おはなし

 ひとつの家族があった。そこに母はなく、父と子だけが仲良く暮らしていた。今年で十歳を迎える子は、利発的でいろいろなことをするのが好きだった。休みの日の多くは友人と共にどこかへ行って遊んでいたが、夕方になるとどこからともなく帰ってきた。遠出をしたという話も聞くが、彼が夜遅くまで来なかったことはない。それがどのような楽しい遊びであったとしても、日が赤く染まるのを見るとその手を止めて帰路につくのだ。そのため門限などが設定されたことはなく、父も必要と感じたことはない。仕事を終え家でひとり自分の帰りを待ってくれている父を、子は心から愛していたのだ。

 ただいまの声と、ドアが開く軽快な音。子が帰ってきた。夕日がもう半分まで沈みかけていることを鑑みるに、今日は少しだけ遠くで遊んできたようだ。泥だらけの靴となにやら賑やかな虫かごを見れば、子が遅くなった理由は明らかだった。

「今日は虫とりか、いいのは取れたかい?」

 そう言うと子はにっと笑みを浮かべ、かごに手を伸ばす。そこから自慢げに取り出されたのは、体長十五センチはあろうかという大きなカミキリムシだった。

「大きいでしょ。みんなで取ったんだよ。カブトムシには逃げられちゃったんだけどね」

「ちゃんと世話をしてやるんだよ。こいつにも命があるんだから」

「わかってるよ」

 そう言うと子は駆け足で自室に戻る。水槽を使って用意した飼育スペースに今日の戦果を慣れた手つきで入れると、自分の腹から鳴り響く音に気がついた。昼食は父が持たせた軽食で済ませたため空腹は限界まで来ているだろう。

 手を洗ってリビングに戻ってきた子は、エプロン姿の父を見るなりその目をきらきらと輝かせた。

「お父さん、今日の夕飯はなあに?」

「ああ、今日はローストビーフだ。先週は焦がしちまったけど、今回は大丈夫」

「楽しみだね」

 重くのしかかる期待に応えるため、父は妥協をせずに腕をふるう。料理などろくにしてこなかった彼のことである。はじめは失敗続きだったが、近頃は作ることのできるメニューも増えてきた。それもひとえに母のいない子を思ってのことであった。経済的に余裕が少ないこともそうだが、片親とはいえ手を抜いてはいけないところがあると父は信じていた。鍋の蓋を開け、その様子を確認した父は、横で見つめる子に笑顔を見せた。成功したということだろうか。子はよくわからないまま配膳をし、父と子のいつも通りの夕食が始まった。

「まずはお前から食べてみろ」

「味見、してないの?」

 フォークを持った子は、少し驚いたような顔で父を見つめる。父は不安を悟られぬよう、どっしりと構えた。

「ああそうだ。なんせ自信作だからな」

「じゃあ、いただきます」

 よくわからない緊張がふたりを包む中、子が恐る恐るフォークを伸ばす。父は無言で見守る。

 そして口に含んだ途端に、子は頬を緩め笑みを浮かべた。それを見た父の目には図らずも光があった。

 そこから、いつもより少しだけ楽しい夕飯が続いた。

「ごちそうさま。美味しかったよ。また作ってね」

「ああいいぞ。いくらでも作ってやる」

 その喜びを悟られまいとした父は、席を立って片付けることでごまかそうとする。子は手伝おうとするも止められてしまった。手持ち無沙汰の中しばらくそのままでいたのち、仕方なく自室へと戻っていった。

 風呂も上がりもはや寝るだけになった時、子はスケッチブックとペンを手にリビングの父の元へ歩み寄る。

「お父さん。いつものやろうよ」

「いいぞ、今日は俺からだったな」

 父と子の間にはひとつの遊びがあった。ふたりはそれを「おはなし」と呼んだ。まずはふたりで、主人公とその背景などおはなしの骨子となる部分を決める。そしてそこから始まるおはなしを交互に考えていく。作っていく中で、聞いている方は気兼ねなく意見を言う。そうしてふたりでひとつのおはなしを作っていく。そうしてできた物語を、ふたりだけのものとして大事にしまっておく。

「じゃあそうだなあ。舞台は古くから貿易の船で栄えている港町。そして今回の主人公はその町に住んでいる、お前と同い年の女の子だ。勇敢な船乗りだったお爺さんを見て育った彼女は、いつしか自分も海に出たいと思い船乗りを目指した。でも女の子が海に出ることは、父親の乗っている船をはじめどこも認めてはくれなかったんだ」

