第四話 欠

 その時、キリエは旅客用汎用ポッド内に充填されたLCLの中に浮かんでいた。

 彼女は夢を見ていた。

 リリエが涙を流して感謝している。その姿は、擬似人格通信で見た現在のそれではなく、幼い頃のものになっていった。

(ママ、有り難う)

 これで、やり直すことの出来ない過去の悲惨な過ちを償うことが出来ると、キリエは喜ぶ。口元が綻び、LCL内に小さな気泡が漂った。


 大学を卒業して医薬品会社に入社し、一貫して医薬品原体の合成に携わってきたキリエは、ある日、感染症治療に有効な合成物を発見した。

 しかも、これが大当たりしたことで、彼女には巨額の発明特許補償金が転がり込んできた。

 自分で使い切れない報酬というのは、えてしてその人の人格をゆがめてしまうものである。

 しかもその資金を目当てに群がってきた有象無象が、周囲を囲んで事の本質を隠してしまうものである。

 彼女は、大学時代から彼女を支え続けてきた伴侶と、その間に生まれた娘を蔑ろにして、取り巻き連中との楽しい生活を謳歌し始めた。

 気がついてみると、即金で購入した自宅にひとりぼっちになっていて、二人の行方も分からなくなっていた。

 大層な金を使って探してみたものの、人類の居住エリアが銀河系内に広がっている昨今では、そう簡単にはいかない。

 それで家族を蔑ろにしたことを反省したものの、結局のところ彼女の性格はさほど変わりはしなかった。

 現在、彼女は会社からは最大の功労者として別格の待遇を受けている。研究費用も使いたい放題である。

 それに、もともとは優秀な研究者であったから、制限のない研究環境は彼女にうってつけである。

 そのお陰で、最近になって従来の治療薬よりもはるかに効果が高い新薬を発見したところだった。

 娘から連絡があったのは、その喜びの最中である。

 娘が居住している星系で感染症が流行していることは、娘に言われる前から知っていた。会社としての判断は「もっと相場が上がってから供給するよ」ということだったので、治療薬が不足していることも知っていた。


 ただ、娘がいるということだけが想定外である。


 キリエは統合政府からも緊急医療搬送の打診があったことを知っていたので、緊急医療搬送の動議を起案し、役員会に提出した。もちろんボランティアではなく、時価での供給である。

 実のところタイミングを見計らっていた案件なので、持ち回り決議によりさほど時間をかけずに承認された。

 同時にキリエは定期旅客便の確認を行ったが、虚数空間門の割り当てが三日後になっていた。それに、感染症流行地域への渡航であるから、一般旅客は厳しく制限されている。

 人道的は医療援助による訪問であれば渡航可能だったが、それには会社が同意しないだろう。仮に同意を取り付けたとしても、実際の渡航までに何日かかるか分からない。

 そこでキリエは強硬手段に出た。

 娘からの連絡に基づく緊急医療搬送を指示し、その積荷の一部に潜り込む準備を進める。実行までに二日程度かかった。

 それと同時に、会社の設備の一部を使って、認可前の新薬を目立たない程度に生産する。

 新薬には既存の治療薬のような時間制限はない。現在行っている動物試験の段階で、末期症状の患者であっても回復の可能性があることが分かっている。

 ただ、認可を待っていては間に合わない。なにしろ製造の時間すら惜しいぐらいなのだ。

 それに、新薬の提供についてはいくら説明しても会社は許可しないだろう。何しろ企業機密である。それを前面に押し出して拒否するだろう。出国すら差し止めるに違いない。

 キリエは搬送予定だった治療薬の有効期限データを改竄し、別な場所に準備した新しい薬の貨物に自分が乗り込む保護ポッドを紛れ込ませて、密航に成功した。

 彼女が潜んでいる保護ポッドは非合法ジャマーで中身が分からないようになっている。

 それでも彼女の行方が二十四時間も分からなければ、会社が治安維持軍に通報するだろう。

 同時に会社は、キリエがわざと公開情報として保存した部分的は医療研究情報および学術発表用準備原稿から、感染症に対して極めて有効な治療薬の開発に成功し、その製法に関しての重要な知識を有していることを認識することになる。

 詳細は連邦政府から割り当てられている個人情報管理コード付きの研究内容なので、開発者の知的所有権保護の観点から汎用生体認証によって保護される。

 医薬品の場合、臨床試験後の新薬製造認可が下りるまでは、開発者の承認がないと会社はデータ公開を要求できない。断片的に知るのみである。

 それでも、その情報は企業の機密情報たりえるから、正式な発表前に公開されることはない。

 つまり、彼女が積荷に紛れて渡航している可能性を考えることが出来たとしても、船の乗員にその事実が明かされることはないと考えた。

 加えて、彼はDレベルの危険人物である。人道的見地からの超法規的措置も考えにくい。

 だから、HIM船が虚数空間門を通過するまでが勝負だった。

 通過後であれば、再突入までは順番待ちしなければならないので、連れ戻されるまでに時間がかかる。その間に人命救助の実績を作ってしまえば、免責になるだろう。

 残された懸念事項は「船の緊急加速」であったが、リミッターの範囲内であればポッドに満たされた耐圧LCLが守ってくれるだろう。それ以上のリスクを犯すとは考えられない。


 彼女はLCLに浮かびながら、甘美な夢に微笑み続ける。

 しかし、彼女は知らなかった――彼女の想定に誤りがあることを。


 *


 アルフレッドが治安維持軍情報局からの緊急通信を受信したのと同時刻。

 キリエが所長を務める研究所で、以下のような会話がなされていた。


「どうした? なんだか顔色が悪いな」

「どうしたもこうしたもないよ。今日は朝から実験動物の片付けを続けているからな」

「えっ、そんな大事になってるの? なんで?」

「いやね。あの『女帝』の肝いりで進められている研究なんだけどさ」

「ああ、感染症の新薬な」

「そうそう、それにどうやら想定外の作用があったらしいんだよ。感染症のほうは治るんだけど、呼吸器系に深刻な副作用が出る」

「ふうん。で、その『女帝』はどうしているのさ?」

「なにやらここ数日、行方が分からなくなっているらしい」

「副作用に気がついて逃げ出したとか?」

「いやいや、それはないよ。実験動物が死んでいたのは今朝のことだからね」

「ふうん。それは大変だったな」

「いや。むしろ大変なのはこれからかもしれないな」

「どうしてだよ」

「その新薬を生産したらしい記録が残されていたんだってさ。そんなもの使った日には――」

「どうなるっていうんだよ」


「――人類史上最多の殺人鬼が誕生することになるだろうな」


( 終わり )

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以下の連立方程式の解を求めよ。 阿井上夫 @Aiueo

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