19

 父から手紙が来た当日の夜。外では雨が降り注いでいた。

 地面を強く打つ雫はジルベール公爵邸の庭を穿ち、庭師の手により丹精に整えられた場所を汚す。


 そんな雨が降る中、シンシアはリュファスの部屋にお邪魔し、その手紙を彼に見せながら事情を説明した。


「……そうか。契約は借金が返済し終わるまでだったし……なら、仕方ないな。この手紙からも、君の父上がとても心配していることがよく分かる。娘のことが心配なら、早く帰ってきて欲しいと思うのは道理だろう」

「……そこまで考えてくださり、ありがとうございます」

「ああ。だから、帰郷はできる限り早いほうがいいだろう」

「あ、え……は、い。そうです、よね」

「ああ。そうだな……一週間後はどうだ?」


(一週間後……⁉︎)


 シンシアは心の中で叫んだ。

 リュファスの配慮は嬉しいし、二年ぶりに実家に帰れるのも家族に会えるのも嬉しい。嬉しいのだ。

 一週間という短い期間も、シンシアを慮ってのことだろう。しかしそれはリュファスの元から離れるのを躊躇っていた彼女にとって、あまりにも早すぎる猶予だった。


(ど、どうしたらいいのでしょう……)


 シンシアがここで嫌だと言えば、リュファスは何故だと首をかしげるだろう。それに、もともとの契約内容にも反することになる。

 シンシアは、喉元まで出てきた「帰りたくない」という言葉をぐっと飲み込んだ。


(ここで変なことを言ったら、リュファス様を困らせることにもなります。それは……嫌です)


 手のひらを強く握り締めたシンシアは、意識して普段通りの笑みを浮かべる。


「……はい、ありがとうございます。……残り一週間、誠心誠意努めさせていただきます」

「ああ、頼む」


 ずきりと、胸が痛む。

 それを堪えながら退出したシンシアは、私室に入ると同時にへたり込んだ。


「……やだ。リュファス様と離れるの……嫌です……っ」


 手で顔を覆いながら、シンシアは泣き崩れる。


(どうしたら……どうしたら良いんでしょう、私、どうしたら……!)


 その夜、シンシアは眠ることができなかった。







 翌日。空は晴れ間を覗かせていた。

 それに合わせて、シンシアの気持ちも幾分か晴れる。


(泣いていたって仕方ありませんし……それに、こんな気持ちを抱えたまま実家に帰るのは、私らしくありません)


 だからシンシアは、契約終了時にリュファスに手紙を書こうと思っていた。リュファスへの想いを綴った、ラブレターを。


 面と向かって言えるだけの勇気はないけど、でも想いを伝えたい。


 そんな想いを抱えたまま夜悩みに悩んだ結果、シンシアはラブレターを送ろうと考えたのだ。

 ただ答えを聞くのが怖いので、最終日に誰かに頼んでそのまま実家に帰るつもりだが。


(面と言われるより、手紙で断られたほうがダメージ少ないですし!)


 女のほうから手紙、しかもラブレターを送るという、この時代からしたらかなり積極的なことをしようと考えながら面と向かっては言えないというのが、シンシアである。

 妙なところで積極的で、変なところで消極的なのだ。家族にも「それどうなの?」とよく言われる。


(だって仕方ないじゃないですか……恥ずかしいですもん!)


 自分に言い訳をしながら、シンシアは眠い目をこすりつつ今日も仕事をするために本邸にある使用人共同部屋へと向かった。


「おはようございます〜」


 そう声をかけながら部屋に入ると、そこには既に多くの使用人たちが集まっていた。

 マチルダがいるのにざわざわしながらおしゃべりしているのは珍しいな、とシンシアは思う。何か非常事態でもあっただろうか?