「なんで認めてくれなかったの?」

「それはね、この時代の人たちの考え方なんだ。男の人が外に出て働くから、女の人は家で家事をする。それが一番だと言われていたんだ。こういった価値観は昔はどこにでもあったんだよ。今のように外に出て働く女の人は少なかったんだ」

「そうなんだ、昔は大変だったんだね。それでその子はどうなったの?」

「よくぞ聞いてくれた。その子は父親の働いている船にこっそり忍び込んだんだ。積荷の樽の中に隠れて。そしてこっそり船内を探索して、隙を見ては食料庫に忍び込んで食べ物をあさったりする生活をしていたんだ。でも不思議なことに、誰も彼女を見つけることがなかったんだよ」

 じゃあここからお前の番だ。父は子の肩を叩くと、スケッチブックをくるりと反転させた。

「うーん、そうだなあ。女の子は父親の仕事ぶりを毎日夢中で見ていたんだ。それでいて見つからないようにしなくちゃいけないから、疲れただろうな。保存食を食べたあとは、どんな時間でもすぐ寝ちゃったんだ」

「へぇ、お父さんはどんな仕事をしていたんだい?」

「お父さんはね、船の舵をとっていたんだ。だからよほど頑張らないと近くへ行けなかった。だからいつも大変だったんだよ」

 それでね。そう言って子がさらに続ける。その目を見て父は満足げに腕を組んだ。

「女の子は大事なことを聞き忘れていたんだ。それは上陸の日付。前の日の大雨で、倉庫に隠れていた女の子は眠れなかったの。だから夜が明けて浅瀬に入った時、樽の中で眠っちゃったんだ。錨が下されても、その目がさめることはない。女の子が眠っているなんて思いもよらない船員たちは、積荷を下ろし始めてしまうんだ」

 僕はここまでだよ。そう言ってスケッチブックを回す子に、父は置き時計を指差した。時刻は夜十時を回っている。

「もうこんな時間だ。今日のところはここまでにしておこう。明日からは忙しくなりそうだから、来週やろうな」

 名残惜しそうにしながらも、子は笑顔で頷きスケッチブックを手に自室へと戻っていった。

 また難しいものを。父はそうひとりごちてから、ゆっくりと書斎へと向かった。今日の物語を記録せねばならない。父は小さな会社を経営しながら、傍で執筆活動もしていたのだ。最近はこれぞと言えるものが書けず衰えを感じる一方で、物語が好きな子供と一緒に作っていけることに幸福を感じている。ペンを取り思い返すと、そこには子の笑顔とともに紡がれたおはなしがあった。

 あらすじをもとにして構成を考えていく。まだ未完成だから、先につなげるようなことは考えずのびのびと進めていく。新たな展開を思いついた場合は、大筋と外れてしまわなない範囲で入れていく。あくまでふたりで作ったものとして、父は文を書き進めていった。本棚のあるひとつの場所に、それを入れるために。

 冷蔵庫にあった余りもののフルーツを戦利品たちのいる水槽に入れたのち、子は今日のおはなしを振り返った。これからどのように続いていくのだろう。途中で終わってしまった時などは、ついつい気になってしまう。そのため前もって考えることも多い。この方が良かったかな。そう思った場合は小さくメモとして残しておく。こうなるといいな。そう思ったことは胸の中にしまっておく。そうして一日の作業をすべて終えた子は、今日もいい日だったと満足げに眠りについた。机には、未だ手のつけられていない宿題があった。

 翌日は朝から父がいなかったため、自分で朝食を作って食べた。今日は遊ぶ予定がないので、おはなしでも考えることにした。子は父の文が好きだった。比較的軽めのわかりやすい文であることもだが、細かな表現により登場人物の気持ちになって読むことができる。そこが他の作品と違う点だと思っていた。また展開もあっと驚かせるようなものが多く、それでいて緻密に練り上げられていた。そして自分もいつかはそのような文を書きたいと願うようになった。そうしたら、父とふたりで過ごしたおはなしの時間を皆で共有できると思ったのだ。といっても活発な性格から本を読む時間をあまり作ってこなかったため、ひとまずは本を読んでいくことにした。父の書いたものはよく読むのだが、この家でほかの本に手を伸ばしたことは実はあまりない。幸いにも父の影響でこの家は本が多いため、今日はそういったものに触れてみることにした。

 英雄譚や伝記から恋愛ものまで、本棚には様々なものが並んでいた。綺麗にしまわれてはいるが、それでも読んでいれば本は傷んでいくものである。父が幼いころに読んでいた本は特に傷が多かったためよくわかった。

