一振りの言葉


 文久二年の夜、京の道にふたりの剣士がいた。ひとりの剣士が退屈を噛み殺しながら道を歩いていると、前方からもうひとりの剣士が歩いてくるのが見えた。この道をよく通る剣士も、見たことがない風貌。だが捨てておける手合いではないと、直感が互いにそう伝えていた。肩が触れるか触れぬかという距離ですれ違ったふたりは、その五歩先で立ち止まった。

 啖呵を切ったのは向こうだった。

「そこの者、名をなんと申す」

「名乗る名など持ち合わせてはおらぬ。御前様とておなじであろう」

「その通り。剣士ならば、これで語るものよ」

 ふたりの剣士は柄に手をかけた。数分の沈黙。いくら己の剣に自信があるとは言え昨今の京のこと、おいそれと抜いていては命はない。治安維持を名目とした連中が跋扈するようになってから、この道も剣客にとって随分と窮屈になった。

 抜いた、という表現は間違いではない。それは抜いたという結果だけを指しており、抜くという動作を誰も見ることはなかった。金も女も行き交う京の道。街の行灯もまばらな宵に、ばちばちと言葉が走った。

 双方、居合の達人であった。しかも全くの互角。

「ほう、どうも一味違うらしい」

 剣士はその切先を天へと突き上げた。夏空に舞う蜻蛉に喩えられたこの構えは、上段というにはあまりに無粋で、それでいて洗練されすぎていた。

「薬丸流か。攻めしか知らぬ芋剣術よ」

 剣士は口とは裏腹に、侮った様子も見せず平青眼に構えた。今の世には中段と呼ばれることも多いこの構えは、攻防に隙がないいわば基本である。

「では、参る」

 それを言った剣士は特異な構えを変えず、まっすぐに距離を詰めた。一歩、二歩。そして静かに、それでいて猛然と飛びかかった剣士は必殺の初撃を振り下ろした。見切ったとはいえ間一髪のところでかわした剣士は、行き違った相手の方を向き直す。

 かわされたから間合いを取り直す、そういった法は薬丸流にはない。攻めの手を止めるときは、雌雄が決しどちらかが死ぬときだ。蜻蛉に持ち直し即座に間合いを詰めると、剣士は怒涛のような連続攻撃を繰り出した。

 一方の剣士は平青眼をやや下に構えた。彼が最も得意とした、攻める敵の小手のみを狙う堅牢な受けの構えだ。これにより安易な接近を許さないが、その空間に強引に割り込んでくる言葉は容易には受けきれない。かといって一撃ももらうことはできない。薬丸流は一振り一振りが必殺。防御をかなぐり捨てた圧倒的な攻撃力が持ち味だ。

「しかし、袈裟しかないでは」

 剣士は狙いすまされた小手打ちを造作もなく払うと、そのまま姿勢を低くした。

「受けきれると、そう申すか」

 逆袈裟。裃の腹部を裂かれた剣士は意表を突かれつつなおも動じず、間髪を容れぬ追撃に対しこれも逆袈裟で返した。いくら読んでいても空中で完全に避けきるのは困難であり、蜻蛉の腹が赤くにじんだ。

 膠着した。振り上げられた構えには思いのほか隙がない。下段でじっと待っている相手に一度見せた手は通用しないだろう。互い、手詰まりだった。

 そんな折、騒がしく寄ってくる蒼っぽい輩があった。

「来たぞ」

「そうか、ならば仕方がない」

 敵は四人。顔を見る限り、名のある者はいない。だが集団戦に熟達しているため、その実力の割に油断ならない敵だ。

 浅葱の羽織に風を切らせ京の町を闊歩する、元はと言えばごろつきの群れ。剣士にはそれくらいの印象しかない。屯所は赤い旗に彩られ、剣も扱えぬ志士などはそれを見るだけで震えあがったものだ。だが、その人数の割にやり手は少ない。所詮は田舎剣術、その理合でも技でも大きく劣っていると剣士は疑わなかった。

 対する剣士は、先程とは色の違う殺気をまとった剣士の服装に見覚えがあった。

「いらぬお節介かもしれんが、逃げ道はある。御前様、二本松だろう」

「いかにも」

 互いの目も見ずそんな言葉を交わすと、既に敵はそこまで来ていた。自然、一対二となった。集団戦は連中の十八番だ。一人が斬りかかり、受ければもう一人に斬られる。一人に斬りかかってももう一人に斬られる。単純だが、それを極めた場合突破するのは困難となる。

