20

 それからメイドを辞めるまで、シンシアは空き時間に恋愛小説を読むことになった。


 それと同時に、普段よりもリュファスと会う機会が増えたのだが、特に何もなく。すごく普通に日常は過ぎていった。

 その度にナンシーやレイチェル、その他の使用人が嘆く声が聞こえたが、気のせいだろう。


 恋愛小説に関しては、借りた分はすべて読破したが「面白いな」という以外に感想が湧かなかった。それを言ったら、レイチェルに余計怒られた。


(もっと詳しい感想を言ったほうが良かったでしょうか……騎士様と平民の娘さんがお付き合いするなんて、夢のある話だなってときめいたなとか……私とリュファス様の立場が似ていて、ちょっと羨ましいなと思ったなとかって……)


 意識しすぎているようで恥ずかしかったから当たり障りない感想を言ったのだが、それが気に入らなかったのだろうか。

 むむむ、と少しだけ悩んだ。それも数分だったが。







 シンシアが辞める前日は、それはそれは盛大なパーティーが開かれた。


 正餐会の後に開かれたお疲れ様会を思い出すパーティーで、少しびっくりする。しかし皆「シンシアがいなくなると悲しい」と言ってくれ、思わず涙ぐんでしまった。

 仲良くなれたとは思っていたが、そこまで言ってもらえるとは思わなかったからだ。


 ナンシーとレイチェルは、シンシアのために外出用のドレスを送ってくれた。「そのドレスを見たら、少しでもいいから私たちのことを思い出して欲しい」との言葉に、シンシアの涙腺は崩壊した。

 三人で抱き着きながら、ぼろぼろと涙をこぼしたのは、シンシアにとって大切な思い出である。







 ――そしてとうとう、メイドを辞める日になった。

 シンシアは今、ナンシーとレイチェルからもらったドレスを着ている。


 夏に着ることを想定した、群青色の外出用ドレスだ。

 シンシアだけなら絶対に選ばない色のドレスは不思議と似合っていて、シンシアはそのとき改めて「ナンシーさんとレイチェルさんってすごいんだな」と実感する。


 使っていた部屋を綺麗に整えたシンシアは、少ない私物を詰め込んだカバンを部屋の端に置きながら吐息した。


「ここを使ったのは三ヶ月くらいでしたが……なんだか一年くらいここにいた気持ちになりますね」


 それだけ、密度の濃い日々だったのだろう。実際、普通に生きていたら体験することがなかったことをしてきたと思う。

 部屋にカバンを置いたまま、シンシアはナンシーとレイチェルを探した。その手には手紙とバタークッキーが入った紙袋が握られている。

 そのクッキーは、シンシアが正餐会の際リュファスのために作ったものと同じものだった。


 今朝、早起きをして作ったのだ。リュファスに少しでも、シンシアのことを思い出してもらえたらなと思ったのだ。かなりの下心があるが、最後なので許してほしい。


(ちょっと、他の人に頼むのは気が引けますからね)


 昨日夜遅くまでかかって書き上げたラブレターは、なぜか四枚にもなってしまった。


 おかしい。枚数が多くなる父親に対して呆れていたが、これからは文句が言えないかもしれない。


 この時間なら、ナンシーが洗濯物を干しているだろう。

 そう推測したシンシアは、手紙を片手に庭へ向かった。


 庭は、一週間前の豪雨の爪痕を一つたりとも残さず、綺麗な花を咲かせている。

 いつ見ても見事な庭だ。初夏近くなっているからか、薔薇の蕾が綻んでいた。

 他にも様々な花が咲き乱れている。カモミール、アイリス、クレマチス……春の花もちょこちょこ咲いていた。

 その中に春呼び花と呼ばれるエアルを見つけ、シンシアは足を止める。


(リュファス様とのお出かけ……楽しかったな)


 あの日のおかげで、エアルはシンシアにとって幸せの結晶になった。

 おそらくこれからも、エアルを見るたびにあの日の幸福を思い出すのだろう。そう思うと、胸が温かくなるような気がした。


「リュファス様と今度お会いするときは、見た目も中身もちゃんと貴族令嬢らしい貴族令嬢になってから、お会いしたいですね」


 そんな令嬢になるために、シンシアは一歩前に踏み出したのだ。彼女はそう自分を奮い立たせた。

 シンシアの予想通り、ナンシーは庭の先にある洗濯物干し場で洗濯物を洗っていた。


「ナンシーさん」

「……あら、シンシア。……ドレス、着てくれたのね」

「はい。せっかくなので、着てみました。素敵ですね、これ」

「似合っていて良かったわ。既製品を手直ししただけなのが憎たらしいけどね……」


 唇を尖らせるナンシーに笑いつつ、シンシアは手紙と紙袋を差し出す。


「すみません。今回はお願いがあって……これ、リュファス様に渡して欲しいんです」

「……これって……」

「えへへ」


 シンシアは笑って誤魔化したが、ナンシーはすべてを悟ったようだ。

 きっと瞳を吊り上げたナンシーは、持ち上げた拳を固く握り締める。


「分かった。任せて」

「はい。あ、お仕事が終わった後でいいので。……それでは、さようならナンシーさん」


 恥ずかしくなったシンシアは逃げるように、使用人屋敷へと戻ってきた。

 玄関で一息つき、一度ぐるりと見回してみる。


「……人がいない使用人屋敷って、こんなにも静かなんですね」


 皆今頃、いつも通り仕事をしているのだろう。それを思うと、少しだけ寂しさが胸に滲んだ。


「……いけません、いけません! 今日は記念すべき第一歩なんですから、しんみりしたらダメです!」


 ぺちぺちと頬を叩きつつ、シンシアは部屋に置いておいた荷物を取りに行くために階段をのぼった。

 カバンから取り出した懐中時計を見れば、午前七時半を指している。リュファスが出かけるのが八時半頃なので、会うことはないだろう。


「今の時間なら、八時の辻馬車には間に合いますね」


 リュファスのように私用の馬車を持っていないので、決められたところまで走ってくれる市民用の馬車『辻馬車』を乗り継いでの帰郷になるから、予定では一週間以上かかるだろう。


 リュファスがナンシーから手紙を受け取るのが八時半頃だと仮定すると、ちょうどいい時間帯だ。

 逃げ切れる。そのことにホッとしたときだ。シンシアはあることに気づいた。


「……あ、ピアス。返すの、すっかり忘れてました」


 しかもそのピアス、今も耳につけている。

 ごくごく自然につけてしまうほどこれをつけていたのかと思うと、なんだか笑いがこみ上げてきた。


(高価なものですから、やっぱりちゃんと会って返したほうがいいのでしょうが……会える機会はもうありませんし。リュファス様からお手紙が来たときに、一緒に送りましょう)


 もし返信が返ってこなかったらどうしようかなと考えながら、シンシアは廊下を歩く。

 ぼんやりしたまま階段を降り、玄関についた辺りだった。

 バンッ! と。すごい音とともにドアが開かれた。


「ひえっ⁉︎」


 しかも、そこに立っていたのは、息を切らせたリュファスで。シンシアはぽかーんとしてしまう。


「え……リュファス、さま?」


 普段より乱れた格好をしていたが、間違いなくリュファスだ。

 シャツとズボンというシンプルな服装をしたリュファスは、シンシアが目の前にいることを知ると同時に叫んだ。


「こんな手紙を残していくやつがあるか!」

「………………へ? ちょ、ちょっと待ってください……え、手紙がもうリュファス様の手に渡っているんですかっ? というよりリュファス様、読むの早くないですか⁉︎」


 おかしい。シンシアの予想では、リュファスの手に渡るのはもう少し先だったのに。

 しかしリュファスの手には、シンシアが書いたらしき手紙が握られていた。つまり、読んで直ぐにここにきたのだろう。

 なぜこんなところにきたのか、わけが分からない。

 動揺のあまりカバンを床に落としながら、シンシアは慌てる。


(ちょ、ちょっと待ってください、心の準備が……!)


 不敬極まりないが、逃げようかと考えていたときだ。ぐっと手首を掴まれた。


「ひえ⁉︎」

「逃がすわけないだろう」


 低い声で告げられ、体がこわばる。


「に、逃げませんから、逃げませんから!」

「信頼できないからこのままだ」

「え、ええ! リュファス様、なんか怒っていませんか⁉︎」


 シンシア以外が見ても、今のリュファスがご立腹だと分かるだろう。何が一体彼を怒らせてしまったのか、見当もつかない。

 するとリュファスは、シンシアの目の前に手紙を突きつける。


「怒るに決まっているだろう! なんだ、この手紙は!」

「そ、それは……っ」

「なぜ付き合う条件が、君が金持ちになってからなんだ!」

「……リュファス様が怒ったのは、その部分なんですか⁉︎」


 てっきり「主人に告白したこと」に対して怒られるのだと思っていたシンシアは叫んだ。


(確かに、そういう内容を書きましたけど!)


