とりあえず第一話だけ読んでみたが、多々疑問点を得る事となった。一番最初に国家対国家の視点で世界動向を見る時代は終わったと述べているのに、その後に続く内容は組織だの国だのをイメージではなく内実で捉えよう(という事だと思う)という話になり、その話が国家対国家、ないし民族対民族といったイメージに囚われてはいけない、という話に繋がる。パッチワークのような論法だが、これは私の読解力が足らないだけなのかもしれないので、ここでは問題とはしない。
次に、なぜ人は戦争を行うのか? という内容を述べ……る前になぜ戦争を行おうとするのかについて語るようだ。これらは同じ意味ではないのか? なぜを積み重ねていけば物事の本質に辿り着ける、との事なのでなぜを積み重ねていこう。
戦争は集団が起こすもの→集団を作らなければ戦争は起きない→しかし人間は集団を作る→人はなぜ集団化するのか……という流れらしい。この後はつらつらと集団化の要因だの人は何故集団になりたがるのかだの自論を述べられているが、それは偏に人間の社会性であり本能的に獲得する物だ、と私は理解していたのだが、筆者にとってはそれは正解ではないのだろうか。
一々ツッコむのもキリがないので特に気になった所だけ述べるが、「砂漠のオアシス」の例え話で、2家族が1家族分の水を分け合えば争いは起きない、という理屈が意味不明である。1家族分の水しか存在しないのにそれを分け与えれば必然的に水は足らなくなるのだし、そうすれば死は免れ得ない訳だが、その様な状況でも見ず知らずの家族を助ければよい、という事なのだろうか? なるほど確かに水を巡った家族間の争いは起きないだろう、自分の妻子は与えられる筈であった水を他者に譲ったせいで死ぬかもしれないが。なるほど自分の家族が~といった「愛情の限定化」が争いの原因だと! 「家族」という垣根を取り払って助け合えと! 「オアシスの水は一家族分しかないし、人は水なしでは生きられない」が、それを理由に他者への援助を断ってはいけないと! 筆者はつまり、生存には足りない量の水しか全員に配れずともそうすれば皆争わないで済むんだからそれが最良だと仰られているようですね。争いによって誰かが生き残るより皆仲良く死んだ方がいいと。それは最早人間ではないし、種を繋ごうとする一般的な生物ですらないような気もしますが、そこも置いておきましょう。
感情が生まれるより前に愛情を持っていなければならない(愛情というのは感情の一種ではないのか? と思ったが要は前提として全てを愛していなければならないとかそういう事らしい、そう書けばいいのに)とか、感情は欲望より生まれる(欲望自体も感情の一種ではないのか? マズローの欲求5段階説みたいな事を述べたいのだろうか?)とか、全ての人の苦しみを解決する事を命題にすれば人類は争わない(暴力や戦争は人の苦しみを生み出すものなのでこれなら問題ないらしい、百歩譲ってそれで戦争がなくなるとして普通に利害対立は起こるのではないか? 飢えた人間が苦しみを解決する為に他人の食料を奪う行為はどうなるのだろう? と思ったがそうか感情より先の愛情だかで分け合って仲良く死ぬのが筆者の主張する理想の人間社会であった)とか、ロボットの例え話が何を例えているのか分からない(例えば、数台のロボットに積み木で塔を建設する、というタスクを課し、実験1では他のロボットと共同せず個体毎に塔を建設し、他の個体の建設する塔を破壊するよう指示する、実験2では他のロボットと共同して塔を建設させるよう指示する、その結果実験1では何も完成しなかったが実験2では塔が完成した、とかそういう話であればまぁ分かるのだが、「攻撃するようロボットに命令したら攻撃した」「仲良くするように命令したら仲良くした」というA=Aみたいな事を例え話だ、と言われても何を例えているのか全く読み取れなかった)とか色々あるが、つまるところは「汝の隣人を愛せよ」という事なのでしょうか。少なくとも私はそういう風に読解しましたが。「宗教及びスピリチュアルは関係ない文章群」の割には、(非常に大まかな)話の骨子は聖書の内容と代わりないように思えます。筆者は26年かけて聖書を読了なさったのでしょうか?