 子はひとつずつ本を手に取っていった。そしてそこに広がる世界に目を向けていった。無作為に取っていったため、自然と幅広いジャンルに触れた。それは彼にとってあまりに多くの出会いであり、彼は時に頬を緩ませ、時に目尻を拭った。彼は登場人物ひとりひとりを愛した。主人公の生き様に憧れ、登場人物の幸福を喜び、悲運を嘆いた。子はここまで来て自分が食わず嫌いをしていたことに気が付いた。なんだ、他にもいいのがあるじゃないか。父のものはあらかた読み終わっているため、これからはもっと色々な作者に触れていこうと決めた。その中でも子は、ふたつの作家に惹かれていた。

 ひとつは女流作家。それは少ないながらも本棚の中で確かな存在感を放っていた。優しい文と緻密な構成、柔らかな結末は子をその世界に引き入れた。滝のような急展開を好んだ父とは真逆の、清らな小川が流れるような文。それは子にとって、足りない部分を補うように入っていった。

 もうひとつはどういう作家かよくわからなかった。だが、子はこの作者をもっとも愛しただろう。巧緻かつ繊細で、せせらぐ渓流の様相を示したかと思えば途端に川幅を狭め勢いよく流れ去る。優しい文かと思えば、鋭く浮き彫りにするような文に変わる。それは子にとって、大きな安心感を与えた。

 子が抱える本の束には、いつもその作家の本があった。

 その後しばらくは友人からの遊びの誘いを断った。初めのほうは友人達も困惑していたが、自分のことが済んだらまた誘ってほしいというと理解を示してくれた。彼らは子が読書好きであることは知らなかったが、それが父の影響であることは薄々知っていたため向こうからは誘ってこなくなった。これで少し寂しくはなるが、家の中にそれ以上の楽しみがあるのだから仕方ない。

 日を重ねるごとに、少しずつではあるが着実に家から読んだことのない本が減っていった。父は稼ぎがいいというわけではないが、週に一度だけ古書を買ってきてくれる。その多くはとても魅力的であるため、そんな日はしばしば夜更かしをして父に注意された。休みの日は図書館に出向いたりして、まだ見ぬ本と出会ったりもした。

 おはなしも、父が仕事で疲れていないタイミングを見て行われた。ここで父が驚いたことは、本をよく読むようになってから彼のおはなしが見違えるほどに変化を見せたことだ。初めこそ読んだばかりの本のつたない模倣を演じて父に指摘されていたが、回数を経るにつれて構成や展開などの要を徐々に掴んでいくようになった。思い出作りをと思って始めたこのおはなしで、子に学ぶことも多くなってきたのだ。思えば子に勧めてきたのは自分のものばかりであり、それが成長を妨げていたのではないかという自責も生まれてくる。もっと以前からいろいろな本に触れておけば。父はそれでも子の成長を手放しに喜ぶことにした。

 本を読む作業が一段落付いたのか、友人と遊ぶ時間も多くなってきた。その姿は以前より元気がなさそうにも見えたが、あまり気にせずに見守ることにした。川遊びや虫取りの季節も終わり、遊びの選択肢もだんだんと少なくなってきた秋口。友人宅でテレビゲームでもしているのだろうか。なぜか子はゲーム機を持つことを望まなかったため、家にはそういったものがない。ゲームには少し興味があったので、ほしいというのならば一緒に遊ぶくらいのことはするつもりでいた。だから少し残念な気持ちもないではないが、経済的には喜ばしいことなのだろう。

 友人の家にいることの根拠のひとつとして、少しだけ帰って来るのが早くなった。子はいつも夕日を見て帰宅するため、あまり遠出をしていないということだ。それについて子に聞いてみても、あまり話そうとはしない。口を開いても今日は誰と遊んだといった程度のことだけだ。何をした、誰の家に行った、そのようなことはついに知りえなかった。

 それを、父は些細な変化だとは思えなかった。あまり多くのことを言いたがらなくなる時期ではあるのだろうが、それでも何かあった可能性は否定できない。それが友人との間なのか、自分との間なのか、父にはわからない。まして後者であった場合、その要因が何であるかなぞわかるはずもなかった。後になって顧みれば、わかろうとしていなかったという方が正確かもしれない。

 この日、日が山際に沈んでも子が帰ってくることはなかった。父親はできあがった夕飯を食卓に並べ、ずっと待っていた。虫や蛙が我が物顔で合唱し始める秋口の夜。結局帰ってきたのは八時を過ぎたあとのことだった。

