18

 リュファスの腕を掴みながら、シンシアはドキドキしていた。ここまでドキドキしたことなど、人生で一度もないかもしれない。


(ど、どうしましょう……これって二人きりでのお忍びデートってやつですよねっ? リュファス様にその気がないのだとしても!)


 このドキドキがリュファスに伝わってしまわないかひやひやする。でもそれ以上に嬉しいのも事実だった。

 人混みに流されないようシンシアをエスコートしてくれたり、歩幅を合わせてくれたり。そんな細かな気遣いにさえ胸が高鳴る。


 今のシンシアは完全に、恋する乙女だった。

 ちらちらとリュファスのほうを見ると、ふと目が合ってしまう。

 はにかみ笑いを浮かべれば、リュファスがくすくす楽しそうに笑った。


(落ち着かない、落ち着かないです……!)


 ここが室内なら、床に寝転びごろごろ転がっている。それぐらい衝撃的なことが、シンシアの身に起きているのだ。

 そんなシンシアの心境を知ってか知らずか、リュファスは町を見回している。


「シンシア、何か見たいものはあるか?」

「……へ? あ……ポットパイなるものが食べてみたいです。あと……ケーキも」


 ぽつりと呟けば、リュファスは頷く。


「約束だからな。それは守ろうと思っていた」

「……え?」

「三日前、約束しただろう? お茶会をしようと。せっかくだから、たまには外でお茶でも飲もうと思ったのだが……もしかして忘れてしまったのか?」

「え、あ、それは……覚えています。ですがその……聞こえていないと思ってまして……」


 返答がなかったので、てっきり聞こえていなかったと思ったのだ。

 あの日のことを思い出して、シンシアの頬がカーッと熱くなる。使用人にしては過ぎた言葉だった。


「で、出過ぎたことを申しました! わ、忘れてください……!」

「……それは困るな。シンシアと一緒に外出することを楽しみにしていたのに」

「……へ?」

「楽しみにしていたから、事後処理を頑張ってきたのだが……付き合ってくれないのか?」

「そ、それは!」

「ナンシーとレイチェルに頼んで君をあそこに呼んでもらったんだが、それも迷惑だったろうか?」

「そそ、そんなことはまったく! ありません! リュファス様とお出かけできて、私とても嬉しいです!」


 ハッとして口元を押さえたが、時は既に遅し。羞恥心が込み上げてくる。


「わたしも、シンシアと一緒に出かけられて嬉しい。ドレスを着た君もとても綺麗だな」

「……あ、ありがとう、ございます……」


 リュファスの言葉だからか、とても世辞には聞こえない。

 頬が赤くなるのを隠しながら、シンシアはかすれた声で礼を述べたのだった。


 そんな会話を経て、二人はカフェテリアに入る。屋根が張られたテラス席に腰を落ち着けたシンシアは、そっと息を吐く。


「人が多いな」

「そうですね。突発的に開かれたお祭りなのに、こんなに人が集まるなんてすごいです」

「ロンディルスは観光地でもあるからな。ここ最近は魔物が出るということもあり、かなりの人が別の場所に流れてしまったらしい。経済的にもかなりダメージを受けていたようだから、魔物を討伐できて本当に良かった」


 リュファスがそう呟いた辺りで、女性店員がメニュー表を持ってきた。


「いらっしゃいませ。お客様方も、祭りを聞きつけやってきたのですか?」

「はい、そんな感じです」

「そうでしたか。なら、後数日ここで過ごしたほうがいいと思います。ジルベール公爵閣下がお帰りになられるのが見れると思いますよ」

「……そうなのですね」


 自分の名前が出たことに驚いたのか、リュファスは少しだけ瞠目していた。

 しかしそれは、シンシアが見て分かる程度の違いだ。店員に「張本人がここにいる」のだとばれることはないだろう。

 そのことに安堵していたら、女性店員は拳を握り締めリュファスのことを力強く語り始める。


「ジルベール公爵様って、本当に美しいんですよ〜! 馬上にいるかの方はとてもお綺麗でした……ああ、今思い出しても素敵でした……」


(分かります、分かります。綺麗ですよね!)


