第三話
休日の繁華街では、普段どこにいるのか訝しく思うほどの人間を見ることができる。
もっとも、平日と休日という区分自体が極めて曖昧で、暦上でそう区分されているにすぎない。
そして、人々がなんとなく「休日だからどこかに出かけようか」という気分に、同時になるだけのことだった。
――みんな、特にやることもないのだな。
ふとそんなことを考えてみる。しかし、それはあたり前の平凡な感想に過ぎなかった。
定型的な単純作業はもちろんのこと、多少の判断を要する仕事もすべてAIにより代替されるようになった結果、人がわざわざ集まってやらなければならない仕事は激減した。
会社はごく少数の経営者によって維持されるようになり、労働者が列を成して通勤する姿は過去の資料映像の中でしか見られなくなった。
だからといって、高度な判断を要する仕事が大量にあるわけはもない。在宅勤務でこなすべき仕事があるわけでもない。
従って、人類の大半は趣味なのか仕事なのかわからないような非生産的な業務を、『クリエイティブ』という修飾語をつけてなんとか合理化して生きていた。
――私自身もそのうちの一人だけどね。
思わず自嘲する。自分だって、他の者からすれば無駄としか思えないようなことに膨大な時間を費やしている。
しかも、同時代人の基準からすれば信じがたいほどのワーホリックで、関係者から「頭がおかしいのではないか」と疑われる始末だ。先週は少なくとも百回、端末上に「カウンセリング受診」のリコメンドが表示された。
――それはともかく。
私は思考を先に進める。
人間のマニアックな生産性により、アカデミックとエンターテイメントは充実していたが、それは暇な人間が暇な人間のニッチな嗜好を充足する程度の意味しか持たず、富の源泉ともならない。
それでも大半の人間が不自由を感じることなく生きていられるのは、AIによる生産の効率化が物の価格を極限まで引き下げたからであって、極めて希少価値の高いものを除けば、商品はほぼ原材料費とイコールの価格である。
その原材料も、恒星系の中で適当な惑星一つを犠牲にしてしまえば、ただ同然で手に入る。例えば農産物は、厳密に管理された自動農場で生産されるから、自然災害による高騰を心配する必要はない。
まるで大昔の奴隷制度の中で、農場主として手を汚すことなく生きているような優雅さである。それゆえ、
「物質的には楽園のような世界の中で、精神的に意味があるとも思えない不毛な活動を続けながら、人類は緩やかに活力を失っている」
と指摘する評論家もいたが、彼自身が趣味の範囲で興味本位からそう言っているだけかもしれず、まじめに受け取る者はほとんどいなかった。
そして、そんな中で『天使』は発見された。
暇をもてあました人類にとって、それは格好の素材であったのだろう。町の中を歩いていると、同じように『天使』を連れた人の姿をあちらこちらに見かける。
ただ、大抵の場合は家族が談笑する中、『天使』はその集団の後ろに遅れないように従っていた。
今日、自宅に『天使』がいる家はそう珍しくはない。
安定した収入と社会的地位のある階層の家には、かなりの確率で『天使』がいる。
しかし、私の家にアリエスが来た三十年前には、その存在こそ知られてはいたものの『天使』を見たことのない人が殆どだった。
――そういえば。
そこで私は思い出した。
「アリエス、最初にうちに来たのはこのぐらいの時期じゃなかったかな」
私の隣をぼんやりとした表情で歩いていたアリエスは、問いかけられた途端に再起動した端末のように顔に少しだけ考えるような表情を浮かべると、
「はい、ちょうど三十年前の、暦の上では明後日がそうです」
と答えた。
「そうなんだ」
私はアリエスを改めて見つめてみる。
「どうかなさいましたか?」
アリエスは小さく笑いながら訊ねてくる。
その様子が、私のアリエスと初めて出会った時の記憶と重なって、私は少しだけどきりとした。
*
三十年前のことである。
私が自室にいると、ショートメッセージが空間表示された。
(浩一、ちょっと書斎まで来なさい)
発信人は祖父である。私はまた何か小言を言われるのではないかと考えた。
書斎に呼び出されるとろくなことがない。ただ、放置すると更に事態が悪化するだけだったから、私は溜息をつきながら腰を上げた。
当時住んでいた家は、無意味に大きかった。
増築を繰り返して、間を廊下で繋いだ結果として、慣れないと今どこにいるのか分からなくなるような迷宮だった。その中を迷うことなく祖父の書斎まで辿りつくと、私はドアをノックした。
「浩一かね、中に入りなさい」
ドアの向こう側から祖父の声が聞こえてきた。声の調子からすると、別に怒っている様子ではない。私はまた小さく息を吐くと、
「失礼します。おじい様」
と言いながら、ドアを内側に向かって押し開いた。
祖父の書斎は南向きで、大きな窓が並んでいたから、入った瞬間は逆光になって明暗順応に時間がかかる。
上背のある祖父のシルエットは見慣れたものだったが、その隣におおよそ祖父の肩までの高さの人型のシルエットがある。
私がしばし瞬きを繰り返していると、その人型のシルエットだったものが次第に色を帯び始めた。
その様子を祖父は見守っていたのだろう。私が驚いた顔をしたところで、
「浩一、これはアリエスだ」
と、少しだけ自慢げな声で言った。ただ、そのことには後で記憶を再生したと時に気がついたのであって、その時の私にはとてもそんなことを考えている暇はなかった。
緑色の髪。
驚くほど黒目の大きい瞳。
逆光の中に浮かび上がる白い肌。
私の頭の中に即座に文字が二つ浮かぶ――『天使』ないしは『妖精』
そして、私はその一方を言葉にした。
「天使――のようですね」
それを聞いた祖父は、意外そうな顔を一瞬だけすると、続いて楽しそうに笑ってから言った。
「ほう、天使かね。ふむ、それはなかなか良い。ちょうど味気ない分類番号表記に飽きていたところだから、固有種としての識別名称を『天使』としてみようか」
そして、祖父はアリエスのほうを見る。
「さて、アリエス。挨拶をしたまえ」
その声がいかにも上からの命令口調であったことに、私はやはり後になって気づく。その時はアリエスの動きに思考は釘付けとなっていた。
アリエスは一歩前に出ると、手入れのよくないロボットのようなぎこちなさで、頭を下げた。
「コンニチ、ワ」
意味を理解しないで、音だけで記憶した言葉を、部分部分で切って発音する。そんな感じの挨拶だった。
そして、そのこと以上に私が衝撃を受けた点がある。
そう言ってからゆっくり上がったアリエスの顔には、一切の表情が浮かんでいなかった。
天使の嘔吐 阿井上夫 @Aiueo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。天使の嘔吐の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます