虹の足下に

佐々城 鎌乃

虹の足下に


 「まだ来んき……」


 大学からの帰り、バス停で独りバスを待っていた僕は、いつもより大幅に遅れていたバスに、少し苛立っていた。いくら待っても、バスは来ない。それどころか、車ひとつとして走ってこない。


 片田舎の山の中にあって、ただでさえもの寂しい時刻表だけのバス停なのに、こうも静かだと心細くもなる。しまいには空模様まで怪しくなってくるではないか。あいにく、僕は雨具は持ち合わせていなかった。


 空は益々暗く重くなる。雷鳴が轟き始めると、バスが早く来ないか焦りが募った。


 そして、それほど経たない内に、頬に冷たい感覚が走った。ポツリポツリとどんどん数が増えていく。


 吐く息は白く滲み、カッターシャツには雨が染み込んでいく。そして、滝のように降りだした。近くにあった雨水溝はあっという間に激しい濁流だ。


 僕は急いで道路脇の茂みの中に雨避けを求めた。丁度良い木の陰に頭をいれて何とか雨をしのぐ。ハンカチで服の雨を吸いとるが、完全には乾かない。ハンカチはしっぽり濡れていくばかりだった。


 僕は座りやすそうな、良い具合に飛び出た木の根に腰をおろした。本を読もうにも、木の葉の隙間からしばしば滴る雨の事が気がかりで読めない。だから、仕方なく神様の機嫌がなおるまで待つことにした。


 このごろ、左眼の視力が著しく落ちてきた。高校へは運動系で進学したが、この事が理由でチームから外された。転んで眼を強く打った事が原因らしい。今後、回復する見込みは無いという。


 つまらない。


 子供の頃は憧れていた夢も、今では煩わしい事の源だ。いっそこのまま夢を諦めて良いところに就職すれば? と両親には言われたが、そんな急な路線変更など無理な話だ。光(これから)が見えなくなる怖さが僕を圧し潰そうとする。仲間は僕を哀れむ眼で見る。みんながそうだ。僕自身も──。


 しとしとと石の上に雫が滴って飛び散っている。


 しばらくして僕が眠気に耐えかねて寝入りそうになったとき、道の遠く向こうの方から何やら楽しげな歌が聞こえてきた。たいそう上機嫌で無邪気な、子供のような雰囲気のある声だ。女の子だろうか。僕は立ち上がって木陰から顔を出してみた。僕はこの閑散とした山の中に響く楽しげな歌に、縁日のような感覚を覚えた。


 雨が降るれば来(こ)りゃんとせ。


 霰が降るれば来(こ)んことせ。


 雪が降るればありゃんとせ。


 息はようよう、お上(かみ)はボンボン。


 回りゃ廻れ。


 叩けば起こせ、よーいよい。


 聞いたことのない歌だ。どこの方言だろうか。声は所々跳ねて、まるで踊りながら歌っているようだ。歌は次第に近くなってくる。


 雨が降るれば来りゃんとせ。


 霰が降るれば来んことせ。


 雪が降るればありゃんとせ。


 息はようよう、お上(かみ)はボンボン。


 回りゃ廻れ。


 叩けば起こせ、よーいよい。


 道の曲がりを抜けて姿を現したのは、白いワンピースを着て、靴も履かず傘もささずにくるくる回りながら、この不思議な歌を歌う人。


 少女だと思っていたが、少し違っていたようだ。


 女の人だ。


 気づけば彼女はすぐそこまで来ていた。こんなどしゃ降りの雨の日に、彼女は傘もささず、黒く長い髪を濡らしている。彼女は茂みから覗き見ていた僕に気づいたらしく、てくてくと道路に出来た水溜まりを踏みながらこちらに近づいてきた。


「おまん、だれと?」


 彼女はそう聞くと、後ろで手を組んで僕の事を下から覗き込んできた。20代くらいにしては幼げな顔立ちで、眼が輝いて好奇心をありありと全面に出している。


「そう言うあんたはだれと? 雨さ降りよるに、なして傘もささんと。風邪や引いたらどげんすつるや?」


 僕がそう言うと、女の人はニカリとはにかみ、「そげんな事、気にさんでもめじば(気にしなくていい)。こんは(今は)、雨さ降りゃんとせ(雨が降っているのだから)」 と言い、いっぱいいっぱい手を広げて空を見た。顔を大きな雨粒が弾こうとも、彼女は気にする様子がない。


「なして、雨さ降りよるに濡れないけんとか?」


 女の人は僕からピョンと雫が弾けるように跳んで離れると、激しい雨が打ち付ける道路の真ん中に、仁王立ちで空を仰いだ。


「雨さ降りゃんね、私はお天道様さ拝めんのね」


 雨が降らなければ空を見ることができないとは、どういうことだ?


