名無しのまま

hibana

名無しのまま

 夜の校舎に、入ったことはあるだろうか。

 裏門の低い柵を飛び越えて、下駄箱を通過し、警備の人の足音に耳を澄ませ。

 別に、悪戯で入ったわけじゃない。その日、僕は教室に財布を忘れてしまっていた。残念ながら僕の家は、帰れば食事が用意されているような理想的な家庭ではなかった。食事とはいつも対価が必要なものだった、僕にとっては。それなのに、財布を忘れた。

 僕には、昼に売店でパンを買った後、財布をぞんざいに机の中へしまう癖がある。今まで、“財布を机にしまう癖”と“帰りにその財布を鞄へしまう癖”というのが上手く共存しているから大丈夫だろうと思っていたのだが、機械でない限りいつも同じ動きはできないらしい。

 脱いだ靴を片手に僕は、廊下をひたひたと歩いていた。月の明るい夜だった。

 教室の戸を開けて、速やかに自席へ行く。椅子を少し後ろへずらし、机の中をのぞいた。暗くて、よく見えない。腕を伸ばし、机の中のものをすべて出す。その中に、探し物はなかった。

「は? え?」

 僕は思わず声を漏らして、もう一度机の中に腕を突っ込む。もう、何もない。

 おいおい嘘だろ、と思いながら僕は鞄の中を見る。ひっくり返し、何度か上下に揺らす。ごろんと、そこに財布は転がった。

「はぁ~!?」

 今日の放課後のことを思い出してみる。どの場面を切り取っても、財布を鞄に入れた覚えはない。それに、ここに来る前に鞄の中は念入りに探した。はずだった。しかし、癖というものはほとんどが無意識だし、往々にして探し物とは同じ場所を3回も4回も探してやっと見つかるものなのだ。

 思い違いでこんな時間に学校へ忍び込んでしまった僕は、途方に暮れて校庭を見下ろした。骨折り損、というか何というか。労働に見合う何かがほしくて、無意識に探していたのかもしれない。

 そんな僕に、神様が微笑んだのかどうか、よくわからないけれど。

 校庭を、一直線に縦断していく人影を、僕は見た。女子制服のスカートが、揺れている。僕は少し興味を惹かれて、窓を開けてその影に目を凝らした。見覚えがある、横顔。僕の胸は高鳴った。

 ――――城崎、仲。2つ隣のクラスの、同級生だ。

 僕と彼女の話をしておかなければならないと思う。僕と彼女の、と言ってしまうとかなり微妙だ。彼女に対する僕の、と言えばいいだろうか。

 2年前の春、僕らは入学式の日に出会った。『出会った』という言葉もこれまた微妙で、『僕は彼女を見た』くらいで留めておかなければ嘘になるかもしれない。初めての登校、僕は自転車を漕いでいた。鞄を斜めがけにして、緩やかな坂道を下っていた。最初に見えたのは、後ろ姿だ。ショートの黒い髪、そして白い首元。姿勢がよく、まるで衣服しか空気の抵抗を感じていないようだった。

 地面に片足をつけてまじまじと見るほど、僕はその後ろ姿に目を奪われていた。それから僕は、迷ったけれど自転車を降りて、足早に彼女の横を通り過ぎた。通り過ぎるときに、「おはようございます」と声をかけ、彼女からも「おはよう」と返ってきた。

 それが、僕と彼女の(厳密にいえば彼女に対する僕の)話の顛末である。つまり、僕の単なる片思いの話だ。

 それ以降、僕は彼女と話したことすらない。クラスも違えば、僕と彼女では絶望的にキャラが違う。彼女は友人が多い。どうやらバレーボールをやっているらしい、とは聞いたけれど、そういった繋がりもあるのだろう。かたや僕は帰宅部で、日がな1日暇をしている。友人がいないわけではないけれど、華やかさがない。

 そんな僕が、たまたま忍び込んだ夜の校舎で、彼女を見かけた。少しくらい、運命を感じたって誰も責めないと思う。たぶん。

 彼女は、迷いなく西の方向へ歩いていく。そこにあるのは、プールだ。






“拝啓、名無しの太郎くんへ――――……”