 隙を見て逃げるが得策だが、そのような法はやはりこの必殺の剣には存在しない。

 薬丸流独特の奇声。本来であれば自己を高める以外に意味のあることではないが、一対多なら威嚇にはなるだろう。実際敵に二の足を踏ませるだけの効果は見受けられた。その隙を逃さず、まずはひとり斬り伏せた。呆気にとられた残りも、間髪を容れず飛びかかり叩き斬った。ふたりいるから手ごわいのであって、こちらに来たのは向かい合えば取るに足らない敵ばかりだった。

 一人目に対し鮮やかな小手。すかさず飛んできた相手に対し身を翻して避けると、ここで向かい合った。数回斬り結ぶも、決め手はない。この時間に巡回している隊士は弱いという噂だが、この男は少しばかりやるようだ。

 が、すでに二対一。形勢はとうに逆転している。もはや戦う意味もないため、ふたり目を合わせ薩摩藩邸のある二本松へと向き直した。双方、脚力には自信があった。騒ぎを聞きつけるより先に逃げるが吉である。

「ではな」

 ある程度進んだところで、薩の剣士はそう言って道を分かった。追っ手は一人だが、そいつとておめおめと屯所に帰れば切腹の憂き目に遭うことに疑いの余地はない。決死なのはむしろ敵の方だと察した長の剣士は、くっと踵を返すと追っ手と向き合った。

「決着をつけよう」

「情けか。藩邸は目と鼻の先にあるぞ、長州」

 まあそんなところだ。その一言を噛み殺して、長の剣士ははばかりもせず抜き去った。その得物を頭上に振り上げ、右手を宙に固定した。

 片手上段。薩の剣士と立ち合った時とは真逆の、攻めの構え。そらどうした、かかってこい。そう言わんばかりの構えで、未だ剣を収めぬ隊士に向き合った。

「舐めやがって」

 こうまで馬鹿にされては我慢ならぬ。もとより死んだ身であるため、退く理由も二の足を踏む理由もない。癖のない中段に構えた隊士は、まっすぐに距離を詰めていく。そうして精彩を欠いた言葉は、興が冷めたままの剣士には容易に見切ることができた。

「筋は悪くない。が、あのような所にいては」

 一刀のもとに切り伏せた長の剣士は、まだ息のある隊士を振り返った。彼はようやく起き上がり大あぐらをかくと、顎をくっとあげた。それはただひとつ、彼自身の矜持を守ることだった。

 惜しい剣だ。剣士はその言葉を一刀に乗せ、手向けた。


 


 長の剣士が驚いたのは、あれほど殺気を感じた薩の剣士は思いの外頻繁に道を歩いているということだ。自分の勘を信じるべきならば、今まで一度として出会わなかったと考えるのが妥当であろう。だがそれもそれで不可解なのだ。彼がここに来てから決して日は浅くない。ここ数日疑問に思っていたが、その理由は知れることとなった。

 この日長の剣士が用あって込み入った京の道を歩いていると、雑踏の中に一人の男を見た。前回会った時が嘘であるかのように、まるで殺気を感じない風貌。なるほどこれでは気にも留めぬはずだし、会った記憶もないはずだ。

 そうこうしているうちに薩の剣士はこちらに気がついた。その右手は既に鞘を握っていた。

「長の者。また会ったな」

「ならば、死合うのみさ」

 無論のことだ。そう答える代わりに柄に手をかけた。するとどこかへ消えていた殺気は霞のように薩の剣士を取り囲んだ。勿体をつけてゆっくりと抜きながら、薩の剣士の頬には淡い微笑が張り付く。そして切先をぎらりと閃かせ、あの時と同じ天を衝く蜻蛉に構えた。

 それを受け、長の剣士はやや低めの青眼に構えた。攻めと受けの構図は前回と同じだったが、仕掛けたのは逆だった。

「来るか、長の者」

 飛び下がって胴をかわし、袈裟に振り下ろした一撃。長の剣士はそこまで読んでいると言わんばかりに踏み込んだ。

 鍔迫り合い。二人は好敵手との再会を喜び、言葉を交わした。言葉はしかしぶつかり合い、ばちばちと光った。薩の剣士が沈黙を破って攻勢に出るも的確に受け流される。長の剣士が隙を許さぬ一手を加えてもすんでのところでかわされる。

