夕日の丘の音楽堂

緑茶

夕日の丘の音楽堂

 ひとりの罪人が神の怒りに触れて、とある使命を課せられた。

 死んだ人々の身体から歌を紡いで、神々の心を癒やすという職務。

 それを遂行するために、罪人は永遠の命を与えられ、地上に留め置かれ続けていた。


 黒と橙の狭間に塗り込められた空に、神々が座す霊峰が立ち並ぶ。その麓に、小さな村が広がっている。

 夕刻。光の粒子を撒き散らした海面の上を、影の姿になった漁船がふらふらと滑り、港に戻ってくる。漁師たちが収穫を讃える歌を歌う。その近くを駆け巡る近所の子供達と、それを見守る大人たち。そして家々の背後には、藍色が色濃く貼り付いている。どこか遠くで鳥が鳴いて、一日が終わりに向かっていることを告げる。


 砂利を足裏に感じながら、一人の少女が村の路地を歩いて行く。その先にはすすきが一面を覆う高原。彼女はそこへ足を踏み入れた。

 涼しげなざわめきを耳に感じながら、黄金の丘を上っていく。風に髪がそよいでも、少女は何の感慨も浮かべない。何らかの感情を消耗し尽くしたような、やつれた顔をしている。

 薄い睫毛の下で、彼女の瞳は草原の上を見やった。そこにはひとつの小屋がぽつりとあって、壁が西陽を受けて橙に照らされている。

 少女は歩みを早めて、その地へと向かった。


 小屋には、何も表記されていない。少女は小さな鈴のついた扉を開ける。

 簡素な木造りの床と壁が、ほの暖かく光っている何もない空間。そこにある椅子に、小屋の主人は座っていた。

 夕日が直接当たっていれば暑いに違いないはずなのに、真っ黒な服装をした金髪の男。

 彼は少女の来訪に気付くと、ゆっくりその顔を向けてきた。


「……どちらさまで?」


 男はまだ若く、二十代後半ほどに見える。しかし、少しやつれたその顔は、それ以上の年齢を重ねているかのように見えた。


「あの。『奏者』様……ですよね。ここにいらっしゃると聞いて、訪ねたのですが」


「ふむ」


 男は顎に手を当てて立ち上がる。


「確かに私は奏者だが……神官でもない限り、ここを訪れる奇特な者は居ないはず。君は一体、何故ここへ?」


 少女は少し俯いてから、意を決したように言った。


「わたし……弟に、会いに来たんです。ここに、あるんですよね」


 男は少女の顔をしばらく見つめた。相手の顔には涙が浮かんでいたが、目をそらすことはなかった。それで男はため息を付いて、肩をすくめて言った。


「いいでしょう。地下聖廟に案内する。来たまえ」


 男は床の凹みに手をかけると、引き上げた。すると階段が現れ、地下への入り口が開けた。

 男は無言で少女をそこへ誘った。それからふたりとも、地下へ降りていった。


「……弟、だったか」


 男は石造りの暗い階段を先導しながら尋ねる。


「ということは、もう既に、死んでいると?」


「はい。少し前に、病気で……」


 少女は過去を語った。


 彼女と弟は両親を亡くして以来親戚の家に預けられたが、そこでの暮らしは酷いものだった。酒浸りと浮気三昧の父母。ふたりの暴虐に耐えながら、毎晩遅くまで働き、僅かな食料にありつくような毎日。それが彼女たちの生活だった。

 二人は将来に希望など持てなかったが、お互いを心の支えとして懸命に生きてきた。どれだけの苦境にあっても、二人の絆は決して揺らぐことはなかった。

 しかし、ある時弟が病に倒れた。少女は彼を病院に連れて行くよう懇願したが、男も女も、見向きもしなかった。そのうちに弟は急速に弱っていき、やがてベッドから一切動けなくなった。

 末期の時、弟は少女を枕元に呼び寄せて、囁くように言った。


「ねえさん、僕は、死ぬのはこわくないんだよ。素晴らしいところへ行くんだ……」


「怖くないって、どういうこと」


「僕は死んで、神さまを癒やす音色になれるんだ。なんの邪魔もされず、一つのことを全うできる。それは素敵だと思うんだ……だから僕は、死を喜んで受け入れる……」


「そんなこと、言わないで。死んだら何もかもむだになる。だから――」


「僕は、行くよ。ひとりぼっちにさせて、ごめんね……」


 まもなく弟は、息を引き取った。痩せこけたその顔に、笑顔を浮かべながら。


 少女は語り終えると、大きく息を吐いた。告白に多くのものを消費したかのようだった。

 男が何の感慨もなく頷いて先に進むと、少女はその後を追いながら言葉を紡いだ。彼女の声は時折揺れて、沈黙が奔った。


「私……今でも思ってます。いくら今が苦しくても、死んでしまえば全てが無意味になるって。だから、弟が死んだことが良いことなんて、思えるわけがない。だって私は……こんなに悲しいのだから」