「今日はどうして遅かったんだ?」

 その問いに対して、子は答えない。あきらめずに再度父親が問う。それにも返答が帰ってくることはなかった。沈黙は数分の間続いた。

「そこまで黙るからには仕方ない。今日は聞かないでおくから、今度は理由を説明してもらうぞ」

 うつむきながら聞かなかったふりをする子から視線を切ると、席を立った。ラップをかけた器を温めなおすためだ。

「夕飯にしよう。腹が減っただろう」

「いらない」

 衝撃だった。そのようなことを子が言ってくることは今までただの一度もなかったからだ。父は驚きを隠そうともしなかった。

「なぜいらないんだ」

 答えない。子は真意を探ろうとする父と目を合わさぬよう首を横に向けた。

 なぜこんなに頑ななのか、父はわからなかった。子の面倒は十分に見てきたつもりだし、仲も悪くなかったはずだからだ。だからこそ、父は子の態度を咎めることができなかった。

「わかった。お前がそこまでなら、それも聞かないでおこう。ただ、次は説明してもらうからな」

 何か取り返しのつかないことを避けるため、父はそれだけを繰り返した。

 それから数日の間、子は外に遊びに行かなかった。理由を聞いても答えることはないため、察するより他にない。家の本も少しずつ増えていってはいるが、このペースで読んでいてはすぐに尽きてしまうだろう。おはなしも行われず、言葉の少ない日々が続いた。

 夜の訪れは日を追うごとに早くなり、それに従って子の帰る時間帯も早くなってきていた。五時を過ぎた頃にはもうリビングで時間を持て余し、本を読んでいる。

「日の沈む前には帰ってくるんだよ」

 確かに、かつて自分は子にそう言い聞かせてきた。だが口すっぱく言ったのは幼い頃まで。小学校に入り数年が経つ今は、むしろもう少し遅くまで遊んできてよいのではとも思う。それでも子が言いつけを守り規則正しく帰ってくるのは喜ばしいことでもあるから、何も言わなかった。

 冬が近づくにつれ、それを申し訳なく思うことが増える。夕飯まで時間があるのに、ひとりだけ遊びを切り上げて帰らねばならないのだから。嬉しそうに遊びの内容を話す子を見ればなおさらだった。

「おい」

「なに、お父さん」

 本からは目を離さない。

「最近は日が短いから、もう少し遅くまで遊んでいてもいいんだぞ」

「お父さんは、僕が家にいちゃまずいの?」

「そ、そういうわけではないのだが」

「じゃあ、今まで通りでいいよ」

 父は閉口した。子の回答がまるで予想外であったからだ。早く帰ってくるからといって、ふたりの間でなにをするということもない。あってもせいぜい夕飯の支度を子が手伝う程度だ。おそらくは仕事帰りである父を気遣ってのことなのだろうが、そこに流れる空気に耐えられないのはむしろ父の方であった。それなのに、なぜ耐えられないのかわからなかったのだ。結局父が書斎へと戻ることによってこの問題は一応の解決を見せた。

 この日は久々のおはなし。骨子は子が作ってきた。

 小さな国の貧困層の少年が、やがては国中の貧しい人々の前に立ち独裁政権に対し反旗を翻す。ふたりはこのような英雄譚が好きだった。

「それでね。かつての少年は人々に語りかけたんだ。自分たちの不満の正体がなんなのか。こんな暮らしを強いられているのは日に何度も押しかける強盗のせいなんかじゃない。もっとほかにあるということ。力のない僕たちは、もっと勉強しなければいけない。そして選挙で議席を取らなければいけないこと」

「なるほど。そこいらのデモ屋に言って聞かせたいほどの名文句だ。彼が遂に政党を結成するといったところでこれはとてもいい展開だと思うよ。でもひとつだけ疑問があるんだ」

 そう言うと子は少しむすっとしながら首を傾げた。自負心が付いてくること自体は非常によい傾向だと言えたが、それが妨げにならぬと良いのだが。

「なぜ、彼は貧困層の中でもここまでがんばれたのだろう。この国は多くの人が彼のような生活を強いられているはずだ」

「それはね。少年の幼い頃の話になるんだ。彼にはお母さんしか家族がいなかったんだ。だから特に貧しくて、学校も途中までしか行けなかった。でも彼は満足していたんだよ。毎日母親と一緒に暮らすだけ、それだけでいいと思っていたんだ」

 父は隠しきれない驚きが表情に現れることを必死でこらえた。いままで子が母親を登場させたことは一度としてなかったのだ。それは自らの母が幼い頃に亡くなっているからに他ならないのだが、作品を読んで行くにつれおぼろげながら母親というものについて知り始めたのだろう。そのような勘ぐりをしながら、ひとまず話を続ける子に耳を傾けた。