 目に染みる青い階段を上って、僕はそっと覗く。彼女はプールサイドに座って、足だけを水の中に突っ込んでいた。横顔に、揺れる水面の影が映っていた。僕は余裕なく辺りをぐるりと見渡してから、意を決して歩いていく。

「こんばんは」

 他人行儀の、声が出た。彼女は驚いたようで、プールに落ちそうなほど大袈裟に振り向く。僕を見て「あっ」と声を出し、それから不意に笑い出した。「かみさま」と呟いたのを僕は聞いた。どういう意味だか、分からない。しばらく笑っていた彼女が、「ごめんごめん」と目元を拭いながら言う。

「神様?」

「ううん、違うの。気にしないで」

 それから彼女は、「何してるの」と尋ねてきた。正直に言って、それは僕の台詞だと思った。それでも僕は殊勝な顔をして、「忘れ物を取りに来た」と答える。彼女は目を細めて、「じゃあ、あれだね。何をしてるの、って私のほうだね」と言う。それはまるで、自分から口にすることで問いただされるのを避けたような響きだった。だから僕は、重ねて尋ねるようなことはしなかった。ただ彼女の隣に座って、一緒に足をプールに突っ込む。熱帯夜に心地いい、水の温度だった。

「よく来るの?」と僕は尋ねる。精一杯の勇気により、敬語にしなかった。

「そうだね。最近、暑いから」

「見つからない?」

「警備の人なんていないんだよ、見たことないもん」

 そっか、と言って黙る。何か喋らなければと思ったけれど、普段から会話のキャッチボールなど意識したことのない僕は、ただ押し黙ることしかできなかった。そうしているうちに、彼女がということを思い出してむしろ意図的に黙ることにした。黙る、と決めたらそれはそれで難しい。やはり耐えられなくなり、僕は口を開いた。

「僕、邪魔かな。邪魔、だよね」

 隣で彼女が、ほとんど吐息のような声で笑ったのがわかる。

「それが、ね」と、鈴が転がるような声で。「びっくりすることに、全然邪魔だと思わないんだよね。それが不思議だなって今思ってたの」

 ねえ君って植物? と彼女は言った。そうかもしれない、と僕は真剣に答える。そうならいいな、と思った。彼女は嬉しそうに、「また来てよ」という。

「私の名前、知ってる?」

 僕はドキリとした。もちろん知っていたが、彼女は僕を知らないだろう。知らない相手から知られているというのは、やはり多少気味が悪いものではないだろうか。恐らく彼女も、そのつもりでこの質問を投げかけているのだろう。僕はどぎまぎしながら、「話したことないから」と言った。彼女はどこか不思議な表情をして、「名前なんて知らなくていいよね」とこれまた不思議なことを言う。

 少し考えて、僕は「ジャック」と呟いた。

「え? 君の名前?」

「いや、ごめん。“ジャック”ってすごく一般的な名前らしくてさ、英語の名前だと。知らない人でも『ヘイ、ジャック!』って呼べば大体振り向く、みたいな。それで気を逸らせて荷車を乗っ取るやつとかがいて、それがハイジャックの語源……みたいな」

「何その、豆知識」

「で、それの日本版ってないのかなぁって考えたことがあって」

 僕は少し恥ずかしくなって顔を赤くしながらぼそりと言った。「太郎」と。彼女もきょとんとしながら、「太郎」と繰り返す。

「……」

「……」

「……じゃあ日本だと、ハイジャックのことは『よう、太郎!』になるわけだ?」

「ならない、よね。振り向かないし、誰も」

 あまりの恥ずかしさに生まれてきたことを後悔し始める僕の横で、彼女は腹を抱えて笑い始めた。『よう、太郎!』と何度も繰り返して笑っている。それだけは僕が言ったのではないし、そんなに笑われるような話題ではない。やがて彼女は、「さぁ」と息も絶え絶えに僕を見た。