 この女性店員、リュファスの素晴らしさが良く分かっている。


 そうなのだ。馬上のリュファスは、とても美しいのだ。髪やマントが風になびいたりするのもいい。

 しかし一番素敵なのは、そのざくろのような瞳が周囲の光景をつぶさに観察しているところだ。


(リュファス様、民草を見つめる目がすごく優しいんですよね……その目が本当に綺麗で、ロンディルスまでの道のりでいったい何度見惚れてしまったことやら……)


 同意の意味も込めてこくこく頷いていたら、リュファスに見られてしまった。


(ハッ。いけない、釣られてしまいました……!)


 リュファスの正体がばれてはいけないのに私が反応してどうするんですか、とシンシアは己に言い聞かせた。


 幸い、女性店員は、シンシアの行動に疑問を持ってはいなかった。そこまで意識が向かなかったようだ。

 彼女の語りには徐々に熱がこもり始め、シンシアをも圧倒させる。


「わたしの夫が騎士団にいるんですが、魔物の討伐時もとても素晴らしかったらしいです。あの方がいたからうちの夫も無事に帰ってきましたし、ご自身のことよりも部下のことを気にかける方だって話ですし……ジルベール公爵閣下は、この町の英雄ですよ!」

「そ、そうですか……ありがとうございます」


 シンシアは、笑いそうになるのをなんとかこらえながら頷いた。


 どうやらこの女性店員は、かなりおしゃべりらしい。その後も語るだけ語った後、笑顔で去っていった。

 彼女が去った後リュファスを見れば、頬杖をつきながら口元を押さえていた。


 その姿が可愛らしくて、シンシアはつい意地悪をしてしまう。


「……リュファス様、照れていらっしゃいます?」

「……自分の評価を直に聞くのは、初めてなんだ。だから驚いた……それに魔術騎士団に入った理由も、王都にいない機会が多いからとか、王族としての義務だからとか、褒められたものではないし……」

「リュファス様、この世界は結果がものを言うんですよ。ですから、理由がどうであれリュファス様が領民の方々に慕われていることは変わりありません。もちろん、国王陛下だってそうです。王族の方々が民を想っていること、皆知っていると思いますよ」

「……それなら、嬉しい」


 リュファスが微笑むのを見て、シンシアも口元を緩めた。

 褒められて喜ぶ子どもみたいだ。可愛い。


(オルコット領にリュファス様が来たことはなかったので、リュファス様の評価をまったく知りませんでしたが……リュファス様って民の方にも慕われていたのですね)


 自分のことではないのに、誇らしいような気持ちになる。

 リュファスが照れているのがまたおかしかった。


(いいこと聞けました)


 ほくほくしながらメニュー表のページをめくっていると、ケーキ欄のところを見てシンシアは目を光らせた。


「チーズケーキ、種類が豊富にあるんですね!」

「ああ、そうなんだ。ロンディルスはパイ発祥の地として有名だが、チーズケーキも美味い」

「チーズも乳製品ですからねえ……あ、そうです。リュファス様ってどんなチーズケーキが好きですか?」

「そうだな……ベイクドチーズケーキが好きだな」

「おお! 仲間です!」


 チーズケーキというものは、とても奥深いものなのだ。

 ケーキ好きの間ではチーズケーキ論争というものがあり、どのチーズケーキが好きかで争いになることも多い。

 シンシアはなんでも好きだが、どっしりしたベイクドチーズケーキ が一番好きだった。


 レアチーズケーキやスフレチーズケーキにも、それぞれの良さがあると思っている。リュファスとは論争にならず良かったな、と少しホッとした。


「では私は、このポットパイとベイクドチーズケーキにします」

「じゃあわたしは、ポットパイとスフレチーズケーキにしよう」


 あれ? とシンシアは首を傾げたが、リュファスは手早く店員を呼ぶとさっさと注文してしまった。


(リュファス様、スフレチーズケーキでいいのでしょうか?)