「でもね。この街でそんな幸せが長く続くことはなかったんだ。この日はお母さんがお勤め先から給料をもらう日だった。そうは言っても満足に服も買えない程度のお金しか入っていない。それでも少年はこの日を毎月待ち遠しく思っていたんだ。この日は小さなパンだけじゃなくて、お肉も野菜もすこしだけど食べられるのだから。おいしいねって笑う母親の顔を見るだけで幸せだった。でも神さまはそんな幸せすら許してはくれなかったんだ。お母さんの代わりに血相を変えて家に現れたのは、余り物の食糧を分けてくれていた近所のおじさん。話を聞くと帰り道に強盗にあって殺されたらしい。強盗はすぐに警察に撃ち殺されたけど、少年は何もかもを失った。このとき彼はおもったんだ。貧しくていいなんてことはない。貧しくても得られる幸せなんて、ありえないんだって」

 さあ、次はお父さんの番だよ。そう言ってスケッチブックを回す子の顔を、父は見ることが出来なかった。彼は母親が欲しかったのかもしれない。稼ぎをしっかりと入れながらも、家事を全てこなす。筋張った腕で寄り添うことも忘れなかった。母親の分の仕事もしてきたつもりだ。でも、そうではなかったのだろう。母親というものは必要だったのだ。そして、物語中の少年の決意は額面通りにはならないのだろう。恐らく彼は、力を手にしかつて抱いていた幸福を切り捨ててしまう。その姿は、何と重ねたものなのだろうか。父の胸はきりきりと痛んだ。同時に、何をしてやれるのか考えなければならなかった。

「すまないが、今回のおはなしはこれで終わりだ」

 なんで。おそらくその目をしたであろう子から視線を切って、父親は書斎へと向かった。

 定期的な掃除を心がけていても、使わないところまではなかなか行き届かないものだ。埃をかぶった本棚の一角に、それはあった。

 それはひとつのアルバム。子とふたりで暮らすようになってから、一度として開かれたことはない。だがもう、頃合いなのだろう。

 ごく当たり前の話だが、子には母がいる。父が誰であるかわからないということは多いが、母の真偽を誤ることはない。子は母から生まれてくるからだ。思えば父は子に母のことを何も伝えてはこなかった。

 頃合いなのだろう。父はアルバムを一枚一枚、確かめるようにめくりながらそう決めた。




 いつもより早い時間に始められたおはなし。この日の語り手は父だった。いつもと違うところは時間だけではない。今日はずっと父が話す予定なのだ。子はいつもそうであるように、その目をまっすぐ見つめ聞いた。だからこそ父はいつも通り、その期待に応えねばならなかった。

「ここは郊外の住宅地。一歩外に出ればむき出しの自然が広がるまだ反転途上な街に、ひとりの少年がいた。少年は本を読むのが好きな内気な性格で、友と呼べるような人はあまりいなかった。少年はいつも図書館にいて本の世界に入り込んでいたから、それが人を遠ざけていたのだろう。放課後も誰かと遊ぶようなことはなく、本を借りて帰る。少年にとってはそれで全く問題なかったんだ」

 いつもと違う語り口に違和感を覚えつつも、子はまっすぐな目を向ける。父はその期待に応えねばならなかった。

「この日、誰もいないはずの少年の周りにひとつの変化があった。そこにいたのはひとりの女の子。少年は彼女について、最近転校してきた子だということしか知らなかった。体の弱い彼女は外で遊ぶことができず、本を読むのを好んだ。その点、少年と似ていた。周りの子より少しだけ厚着をした彼女は、何も言わずに少年の斜め向かいに座って本を読み始める。その本をちらと見ると、少年の大好きな作家の本だった。彼女は次の日も、その次の日も来た。広い図書館の中で、いつも少年の斜め前を選んで座った。できることならば、話しかけたい。好きな本について語りたい。だが内気だった少年にはその勇気がなかった。それでもお構いなしに来る彼女に複雑な気持ちを抱いたまま、時間だけが過ぎていくのを少年は感じていた」

「なんだか歯がゆいね」

「結局、小学校を卒業するまでそんな関係は続いた。彼女が私立の学校へ行くことは知っていたため、もう会える時間は残されていない。でも最後の日まで、ふたりが図書館で言葉を交わすことはなかったんだ。少年はそれではだめだと思った。だから最後に言ったんだ。精一杯考えた言葉を。一緒に読んでくれてありがとう。僕、その人のおはなし大好きなんだ。そうしたら、初めて彼女が笑った。私も好きだよ。だからいつか一緒に読も。そのときは、あなたのおはなしも読みたいな。最後にその言葉を聞いた」