 彼らはシンシアが登場すると、バッとこちらを振り返る。誰も彼も、何やら焦っているようだった。


「お、おはよう、シンシア」


 皆が口々に挨拶をしてくる。

 その中の一人が、躊躇いながら聞いてきた。


「えっと……メイド長から聞いたんだけど……辞めるって、本当?」

「あれ、もう皆さん知っていらっしゃったのですか? えっと、はいそうです。来てそんなに経っていないのにもう辞めるなんて、すごく申し訳ないと思うのですが……」


 多分皆さん怒っているのだろうなと思い、シンシアは謝罪する。


 おそらく昨日のうちに、リュファスがメイド長に言ったのだろう。

 情報伝達が早くてすごいなとシンシアは思った。さすがジルベール公爵家の使用人たちだ。

 しかし使用人、その中でもナンシーとレイチェルは、勢い良く首を振った。彼女たちはシンシアのほうに駆け寄り、こそこそと耳元で囁く。


「それは全然いいんだけど、だけど……! えっと……その、シンシアはいいの?」

「そうだよ、シンシア! だってほら……シンシアってリュファス様のこと……」


 どうやらナンシーとレイチェルは、シンシアの恋心に関して言っているらしい。そういえばこの二人は知っていたな、とシンシアは思った。


(というより、ロンディルスに行ったときにお二人が言ってきたから、私も自覚したわけですし……リュファス様とのお出かけで、ドレスを貸してくれたりメイクをしてくださりとお膳立てしてくださいましたから、当たり前ですよね)


 昨日散々泣いて考え抜いたシンシアは、 比較的冷静に答えることができた。


「大丈夫です。気になさらないでください」


 笑ってそう言えば、二人だけじゃなく使用人皆が顔を見合わせている。


(……あれ? この空気、なんでしょう……?)


 ちょっとよく分からない。周りの空気を読むことに長けているつもりだったが、どういうことだろうか。


「…………仕事始めますよ、皆さん」


 無言のまま見つめ合う部下たちを見兼ねたのか、マチルダが呆れながら言う。

 それを機に、その話はうやむやになってしまった――







 使用人間での微妙な空気を保ちながらも、シンシアは今日もいつも通り仕事を進めていた。

 しかしリュファスが出かけた後朝食を摂っているタイミングで、執事長であるロランが困った顔をして使用人共同部屋にやってくる。その手には大きめの封筒が握られていた。


「いやはや、困りましたね……」

「どうしたのですか、ロラン」

「いやですね、マチルダ。どうやらリュファス様が、書類を忘れていったようで……」

「リュファス様が? それは珍しいですね。直ぐに届けねば」


 そんな会話が聞こえてくる。


(リュファス様が忘れ物、ですか……いつもちゃんとしているイメージがあるのに、本当に珍しいですね)


 リュファスは相手に付け入る隙を見せないために、普段から細かいことにも気をつけている。身だしなみをきっちり整えていたり、事前準備に余念がないのもそのためだと、シンシアはこの三ヶ月で悟っていた。


 スクランブルエッグを頬張りながら、シンシアは唸る。


(体調でも悪いのでしょうか? もしかして旅疲れが? ほとんど遊んでいたようなものだった私たちはともかく、リュファス様はお仕事をしていたわけですし……疲れが残っていたというのはあり得ますね)


 もぐもぐと咀嚼しながら考え事をしていたときだ。バッと左手を掴まれた。

 掴んできたのは、となりの席に座っていたレイチェルだった。


「ひえっ⁉︎」

「メイド長! リュファス様に忘れ物を届けるの、わたしとシンシアが行きます‼︎」

「……へ? え、えええ⁉︎」


 執事長であるロラン辺りが行くのだろうと思っていたシンシアは、唐突の立候補に驚く。


(いやいやいや、レイチェルさん! 立候補したところでダメだって言われるでしょう! あのメイド長ですし! というよりなぜここで立候補⁉︎)