 気になったが、リュファスがいいと思っているならと流すことにする。

 ようやく落ち着いたところで、リュファスがシンシアを見る。

 そして、深々と頭を下げた。


「シンシア。三日前はすまなかった。感情的になってしまった」

「え……そ、そんな、謝らないでください! 気を悪くするようなことを言った私もいけなかったのですから……」

「いや、シンシアは悪くない。ただエリックと君が町を歩いたと聞いて……嫌な気持ちになったんだ。できることならわたしが、シンシアと一緒に町を回りたいなと思った」


 リュファスはこういうとき、自分の気持ちを素直に言う。だから心に直接響くのだ。

 シンシアは照れつつも、たどたどしく口を開く。


「そ、それは……う、嬉しいと言いますか……それにあの、ほんと私、バーティス様は紳士的でとても素敵な方だとは思うのですが……リュファス様とお話している時間のほうが、楽しいのです。そこだけは知っていただけたらとっ」

「そう……か」


 リュファスの空気が明るくなるのを、シンシアは肌で感じた。

 表情に出ないから分かりづらいが、嬉しそうな雰囲気を醸し出している。不思議な人だなとシンシアは笑った。


「それにしても、魔術って本当にすごいのですね。魔物が出て一人も怪我をしないなんて、私ちょっと信じられません。オルコット領で魔物が出れば、騎士の方は誰かしら怪我をしていましたから」

「ああ。確かに、魔術師がいるのといないのとでは全然変わるな。魔術師は遠目から全体の動きを見ることができるから、危ない場所に向けて魔術を放ったりすることもできる」

「そうなのですね。普段洗濯やお掃除とかのときしか魔術を使ったところを見たことがないので、驚きました」

「そういう魔術も大事だぞ? 特に生活を支える基盤となっているものなど、なくなったら大変だ。ケーキも食べれなくなってしまうしな」

「……ふえ、ケーキですか?」


 自分の好きなものの名前が出て、シンシアは驚いた。いったい、ケーキと魔術がどう関係しているというのだろう。


「焼き菓子はそうでもないが、生クリームなどを使ったケーキは腐りやすいんだ。それを抑えるためには、氷などで冷やす必要がある」

「確かにそうですね……でもそうなると、お金が」

「そうだな。そこで魔術の出番だ。ケーキを保存しているショーケースがあるだろう? あれには、状態を維持するという魔術円が組まれているんだ。材料なんかを保存しているケースも同じだな。場所によっては温度を下げる魔術を使っているところもあるが、それは冷たいものに使うことが多いな。アイスとかジェラートとか」

「なんと!」


 今まで何気なく見てきたものだが、今度から見る目が変わりそうだ。

 もしかしたら自分が知らないだけで、結構身近に魔術が使われていたのかもしれないと楽しくなった。

 シンシアが目を輝かせるのを見て、リュファスも嬉しそうだ。


「やはり王都のほうがそういう技術が使われていることが多いが、魔術は平民にとっても身近なところに使われているんだ。そういう目に見えないことで、この国の文化をあげてくれている魔術師たちもいる。そういうのは兄上が派遣してくださっているんだ。だからわたしは、独占派に力が傾いてしまうのだけは避けたいと思っている。独占派がこの国を支配したら、きっとそういう娯楽もなくなってしまうだろうから」

「一大事ですね、それは……私の生きがいがなくなってしまいます」


 シンシアは神妙な顔をして頷いた。

 独占派と推進派の争いは、思っていたよりも大変な事態を招きそうだ。

 今まで危機感をあまり感じなかっただけに、その大切さを身をもって知ることができた。


 そんなふうに真面目な顔をして話をしていると、料理とケーキがやってくる。

 テーブルの上に置かれた料理を見て、シンシアは目を輝かせた。


「こ、これがポットパイですか……!」


 ポットパイは、マグカップほどの大きさのカップの上にパイが覆いかぶさったものだった。こんがりとキツネ色に焼けたパイ生地が食欲をそそる。


 チーズケーキのほうには、ホイップクリームとイチゴソースが添えられていた。この時期はイチゴが使われているケーキが多いから、色鮮やかで楽しい。見るからに美味しそうだ。

 すると、お腹がくうっと鳴った。


(そ、そういえば、今朝は何も食べていませんでした……!)