 決着はつきそうになかった。全くの互角。互い国元でも京でも比類なきことを自認している。それなのに決定打の一つも与えられないとは。これほど拮抗した立ち合いは初めてであった。

「相変わらずだな」

「そちらこそ」

 口を使ってものを言っても取るに足らぬものしか出てこない。二人ともよくわかっていた。わかっていたからこそ、彼らは斬り結んだ。無論馴れ合うつもりはない。一言一言が、相手が斃れる様を夢想しながら繰り出されていた。こうでなければ分かり合えぬと、二人は固く信じていたからだ。

「おっと、もう夕刻か。あいにくすべきことがあるのでな。悪いが、決着は後にとっておこう」

「ならば仕方がない」

 死合った敵と自分。そのどちらも死なないということが二度も続くと、少し違和感を覚える。しかしなぜ、薩の剣士の中断を素直に受けたのであろう。本来なら無礼どころではない。だがこの二人の間にはなにか違う空気が流れていた。そのまますっと剣を収めると二人は逆方向へ歩き始めた。

 二人はその後頻繁に道で出会った。殺気を消した薩の剣士は見つけるのは困難だ。だからこちらから仕掛けるのは、彼が殺気に満ち満ちている時のみである。そうして出会った二人は当然のように斬り合うが、何度繰り返しても互い傷一つつかず物別れとなるだけだった。彼らは少しばかり強すぎるきらいがあったため、好敵手に恵まれなかった。そのため言葉を交えるごとに、二人は剣を弾ませる。まるでそれしか知らぬ子供のように。

 この日も二人は出会い、死合った。いつものように折り合いが付かず物別れになろうかという時、薩の剣士がもう一つだけ語りかけた。

 受ける長の剣士は、それを聞いていた。期待のような、不安のような、いつもの彼にはない曇った言葉だった。

 二人がやっと剣を収め、各々の帰路につこうとした時だった。

「我が藩邸に寄っていけよ。御前様なら歓迎するぞ」

 天下国家を論じようではないか、だと。妙に芝居がかった口調で笑いながらそう言う男は、背中を叩き時に手を引きながら半ば強引に藩邸まで連れて行った。

「また旦那の連れですか。ということはなかなかやり手ということですな」

「そうだ。こやつ受けの名手でな、この間なぞ新撰組の連中を軽くいなして斬り伏せよった」

 薩の剣士の姿を認めると座が賑やかになった。人望はあるらしいが、どうであろう。

 招かれた剣士は長州であるからここは言わば敵陣。であるから出自を明かせば何をされるかわかったものではない。そういう意味での緊張はあった。拒むのも気が引けたため、出口を意識しながら通された。

 おい、長の者。そう言われて驚きつつ振り向くと、男どもが酒を飲んでいた。

「ここに座らんか。俺は長州嫌いだが、旦那が連れてくるもんに悪人はおらん。みんなそう思っておるから、心配せずともよい」

 訝しんで話を聞くも、どうも本当にそうらしかったので呼ばれていくことにした。

 で、ここに入る前彼はなんと言っていたか。天下国家を論じようと言っていたな。あいにく自分はそういったものに興味はない。しかし同じような者は長州藩邸に帰っても腐るほどいるため、適当に合わせることはできる。自分には剣しかなく、腰の一振りを以って京に乗り込んできた次第だ。実際京で出会った剣士に遅れをとることはなく、彼が初めてだった。

 酒を飲んでがなり立てる者。幕府に悪態を吐く者。長州の悪口も方々から聞こえてきた。中にはそれを自分に向かって吐き捨てていく者もいたが、どうも悪意が感じられないのは薩摩の気風なのか。酒に強い方ではなかったが、警戒しすぎてもと思い少しばかり飲んだ。

 ひとしきり話を聞かされたのち、帰ることにした。夜道を歩くのに酔っていては、と言って薩の剣士は門までついてきた。立ち合った時の今にも燃え上がりそうな殺気とは対照的に、いつもからからと笑っている男だ。端正な顔立ちで背も高く、非の打ち所がない。