 シンシアは手紙に、今までの思い出と楽しかったことなどを書き込んだのだ。

 そして最後の締めに「リュファス様のことが好きです。なのでオルコット家が普通の伯爵家並みの収入を得ることができた頃、リュファス様に伴侶がいなかった場合、私と婚約を結んでもらえませんか?」と書いた。

 我ながら完璧な告白だったと思っているのだが、なぜこんなにも怒られなければならないのか分からない。


 シンシアの胸にふつふつと、怒りにも似た何かが湧き出してきた。


「いやだって、お金大事ですからね⁉︎ 私みたいな平凡な女と結婚する人なんて、家柄目当てかお金くらいなものですよ! ですけどリュファス様は私よりも身分は上ですし、お金もありますし……私ができるアピールなんて、それくらいです!」

「なんでそう少しずれてるんだ! おかしいだろう⁉︎」

「おかしくないです! お金、大事ですもん!」


 ぎゃあぎゃあと、シンシアとリュファスは言い争う。

 お互いに怒っているからこそ起きた現象だ。二人とも、声を荒げるようなことはしたことがないのだから。

 しかし言い争いがだんだん白熱してくると、何が言いたいのか分からなくなってくる。


「なら、私のどこを見て結婚したいと思うのですか! やっぱり見た目ですか⁉」

「なぜ今度は容姿のほうにいくんだ!」

「一に見た目、二に家柄とお金が一般的だと聞いたからです!」

「っ、ぁあ、もう! なぜ分からない!」

「分かりませんよ! 分からないから、困っているんじゃないんですか!」


 結局何が言いたかったのやら、自分でも分からない。

 とにかくシンシアは逃げたくて、リュファスの手を振り払おうともがく。


(もう、なんですか! 勇気出して告白したのに!)


 涙目になりながら、シンシアが「もういいです」と言おうとしたときだった。




「もういいから、少し黙ってくれ」




 そう苦しそうな顔をして呟いたリュファスが、シンシアの体を引き寄せた。

 リュファスの顔が近づいて、シンシアの唇に柔らかい感触が落ちてくる。


(え……なに、こ、れ)


 リュファスの端正な顔が間近にあって、ルビーのように赤い瞳がシンシアを射抜いていた。

 口づけをされたのだと理解したのは、リュファスの唇が離れてからだった。


「え、な、なん、で」


 ぱくぱくと口を開閉させながら、シンシアは言葉をなくす。

 それを見たリュファスは、シンシアを抱き締めながら耳元で囁いた。


「……わたしが、好きでもない相手に口づけをすると思っているのか? 君が好きになった男は、好きでもない相手と外出するのを喜んだり、好きでもない相手を抱き締めるような男なのか? もしそう思われているなら、さすがのわたしも我慢ならないな」

「……それって、つま、り……」


 思わず言いよどんでいると、どくどくという音が聞こえた。それがリュファスの胸元から聞こえているものだと知ったシンシアは、頬を朱に染める。

 リュファスが、抱き締める力を強めた。


「好きだ。わたしは、シンシアのことが好きだ。……好きという理由があるのに、それ以外の要素を女性側に求める男がいるわけないだろう」

「……あ……」

「金や家柄など関係ない。わたしは、シンシアだからこそ好きになったんだ……これでも君は、裕福になってからわたしと婚約したいと言うのか?」

「……い、え。言いま、せん」


 シンシアは緩く、首を横に振った。


「でも……私、リュファス様のこと、ちゃんと支えたいんです。ちゃんと、対等な関係で……」


 シンシアの瞳に涙が浮かんだ。それは、自身の不甲斐なさからくるものだ。

 事実、今のシンシアがリュファスを支えるのは並大抵のことではないだろう。


 正餐会のときを見ても分かる通り、リュファスの立場はかなり不安定だ。本来なら、名実ともに安定した貴族令嬢のほうが、リュファスのことを支えられるはずだ。

 しかし今のシンシアには、それがない。それはきっと、付け入る隙になるだろう。リュファスが今まで必死になって守ってきたものを壊すような、愚かな女にだけはなりたくなかった。


 そう思ったら、ぽろぽろと頬を涙が伝う。喉をひくつかせる声を聞き、リュファスが体を離した。


「どうして泣くんだ」

「だ、だって……リュファス様の重荷にはなりたく、ないんです……リュファス様に、幸せになって、欲しいんです……っ!」

「……バカだな、シンシアは。わたしはすでに、君に支えてもらっている」

「……え?」


 リュファスの指が、シンシアの涙をさらっていく。

 涙で歪んだ視界の先には、とても優しそうに微笑むリュファスがいた。


「笑わないという選択を取ることで……誰にも愛想を見せないということで争いを避けてきたわたしに、笑顔を思い出させてくれた。人と関わることがこんなにも幸せで温かいのだと、教えてくれた。……シンシア。君はすでに、わたしにたくさんのものを与えてくれているんだ。それは、誰にでもできることじゃない」


