マルチカラー・ツイード
ショーゴくんにはかわいいカノジョがいる。
一度だけ見たことがある。高校で世界史の先生をしているんだってさ。あんなかわいい先生いたら私だって真面目に勉強したっての、ってくらいかわいい子だった。
大きな、存在感のある目にすっと通った鼻梁、ショートボブの髪の毛が揺れてかたちのいい三角形の顎に沿う。背が高くてスタイルがよくて、背が高くて細身なショーゴくんのとなりに、よく似合っていた。
先生って場所によっては超絶ブラックって聞くし、シフト勤務なショーゴくんとは時間が合わないんじゃないの、って言ったら、ショーゴくんはかわいく目尻に皺を寄せて右目の下にあるほくろを崩した。
「うん。でも俺がカノジョに会いたいから、予定合わせるんだ」
昼休み、ショーゴくんと一緒に近所のデリでお昼を買って、休憩室で食べる。ブロッコリーのマリネを頬張ったショーゴくんのスマホが震えた。
「ん」
反応して、彼は明るくなったスマホの画面をちらりと見た。そして、すすすと操作して、にこっと笑った。カノジョかな、と思ったけど違った。
「あのさ、見て見て」
「?」
画面を見せられて、わっと声が出る。
「なに~? かわいい~」
「でしょ~」
表示されていたのは、小さな女の子の写真。撮影者を指差してびっくりした顔をしている。つまり、こちらに向かって人差し指を向けている。三歳くらい……かな?
「誰?」
「友達の娘ちゃん」
「へえ~、超かわいいじゃん」
女の子が撮影されたのはキッチンのようだった。そして、手元には泡立て途中の生クリームが入ったボウル。
「お菓子つくってんのかな」
「パパのお手伝いじゃない?」
友達はパティシエなんだ、と誇らしげに言う彼に、へえ、と返しておかずを口に放り込む。
「けっこう有名なパティスリーで見習い修行してんだよ」
「ふーん」
「あ、興味ないんだ?」
「うーん、そんなことないけど……」
だって、ショーゴくんのことじゃないもん。
カノジョのことを大好きなショーゴくんに、私はしょうもなく恋をしている。
◆
その日の仕事が全部終わって帰り道。私とショーゴくんは、駅まで一緒に帰っていた。と言うのもオフィスがあるのはみなとみらいの結婚式場で、われわれは桜木町駅まで約十五分も歩かねばならないのだ。
「今日、世間は花金だけど」
「ん、そーだね」
「ご予定は?」
「家帰って風呂入って飯食って寝る」
「え! カノジョとデートじゃないんだ?」
傷つく話題を自分から振っちゃうこの根っからのいい人気質、友達止まりな性格をどうにかしたいと思いつつ、気になるものは気になるので振ってしまう。
しかしショーゴくんは少し、表情を暗くした。
「……なんか、先週怒らせたっぽくて……冷戦中……」
「……そ、そうなんだ」
「喧嘩の原因自体はほんとしょーもないことなんだけど、俺がコトを大きくしてしまった感じ、です……」
「原因って?」
しぼんでいる風船にショーゴくんが口をつけて息を吹き込んで、最終的に割ってしまう様子がふとよぎる。
「……、……」
少し悩むように口をもごもごとさせてから、ショーゴくんは思い切ったようにため息をついた。
「なんか、俺、危機感がないらしくて」
「……?」
「詳細は省くけども、まあそれでちょっと嫌な目に遭って、それをカノジョに報告したら、怒られて」
「…………?」
危機感がなくて嫌な目に遭う、って、何の話してるんだ? 詳細を言えよ。全然分かんないよ。
「俺はそれを大したことない、と思ってたから、こんなことがあったんだ~みたいに軽く報告したら、もっと自分のこと大事にしろってすげー怒られちゃって」
「……はあ」
「俺は自分を大事に思ってないわけじゃないんだけど、なんか、軽視してるみたいに見えたっぽい、というか」
「ふむ」
