赤い悲しみ

 降り注ぐ熱を余さず吸収した石造りの家屋は、もはや壁に触れることすらかなわない。そんな中にあって僕は、なけなしの木々で作ったむしろの上に涼を求める。この日は客が来るため、少しでも熱を逃がしておきたかった。

 今日のような日差しの強い日に外に出ると、君はいつも右手で目に刺さる陽光を遮っていたね。ほら、これなら眩しくない。そう言って君は目をぱちぱちさせてからこちらを向き、にっと笑みを浮かべる。そんな時、僕の視界には太陽がふたつあるように見えた。眩しさはもう十分間に合っていたのだがと、僕はひとり苦笑する。そのくせ君は、空の出来事に目ざとく反応した。ほら、大きな鳥が飛んでいるよ。やつみたいに地上から離れて風を感じたら、きっと涼しいだろうなあ。そんなことを言いながら、君はいつも笑っていた。

 我が国の敗北で戦争が終わり、兵站の面でも無謀な東征が行われることはなくなった。これで当面の僕らを脅かすものは暑さをおいて他にない。そんなかりそめの平穏に包まれた街を眺めるとき、本当であればと無理な相談がよぎるのを僕はいつも必死で抑えてきた。だが抑えても抑えても、ひとつの疑問だけが消えてくれなかった。あの冷たい砂の中で、鳶色の綺麗な目をした君は何を思っていたのだろうか。

 誰を想って、いたのだろうか。




 思えば果てのない行軍だった。礫砂漠の熱は天から肌に突き刺さり、地から全身を包み込む。足並みをそろえんと鼓舞する人の熱も、それらに決して劣るものではなかった。司令が馬上で憮然としているのに対し、小うるさい士官などはどこにそんな元気があるのか足を踏み鳴らし怒号を飛ばしている。もっともそんなもので士気が保てるのであれば、誰であれスパルタ兵にでもなれるというものだ。そういった状況が積み重なり、先の開戦で精強をもって鳴らした我が軍の兵といえども脱落者がちらほらと出始めた。周辺の切り取り騒ぎの果てに、東の方角にその支配欲を向け始めたのはいつ頃だろうか。どだい食糧も水も十分に確保されているという方に無理があり、こうなるといくら鼓舞しようが効果があるとは到底思えない。国境線ばかりに心を奪われ明瞭な地図もなしに夷狄の地を踏んだその時から、我が軍の間違いは始まっていたのだろう。

 君はそんな地獄の中で、鼻歌でも歌うような涼しげな顔で歩いていたね。対照的に息も絶え絶えな僕を見るに耐えかねた君は、手など差し伸べてきたものだ。僕がやや短めの歩兵槍を持っているのに対し、君は両手持ちの長剣を背負っている。本来であればまっ先に音を上げそうな君にそのようなことをされては、つらそうな顔など二度と見せられなくなってしまって閉口したよ。砂漠の只中に湧水が見えたときも、士官の声を無視して飛びつく兵に混じらず君はじっと汗をぬぐっていたね。そうなると僕も、そのおよそ行軍中とは思えない烏合の群れに加わることはできなくなった。

 歩いているうちに、この先で本当に戦うのかという疑問が湧いた。いくら数において圧倒していても士気の低下は疑うべくもなく、馬車に積まれた保存食は一万を超える兵を目的地まで養いきれるとは到底思えない。勝てるのかということもあった。だがそれ以上に、勝った先にあるものが僕の内側を暗くした。おそらく飢えに飢えた我が軍は掠奪の限りを尽くすだろう。兵も民も殺され、奪われる。それについては、今から戦地に赴く身としては受け入れるほかないのかもしれなかった。

 そのようなことを考えながら歩いていくうちに、ついに敵国の街を発見した。この地方の街といえば城塞都市のような外見のものがほとんどで、ここも例に漏れず長大な壁に囲まれ門は固く閉ざされている。もとより空を見上げて方位を知るような世界で、初めから街の場所がはっきりわかっているはずもない。だからそれは奇跡というほかなかった。もし何もない荒野で敵に見つかれば、飢えと渇きでなすすべなく潰走しただろう。もっとも馬車数百台分の食糧を食いつぶして行軍した我々に、退く先などありはしないのだが。