話の中心が反復横跳びでも行っているのかの如くブレまくりますし、正直真面目に読むのも馬鹿らしい怪文です。多分酔った勢いで沢山お書きになったのでしょう、お体はご自愛下さい。そして、酔いが醒められましたら、先ずは社会学という学問にお触れになるのはいかがでしょうか。宗教やスピリチュアルだけでなく、心理学や哲学についても触れない文章だ、との事ですが、人間がなぜ戦争を行うのか、という理由を心理学抜きで語るのは不可能だと思いますので(そもそも感情だとか欲望だとか仰られていたがそれは心理学の範疇でしょうに)、そちらに対しての見識も深められました方が、よりまともな結論を導き出せるのではないかと考えます。文章もわざと読み辛くせずとも、読者に伝わり易いように簡潔に書かれた方が宜しいですよ、読み辛い文章=高尚な文章という訳ではないのですから。
第一話を読んだだけで論ずるに値しないレベルの駄文だという事がはっきり分かる名文ですので、☆3とさせて頂きます。
私はまだ第27話しか真っ当に読んでおりません。
だから私の認識は、このエッセイに追いついていないと考えるのが真っ当だと思います。
その上で他人に紹介云々などと痴がましい行為だとは思うのだけども、それでもこの場で自分なりの発信をしたいと我慢できませんでした。
この作品は、非常に内容の濃い形で書かれています。教えるというよりも、考えろというスタンスであり、その為に非常に濃い内容で要点が書かれていると思います。
居るか居ないかは知り得ませんが、一見して難しいと匙を投げた人が居たなら、もう少し匙を投げるタイミングを遅らせても良いと思います。
たとえば、分からないと思った最初の単語の意味を、その背景を自分なりに探してみては如何でしょうか。
私なりに重要だと思っているのは、概念は概念として理解し、その結果と思える表面的な形ばかりに囚われてはならない。
それでは概念を捉える意味がないと思います。
……とはいえ、私には難しいですが。
ここからは、またしても痴がましい行為になるのでしょうけども、紹介者なりに私なりの意見を少し書き足させて頂くことを許してほしいと思います。
第27話 差別者の思考の誤作動構造正常性バイアスに逃げ込む人々
を読んで私が思うところを書きたいと思います。
私は難しい言葉を知らないので、自分の言葉で書くけどもこれも許して欲しいと願います。そしてここから敢えて私なりに間違いだと思う話を進めます。
差別は間違いだとの合意の元、非常に強力な道徳学習が行われた時代に私は育ちました。今はどうだとか過去はどうだとか、そのようなことは知らないのだけど、自分が経験したこととして、それを意識しています。
その教育(この内容を説明するのはあまりにも時間がかかるので省きますが、これを問題だとは認識しております)は今それなりに成功したと思っています。実際、ほどなく古い世代と新しい世代の間に少なくないギャップが生まれたと認識しているからです。
その雰囲気が生まれたということを自身が肌で感じて、成功したと認識しているのでしょう。そしていつの間にやら、世代間のギャップも今はある程度埋まっているように思えます。
ただ、それはとても曖昧な基準で判断されていると思えてなりません。
ただ少数派だからという理由で、無条件で肯定するのは当たらないと思うのです。
立場の違いから理解し得ない他人を否定するのを間違いだとするなら、それらの理解できない立場の者に理解できない理解を押し付ける行為はどうなのでしょうかと思うのです。
多数派だとか少数派だとか、そのようなことを意識に上げて考える人はどうしても少ないし、そもそもそのように考えたとして、立場が異なり理解し得ない人をどう捉えて正解なのかも理解できる訳がないと思えて、どうしてもそこに正解があるとは思えないのです。
しかも、現実にそれらの理解を諦めて感情的に訴えかける行為によって成した成果だってあると思っています。
それは当然のことながら、それは感情的な作用によって成り立ったものであり、そしてそんなものは感情的に否定できると考えるからです。その否定を間違いだと正当化するにも根拠がそれでは無理があると。
マイノリティは、自身を正当化する為に多くのことを考えます。そうでない人は、考える機会をさほど得られないと考えられるのです。
そのような中で現実的に結果を考えても、マイノリティの正当化には多数派に理解を得られる必要があり、それは多数派の理解を得てその多くを取り込んで、己も多数派に転じて確固たる立場を獲得する行為になってしまうと考えてしまいます。
そしてその多数派になることで、過去のマイノリティは、それを否定する少数派に転じた者を弾圧する権利を得たとすることもできると思えるのです。
権利は戦って得られるものであり戦い続けて守るもの、という不思議と互いの合意を意味するこの言葉を聞いた人も多いと思いますが、この言葉の意味するところは何なのでしょうか。市民権とは何なのでしょうか。
第27話に書かれている内容を一部紹介させて下さい。
「そして劣位性払拭欲求として比較優位性を強調したいがために、標準偏差外の確立の人々を排除する主張をすることで、自己の優位性を周辺に認めさせたいと言う欲求に転化するのだ。」
(※この一文は、ことの本質を表現しているので、単に現実云々の話をしてどうこうするべき言葉では無いと私は考えます)
ただ、この言葉を読んで意識するべきこととして、「標準偏差外の確立の人々を排除する主張」することと同様にこの逆の行為だって意識することも重要だと思います。
標準偏差の外だとか内だとか、それだけでどちらがどうだとか判断の根拠にはならないと思います。
間違ってそのような言葉だけで物事の是非を判断してしまうと、どうにも外と内で認識の差を埋められないですし、そもそも根拠が意味不明すぎるのですから仕方がないです。これをどこまでも間違うと、外と内というただの相対的な勢力図の大小という力関係の問題になってしまうように思えて納得が行かないのです。
ここで自分の間違いだと思える話を終わります。
これは本質から逸れた話だと思いますが、本質から逸れて犯しやすい間違いでもあると思います。
深くものを考える人は、比較的に先鋭的になりやすいと思えます。多くの思考の中から重要な考え方として概念を拾って、問題を明確にしようとするからです。それを他者が理解するのは簡単ではないのに、概念の無理解を盾に喧嘩ばかりを望んでいるように見える人たちもいて、このような問題に火をつけているのが現実だと思います(この気持、嫌というほど分かるので文句を言い難いのですが、だからと肯定するわけにも行かない)。
本当のところは、勢力差から自然に表れる心の流れ方や力関係の大小がそこに生まれるという理屈の話を端的に表現している話だと私は捉えておりますので(間違えていたら御免なさい)、これをもって否定の話を書いても仕方ない、もしくはこれはこれで別の話として切り離した方が良いと思います。
すべきことは、得られた概念、あるいはその概念を利用してその先が足りないと思えたなら、そこからは自分で考えれば良いと素直に思います。
ここで書き足させて頂いた私の「自分の間違いだと思える話」も、切り離して書いても良いと書いたとおり完全に間違いだという話ではありませんが、倣うならこれはより深い考察への導入部分でしかないと思います。
見当違いなことを書いていたら申し訳ないと思います。ここでの作者さまが私の蛇足を訂正することはできませんので。
分かった上で、それでも書くのが私ですけども。
恥を恐れない私ですけども。