 だからってこういうタイミングで鳴らなくても! とシンシアはお腹を抑えながら思う。リュファスだけでなく店員にまで聞かれ、羞恥心が二倍になった。


「ふふふ。そんなふうにお腹を空かせて待っていただけるなんて嬉しいです。お二人は新婚旅行でこちらに?」

「し、新婚旅行っ⁉︎」

「あら、違いましたか? ならカップル?」

「ち、」


 違います。そう言おうと思ったのに、リュファスは意味ありげな顔をして。


「そんなところだ」


 そう言った。途端、シンシアの顔が真っ赤になる。


(も、もしかしなくてもリュファス様、私をからかって遊んでませんか⁉︎)


 話を適当にやり過ごすためだと仮定しても、たちが悪かった。珍しく意地悪な顔をしているし、きっとそうに違いない。

 ギルベルトの悪い影響でも受けたのではないかとシンシアはひやひやした。もしその影響を与えたのだとしたら、シンシアが悪いということになる。それは困る。


(というより、グラディウス公爵閣下がやるよりもリュファス様がやったほうが破壊力がすごいのですから、本当にやめてください……心臓に悪いのです……!)


 そんなシンシアの様子を見て何を思ったのか、女性店員は生温かい視線を向けてくる。「どうぞごゆっくり」なんて言っていなくなったのだから、完全に勘違いしていた。


(いや、嬉しいんですけど……嬉しいんですけども、両想いではないので複雑です)


 リュファスのことをじとりと睨みながら、シンシアは再度お腹が鳴る前にポットパイを食べようと食前の祈りを捧げた。


 準備が終わり、スプーンを手に取る。

 パイに突き刺せば、中から色々な具材がたくさん入ったクリームシチューが出てきた。


 玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、鶏肉。それらが大きめに切られ、とろみのついたホワイトクリームと絡んでいる。パイと合わせて口に含めば、その熱さに驚いた。はふはふと、口元を押さえながら咀嚼する。


(お、美味しい……!)


 サクサクのパイととろとろのホワイトクリームが口の中で絡んで、幸せな気持ちになった。

 野菜や肉が大きめに切られているからか、素材の味や食感がしっかりする。ちゃんと火を通しているからか、にんじん独特のえぐみをあまり感じなかった。


「すごく美味しいです……お腹空いてたから、余計に美味しいです……!」

「そうか……ん、確かに美味しいな」

「はい! バーティス様にオススメされて気になっていたので、食べられて良かったです」


 そこまで言ってから、シンシアはハッと口を手で覆った。


(しまった、私ったら、また同じ過ちをー!)


 ついうっかり本音を吐いてしまい、上がっていた熱が一気に冷めてしまった。恐る恐るリュファスのほうを見れば、彼は無言でこっちを見ている。


「……エリックとは、どんな話をしたんだ?」


 しかしリュファスは三日前のように怒らず、優しくそう聞いてきた。

 その変わりようにびっくりしながら、シンシアは唸った。


「確か……初めは、リュファス様と一緒に食べるケーキ屋さんを案内してもらいながら……その道中で、パイのジンクスを聞きました。家族と食べると仲が長続きし、恋人と食べると結婚できるとかなんとか……あ、そこでパイが好きかどうかと聞かれましたね。私、ケーキの中で一番アップルパイが好きなので、好きですって答えました」