 自分が惹かれたのは、本当に剣だけだったか。見送られながら、このようなわけのわからない思考が頭を巡ることに長の剣士はひとり閉口した。

「長のもん。また語り合おうぞ」

「無論のことだ。ではな」

 長の剣士は門を出て帰路に着いた。薩の剣士は見えなくなるまで立ち止まっていた。

「また会えるとすれば、死合うのみぞ」

 会えぬとすれば。ここまで独りごちた剣士は、これまた独りかぶりを振った。

 そして彼がこぼした笑みは、彼の人望の所以のひとつである笑顔とは少し違った。

「であれば、きっといつかは会うさ」

 顔の広い彼のこと、当然耳には挟んでいた。ちょうど子の刻。この日は文久三年、八月の十八日であった。




 この日も京の街に日は昇り、そして暮れた。それは異変というべきだろう。道を歩く者の数は明らかに減っていた。道を一見してもわかる者は少ないが、ひとたび建物に入ればそれは明らかだった。長州がいない。

 政変。御所の門を封鎖し、長州派の公卿数人を京から放逐。同時に長州の京での任を解き、居座る名目を失わせた。攘夷断行のため公卿を囲い政治を動かしていた長州にとって、積み上げてきた工作が水泡に帰した結果となった。

 この日、長の剣士は藩邸で会合をしていた。つまるところ、残るか残らぬかということである。ここで兵を挙げるべきという声もないではないが、結局一部の藩士のみ情報収集のため潜伏することとなった。高杉、久坂などの大物もここはいったん引く手を選んだ。残る者のなかに、在るべき名はない。彼は国許に用事を残していたためこの機会に帰郷することにしたのである。その時彼の脳裏には、あの精悍な男の笑顔が浮かんだ。

 薩の剣士はこの日も道を所在なさげに歩いていた。

「なぜだ」

 それは政変以後の日課だった。長州人が大手を振って歩くことは当然できないが、それでも居るのなら一度くらい会ってもよいであろう。好敵手の不在を確信したのは、すでに一週間が経とうとするこの日だった。

「奴のような者が、臆病風に吹かれたか」

 そう言うと薩の剣士は歯ぎしりをして帰路につく。今宵はいくら酒があっても足りそうになかった。

「旦那。かように飲まれては体に障ります」

「これが飲まずにいられるか。俺が見初めた剣がとんだ臆病者だったのだからな」

「ですが」

「ええいうるさい。今日は一人にさせろ」

 既に何ヶ月こうしているだろう。はじめは皆が心配していたが、今となっては彼を特に慕う一部しか気にも留めなくなった。

「わかりました。旦那がそうなら、拙者にもすべきことがある」

 藩士はそう言って、彼から離れた。この日、文久の世は終わり元治元年となった。

 文字通り京を締め出された長州藩が国許で大人しくしているはずもなく、二本松でも不穏な噂を耳にするようになった。

 上洛。兵を率いて京に乗り込み武力行使に打って出るのではないかと、まことしやかに囁かれるようになったのだ。民衆と公卿は震え上がり、薩摩は淡々と応戦の準備を始めた。薩摩とともに政変を主導した会津もまた、招かれざる客を迎え討とうと息巻いている。潜伏する長州藩士以外、京にいる全てがその噂に大小の戦慄を覚えただろう。

「きっと来るだろうな」

 例外があるとすれば、すっかりやつれた身でそうほくそ笑んだこの男だろう。もはやかつての人を惹きつける笑顔はなく、これで精一杯の喜びを表したつもりだった。

 が、なかなか現れない。もう七月、政変から一年が経とうとしているのに一向に動きを見せない長州に剣士は苛立ちを覚えていた。当然出兵など道理の上では論外だし、長州は薩摩が倒幕を成すのを横で見ておれば良い。そういう考えが二本松では一般的だった。一方京に残る長州藩士や浪人たちは、日夜京の町で策を巡らせていた。

 七月の八日。長土肥の勤王家たちが池田屋に集っていた。首謀者のうち大物は皆この日に絶命。参加した勤王家の大半がこの日をきっかけに死んでいる。主導は新撰組、後方支援は会津。薩摩はこの騒動をはなから黙殺し静観を決め込んでいた。二本松ではむしろこの動きに苦言を呈するものが多数派だったという。噂通り夜襲を企てたのだとしたら早計にも程がある。この件で、薩摩はもとよりなかった他藩への信頼をさらに無くすこととなった。