 シンシアの頭が寝不足のせいで働かないからだろうか。わけが分からない。


「いいでしょう」

「え、え………………え?」


 しかし却下されるとばかり思っていた提案は、マチルダの二つ返事により通ってしまう。


「ありがとうございます! さ、シンシア! 行くよ!」

「へ、あ、はい!」


 朝食を半分ほど残した状態で、シンシアとレイチェルは書類を抱えジルベール家専用の馬車に飛び乗ることになった。

 いつの間に従者の人が乗ったのだろうか。シンシアたちが乗ると同時に、馬車がゆっくりと動き出した。馬のいななきが聞こえる。


「よっし! ナイスイベント!」

「……イベント、ですか?」

「あ、気にしないでシンシア。こっちの話だから」

「は、はい……」


 馬車の中でレイチェルがガッツポーズを掲げるという奇行に走ったが、理由は不明。

 そうこうしている間に、馬車はさっさと王城に着いた。

 城に来るのはこれで二度目になるシンシアは、その大きさにほわーと奇声を上げてしまう。


(この二年間、遠目からしか見てきませんでしたが……とても立派ですね)


 思えば、王都に行くと決めた理由に「お城がいつでも眺められるから」というのも入っていた気がする。

 白亜の壁面に真紅の屋根が特徴な城は、貴族令嬢らしいキラキラしたものに憧れているシンシアにとって、夢のような場所だった。

 何度思い返してみても、デビュタメントのときに食べたケーキは美味しかったなと思う。


(そう言えば、一番の夢である『王家御用達の菓子職人にうちの小麦を使ってもらう』は叶ったわけですよね。はー夢っていつ実現するかわからないですね)


 リュファスと離れるのが嫌ですっかり忘れていたが、『借金返済』と『王家御用達の菓子職人にうちの小麦を使ってもらう』という目標は二つ達成していたのだ。


 すごいことだなと思うと同時に、いつの間にか『リュファスと一緒にいる』というのがシンシアにとって一番の幸せで、『リュファスに告白する』というのは一番の目標になっていたことに気づき、苦笑する。


(目標をころっと変えてしまうなんて……恋心、おそるべし)


 そんなことをぼんやり考えていたら、レイチェルに怒られてしまった。


「シンシア! 急ぐよ!」

「は、はい! すみません!」


 朝から気合いたっぷりのレイチェルに引っ張られながら、シンシアは王城の中に入っていったのである。

 手続きなどはレイチェルがすべてやってくれた。その慣れた手つきを見て「さすが元王宮侍女」と思った。

 シンシアにできることといえば、大切な書類を抱えたまま突っ立っていることだけ。


 気づけば城に入れるようになり、レイチェル案内の元リュファスがいる魔術騎士団の棟に向かっていた。


「リュファス様、この時間なら多分朝練をしてると思うんだけど……」

「レイチェルさん、リュファス様が何をしているか分かるんですね?」

「リュファス様のお城でのスケジュールは、昔からほとんど変わらないから。行事があったら変わるけどね」

「そうなのですね」

「うん。あ、音がするから、やっぱり朝練してる」


 レイチェルが指を指した先には、吹き抜けになった空間があった。

 そこが訓練場なのだろう。耳を澄ませば確かに、キンキンッという金属が合わさるような音が聞こえる。

 近寄るにつれて大きくなる音に驚きながら、シンシアたちは訓練場の前まできて――


「……わぁ」


 思わず、そう呟いてしまった。

 訓練場には、男たちの咆哮と剣戟の音で満ちていた。

 遠くにいても感じ取れる迫力に、シンシアは呆然とする。

 その中でも特に目立っているのは、リュファスだった。


(リュファス様……すごく綺麗)