「……アップルパイが好きなのか?」

「はい! オルコット領では秋になるとリンゴの収穫とかも手伝うのですが、そのリンゴを使って作るパイが絶品で……最近はご無沙汰ですが、あの焼き立てパイが一番落ち着きますねえ」


 リュファスの機嫌が良いことを確認したシンシアは、あっと声を上げた。


「リュファス様は、どんなケーキが一番好きなのですか?」

「わたしか? わたしは……イチゴのショートケーキかな」

「………………申し訳ありませんでした。お会いした際、リュファスが一番好きなものを先に食べてしまって……」


 かなりの回数失礼なことをしている自覚はあったが、どうやら序盤からかなりの失態を犯していたらしい。思わず目線を逸らすと、リュファスが肩を震わせた。


「わたしが好きに選べと言ったんだ。気にするな。結果として食べることができたしな。それに……今となっては、あれで良かったと思う。わたしにとってケーキは一人で食べるものだったが、ああいう楽しみ方があるのだと学べたからな。一人で食べるよりも美味しかった」

「それなら良かったです」


 リュファスもどうやら、オルコット家式ケーキの食べ方を気に入ってくれたらしい。


「ああ。だから、シンシアと違うケーキを頼んでみた」


 だが続けて発せられた言葉に、シンシアは固まってしまった。ぽろりと、スプーンがテーブルに落ちる。

 普段ならもっと慌てたが、このときばかりは無理だった。


(え、ちょっと待ってください……もしかしなくても、私と一緒に別のケーキを食べたいから、スフレチーズケーキを頼んだのですか……? え、え……か、か……かわ……い、いっ……‼︎)


 これが惚れた弱みというやつなのだろうか、リュファスの行動が可愛く見えて仕方ない。

 耐えきれず、シンシアは両手で顔を覆った。


「……シンシア? どうかしたか?」

「……お気になさらずに。大丈夫です、少し……ダメージを負っただけですので……」


 真面目に言っているのがまた、なんとも言えずシンシアの胸をときめかせる。


(私の今の立場はメイドなので、こんな感情を抱くのは間違っているのでしょうけれど……でもなんていうか、とても幸せです)


 想いを口にすることはまだできないけれど、それでも一緒の時間を共有できるというのはとても心地良かった。


 それから、地味なダメージから回復したシンシアはリュファスとケーキを分けっこする。

 ベイクドチーズケーキはどっしりと濃厚で、スフレチーズケーキはふわふわと軽く、口の中でしゅわしゅわ溶けていった。


(うーん、美味しい……!)


 まったく違う味をした二つのケーキに、シンシアの機嫌は最高潮になる。


「チーズケーキ、美味しいですねえ」

「そうだな。舌触りといい味といい、全然違うから、違った楽しみができるな。同じチーズケーキなのにこうも違うとは……菓子職人は本当にすごい。その発想力は一体どこからやってくるのか」

「きっと、私たちとは違う頭の構造をしているんですよ……キッチン長なんて、私のふわっとしたアイディアを形にしてくれましたし……何かが違うんですよ」

「そうだな。ありがたいものだ」

「そうですね。ケーキがこれからも美味しく食べれる国であって欲しいです」

「そういう意味でも、わたしは頑張らねばならないな」

「……私も次の正餐会のために、今から準備しておかないといけませんね。リュファス様の平穏のためにも」

「頼りにしている」

「はい! これからも、誠心誠意努力します!」


 これから先ずっと一緒にはいられないけれど、それでも、リュファスの屋敷でメイドとして働いた記憶は宝物になると、シンシアは思う。


(その頃にはきっと借金も返済できてるでしょうし……私も、リュファス様に想いを伝えることができるでしょうから)


