北家の短編
北家
POP COSMOS
早朝、彼にお目覚めのキスをしたのはポップコーンだった。
視界は悪いなんてもんじゃない、真っ白だ。その上雪化粧のような美しいものでもない。脂っぽさと塩っ気に包み込まれるポップコーン化粧だった。
彼は夢かと疑った。しかし窓から見える景色はそれと対照的で、照りつける朝日が、鳥のさえずりが、町内放送が世間の日常を伝えていた。つねるだけでは目覚めないというのならいっそ頬を引きちぎってしまいたかった。
彼はこのポップコーンに支配された部屋からの脱出を考えた。だが独りであのポップコーンの山脈を越えていくのはほぼ不可能だし、気分的にも最悪だろう。では逆方向の窓か。幸い山のふもとはベッドの中ごろにあるため、ここならば動くことができる。とはいえここはアパートの上階。ベランダもない窓から策もなしに出ればこの世界からおさらばしてしまうことは自明だった。
では、どうする。助けを呼ぶにしてもどうやって。百十、百十九、ありえない。出入りの問題さえ解決すれば、そこにあるのはごちそうだ。貧しい学生の身にこれはまたとないチャンスである。無理矢理ポジティブに考えて思考を冴え渡らせようと試みる。そう思いつくものではないが、答えは案外近くに転がっていそうな気がしてならない。
一匹の虫がぐうと鳴いた。腹が減ったのだ。しかしキッチンはあの悪夢の海の向こうにある。向こうと言ったが、どうせ出所はキッチンなのだからもはや深海である。ストックしてあるカップ麺も乾パンもポップコーンに没していては意味をなさない。
だが、山だろうが海だろうがポップコーンはポップコーンである。空腹を我慢する必要はもとより無く、彼はその空間に手を入れてポップコーンを口に放り込んだ。
うまい、これはいけるぞ。ちょうど良い塩加減と食感。彼は次々とポップコーンを腹に叩き込んだ。この調子ならひょっとしたら、すべて食べきれるかもしれない。彼は得意になって食べ進めた。
が、ポップコーンは一向に減る気配を見せない。大食いを自負している彼だが、さすがに苦しくなって一息ついた。そして彼はふと耳を澄ました。
ぽん、ぽん。対々を狙っているわけではない。狙うとすればそれは、宇宙の始まりを意味する白一色。
ポップコーンは増えている。
これは一大事だ。豆が尽きれば当然増えることはないだろうが、それでもこの状況。限りがあるとは到底思えなかった。さらにポップコーンの雑踏の中に不審な物音を感じた彼は、いまいちど耳を澄ました。それはやや高いうめき声のようだった。
「おい、誰かいるのか。返事をしろ」
その声に反応したのか、ひとつ大きな声が聞こえた。そいつは寄せても返さぬポップコーンの波をかき分け、こちらに現れた。見るとそれは、彼の恋人だった。
「苦しかったよお」
駆け寄ってくる彼女を両手で制止して言った。
「おおっと、そのまま近づくなよ。ほら、そこに服がまだ生きてるからそれに着替えろ」
それを聞くと彼女は渋々その服を手に取った。
「見るなよ。見たらお前も埋めるからな」
「はいはい、誰が好きこのんでそんな」
彼女の中段蹴りをすんでの所で受けきった彼は要求通り背を向けてやった。手鏡を残していたのは言うまでもない。
「終わった。見ていいぞ」
そう言って振り向いた彼女が攻撃の態勢に入るのに時間はかからなかった。背中に槍のような左足を受けた彼はよろめき立ち上がった。
「いやあ絶景」
一撃。
「なぜだ、褒めてやったのに」
一撃。今度こそ悶絶。
「そんなことよりこの家は何なの。こんな量のポップコーン、いったい何本映画見たら食べきれるって言うのよ」
「そんなこと俺に聞くなよ。だいたいなぜお前はここにいるんだ」
「私を酔い潰そうとして先にグロッキーになってたのはどこのどいつよ」
ああ、そうだ。昨日はこいつをどうにかしてやろうと思って飲みに誘ったんだった。酒に強いとは聞いていたが、レディキラーを何倍かのませたらつぶれてくれると思っていたのが間違いだった。のらりくらりと弱い酒ばかり頼んだはずの俺のほうがのらりくらりしてしまっていたんだった。
「まあいいわ。で、これを片付けるあてはあるの?」
「あったら聞きたいよ」
「使えないわね」
吐き捨てた彼女はその山とも海ともしれぬポップコーンに目をやった。それは今までとは比べものにならないスピードで膨張し始めていた。朝彼が目覚めたベッドは、もはや見る影もなくなっている。
ポップコーンは宇宙だった。
彼は広がり続ける宇宙を前にひとつ身じろぎした。しかしその舞台が自分の部屋である以上、どうにかその中心までたどり着き原因を明らかにしなければならない。
彼は宇宙遊泳を決意した。
「仕方ない、行こう」
「そうね。行ってらっしゃい」
「お前も行くんだよ」
半ば強引に手を引っ張り、ふたりはその白い空間の端に並んで立った。怖くないわけではないだろう。発生した原因が不明である以上、これをただのポップコーンだと考えるのは危険だった。先程は大いに食らっていた彼がそのようことを言える立場ではないのだが。とはいえ手を引っ張られた彼女が得に抵抗も見せなかったことに、少しだけ違和感を覚えた。
