何も聞こえないはずの月面で、である。見るとそれは耐圧服を被った兄だった。ついに見つかってしまった。絶望を押し殺しながら、少女は空気に満ちている船内に招くことにした。
「母親に言われて付いてきてみれば、このようになっていたのか」
メットを脱ぐなり、兄は少女に詰め寄った。
「三年前、見つけたの。その時からずっと整備してた」
「つまり、今まで外で遊んでばかりだと思っていたのはここにいたということなんだな」
「そうよ。今日、初めて船体を動かすの。これで地球へ帰るのよ、私はあの蒼い星に帰るの」
兄はひとつため息をつくと、船内を見渡した。気密扉は全て厳重で、その気になればここに住むこともできるだろう。耐圧服を貸してくれた役人も、あの調子なら二日三日くらいなら気づかないこともありえる。だが問題は、そのようなことではなかった。
「それだけ整備していて、気づかないのか。この連絡船は単独で大気圏に突入する装備を持たない。外付けの耐熱被膜を展開しなければ十中八は燃え尽きるぞ」
「でも帰る! 四年も待ったのよ、帰ってみせる」
「大体成功したとしてどうだ。地球にお前のよりどころなんかない。既得権益を失いたくない金持ち共の巣に、お前なんかが行っても殺されるだけだ」
これだけ言われた少女の感情は、もう抑えるべき場所を失っていた。帰るの、私は帰る。止めどなくあふれる涙に任せ、ひたすらにそれだけを口にした。
「あと、これ以上やると月政府にまで目をつけられる。お前はそうでなくとも、俺や母は平穏な暮らしだけが望みなんだ」
「それでも……私は帰りたい。あの星に帰りたいの」
兄はへたり込む少女を見て、先ほどよりも大きなため息をついた。
「わかった。行きたいなら行けばいい。俺は母がいるここを離れるつもりはない」
だがふたつ、守ってほしいことがある。背を向けた兄は口にした。
「ひとつ、行くときになったら俺に言え。もうひとつ、半端な状態で行こうとはするな」
「……わかった。お兄ちゃん、ごめんね」
ハッチを閉じた後、一瞬だけ兄は立ち止まった。そのままゆっくりと、重い足を踏み出す。斜面を登るほどに海の底に消えていく連絡船は、振り返ると吸い込まれてしまいそうだった。
「すまない、俺にはできないんだ。すまない」
手をかけ、足を出し、自重を上へと持ち上げる度にその頬は二筋の線を浮かべた。
少女は座ったまま涙を拭うと、ゆっくり立ち上がり作業にとりかかった。もうそろそろ詰めの段階に入るが、兄の言うことを鑑みるに時間は多く残されていない。今日は全システムを稼働させ、垂直離陸をするのだ。これで失敗すれば、おそらく機会は二度と訪れないだろう。まずは離陸のための回路を繋ぐ。これで垂直への動力がいつでも使える状態になった。そしてエンジンをふかしていく。がたんと言う衝撃音とともに、船体が揺れた。そのまま出力を上げていき、高度計を確認する。
「よし。離陸、問題なしね。これで、もうすぐだ」
確認が終わると再び地表に船体を戻す。重力圏を離脱するにはもう少し不安が残るが、あと数回でできるだろう。少女の中には、もう憂いはなかった。すべてわかっている。だからこそはるかな蒼い星に対し、ひとつだけ手招きをしたのだ。
この日自室には、兄を呼んである。とうとう話をせねばならない時がきたのだ。もう少しすれば来る頃だろう。少女はスプリング式のベッドの上に重く腰掛けながら、それを待っていた。
「おい、開いてるなら入るぞ」
兄はそう言うと自動扉を開け、入ってきた。その顔は既に、薄く赤みを帯びている。何を言われるか、もうわかっているのだろう。
「お兄ちゃん、勘違いしないで。私は死にに行くんじゃないの、ただ帰るだけ」
「本当に、行くんだな」
「うん。もう月の重力圏は脱出できるし、ルート計算も終わった。アームストロング市の時間で明日の二十時に出発する」
そこで、お別れね。少女は兄の目を見て、それだけを小さく口にした。そこから先はもう、兄がひとりで後始末をしなければならない。自分のわがままで、自分の願いひとつで、ともすれば不幸になってしまう。それに対して、少女はごめんなさいと言えなかった。
兄もまた、言葉もなしに隣に座る。体を寄せた少女はその胸の中で、冷たい月面にはどこを探しても見つからないぬくもりを感じていた。
互いの心は近づいては離れ、すれ違う。それはひとつの蒼が少女を狂わせたからだろう。
これから無限大に発散していくふたりの距離は、ここで初めてゼロになった。
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