 陣を構えて一晩待つ。やっと拠点となりうる地を発見した我が軍は、慎重に行動することにした。発見されるのを嫌ってすぐに仕掛ける手もあっただろうが、少なくとも休息は必要だろう。食糧をやや多く配ることにより兵の体力を回復させ、敵の増援にも対応できるようにしたほうがいい。僕はどうも寝つきがよくなかったので、野営地を少し歩いて気を紛らせていた。兵士たちは眼前に迫った目的地に飛びつきたい衝動を抑えながら、合戦に備え眠りについた。疲労は皆限界に達していたため、ほとんどが熟睡していた。

 仮設の櫓で物見を任されている兵士とて例外ではない。彼は襲いかかる睡魔に耐えかね、その責務を放り出していたのだ。結果として、城壁の上に揺れるかがり火に気づくのが遅れた。敵はこちらを発見したと考えるのが妥当だろう。無論十分な距離を置いて陣を張ってはいるが、それでもこちらから視認できるということは向こうからも発見できるということだ。君はおそらくこのとき目を覚ましたのだろう。物見の会話に耳を傾け、状況を把握しようと努めていた。

 結局夜が明けても、敵が襲ってくることはなかった。考えることは同じで、警戒しつつ開戦に備えることにしたのだろう。君は人一倍疲れているはずなのに、武器を手に浅い眠りに耽っていた。結局は熟睡してしまっていた僕は、眠い目をこすりながら部隊のもとへ向かった。

 隊列を整え、南北にある城門に取り付くため歩を進める。約五千の軍勢がそれぞれ門の前に集まった。行軍する兵の体力を大きく削ってまで用意した攻城兵器。地面との衝撃を少しも吸収しない拙い車輪で、木の幹を門に向かって叩き込むだけの単純なものだ。だが程度の差こそあれ、これで破れぬ門はない。事前に察知していた敵は門前に部隊を配置し、かつ取り付く兵に対し城壁の上から矢を射かけてきたり投石したりといった迎撃を試みる。だがそれも大軍の一部を削ったのみで、多勢に無勢は否めなかった。

 あとはもはや流れ作業でしかない。観音開きに開かれた門から殺到する軍勢は、一晩でかき集めたであろう手勢ではどうすることもできなかった。制圧された都市からは、まず男が消える。次に食料が消える。その混沌の中で、数日もすれば女も消える。ここは本土を狙う踏み台でしかなく、のちに植民することを考えると滅ぼしておくのが賢明といったところなのだろう。疑問に思わなかったわけではない。だが、もとより侵略しにここに来た我が軍がここで手を緩めることなどあり得ないことだった。

 制圧から再出発の用意をするために一週間もの時間を要した。敵兵に本国の位置を吐かせることが主だったので、兵たちは暇を持て余すこととなった。戦いに備えて剣や槍の技を磨く殊勝なものがごく僅かにいる中で、多くの兵は娯楽を求めた。土地が痩せてろくな麦が取れぬのか、酒はとても美味と呼べるものではない。その上女はというと、垢抜けぬ醜女ばかりであったという。色香を覚えてこなかった僕にとって、それは関係のないことであったが。

 そんな中君は、自由行動を許されている時決まって城壁の上に登った。東の方を向き、陽光に背を焼きながらじっと遠くを見ている。背後が眩しくなり東の空に夜が現れた頃、ほっと一息つき当番に戻る。できる限り同行している僕は、その後少しだけ見てから家屋へと戻った。小隊ごとに区画が割り振られており、そこの建物は自由に使って良い。少なくとも野営地よりは柔らかいベッドの上で、出陣を待つ兵たちは夜を明かした。ただいくら柔らかいとはいえ我々の手にかかった誰かが生まれ育ち、その上で別の誰かを愛したベッドである。とても寝心地が良いとはいえなかった。それに耐えかねた君は、ここでも問題ないと絨毯の上で寝ていたね。

 そのような日々が終わり出陣する日付は、数日も前から通達されていた。このような娯楽もない場所に名残惜しさなどなく、淡々と準備は行われた。さすがの君も、昨日ばかりは城壁へ向かわず部屋でひとり休んでいたね。敵が来る心配はないということだろうか。でなくとも、長剣使いの君が行軍に備えて僕より多く休むのはごく自然と言えた。重装兵は戦場の中心に立ち戦線を支えるため死ぬ危険も大きい。僕が君を慕っていたのは、そういった側面もあるのだ。できることなら、そう思ったことも伝えたこともある。だが君の意志は強かった。