「……それでさ、嫌な目に遭ったんだから一応俺は被害者なわけで、それなのにそんな責めることなくない、と言ったら火に油をそそぐ結果に……」
うーん、なんだろ、パワハラかな? でもそれだったら一緒に仕事している私が気づかないわけないし、そもそもうちの職場はそういうナンチャラハラスメントとは無縁な円満な感じだし……。
「で、ライン送っても既読無視ですよ」
「それはひどくない?」
「……うん、でも、よく考えたらカノジョが怒るのもある意味まあそうか、って感じだし、カノジョはカノジョで言いすぎたって思ってるだろうから、頭冷やしたいのかもね」
「一週間も既読無視って、もうそれ頭キンキンに冷えてるよ? 絶対めちゃくちゃ冷たくなってるよ?」
ショーゴくんは優しすぎるのだ。
そんなの、たしかに原因はショーゴくんかもしれないけど、一週間も怒りがおさまらないってふつうじゃない。そこはカノジョを責めていい。
でも彼は責めない。優しいのだ。
桜木町駅の前で、地下鉄に乗る私とJRに乗るショーゴくんは別れ、私はひとり電車に揺られる。満員の中目の前のおやじの後頭部を見ていると、ふと下半身でもぞもぞと動くものがあった。
…………花金に予定もなく好きな人と恋人の痴話喧嘩を聞かされて鬱鬱としている私を痴漢とはいい度胸してんな。
迷わず、痴漢撃退アプリを起動して音声を流す。
『痴漢です、助けてください!』
私のスマホから機械の女の声でそんな叫びが発信され、周囲がどよめき手が慌てたように離れていった。その離れていく腕を掴もうとしたとき、ふと頭に花が開くように思いついたことがある。
――俺の危機感がなくて嫌な目に遭って……。
ショーゴくん、もしかして痴漢か痴女に遭ったのでは?
◆
「ショーゴくん、あのさ」
「ん?」
「痴漢とか痴女は、危機感の問題じゃないよ」
「は? なんの話?」
翌日の土曜、予約の客足が途絶えた谷間の時間、暇と言っては何だがそういう時間の雑談で息巻けば、ショーゴくんはきょとんとして目を丸くした。
私は、金曜ショーゴくんと別れて電車に乗ったあと痴漢に遭ったこと(ここでまずショーゴくんが我がことのように憤ってくれた)、それをアプリで撃退したこと、そのときふとショーゴくんがどんな嫌な目に遭ったのかを考えてしまったこと、そのため痴漢を撃退したはいいが取り逃がしたことを話す。
「……痴漢」
「そう。男だから大したことないとか、恥ずかしいとかそういうんじゃなくて、誰相手だろうと犯罪なんだから!」
「いや、待って。俺痴漢に遭ったわけじゃないから」
「え」
額を手で押さえ頭痛を表現しながら、ショーゴくんは苦笑いする。
「身長百七十六センチの男を痴漢する奴とエンカウントする確率、人生で一回あるかないかだって」
「いやいやいやいや、今日日分かんないから! ショーゴくんなんかちょっと儚いし、かわいいし、ワンチャンあるって!」
「儚い? 俺が?」
ぎゃはは! と笑い飛ばすが、ショーゴくんは自分の外見についてどうやら自覚が足りないらしい。
まあ、正直見た目はチャラい。でもそのチャラさの中になんか、かわいさと儚さとエロさがあるのだ。(このエロさについては社会的地位が脅かされるのでもちろん口には出さぬ)
ところで、痴女痴漢の被害ではなかったか。ではショーゴくんはいったい何の被害に遭ったのだろう。そしてカノジョと仲直りはしたのだろうか。
「あー、ごめん。変にごまかすから誤解させたんだな」
笑い混じりにそう言って、ショーゴくんは被害の真相を教えてくれた。恥ずかしいから言いたくなかったんだけどさ、という言葉を添えて。