ともあれ、ふたりのアストロノーツは勇敢にもその宇宙に飛び込んだ。ポップコーンといってもこの量では水中と同じ要領でふたりにのしかかってくる。その重みを感じつつそれでも前を目指すため、手を繋ぎお互いの存在を確かめながらふたりはゆっくりゆっくり歩いた。部屋の形は変わっていないはずだ。それならここにはタンスがあって、この先には――。
八畳のワンルームがこれほどまで広いと感じたことはおそらくないだろう。やっとの事でキッチンまでたどり着いたふたりは、持ってきたビニール袋でひとまずの休息を取った。タオル越しの塩辛い空気ばかりすっていては、いずれこの宇宙で倒れてしまうことだろう。
「ここからは音で発生源を割り当てよう」
ふたりは宇宙の只中で耳を澄ました。もぞもぞと耳障りな音を全身で感じる一方で、ぽん、ぽん、と爆ぜる音がかすかに聞こえてきた。
「まだ増えているのね。これってほんとにとまるの?」
「止めるんだよ」
ふたりはその音の出どころ、宇宙の中心を探した。
「近いぞ、この上かもしれない」
「一緒に立ち上がりましょ」
ふたりはせーので立ち上がった。のしかかるポップコーンの圧はすさまじく、押し返されそうになりながらも何とかキッチンのあるべき場所に立った。そしてかき分けた手に音源の所在を確認したふたりは、ホワイトアウトして視界に移らない互いを見つめた。
そこには、ひとつの電気ケトルがあった。どこの家庭にもあるTから始まる名を持つケトルだ。それがなぜこんなにもポップコーンを生み出しているのだろう。
「思い出した。きのうの晩あんたがポップコーンつくれって言ったのよ」
「覚えてないから言ったかもしれねえけどよ、作りすぎだろ。というかお前のせいだったのかよ」
「し、知らないわよ。私は普通にポップコーンを作っただけよ。これも使ってないし」
こうしている間にもホワイトホールからは耐えず宇宙が生み出され続けている。なんだか違うような気がしないでもないが、それでもこれが宇宙であることに疑いの余地はない。
「案外電源抜いたら止まったりして」
「はなから刺さってないぞ」
「じゃあどうするのよ」
「拠点まで持って行く」
彼は右手にホワイトホールを、左手に不安げな彼女を携えて、来た道を引き返した。ワンルームの通路はトンネルのように詰まっているから、ポップコーンは行き場を失いふたりを遠さ時と立ちはだかった。だがそれでも少しずつ、少しずつ前に進んだ。
「ふう、戻ってきたな。」
「空気を吸えるってこんなに素晴らしいのね」
「さて、それでこいつだが」
中にはあふれ出すポップコーンと底の方に二、三粒の種があった。種がほとんど無いというのは、宇宙の生成がもうすぐ終わると言うことを意味しないだろう。それならこのようなことは起こらないからだ。
彼はおもむろにケトルをひっくり返し、のぞき込んだ。すると種とポップコーンがこぼれ落ちたケトルの底に、なにやら赤い線で描かれた紋様のようなものが。彼女はことさらに平静を装いながら言った。
「これって、血?」
「そうらしい。洗ったら取れるだろ」
ちょうど飲料水としてペットボトルをキープしておいたのが幸いした。彼は血で描かれた謎の紋様に対して勢いよく水を流し込んだ。だが、よほど強く張り付いているのか、その紋様が消えることはなかった。タオルを持ち出して磨いても、タオルにはわずかな血の赤色さえも付着しなかった。
だがその間、一度としてポップコーンは発生しなかった。どうやら種がなければ増えないらしい。それを確認した彼は、とりあえずひと安心といった調子で辺りを見渡した。
「しかし、これからどうすべきか」
「なにを? もうこれは解決したじゃない」
「どこがだよ。気味の悪い模様は張り付いてるし、そもそもポップコーンは少しも減ってないだろ」
彼はもう一度紋様を見直してみた。円と十字を基本としているのだが、それらはねじ曲がってわずかしか原形を留めていない。中心部には眼のようなものすらあった。不気味としか言いようがない形状である。
「しかしこれ、一体何なんだよ」
彼女は決まり悪そうに彼の手からケトルを奪うと、同じように覗きこんだ。
「ちょっと見せて。もしかしたら、もしかしたら何とかなるかもしれない」
彼女はおもむろにチャームポイントの八重歯を使って指に傷をつけた。血のにじんだ指で紋様をなぞると、紋様は鮮やかな赤に染まった。そして床に落ちた種を一粒拾うと、その中に放り込んでスイッチを入れた。
瞬間、爆音と閃光にふたりは包み込まれた。ホワイトアウトした目が慣れて視界が像を結びはじめると、そこには元通りの部屋が広がっていた。
それは超新星爆発だった。
突然現れた日常に呆気にとられるのは彼のほうだった。
「いったい、何が起こったんだ?」
彼女の方を向くと、気を失ったのかその場に崩れ落ちていた。慌てて駆け寄ったが、特に問題もなさそうだ。
白の悪夢から開放された部屋のベッドに彼女を寝かせると、彼は床で横になった。そして今日の授業のことなどつゆ知らずといった様子で眠りについた。
「なあ、教えてくれよ。あの時のやつ、どうやったんだ」
「た、たまたまよ。私は何も知らない」
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