 出発して数日は、日差しの強い昼間を避けての行軍。あれだけ降り注いだはずの熱は夜になると嘘のように逃げていくが、幸いにも無風のため気温の割に寒くはない。足取りが軽いのは今だけだとわかってはいるが、快適なうちに距離を稼ぐのも大事なことだ。終着点がわかっている以上その道に狂いはないため、兵の士気も良好である。このまま攻め潰していくだけだと、おそらく誰もが思っていただろう。

 人間暗くなければ十分に休めないもので、昼の暑さを考慮してもやはり夜に眠る生活のほうがいいらしい。そういった理由から、うだるような昼間の行軍が増えた。また出発時のような地獄の風景だが、前述したように目的地が明瞭である以上前ほどの絶望はない。

 次の都市への道もあとわずかといったところまで来たある夜。この頃になると疲労で陣を築くことすらままならなくなり、馬車からテントを取り出し各々が勝手に休むようになっていた。物見は櫓を築くところまではするのだが、警戒はろくにしていなかった。安心という、戦地で時に命さえ奪いかねない悪魔が目覚めていたのだ。

 歩き疲れ誰も目を覚まさない夜、君は一体どこにいたのだろうか。同じように寝ていたとは考えにくい。ただ君は、少なくとも君だけは見たのだろう。野営地をとり囲み、僕らを焼き尽くす火の群れを。敵は我々の存在を知って大軍を用意していたのだ。

 君は声の限り叫んだ。おそらく火は我々を取り囲んでからつけられたのだろう。だから気付かなかった。気付けなかったのだ。一兵卒では夜襲の可能性を進言することすらかなわない。おそらくは毎夜、彼はひとりで見ていたのだ。

 そこからの敵の動きは早かった。乾いた麻でできた野営地はすでに大部分が焼け落ちており、寝起きと思しき兵の中にはその炎だけで逃げ惑うものもあった。それでも大部分は各々の武器を取り敵を迎え撃とうとした。服装は闇夜でもわかる生成り色で揃えられており、同士討ちの心配はない。

 が、そのようなことよりも重大な問題があった。それは数だ。敵はこの夜襲に、どうやら八千は優に超えるであろう軍勢を用意してきたのだ。その二千の差は、奇襲を受けた身としてはあまりにも少なすぎた。そもそもこの短期間でそれほどの軍勢を用意できる国に戦争で勝てる道理はない。やっと戦況を見渡せると思った頃には、既に敗北は野営地全体を包み込んでいた。

 退け。誰かが、おそらく司令官がそう言った。今であれば追っ手より先に我が軍の支配下の街まで戻ることができる。ただその見通しは、誰かが殿となり命を投げ打って足止めすることを前提としたものだった。それも確かに僕の命運を決定しはするのだが、本当に気がかりだったのはそのようなことではない。逃げる列の中に、他でもない君がいるかどうかだった。ただこの時は確認をしている暇などなく、振り返る時間も惜しんで逃げ続けた。無論とても走れるような条件ではなく、もはや気力のみで帰ったというべきだろう。

 果たして僕たちは無事に帰り着いた。先日攻め落とした拠点に入った時は、惨めに敗走したことへの悔いよりも生還した喜びの方が勝った。

 当然、また攻めに行くだろう。まだ手勢は残っている。敵が万全の状態で待ち構えているとはいえ、我々ならば攻め落とすことが可能だろう。絶対に、行かねばならない。その理由が僕にはあった。どこを探しても、ただひとりの姿が見えなかったのだ。僕はひたすらにその日を待った。

 数日を過ごしているうちに、本国へ飛ばした伝令が帰ってきた。我々の身の振り方を訪ねたわけだが、その答えは僕にとって最悪のものであった。東方面からの撤退。以前から仲の悪かった南方の国々が突如として同盟を結び、手薄になった国境を狙っているらしい。それに応じて我々も国内で軍備を整える必要があるそうだ。そのため当分は侵略戦争は行わないだろうと言われているが、もはやそのようなことは僕には関係のないことであった。