「やっと言えたんだね。でも、少し遅すぎたみたい」

 この時すでに、子は父の様子の変化に気づいていたのかもしれない。今までより落ち着いて、じっと聞いていた。

「中学に入って、またひとりになった。少年はかつての通り図書館で本を読む生活を始めようとしたんだ。でも、どうにもうまくいかない。ずっとひとりで本を読んでいるのに耐えられなくなったんだ。ひとりで本の世界に入って、登場人物に触れて、展開を楽しんで、それで良かったはず。それなのに、何が足りないというのだろう。少年にはわかっていた。でも、わからないふりをしたんだ」

「どうして、わからないふりをしたの? やっぱり、あの女の子の存在は大きかったのかな」

「きっとそうだったんだと思うな」

 子はその違和感について考えていた。いつもとは違うということだけは理解できたが、それ以上のことはつかめなかった。

「だから、休みの日なんかは遠くの図書館へ行ってみたりした。科学や歴史など、小難しい本もたくさん手に取った。まだ読んだことのない本は決して少年を退屈させたりしなかった。でも一番の目的は、ついに達成されなかった。彼女は、どこにもいなかったんだ。街に行けばたくさんある図書館。その多くで常連になるころには、少年はもう彼女のことを忘れることにした。見つけられなかったのだから仕方ない。そう思うことにしたんだ」

「もうあえないのかな」

「その時の少年は、そう思っただろうね。彼女とは二度と会えない。そうしてはじめての夏休みが終わると、少年はだんだん本の世界に浸ることが少なくなっていった。そのかわりに、ある別の気持ちが湧いてきたんだ。それは彼女が最後に残した言葉だった。自分で世界を作りたい。自分だけの物語を作り、それをいつか彼女に読んでほしいと願った。幼い頃から本を読み続けてきた彼には、すでにそれをするだけの力があった。そこから数ヶ月は、家でも学校でもペンを取れば自分だけの世界を描いた。卒業するころになると燃えるような熱意はやや収まっていたが、代わりに数十センチの紙の束があった」

「少年は、女の子のことを忘れられなかったんだね」

「そうだね。でもそれだけじゃない。自分の中の世界に、自分自身で気付くことができたんじゃないかな」

 子はひとまず他のことを考えないように努めた。聞き入っていようとしたのだ。

「高校に入ると文芸部というものがあったので、少年は入部してみることにした。僕と似た人が多いかと思っていたが、存外明るい雰囲気だった。そこで初めて、少年は自分の世界が他の人の目に触れることとなったんだ」

 少しだけ毛恥ずかしそうにする父を子は見逃さなかったが、疑問は抱かずに見つめ続けた。

「少年の描いた物語は、先輩たちに高い評価を受けた。自分ひとりで書いていたためまだ荒削りだが、このレベルの一年生はおそらく類を見ないそうだ。少年は人と比べるのにさして興味を持たなかったが、地方が主催のコンクールというものがあるらしいのでそれに向けて一作書くことになった。初めて、誰かに見られるという前提の物語を書く。その事実は少年の筆を鈍らせるに十分だった。結局入選したものの、その先につながることはなかった。自負心があったわけではないが、少年は自分の物語が霧にまぎれてしまうような感覚を覚えた。うまく書けない。そう思ったのは初めてだった。そんな時、高校文学界にあるひとりの名前が上がってきていることを知った。一年生でありながら全国規模のコンクールで大賞を獲得した。それは、ほかならぬ彼女だった。彼女の文は、受賞作の中では異質と言わざるを得なかった。劇的な展開は少なく、むしろ緩やかな構成。柔らかなタッチで描かれた文。それらは読者を決して置き去りにせず、優しく引き込んできた。少年は、これにはどうあってもなれないと思ったんだ」

「女の子も、書くことと出会っていたんだね。もしかすると、少年よりもずっと前から」

 そうかもしれないね。そういうと父は視線をやや遠くへ向けた。

「そして少年はいてもたってもいられなくなった。彼女の連絡先は小学校の頃から変わっていないだろうか。引っ越したとすればその話が自分まで届くはずもないが、中学で別れた以上藁にもすがる思いだった。呼び出し音。三回目で受話器を取ったのは、彼女ではなかった。もとより彼女の両親の声など知る由もないが、そういうわけでもなさそうだ。話によるとどうやら三年ほど前に越してきた人のよう。つまり彼女はもうこの家にはいない。目の前が真っ暗になるとはまさにこのことだった。探すあてはあったが、それをすべき時ではない。でも、ひとつだけ彼女に確実に近づける瞬間があった。それは表彰式だ。彼女と同等の賞を得て彼女と同じ場所に立てば、きっとまた会える。それは間違いのないことだったが、同時に途方もないことでもあった。少年はそう決めると、なぜだかそこでしか会えないような気がしてきたんだ」