「なるほど。では、どうしてここへ?」


「……弟が死んだことに、納得するためです。私はまだ、生きてるんですもの」


 男は階段を降りきる手前で立ち止まり、何かを思案する。それから言った。


「君の考えは立派だが、ここにおいて、それが果たして意味を持つのかどうか」


 そして男は、少女を地下聖廟へといざなった。


 そこは、四方を石で囲まれた狭い回廊になっていた。ひんやりと冷え切った薄暗い空間がまっすぐ続き、そのはるか先の行き止まりには、上からの陽光が入っているのが見て取れる。それはまるで暗闇の中に現れた一筋の光のようで、男は少女の背後に退いて、前方へ進むよう促した。


「ここが聖廟。わたしがこの仕事を始めてから、これまでのあいだ」


 少女は進む。

 左右の壁面には小さなくぼみが幾つもあって、牢獄の列のようになっている。少女はその内部を覗き込み――短く、悲鳴を上げた。


「ここ一帯の全ての死者たちが、この場所に収められる」


 目を薄く閉じた青白い人間の頭部が、全てのくぼみに収められ、その身を連ねていた。

 そして、聖廟という言葉の意味に気付く。この回廊すべてに、屍者の頭部が収められているのだ。


「これが……」


「そう。いわばここが、わたしの仕事場所。神への音色を届ける場所」


 まがい物ではない、本当の人間の顔。何の感慨もなく、淡々と言ってのける男と、それらを見比べることで、少女は奏者という存在についてようやく理解した。

 死がそこにあった。物体としてその場所に在ったとしても、生あるものとして存在はしていない。その内部にはいかなる魂も宿ってはいないのに、まるで眠っているかのように岩の間に鎮座している。その光景に少女は打ち震える。


「うそ……どうして?」


 少女は声を漏らし、引き下がる。

 おなじ――すべての顔が、同じに見えたのだ。どの顔もそれぞれで異なる形相を持っているはずなのに、こうして目を閉じ、頭髪のない、陶器のような肌のままそこにある彼らは――皆、全く同じものに見える。まるで、均等に立ち並ぶ墓石のように。


「彼らは皆、死という一つのさだめによって結ばれた存在。だからもう、こちら側に立っている人間から彼らを判別することは出来ない」


「そんな……だったらどうすれば弟を……」


 懇願するように少女は言った。男はしばらく考え込んでから、答える。


「彼らの歌それぞれに耳をすませること。そうして那由多の声の中から、あなたの弟の存在を拾い上げること。死に近づき――死に同化すること。それぐらいしか考えられない。あなたのようなことを言ってきた者は、今まで誰も居なかったのだから」


「そんなことが……」


「はっきり言って、難しいと思うが……」


 少女は男の顔を向いて、はっきりと言った。


「いえ。やります。私は、弟に会いたい」


 その意志は固かったようだ。

 男はふむ、と小さく漏らすと、天井に、いや――天に向けて言った。


「では、時間もちょうどいい。――これより、山嶺に座す神々を癒やす歌を奏でよう。君は彼らの鼓動を感じ取り、声を確かめるんだ」


 少女は、頷いた。


 男は少女を地下に残し、階上へ。

瞑目し、深く呼吸。窓から見える山々の方向を向き、腕をかざす。

そして――空を飛ぶような動きで、彼の調律を開始した。


 少女の目の前で、回廊に並ぶ無数の顔たちが一斉に口を開き、同時にその奥から歌声が湧き起こった。はじめは小さなせせらぎのような音だったが、やがて高低折り重なる音色へと変化した。少女の身体は震えて、全身でその声を感じ始めた。


 麓の村では、人々がそれぞれの動きを止めて、はるか彼方におわす神々へとその身を傾けた。そして丘の上から聞こえてくる歌声に自分の魂を乗せて、天に向かって解き放つ。大人も子供も。全ての時が夕凪の中で停止して、海を渡る鳥だけが自由に動いている。それは完全なる調和の世界に他ならなかった。