 そこから僕は軍を去り、一月も何もない日々を過ごした。




 兼ねてから予定していた来客が現れた。彼は先の東征の生き残りとして、つい数日前にこの街に戻ってきたのだ。時期を考えると、生きて戻ってくるのはおそらく彼が最後になるだろう。だからどうしても、聞いておかねばならなかった。彼は話の前にと、持ってきた包みを開いた。中にはほかならぬ人が愛用していた長剣が一振り。それは、君がもう帰らぬという事実を雄弁に語っていた。

 来客はひとつ深呼吸をすると、まるで空から言葉を紡ぎだすようにゆっくりと話し始めた。




 去っていくあなたたちを背に、我々は敵の前に立ちはだかった。私は先頭に立って剣を振るう彼と共に、迫り来る敵を討った。幸いにも個々の実力では我が軍がまさっていたため、武芸巧者ではない私でも十分渡り合うことができた。とはいえ戦力差は疑うべくもなく、戦況は絶望的だ。当然それは、殿として退却する味方を守り抜くという前提があるからである。二千にも満たない手勢で、八千を超えるほぼ無傷の軍勢を相手にするのは土台無理があった。

 海のような人の群れに、一羽の雁が襲いかかるようだった。その先頭に、ひとりの鬼神がいた。そう、彼のことだ。彼はその長剣を軽々と振り回し、ひとりまたひとりと敵兵を斬り捨てていった。

 私は彼の後ろで背後を取ろうとする敵を斬った。真っ向から向き合えばもとより精強な我が軍のこと。彼が一歩も退かないから、誰も後退できなかった。

 翼の折れた雁は、その身を三日月へと転じ敵を迎え撃つ。彼を中心にして陣が組まれたんだ。

 もとより夜襲から始まった戦闘。疲労は限界など優に超えていた。私は意識もなく、ただ彼と敵だけを虚ろに捉え剣を振るっていた。そうしていつまで戦っていただろうか。こちらの兵がもはや数えるほどしかなくなった頃のことだ。敵が突如として退却したんだ。殿ごときにこれ以上の損耗は避けたいという考えなのか。敵はまだ余力を残した足取りで去っていった。ともあれ我々は、退却戦には勝利を収めた。

 私はすぐに彼に駆け寄ろうとした。だが彼は去りゆく敵が見えなくなるや否や、膝から崩れ落ちたんだ。重厚な鎧に隠れた傷は、表情のせいではたから見れば平気なように見える。だがよく見るとすでに腹に大穴を開けていたではないか。このとき彼はもう助からなかったんだ。だからそのまま彼の手を取り見送った僕は、同様にして倒れ込む兵士も見送って家路に着いた。途中いろいろあって遅くなったが、君には関係のない話だ。これで僕が皆にして回った話は終わりだよ。

 でもね。君だけには、この話の続きをしておかなければいけないんだ。




 乾いた風が強張った頬を撫ぜる。来客はこれから最も大事なことを言うために、ひとつ深呼吸をした。それがわかった僕は、震える手を押さえ、霞む視界を閉ざし、それを聞く用意をした。それは僕にとって、答え合わせだった。



 死にゆく彼に、私はせめてと言葉を求めた。我が軍は無事に退却したのだね。彼はまずそのことを口にした。私が無言で頷くと、彼の表情が少しだけ緩んだ。

 でも彼がもう一度口を開いたとき、乾ききったその目から二筋の線が落ちていたんだ。その線は、鮮やかな血の色に染まっていた。

 彼はあなたに伝えて欲しいと言った。

 帰れなくてごめん。あと、もう一つあった。でもすまない。それだけは聞き逃してしまったんだ。その言葉を発するとき、彼はもうそこにはいなかったんだよ。

 遺言すらあなたに届けられない、至らぬ私をどうか許してほしい。




 そこからのことは覚えていない。気が付いたとき僕は長剣を両手に持ち、町のはずれの渓谷にいた。ここに立つ僕は、紛れもなく君が守ってくれた命。それは不義理だった。でもそれは、はじめからわかっていたことだ。君がいない世界など、僕には耐えられないのだから。剣を強く抱き自分にそう言い聞かせる。そのまま崖に背を向け、切っ先を胸に当てた。そのとき僕の脳裏に浮かんだのは、鳶色の宝石と、地上の太陽だった。

 僕はすべきことをした。

 聞くことのできなかった言葉を胸に。

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