「そりゃあおげん(たいそうなこと)なねえ。んだ、たら、良かんど(もし、良かったら)木陰さ入らばね」


「ええんさ。音さ聞こえんくなりゃ」


「雨音な?」


「んば(違う)。七橋(ななっちゃ《虹》)ぞ」


「七橋や音はせんと。何をはるばん(何をいっている)ね」


 女の人は空を仰ぎ見たまま、力強く、こう続けた。


「七橋やね、音さする。てと(だから)、あちはお天道様さ感ずるらよ(感じられるの)」


 彼女がそういったその時、にわかにある言葉が浮かんだ。焦りにも似たような、何か底知れぬ感覚が足元からじわりと昇ってきた。同時に、罪悪感が重くのしかかった。それは今まで自分が彼女に対して話してきた全ての前提を覆さなければならない一言だ。


「おまん──」


 喋ろうとした言葉は、喉元で失速した。発した一言は雨音に掻き消されて、彼女には届いていない、はずだ。もし訊いてしまったなら、自分で自分を責めてしまうかもしれない。それが恐ろしかった。


 ──おまん、光さ見らるらやか(光が見えないのか)。


 雨音がやけに大きく聞こえた。彼女はずっと空を見上げて笑ったままだ。それがかえって哀しく見えた。


 しばらくすると、女の人はくるりと一回りして、こちらを向いた。


「あちは光さ見えんとや。ちね(だけど)、音さ聞こるれや。声さ聞こるれや。そんは、めば(本当に)かりなん(素晴らしい・嬉しい)事ぞ。お天道様さばんお上さば(空の上にいる神様は)、めばめばかりなんもんさお下げなずった(与えてくれた)」


「おまん……おまん、そがなんで良かか(そんなので良いのか)!? 七橋や見らるらやんは、がまつかなかや(苦しくないのか)!?」


 自分の中にある迷いの答えを、彼女に求めようとして声を荒げた。


 女の人は目を丸くした。が、続けた。


「なしてがまつく覚えや(辛いと思うの)?」


 僕ははっとした。そしてあやふやな感情が確かな言葉となって僕の底から湧き上がってきた。


 彼女は、今を受け入れている。自分の目に光が映らなくとも、それを嘆くのではなく、音が聞こえる事に歓びを感じ、楽しもうとまでしているのだ。


 目が見えないだけでどれほど苦しいのだろう。本当は自分の眼で虹を見たいはずなのに、笑って、虹を聴こうとしている。そんな哀れみは彼女には無用だった。


 僕はただ立ち尽くして彼女を見つめた。動けなかった。


 そう言うと、彼女はまた一回りした。しかし、彼女は自分の足に引っ掛って、ぱしゃりとしりもちをついた。僕は急いで寄っていった。


「大丈夫な!?」


 彼女は僕の声を頼りに、手を差し出した。僕は彼女の手を取って引っ張り起こそうとする。しかし、彼女は僕の事を先に引き倒した。一瞬、彼女が子供のように悪戯っぽくにやけているのが見えた。急な事に思考がついていかない。


 結局、砂の入り雑じった水溜まりを弾いて、泥まみれになったのだけれど、自然と彼女が笑い始めたので、僕もつられて笑いだしてしまった。


 何故だろう。さっきまでもやっとしていたのに、今は晴れてしまっている。


 だからだろうか、なんだか身体が軽い。僕たちは、道路の真ん中で横に並んで座って、一緒に空を見上げた。


「そうば、あんた。七橋さいずこな?」


 彼女が音がすると言っていた肝心の虹が見えない。


「んん、ここな(ここだよ)」


「ここな? 見えらるや(見えないよ)?」


「音さするばや。足や。おげんな、めばめば美しんや(とてもとても綺麗だ)」


「七橋ん足さ音ば、や……」


 彼女が今までどのように過ごしてきたかなんて解りはしないけれど、彼女が持つ何かが、彼女には見えない虹を感じている。彼女は雨の日を待ち焦がれて、そしてこの今をただ感謝し、謳歌しようとしている。 それは、僕なんかがとやかく言ったところで、到底ねじ曲げることの出来ないものだ。 僕は少し安堵に似た感覚を感じた。


 そうして二人して座っていると、そう遠くない所から車のエンジン音が聞こえてきた。


「バスさ来りゃんとや。ここさ居るんな邪魔なや」


「あちは、歩くやかね。てと、ここでおまんとはおさらばぞ」


 彼女は立ち上がって顔に付いた泥を拭った。だが、泥は引き伸ばされて付いたままだ。そして、森を降りる小道へと愉しげに歩いていく。僕は咄嗟に彼女を呼び止めた。


「ここさ、僕はつま帰らるやわん(ここでいつも帰るから)。おまんは?」


 また、ここで会いたい。今度はちゃんと話がしたい。そう思った。


「あちは、雨さ降りゃまた来るけんなき(来るかもね)。七橋さ音ば聞きたかや(聞きたいから)。おまんも聞こえなや、さりやわ(貴方にも聞こえるといいね)」


「んやな」


 彼女はパチャパチャと水溜まりを踏んでいく。華奢な素足にしぶきが跳ねた。


「じゃや、さきんまたんや!(いつかまた) またんや、おさらばや!(またね、それまでさようなら)」


 彼女は愉しそうだった。たとえ目に光が映らなくても、苦しいとか辛いと思っていないのだろう。僕にとって、今は苦しい時だけれども、何か些細な事でも良い。小さな事に歓びを感じられるようになれれば、その時には、もう今なんて苦しくはないはずだ。


 気付けばいつの間にか雨はあがってしまって、雲の切れ間からは陽が天使の梯子のように差していた。


 僕は大きく手を振った。彼女には見えないのだろうけど、構わない。声はきっと届いている。きっと──。

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虹の足下に 佐々城 鎌乃 @20010207

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