 少女はその歌声に圧倒されながらも、顔達の一つ一つに額を突き合わせて、その内側から漏れてくるそれぞれの声に耳を澄ませた。すると、歌を構成する波ひとつひとつに、違う歌が流れていることがわかった。それを本能的に、瞬間的に理解した。


 その歌声は、生と死、両方が溶け合って、全てを肯定する歌だった。そこには総てが、彼らそれぞれの生総てがあった。少女はその歌の中で、世界の始まりと、終わりを見た。

 はじめに大きな火が上がり、次には膨大な歓喜の波が吹き荒れた。それが静まったと思うと、今度はとてつもない悲しみが湧き上がった。その繰り返しの果に、終焉の炎が在った。

 今この瞬間に、少女は世界そのものを感じていた。言葉にできなくとも、そこにあるのは、ありとあらゆる全てのものに通じている真理とも呼べるものだった。今少女はそれを、手元に手繰り寄せていた。

 もはや少女にとって、それぞれの顔はおなじものではなかった。誰もが皆違う年代記を奏でていた。歓喜も悲しみも全てが内包されていた。少女は更に、更に声を聞いていった。

 ――歌はその後も流れ続け、草原を超えて、海の向こう側まで届いていったが、やがて収束していった。最後には、小さな風の音のようになって、消えた。


「……」


 少女は夕陽の差し込む最奥にほど近い場所にとどまり、じっと動かずに居た。男が地下に降りてきてその場所へ向かうと、彼女はひとつの顔の正面に立っていることが分かった。


「歌は終わった。さて、あなたは一体どうする?」


「……た」


 少女は顔を上げて男を見た。その頬を、雫が流れた。


「居た。ここに……弟が、いた」


 少女はもう一度石廟に向き直り、今度は膝を震わせて、顔を持ち上げた。


「あなたがそう思ったのなら。きっとそれは事実だ。あなたは向こう側の世界を知った。死を、自らに引き寄せた」


 男がそう言うと、少女はぽつりと誰かの名前を呟いた。

 それは弟の名前らしかった。

 間もなく少女は静かに眠る頭を抱えて、声を上げて泣いた。


 漆黒は既に空の大部分を占め、橙の照り返しはその姿を海上から消しつつあった。家々には明かりが灯り、仕事を終えた人々がそれぞれの帰るべき場所へ向かっていた。草原のざわめきも落ち着いて、今はゆったりと吹く暖かい風に身を委ねていた。


「では……君はもう、自分の運命を受け入れるというのかな」


 男は、小屋の出口に手をかける少女にそう聞いた。

 少女は振り返ると、染み渡るような笑顔を向けて言った。


「いえ。私は……弟に会えました。それで気付いたんです。私がこんなに悲しかったのは、弟が死んだからじゃなくって、自分が置き去りにされたからだって」


「そう。それが生きるということ。あなたは今、生と死、両方の意味を知った」


 男が言うと少女はうなずき、また続けた。


「それで、私……思ったんです。このまま無為に生きることに、何の意味もないって。だって、こちらには弟が居ないんですもの」


「――」


 その言葉を受けて――男はこれまでと様子を異にした。

 数歩引き下がり、眉が少しだけ震えた。それから口元で何かを呟こうとして、引っ込める。それを何度も繰り返したのちに、男はようやく絞り出した、というように一つの言葉を吐いた。


「それが……君の望みなら」


 少女は微笑んで、男に頭を下げた。

 そのまま、小屋を出ていった。


 ――誰もいなくなった、とうに暗くなった小屋の中。

 男は椅子に座り込んで、物思いに耽りながら俯いている。

 そうしていつまでも、じっとしている。地上に鎖で繋がれているかのように。


 それから数日後、小屋を訪れた少女が村の外れで遺体として発見された。

 人々は早々に、彼女の死を自殺と判断した。

 まもなく彼女だったものは小屋に運び込まれ、地下の顔たちに連なることになった。

 それからも毎日、歌は奏でられた。人々を癒やし、神々の怒りを鎮めるために奏で続けられる。

 それ以降、小屋を訪れた者が居るかどうかは定かではない。

 しかし、地下聖廟に並ぶ顔のうち二つが、かつて仲睦まじい姉弟であったことは、誰にも知られることのない事実として、そこに在り続ける。



 男は奏者を続けている。

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