「名前は全てあらったのか」

「はい、ですがあの長の者と思しき輩は見つかりませんでした」

 そうか。顎に無精髭を貼り付け整髪もままならない薩の剣士は、そう言うと樽を手前に引き寄せた。このところ毎晩こうしている。長州の話があるたびにこれだった。

「あの、もう諦めた方が」

「お前にはわからんよ」

 そうですか。荒げはしないものの力のこもった声を聞いて、藩士は戻っていった。彼は情報に疎くなった剣士に代わり、長州の動きを調べていたのだ。そんな彼が長州の大規模な上洛の決行を耳にしたのはもう少し後のことだった。彼はそれを剣士に伝えなかった。伝えるべきではないと直感した。

 実家と道場を行き来する生活にももはや飽きてきた。国に戻ってからというもの、毎晩のように思い出すのはあの薩の剣士のことだった。合議を重ねている上の考えはよくわからないが、そう遠くない日に京へ舞い戻ることができるかもしれない。池田屋の訃報が遠く長州までやってきたのは事件の翌日のこと。吉田の死は、実感以上に長州にとって大きな痛手だった。

「戦争は避けられまい」

 そう誰かが言ったのを聞いて、長の剣士は遠く京を想った。待っていろ、必ず戻る。そう独りごちた彼はこの退屈な生活を嘆いた。

 上洛は彼にとっても悲願だったと言っていい。であるから、それが決まったとき彼は歓喜の表情を隠すことができなかった。

 長州の罪を許せ。でっち上げられたものとは言えそれは悲痛というべき願いであった。久坂は嘆願書を提出したが、容れられるとは思えない。既に朝廷には失脚した長州の穴を埋めて薩摩のみならず土佐までもが入り浸っていおり、事実彼らはそれをはねつける旨を建白した。すると当然後者の方が受け容れられる結果となる。であればすべきことはもう限られるだろう。それは戦争であった。

 京の南西、山崎に陣取った長州は戦略を話し合った。孤軍奮闘といっていい。敵はもはや薩摩と会津だけにあらず、諸藩連合ともいうべき規模だった。それでもここまできて退く手はない。慎重派の意見は押しつぶされ、行軍が始まった。

 市街戦。多くの家を焼き、多くの住民を死に至らせ、長州は戦った。会津や新撰組など例外を除き多くの藩はこの戦闘行為に消極的で、たびたび長州はそういった藩が守る門を破った。が、多勢に無勢は否めない。徐々に長州は追い詰められ、撤退を余儀なくされる。燃え盛る火の手まで、招かれざる客を追いつめていた。

 戦火の最中、両刀を鞘に収めたままの長の剣士は立ち止まった。撤退しなければここはじきに敵だらけになり、到底生き残れない。それでも、すぐそこまで迫る待ち焦がれた瞬間を前に退くことなどできなかった。薩の剣士と死合わずして生き残る意味など見出せぬ。彼の全身が、剣がそう言っていた。

「おい、奴はどこだ」

 二本松で見た藩士を双眸で見据え、抜いた。むしろ今まで抜かずに立ち回っていたのは、出し惜しみしていたからに他ならない。

「旦那なら知りませんよ。今頃藩邸で酒でも飲んでるんじゃ――」

 言い終わる前に藩士は、突き出された明確な殺意を見て飛び下がった。

「そこまで会いたいのか、ならば行けばいい。待ち人はこの先にいる」

 だが、進むのなら拙者を斬ってからにしろ。

 藩士は剣を抜くと、蜻蛉に構えた。これもこれで十分な殺意だが、薩の剣士に比べれば迫力不足だといわざるを得ない。恐怖もないではないだろう。旦那と慕う剣士の実力は当然よく知っている。その上で、目の前で臨戦態勢を取る長州の男は彼と互角なのだ。

「斬られてから悔やんでも知らんぞ」

「このまま見過ごしても、どうせ悔やみきれず死ぬだろうて」

 ならば、叩き斬るのみ。そう言って青眼に構えた剣士は、藩士に言葉を浴びせかけた。この先にいるのならば、斬って通らせてもらう。

 ここで藩士が驚いたのは、彼の攻めが意外にも受け切れる程度のものだったことだ。なんだ、これなら隙を見て一発当てることができる。だがその上でも格下なのはわかりきっていた。だから最善を尽くし、僥倖に賭けるほかない。ただそれでも、死して我を通すことに異存はなかった。