 早くて三年後くらいだろうか。

 三年後、リュファスが誰かと結婚していたら諦めるが、それくらいの夢を見てもいいだろう。

 他者から見たらどうしようもないくらい馬鹿馬鹿しい願いでも、シンシアにとっては希望なのだから。


 そんな会話を続けた後、二人はカフェテリアを出た。

 人混みの中をかいくぐりながら色々な店を見て回り、シンシアはナンシーとレイチェルのお土産を購入する。メイクを施し、素敵なドレスを貸してくれたお礼だ。


 広場に来ていたサーカスや手品なんかも見た。

 玉乗りピエロの曲芸に目を見張り、手品師の帽子から白い鳩が飛び立ったことに驚き、他の観客と一緒に歓声を上げた。

 王都にもサーカス団が来ていたことはあったが、仕事ばかりでそういう娯楽を楽しむ機会がなかったシンシアにとって、それはひどく新鮮な体験だったのだ。


 リュファスがとなりで、

「魔術を使えば鳩くらい出せるが……しかしあの手品師は魔力をまったく使っていないし……原理が分からん」

 と本気で悩んでいたのが、おかしくてたまらなかった。


 それから二人は時間が許す限り、祭りを楽しんで回る。

 二人がモンレー伯爵邸に戻ってきたのは、空が黄昏色に染まってからだった。夕食の時間ギリギリと言ったところだろうか。


「シンシアと二人きりで出かけていたことがバレたら、面倒臭いことになりそうだから……ここは少しだけ、ズルをしようか」

「ズル、ですか?」

「ああ」


 リュファスが人差し指を立て「しー」と言ってきたので、シンシアは素直に口をつぐむ。


 すると、リュファスがシンシアを横抱きにしたではないか!


 あまりにも自然な動作で抱き上げてきたので反応が遅れてしまった。

 驚きのあまり声が出そうになるのを、シンシアは手で口を塞ぐことで耐える。

 次の瞬間、リュファスが何か呟いた。


『闇の精霊よ、我らの姿を隠せ。風の精霊よ、我らの体を支えよ』


 聞いたことのない言葉だったが、なんとなく分かる。おそらく、魔術を使う際に必要な精霊言語というものだろう。

 しかしやってきた衝撃は、予想していないもので。


(と、飛んでます……⁉︎)


 シンシアとリュファスは今、空の上にいた。

 屋根に乗せてもらうために体を浮かしてもらったことはあったが、今回はその比ではない。リュファスの背中に羽根でも生えているかのように宙を飛んでいるのだ。

 その感覚はとても新鮮で、心までふわふわと浮いているような気持ちになる。


 リュファスはそのまま体を浮かせると、窓が開いていた二階の部屋に入った。

 そこは、シンシアが使わせてもらっている部屋だった。

 シンシアを床にそうっと下ろしながら、リュファスは笑う。


「ナンシーたちに、窓を開けておくように言って正解だな。楽しくて、帰るのがギリギリになってしまった」

「本当に、とても楽しかったです」

「……それじゃあ、わたしは出る。……今度はうちのタウンハウスで、またお茶会を開こう」

「はい。美味しいお菓子屋さん、探しておきますね」


 シンシアは笑顔でリュファスを見送った。ドアがぱたりと閉まるのを確認してから、彼女はずるずると床に座り込む。


「…………どうしましょう。リュファス様のこと、もっともっと好きになってしまいました」


 顔だけじゃなく、耳や首まで赤くなっているのが自分でも分かった。リュファスの前でよく取り繕えたものだ。恋とは厄介なものだと同時にとても満ち足りた気持ちになる温かいものなのだな、とシンシアはこのとき実感する。


 ――幸せすぎて、眠れそうになかった。



 *



 そんな夢のような一日は終わり、早五日。シンシアたちは王都にあるタウンハウスに帰ってきていた。


 一日休みをもらったので、万全の体勢での仕事となる。


 その日は珍しく曇っていた。

 なので雨が降る前にといつも通り洗濯をし、リュファスを見送り、他の仕事に移る。

 なんてことはない、少しだけ違うがそれでもいつも通りの範疇にはある程度の日だと、そう思っていた。







「あ、シンシア。ちょうどいいところに」

「レイチェルさん? どうかしましたか?」


 昼食後、シンシアは着替えるために一度使用人屋敷に戻ろうとしていた。そのとき、使用人屋敷に続く渡り廊下でレイチェルに会ったのだ。彼女の手には手紙がいくつも握られている。