「安易に会おうとはしなかったんだね」

 返す言葉の代わりに、父はひとつ頷いた。

「そして少年はもっといい文をかけるように工夫を始めた。もっとも、彼に物語を教えてくれたのは数百、千にのぼる本たちだった。表現や構成もそうだ。だから少年はもっと本を読んで、もっと文を書こうと思った。それだけが彼女に近づく手段だと、固く信じていた。実際彼の読書量と執筆量は以前の倍以上のペースとなり、結果を伴い始めた。それは冬を越えた辺りのこと、このようなことを言う人がいた。高校文学に二つの才能あり。ひとつは深い見識とセンスが生み出すたゆたうようなやさしい文。もうひとつは一見して平易で荒削りなようでいて、練り込まれた力強い文であると。それを知った少年はその喜びを抑えきれず、近くて遠い人に想いを馳せたんだ」

「すごく頑張ったんだね。また会うためだけじゃなく、自分がいい文を書くためか。なんか、わかる気がするな」

「二年の夏、少年は渾身の一作を投じた。そしてついに彼女に逢うことができた。表彰式で遠目に見た彼女に、少年は駆け寄る。その時彼女は、少年を見て言った。ありがとね。ずっと覚えてたよ。彼にとってはそれだけで十分だった。そして彼女は意地の悪そうな笑顔をつくった。ここまでこれたご褒美。またあの時みたいに一緒に読も?」

 子は父の表情を気にかけつつ、聞き入っている。

「少年は彼女とともに図書館で本を読むようになった。時に文を書いたり、テストが近づくと勉強したりした。彼女は英語が堪能だった。聞くと原書の文に触れたかったからだという。知識の面でも、彼女は何もかも上手だった。ただやはり体は弱く、元気のない日も多い。それでも会うと決めた日には欠かさず来てくれた。ふたりはよく文の見せ合いをするようになった。互い多くの本を読んできたから、長所や改善点がよく分かった。ふたりはそれを気兼ねなく口にした。それは確実に、ふたりの成長を促した。そしていつ頃からだろうか、少年の中に淡い感情が芽生え始めていたのは。その時はまだ、よき戦友として一緒にいたいと思っていた」

 父が深く息を吸う回数が増えてきた。夜はまだ長そうだが、子の目に眠気の色はない。彼とて察しの悪い方ではないのだ。

「大学受験の時期が近づくにつれて、ふたりは勉強に重きを置くようになっていった。偶然にも、ふたりは同じ大学を志望していたんだ。だから共通の科目があるときは協力して取り組んだ。ふたりは無事に合格し、大学生活を始めた。著名な文芸部があることも、この大学を選んだ一因だった。むしろその点で一致していたからこそ、二人はこの場所を選んだのだろう。環境は違えど、二人にとっては同じだった。ただともに過ごす時間が増える、それだけのことでしかない。だが大学に入り文学賞への応募などもし始めた頃、少年は気づいた。今までの自分が、全く通用していない。事実として、彼女は着実に文壇で力を伸ばしているのに対し、少年にはあれから何の音沙汰もない。その理由が少年には分からなかった。そんな少年を、彼女はよく外へ連れ出した。都会や田舎の風景を見たり、時には遠くまで旅行まで行ったりした。景勝地を歩いてきれいな空気を吸った。工場を見たり機械を組んだりして、物のつくりを知った。短期だが働いたこともあった。結局少年が自分でやったと言えるものはないが、多くの経験をした。だがこのときの少年は、彼女に対して疑念を抱いていた。もう少し文を書くことについて教えてほしいのに、遊びに行ってばかり。そう直接言ったこともあったが、その答えは返ってこなかった。遠出からもどってから数日は部に顔を出さないことも、わからないことのひとつだった」