 藩士は隙を見ていた。が、容易に見つからない。仕掛ける前、かわした後、受け切った後、どこにも隙がない。ないなら作ればいい、とばかりに踏み込むのはあまりに危険。

 変化で誘うことにした。受ける剣を少しだけずらす。そうやって敵の太刀筋をわずかでも狂わせていき、ここならば受けきれぬと狙いすました一撃。それは薩の剣士を慕うものとして精一杯の抗議だった。

「甘すぎる」

 その言葉を冷笑で迎えた剣士は、軽々とその剣を跳ね返し踏み込んだ。藩士はのけぞり、のちに加えられる冷えきった言葉をかわすことができなかった。

 腹をえぐられた藩士はなおも立ち上がり、長の剣士をにらみつける。長の剣士の視界には、騒ぎを聞きつけ現れた男のほか映っていなかった。

 「ようやく逢えたな」

 そう言うと、薩の剣士は皮肉っぽく頬を引きつらせた。あれで笑顔のつもりらしいが、かつての彼の面影などもはや見る影もなかった。

 来い、その目は言っていた。邪魔の入らぬところに行かねばとても死合うどころではない。

 歩を進めようとした長の剣士はひとつの殺意を感じた。

「その程度の剣で、俺を斬ることはできん」

 一瞥も与えなかった。その一刀で藩士が崩れ落ちても、剣士は見向きもしなかった。剣を収めた二人は、急ぐともなく歩き始めた。幸い会津も新撰組も、この珍妙な光景を見てはいなかった。


 炎に巻かれ無人となった道に立ち、薩の剣士は振り返った。

「これで二人のみ。存分に死合うことができる」

「我が長州はすでに撤退しておる。この四方敵に囲まれた中、もはや命が惜しいとは思わん」

 互い、待ちに待っていた。酒に溺れた薩の剣士とて、鍛錬を怠っていたわけではない。郷里で無為に過ごしていた長の剣士とて、その剣を磨かぬ日はなかった。互い、焦がれていたと言っていい。であればこそこの決戦の場で剣を鈍らせかねないほどに、二人の剣士は心踊った。

 柄に手をかけた。互い上体を下げ、必殺の間合いを取った。

 一閃。剣に託された言葉は、互いの脇腹をえぐった。言葉を結ぶのではなく交わしあったのだ。それは何かに対する渇望からだろうか。崩れ落ちそうになりながらも、二人の剣士は向き直した。

 蜻蛉。薩の剣士は今までにない色の殺気をまとって構えた。爪先から切先まで天地に垂直にそびえ立つその姿に、妖しさすら覚えた。

 応えねばなるまい。長の剣士は剣を大きく振り上げ、手を正面に突き出した。片手上段。彼が初めて薩の剣士に見せた、攻撃の構え。

 双方距離を詰めた。攻めと受けの構図が成立しない以上、試合は一撃のもとにしか決しない。自然それは敗者へ手向ける言葉であり、敗者の最期の言葉でもあった。

 沈黙。二人は惜しんだ。これが最期であることを、これが別れであることを。

 そして間合いを詰めた長の剣士は、離別の言葉を放った。相手もこの一撃にかけてくる。だからこの一振りに言葉の全てを託さねばならなかった。

 しかし、である。

 投げかけ、交わされるはずの言葉は返ってはこなかった。

「ようやく叶う」

 袈裟を真っ向から受けたのだ。その場に崩れ落ちた薩の剣士を、すんでのところで支えた。双眸はすでに像を結ばず、業物であろうその得物はからりと手から転げ落ちた。

 剣士は笑っていた。

「長の者よ。ずっと、御前様に--」

 斬られたかった、とでも言うのか。だとしてもなぜ。もはやいくら斬っても想いが届くことはない。口では語り合えず剣さえも奪われた長の剣士は、ただひたすらに二筋の線を描いた。それはもはや言葉ですらない。それは彼そのものが、頬を伝い流れ落ちているのだ。

 敵はもう来ていた。この数、この傷では逃げ延びることは不可能だ。だから猶予はない。すべきことはもはや一つだけだった。

「剣士よ、俺も向かうぞ」

 ほかに言葉を知らぬ剣士は、それだけ言うと得物を逆手に取った。

 そうして最期だと言い聞かせるように、その言葉はゆっくりと剣士に突き刺さっていった。


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