「大学の友達と飲みに行ったときに、向こうは俺のカノジョのこと知ってて、まあ大学一緒だったし、でさ、こう、俺がぞっこんで頭上がらないのもずっと見てきたわけよ、あいつらは。惚れたほうが負けって言うしね。って話逸れちゃった。そんで、なんつーのかな、こう、友達はけっこう酒が入るとノリが高校生になっちゃうって言うかそんな感じで、俺も散々からかわれて……、まだ尻に敷かれてんのかとかいろいろ言われて」
その飲み会のことを思い出しているのか遠い目をしているショーゴくんに、ふとひとつの事実に思い至る。
「あれ? ショーゴくんってお酒飲めたっけ?」
「や、ほとんど飲めない。だから俺だけしらふの会だから余計標的になっちゃうんだよね」
「あー……」
「俺がカノジョの尻に敷かれてんのは好きでやってることだから、ちょっとイヤなからかわれ方してもヘラヘラしてたんだけど、カノジョはそれがイヤみたいで」
それがイヤ、とはどういうことだろう。
私の疑問が伝わったのか、ショーゴくんは頬を指で掻き困ったように眉を下げて笑った。
「自分のせいで俺がからかわれるのが、イヤみたい」
「…………ショーゴくん、めっちゃ愛されてるんだね……」
なんの含みもなくシンプルな、そんな感想が漏れる。だって、自分のことで相手がからかわれるのを嫌がるのって、たぶんめちゃくちゃ、愛だ。
と思ったけど、ショーゴくんはそれこそ困った顔をした。
「そういうわけでは……あーまあ、いいや」
「? ところで仲直りはしたの?」
自分で自分の首を絞めてくスタイルなの、ほんとうによくないと思うよ私。
仲直り、と聞いてショーゴくんがふにゃりと表情を緩めた。ああ、仲直りできたんだ……。
頷いて、この世の優しいものすべてを集めて低い温度でゆっくりと煮詰めたような甘い笑みを浮かべる彼を、ほんとうに好きなのだけど。
「ちゃんと話し合いしたんだ。カノジョがイヤなことも、俺の譲れないこともちゃんと話して、折り合いつけたの」
「そうなんだ……。いい関係なんだね」
「うーん、たぶんね」
「ご謙遜を」
私はきっと、日々の仕事や些細なプライベートに触れるたび、彼の掛値のない優しさや強さに内包される弱さ、朗らかで健全な心や、厳しさとそれに相反する甘さに骨抜きにされている。
かわいらしい顔立ちや笑うとしわの寄る目尻や、右目の下にあるほくろのこと、ひょろりと高い背、さっぱりと刈り上げた襟足や、うごくたびにふわりと香る海辺のような優しい匂いのことを、愛している。
だけどきっと、私が好きな彼を彼たらしめているのは、ほかでもない「カノジョ」なのだ。
これは敵うわけがないし叶うわけのない恋だ。私が手に入れた瞬間彼は、私が知っていて熱い恋心を燃やす「武本彰吾」ではなくなってしまう。なんとも皮肉なこと。
「謙遜というか、俺は、カノジョ以外とまともな恋愛関係を築いてこなかったから、何がどういいのか分かんないだけだよ」
「ああ……うん、ショーゴくん、きみたちはとても、いい関係ですよぉ」
「そうなんだ……だったら、嬉しいな」
発言にしれっとチャラ男の片鱗捉えたり、だがまあいいか。
ショーゴくんはカノジョの話をするとき、おそろしいほど幸せそうな顔をするのだ。こんな幸せな顔は、他の誰にもできやしないと思うほどに。
幸せ、というのはただ満面の笑みではなく、彼の表情はツイードみたいに複雑な織地である。
さまざまな感情の糸を使って編み上げた生地のように、角度によってはもしかして不幸にすら見えるような、そんな幸せそうな顔だ。
きっと彼がカノジョに抱える思慕もまた、単糸の布地ではないのだろうな。
そうして、私も今日も今日とて、ショーゴくんにカレイドスコープのような少し揺らせば変わってしまう模様の恋慕を抱いている。
たったひとつ言えるのはただ、ショーゴくんはただ、きれいだということ。
◆
俺は彼女にメスにされたい 宮崎笑子 @castone
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