 この怒号の中綺麗というのは間違っていると分かっていたが、そう思ってしまう。それほどまでに、リュファスの動きは滑らかだったのだ。


 リュファスは、複数の騎士を相手に立ち回っていた。

 踊るような足取りで踏み込み、リュファスは相手の手元、それも剣を握っているほうに自身の剣の柄を叩きつける。


 それで一人が脱落。

 その隙に後ろから迫る騎士が剣を振り上げていたが、リュファスは振り下ろす動きよりも早くステップを踏んだ。シンシアの目では追えないほど早い。

 瞬時に回避したリュファスは、その騎士の背後に回ると首元に手刀を叩きつけた。騎士は喉から乾いた声を出すと、そのまま床に突っ伏してしまう。


「その程度か! 魔物に隙を見せれば、瞬時にやられるぞ!」


 今までに聞いたことがないくらい鋭い声で、リュファスが叫ぶ。

 その姿は、屋敷にいるときと同一人物なのかと疑ってしまうほどの迫力があった。


「あらら……リュファス様、本格的に訓練してたね。シンシア、怖くない?」

「…………っこいいです」

「……うん?」

「リュファス様、すごく、かっこいいです……素敵……」

「あ、そう……うん、シンシアってそういう子だったよね……怯えるより先に、好奇心とかが勝っちゃう子だったよね……わたし慣れてたから訓練場来ちゃったけど、シンシア女の子だし怯えちゃうかな? って思って失敗したなって思ったら、取り越し苦労だったわ……」


 レイチェルが何やら呆れていたが、今のシンシアにはリュファスしか見えていない。

 だって、剣術をやっている殿方なんてかっこいいではないか。

 好きな人の色々な顔が見れるなんて、楽しいではないか!


「レイチェルさん、何がなんだか分かりませんでしたが、連れて来てくださりありがとうございます! 実家に戻る前にいいもの見れました!」

「あ、うん。どういたしまして……あ、訓練ひと段落ついたね」


 レイチェルの言う通り、訓練は休憩に入ったらしい。汗を拭くためにか、リュファスがこちらへ歩いてくるのが見えた。

 瞬間バッチリ目が合い、リュファスが瞠目する。


「シンシア……?」


 声を上げるのはどうかと思い、シンシアは書類の入った封筒を掲げた。

 それを見て、リュファスはすべてを悟ったようだ。足早にこちらにやってくる。


「お疲れ様です、リュファス様。忘れ物をしていたので、レイチェルさんと一緒に届けに参りました」

「あ、ああ、そうか……訓練、見ていたのか?」

「はい、ばっちり。リュファス様、とてもお強いのですね。素敵でした」


 笑顔でそう言えば、リュファスが何やら衝撃を受けていた。


「そ、そうか……すてき、すて、き……」

「リュファス様、シンシア普通と全然違うので。見た目は普通ですが中身アレなので、リュファス様が気にしているようなことにはなってません」

「アレってなんですか、レイチェルさん」

「そうみたいだな……」


 レイチェルは結局、シンシアの疑問に答えてはくれなかった。ただリュファスはなんのことか分かっているようで、もやーっとした気持ちになる。


 が、ここは男所帯。しかもリュファスが話をしているということもあり、シンシアとレイチェルの存在に騎士たちがざわめき始めた。

 リュファスが眉をひそめ、鋭く「静かにしろ」と言い放つと、喧騒は嘘のように静まる。


 なのに、シンシアに対しては屋敷にいるときと同じように優しい顔をしてくれた。


「ありがとう、シンシア、レイチェル。この書類は大事なものだから、とても助かった」

「いえ、気づかれたのは執事長ですので、帰ったらお礼を言って差し上げてください」

「そうする。それでは二人とも、気をつけて帰るように」

「はい。御配慮痛み入ります」


 書類をしっかり渡したシンシアは、ぺこりと頭を下げた。


 やることが終わったので元来た道を戻っていると、レイチェルが目元を片手で抑えながら嘆く。


「恋愛小説にありがちな展開を組んでみたのに……なぜそれっぽい感じにならないの……! なんなのこの二人!」

「ええっと? ……レイチェルさん、恋愛小説読むんですね? 私お金がないので、読んだことなかったです」

「読むよ! 大好物だよ! 今日から貸して上げるから、シンシアも読んで‼︎」

「えっ」


 リュファスに忘れ物を届けた結果、なぜか恋愛小説を読むことになってしまった。

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