「そしたら私、花子さんでいいかな」

「……すごくトイレにいそうだよね」

「ハナちゃん、って呼んでくれる? ね、タロくん」

 僕は彼女を見て、その目が可笑しそうに細められているのを見て、ちょっと笑う。

 名無しの太郎と名無しの花子は、結局名乗らないまま次の約束をした。僕は帰り道、空腹を思い出してハンバーガーショップに寄って、どうしてこんなことになったのかとひとしきり首を捻った。






“あの夏の日を、よく思い出します。私たちが名無しを選んだ、あの夜のことです。私の気まぐれだったのだけど、君が受け入れてくれて本当によかったと思う。突拍子もないことを言ったのは私だけど、でも君の名無しの話も、突拍子なくて笑っちゃった。話すのが下手だよね、君。私ね、でも、そういうのもあるんだなぁって思った。マスクをして、顔も何もわからなくても、私たちは仲良くなれたと思うんだ。私だけかな”






 あれから僕たちは、何度か夜の校舎で会った。彼女の言うとおり、警備の人は一度も見かけなかった。時間帯が警備とずれていたのか、それとも本当に雇っていないのかはわからない。

「タロくんさぁ」

「あ、うん」

「いつまで私のこと、『ハナさん』って呼ぶの」

 それはつまり、そろそろ名前を知らないままでやり取りをするような茶番をやめよう、ということだろうか。そう考えて、僕は緊張した。そんな僕の思いを知ってか知らずか、彼女は不満そうな顔をしている。あのさ、と彼女が言った。

「さん付け、やめようよ。ハナでいいよ、ハナで」

「そういう……」

 拍子抜けして、僕はため息をつく。確かに、彼女のほうでは『タロくん』などと親しげに呼んでいるのに、僕が『ハナさん』では釣り合わない感じがした。そもそも僕と彼女が釣り合うということを前提とするのは無理がありそうだけれど。

 僕らは、昼間の校舎では言葉を交わさなかった。廊下で見かけた彼女は、仲のいい友人といつでも楽しげだった。僕の住む周辺の空気と、彼女の周囲の空気は違う。それがなぜだか夜の時間だけ、ぐっと空気の質が同じになる。僕はそれを、いつも不思議に思ったけれど。夏の魔法なんてもののせいにして、できればそのまま解けなければいいとだけ思っていた。

 彼女と話すようになって、世の中には突拍子もないことを言う人がいるんだな、とよく思った。彼女の中でどれほど繋がった話題なのか知らないが、僕にとって彼女の話すことはいつも突拍子がなかった。

「一目惚れって信じる?」

 そう、彼女が言う。

 僕は瞬きをして、今まで何の話をしていたんだっけ、と思う。好きなアーティストが奇跡的に被っていたという話はそこそこに盛り上がっていたような気がするが、そこから何の話題を経て、彼女のこの問いに繋がるのだっけ。

 僕は考えるのをやめて、代わりに「あると思うよ」と答えた。

「だって人見知りって、あるよね」

「え?」

 いきなり別の単語が出てきて戸惑ったのか、彼女はきょとんとした顔で僕を見る。そんな彼女の当惑を感じ取り、僕は慌てて言葉を紡いだ。

「よく、わからないんだ。人見知りは一般的に受け入れられていて、一目惚れは信じるか信じられないかで語られるのがさ」

「……タロくんは知らないかもしれないけど、一目惚れっていうのはある特定の人にしかしないんだよ。人見知りと違って。そういうのがあり得るかって、私は聞いてるんだけど」

 なぜか彼女の機嫌を損ねてしまったのだと知り、僕はなおの事焦った。「わかってるよ」と口ごもりながら言う。

「一目惚れ、したことあるから」

 俄然、興味津々という顔で彼女が身を乗り出してきた。「どんな人? 私も知ってる?」と詰め寄る。僕は自分の失言を後悔しながら、渋々と「姿勢がいい人だよ」とだけ言った。彼女は「ふうん」と感心したように言って、腰に手をあてる。

