第3話仏教哲学 悟達について解説。 #戦争 #平和 #心理学 #哲学


仏教哲学 悟達について解説。 #戦争 #平和 #心理学 #哲学


人間の思考は欲望であり、欲望とは欲望に合うことを快楽、欲望に合わないことを苦痛と考えます。世界を欲望に合うかどうかと考え始めると言う思考プログラム自体が世の中のすべての認識を快楽と苦痛に分けると言う作業をすることになるわけです。

欲望が欲望に合うことを快楽と考え肯定しようとし、欲望に合わないことが苦痛と考え、指定しようと考えます。



つまり欲望と言う思考プログラム自体が存在しなければ快楽も苦痛も存在しないわけです。欲望そのものが苦痛の発生源であり自己の思考プログラムそのものが苦痛の発生源だと理解した時、そもそもその思考プログラムを動かさなければ世界には快楽も苦痛も認識としては存在しない。



このことに気づいたとき、人は苦しみを否定したいと言う欲求があるがゆえに、欲望が起きることこそ認識において世界の上に欲望に合う事と合わないこと、快楽と苦痛と言う認識を生むので、欲望自身が苦しみを生むのに、その苦しみを自ら否定したいと考えると言うその自己矛盾性に気づき、自己の思考プログラムとしての欲望自体が停止すれば苦痛も止むと気づくことによって欲望が自動停止します。


その時認識としては快楽も苦痛も存在せずただ世界をありのままに見ると言う認識が確立されます。

世界を快楽と苦痛のいずれにも分け隔てることなく、ただそのまま見つめると言うありのままの認識が可能なわけです。

分断認識以前のままの認識で世界を見続けることができるわけです。


このような認識を自分が持つことができると理解できたとき、人は認識として欲望上の快楽と苦痛のいずれにも存在しなくて済む自己を理解できます。


これを悟逹と仏教哲学ではいいます。



人間と言う存在がそもそも認識上において、快楽と苦痛のいずれにも解放されている存在だと認識可能という事。

世界の全てが苦しみであると言う事は、欲望というシステムにおいて世界を快楽と苦痛の2つに分けると言うメカニズム上当然起きること。

認識のやり方として、欲望と言うシステムそのものの根本的な構造欠陥、自己矛盾性に気づくことによって、そのシステムそのものに自分自身がその思考システムを行わなくても良い存在だと理解できると言うことによって、自己認識において自己が快楽苦痛のいずれからもそもそも解放されていると認識出来る存在だと理解できると言うことを示しています。


ちなみにD みと 

@DirectMito

は宗教右翼左翼関係ございません。今のは思考論理の話です。


仏教哲学の悟達についての解説でした。


世界中の修行僧が悟りを開きたいと人生をかけてこれを理解したいと思って修行しているのです。

ちなみにディーミトはこれを理解するために20年ほどかかりました笑。


(この文章は純粋に哲学の話で、新興宗教右翼左翼などカルト政治など関係ありません。念の為。)


(本当に悟りを理解している人はなかなかいないらしいですよ。このブログ見て良かったですね。)

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