 シンシアは目を瞬かせた。

 シンシアが困惑しているのが分かったのだろう。リュファスは苦笑しながら言う。


「それに……シンシアはいつだって前を向いて進んでいた。立ち止まり続けることで現状を維持しようとしていたわたしにとって、君は光のように明るく見えたんだ。……現にわたしは、君に苦しい思いをさせたくないからと、君への想いに蓋をしようとした。見ないふりをした。初めて顔を合わせたとき君に断られたし……今度は本当の気持ちを伝えて断られたらと思うと、どうしても言えなかったんだ。わたしは臆病だから。でも君は、当たり前のようにわたしの中に入ってくるから……もう、立ち止まるのはやめにした」


 リュファスさま、とシンシアの口から乾いた声が漏れた。

 シンシアを腕に閉じ込めたまま、リュファスは朗々と語る。


「……ロンディルスで、シンシアはわたしに『どうして名前を覚えていたか』と聞いたな。それは、君がデビュタメントをしたときに、わたしが君を気になったからなんだ」

「……………え、ええ⁉︎」

「だって君があまりにも美味しそうに、ケーキを食べていたから……おしゃべりにばかり気を取られて、義姉上がプロデュースしたケーキを食べない令嬢しか見てこなかったわたしには、君がとても新鮮に映ったんだ」


 だから後で名前を調べたと、リュファスは言った。

 シンシアはぷるぷると震えながら首元まで真っ赤になる。


(誰も見てないと思っていたら、リュファス様が見てたなんて……! 恥ずかしい! 恥ずかしすぎます……‼︎)


 リュファスの胸に顔を預け、赤くなっているシンシアを見て、リュファスがくすくすと笑った。


「だから、町で出会ったときは驚いたよ。思わず名前を呼んでしまったから屋敷に連れてきたが、今は本当に良かったと思っている。あの再会は、神様のお導きだったのかもしれないな」

「……私は、誰にも見られていないと思っていたからこそ楽しんでいたデビュタメントの私をリュファス様が見ていたという衝撃的な真実を知り、恥ずかしさのあまり悶死しそうです」

「それは困る。ケーキを食べているシンシアはとても可愛いのだから、慣れてもらわないと」

「そういう意味で困るんですか⁉︎」


 若干ずれた返答が返ってきた。リュファスは相変わらずマイペースだ。

 しかしこのやり取りのおかげか、だいぶ調子が戻ってくる。

 そんなシンシアを、リュファスが意地悪そうな笑みを浮かべ見下ろしていた。


「シンシアは本当に可愛らしいな。ころころ表情が変わる」

「…………リュファス様限定です。普段はこんなにも焦ったり怒ったり恥ずかしがったりしませんから」

「そういえばそうだな。普段は笑顔でいることが多い。そうか……それは、わたしのことが好きだから?」


 ぐっと、シンシアは喉を詰まらせる。「そういえば口で想いを伝えてはいなかったな」と思った。

 それからたっぷり一分ほど沈黙していたシンシアは、意を決して口を開いた。


「……そうです、好きです。ケーキを食べて笑っているリュファス様も、分けっこしたいからって言う理由で別のケーキを頼んだリュファス様も、訓練場で戦っていたリュファス様も。すごく素敵でかっこよくて可愛くて目が離せなくて……好きです、大好きです、大好きです、よっ!」


 最後のほうは、ほとんど勢いだった。ぜえぜえと肩で息をする。

 好きというだけでこんなにも疲れるとは思わなかった。ただ、無駄に達成感だけがある。

 どうだ! という意味を込めてリュファスの顔を見上げたシンシアは、すぐに後悔した。


「…………そうか」

「あ……え……」


 リュファスが。

 あの鉄面皮とまで言われたリュファスが。

 今にも滴り落ちそうなほどとろけた甘い甘い笑みをして、シンシアを見下ろしていたのだ。


 慌てて顔を逸らそうとしたが、体が言うことを聞かない。まるでリュファスの視線に縫い止められてしまったかのように、目が離せなくなってしまった。

 未だに残っていた涙を、リュファスが口づけとともにさらう。


「……しょっぱいな。それなのに、どうしようもないくらい甘い」

「あ……リュファス、さ、ま、」




 ――わたしのものになってくれ、シンシア。




 その言葉とともに重ねられた口づけは。

 今まで食べたどんなお菓子よりも甘い、恋の味がした――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

伯爵令嬢と騎士公爵のおかしな関係 しきみ彰 @sikimi12

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