 それを見たシンシアは納得する。


「レイチェルさん、今日の郵便担当なんですね」

「そうなんだ。今日はたくさんあるから大変で……」


 両手で持ったたくさんの手紙をシンシアに見せながら、レイチェルは唇を尖らせた。


 ジルベール邸の使用人には、週替わりで郵便担当が割り振られる。

 朝、昼、晩とポストを覗きに行ったり、ポストに入らない郵便物が来たときは受け取ったりするのだ。もちろん使用人宛ての手紙も届くが、大半は主人であるリュファス宛てのものだ。


 今回はポストによく入ったな、という量の手紙がレイチェルの手に握られていた。

 レイチェルはその中から一通の手紙を抜き取ると、シンシアに手渡してくる。


「はい、これ。シンシア宛てだよ」

「私ですか? 珍しい。レイチェルさん、ありがとうございます」

「いいえー。わたし、着替える前に皆に手紙届けてくるね」

「はい、いってらっしゃい」


 レイチェルを見送ってから、シンシアは手紙を見た。

 送り主を見れば、そこには『ヨゼフ・アイン・オルコット』と書かれている。シンシアの父の名だ。封蝋にもしっかりオルコット家の紋章が刻まれているから間違いない。


(お父様から手紙なんて、珍しいです。また事業に動きでもあったのでしょうか?)


 オルコット家の中心人物は母親だ。母はむやみやたらと紙を消費するのを嫌がるため、手紙を送ってくるとなると大きな動きがあったときのみだ。

 そんな事情を知っていたシンシアは、気になったので歩きながら封を切ることにした。


 マチルダに見つかったら大目玉を食らいそうなので、周囲を警戒しつつの開封となる。そそくさと使用人屋敷の中に入り、廊下を歩きながら手紙を取り出した。


 今回の手紙は、三枚あった。嫌な予感がして一枚目に目を通すと、明らかにテンションが上がっているときに書いたであろう文字が連なっている。

 そのとき、シンシアの脳裏に頭を抱えた母親の姿がよぎった。


(お母様、手紙の枚数に、きっと嘆かれたでしょうね……)


 書いてしまったなら仕方ない! と、やけくそ気味になりながら郵便配達員に荷物を届ける母の姿が、容易に想像できた。

 不憫だなと思いつつ、シンシアは手紙を睨む。


(こういうときのお父様は、最後のところに本題を書くんですよね)


 どうしてだろうか。父は気持ちが高ぶると、前座が長くなるのだ。研究の論文とかは始めに命題を示すのに、おかしなことだ。

 今は時間がないので、さっさと三枚目に書かれているであろう本題に目を通すことにする。


「ですがこれだけお父様が楽しそうにしてるってことは、前に言っていた取引先と上手くいったのでしょうか?」


 そう笑いながら三枚目を読み進めたときだ。


「………………え?」


 思わず、声が出た。足が止まってしまう。


 目を瞬かせながら、シンシアは改めて一枚目から手紙を読み始めた。

 一文字一文字を読みこぼすことなく、しっかりと頭に入れる。


 そこには、事業が成功したことやその経緯、そして今まで頑張ってきたシンシアに対する謝罪と感謝が書き連ねてあった。指先から体温が奪われていく。

 再度三枚目を読みきったが、その内容がまだ信じられなかった。あまりのことに現実を直視できない。

 三枚目の最後には、こう書き綴られていた。


『王家御用達のパティスリーに目をつけてもらった結果、借金返済の目処が立った。直ぐに帰ってきおいで』


「………………今、直ぐ?」


 書かれた内容に呆然としながら、シンシアはその場に立ち尽くす。


 開けてあった窓から入り込んだ湿った風が、彼女の髪をさらっていった――

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