「彼女にはなにか目的があったのかな」

「そのことなんだが、ふたりが遠出を始めてから二年が経った頃のこと。ある文学賞に応募することになった。それは新人作家の登竜門と言うべきもので、ふたりの目標のひとつだった賞だ。このとき、少年は今の自分がいい文など書けるはずもないと思っていた。だから辞退しようとしたんだ。だが彼女はそれを許さなかった。少年にはなぜ彼女がそのように強気なのかわからない。それでも信じてみることにしたんだ。そして蓋を開ければ、少年だけが受賞という結果だった。彼女は、選ばれなかったのだ。晴れて文壇入りを果たした少年は、わかっていたのかと彼女に聞いた。彼女は張り付けた笑顔を崩さずに頷いた。あなたには、外の世界を見せてあげたかった。もし私とあなたに差があるとすれば、そこだと思ったの。聞けば彼女は、中学高校を休んで働いたり旅に出たりしていたのだとか。目で見て肌で感じることを、彼女はすごく大事にした。それでこの大学に入るほどの力をつけるのだから舌を巻くしかないが、ともかく彼女は自分が辿った道を見せてくれたのだ。そこから、ふたりは多くの作品を残した。世に出たものも少なくはなかった。だが売れたのは、彼女の方だった。評論家は思い思いに評価したが、それも頭に入ってきたのはいかほどだろうか。ともかく少年は、それを当たり前だと思った。大学を出て働こうというとき、彼女は作家として生きていくことを決めた。既に収入は得ており、今の金には困らないだろう。もはや少年ではなくなった彼は、地元の会社に就職することとなった。その頃から、彼の名は文壇から消えた。そして生活が安定した頃、彼はずっと言っていなかった言葉とその先の言葉を言うことにしたんだ」

「それって、彼女に?」

「そうだよ」

 父は目を覆っていた。包み隠すことがもうできなくなったのだろう。子は既にわかっていたので、何も言わずに聞いていることにした。

「彼女はそれを受けてくれたが、少し浮かない顔をしていた。その理由は彼にはわかった。だからこそ決めた。すべきことは多いが、それは受けいれるべきことだった。なにやら大事になりそうだったので、家族だけの小さな式を挙げた。それからも彼女は活躍し続けた。時には僕の収入を凌駕することもあったが、浮き沈みの激しい文壇でそううまくいくことも少なかった。ふたりの年齢が三十へと近づいたころ、彼女は身ごもった。彼はいたく心配したが、大丈夫とだけ口にした彼女を信じることにした。それでも彼女は書くことをやめなかった。その頃から、彼女のペンネームが変わった。それは、作家としての彼の終わりを意味していた。だが、それでよかった。これからは仕事のある彼と体の弱い彼女でふたりで作っていける。だが彼女の体への異常は、このときすでに始まっていたのだろう。無事に男の子が生まれ、二年も経てば育児の傍らで執筆活動を再開することができた。それで安泰になったと固く信じていたんだ。だが、幸せだったのはそこまでだった。生まれつき人より弱かった彼女の体は、もう限界を超えていたんだ。それは突然の出来事ではなかったのだろう。病室で見た彼女は、見違えるようにやせていた。そこからの彼女は、もう一日に何時間もペンを取ることはできなくなった。だがそれでも、彼が来ると一緒に構成を考えたり執筆したりした。ペンを置くと崩れ落ちるように眠る彼女には、書くことでしか世界とつながっていられないような危うさがあった。そうしておそらく最後となるであろう、ふたりの作品が出版された日のことだった。鳴り響く着信。病院に駆け込むと、もうそこに彼女はいなかった。記者も多く来たが、彼は毅然として寄せ付けなかった。葬儀も家族だけで小さく行った。彼女の遺品を整理すると、その中に病室で書いたであろう一作があった。ペンネームは、かつて少年を導いてくれた、あの名前だった」

 これで、俺のおはなしは終わりだよ。そう言って目尻を押さえる父を、まっすぐ見つめた。

「それが、僕のお母さんなんだね。幼い頃は何度も見たんだろうけど、もう覚えてないよ」

 あと。子はもう一つ、言わねばならないことがあった。

「ごめんなさい、あの時遅くなって。友達とお母さんの話になったとき、何も言えなかったのがすごく悔しかったんだ。それで帰りにひとりで考えてたら遅くなっちゃって。その時はなぜか気まずかったから、お小遣いで食べてきたんだ。でも、お父さんの料理を、あんなにおいしい料理をいらないなんて言うほどじゃなかった」

 父は子の目を見返し、そんなことはもういいと手を振った。そして、言った。

 物語を、書いてみないか。これはむしろ願いと言うべきものだった。母が遺したものを、少しでも継いでほしい。外を駆け回る子の姿に、かつて父の手を引いた母の姿を映したのだ。

「僕にできるかな」

「できるさ。俺と母さんの文を気に入ってくれたお前なら」

 子は知られていたのかとすこし頭をかいたが、すぐに笑みを浮かべた。

 ねえ。子は父に問いかける。

「お父さん、これから忙しい?」

「明日からは遅くならないから、いつでも大丈夫だぞ」

「じゃあ、おはなしは今日で最後だね。明日からは書き方、教えてよ」

 もちろんだ。父はそういう代わりに、子の肩を強く抱いた。

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