「私も姿勢はいいって言われるけど、誰だろう。うちの学校だったりして?」

 これはある程度わかってほしいところである、まさか『君です』とは言えない。ふふん、と胸を張って彼女が片眼をつむる。

「私、バレエやってるからね」

「バレーボールで姿勢がよくなるの」

「ん? 違う違う、バレエ。ダンスの、バレエ」

 僕は衝撃を受けた。恐らく今月イチ、今年イチ、夜の校舎で彼女を見かけた日よりも驚いている。なんと、彼女の得意とするスポーツはバレーボールではなく、ダンスのバレエであったのだ。聞きかじった情報など何のあてにもならないと分かった。

 でも、

「それはとっても、君に似合うね」

 どうやらその言葉が、彼女にとって予想外の一言だったらしい。目を丸くした彼女がいきなり、片足を上げて空を見た。

 そして、くるくる……くるくる……と、片足を上げたまま回り始める。背筋はぴんと伸びて、足も真っ直ぐに伸びている。一度回るごとに、指先はしなやかに止まり、視線は艶やかに夜空を見上げる。

 何度か回って、彼女は僕を見た。

「どう?」

 僕は熱に浮かされたような目で、手をたたく。「とっても綺麗だ」

 褒められた子供のように得意な顔で目を細めた彼女が、「褒めるのが上手ね」と笑った。

「私、『上手』とか『下手』とか言われたことはあるけど、“似合う”とか、“キレイ”とか言われたの初めて。というか、みんな褒めてくれないんだもん。嫌になっちゃうでしょ」

「そんなに綺麗なのに?」

「ほんと? ほんと? タロくんって、何言っても嘘じゃなさそうなのがずるいよね」

「嘘、言ってないから。言えるほど頭よくないんだ、僕」

 驚いた顔をした後で、なぜだか彼女は困ったような顔をする。

「頭はいいよ、君は」






“私はバレエが好きじゃなかったんだけどな。ガサツで、物覚えも悪くて。そんな私にバレエが『似合う』って言ってくれたのは本当に君だけだよ。嬉しかった、っていうのはちょっと変かな。君が手を叩いてくれた時、子供のころバレエを始めてすぐに親に見せたのを思い出した。ママが『上手ね』って手を叩いてた。でも、どうだろうね。君みたいに『綺麗』とか『可愛い』とか言う人だったらどうなってたかなって思う。上手とか下手は、だれでも言えることだから。なんて、別に綺麗とか可愛いとか、言われたかったわけじゃないんだけど”






 その日は、彼女が最初から沈んでいるように見えた。いつものプールサイドに座りながら、憂鬱そうに月を眺める彼女は。

 僕は隣に座りながら、見えない空気を必死に読もうと足掻いていた。たとえば、

 ――――いま彼女の手を握るのは有効な手段だろうか。

 そもそも僕らは、一体どんな関係性なのだろうか。昼間はさっぱり会話さえしない。しかし夜は、その関係性は友人同士を凌ぐと自負している。

 だから。だから?

 手を、繋げる? それが彼女の気を晴らすきっかけになったりする? 何が彼女を落ち込ませているのかもわからないのに?

 思い上がるな、と僕は自分自身を叱責する。そんなことでこの特別な夜が終わりを迎えるのだけは絶対に嫌だ、と。

 それはそうと、彼女は先ほどから一言も声を発していない。比較的お喋りだと言える彼女がだ。こんなにも落ち込んでいるのに、帰らずにここにいるということは何か僕に期待しているのだろうか。口下手な僕に相談に乗るようなことができるかと言われれば、聞くだけなら聞くけど、という反応をしてしまうだろう。そんなことにならないといいな、と僕は内心ひやひやして彼女を見た。

 その後、10分間。僕も彼女も口をきかなかった。

 さすがにこの沈黙はつらい。僕は、何か言うべきか本格的に悩み始めた。もしくは、本当にアレを実行するか? 彼女の手を握ってみる、というアレだ。人は精神的なダメージを受けると、人肌が恋しくなると聞いたことがある。もしかしたらそんなものが何かの足しになるかもしれない。いや、万が一にも、という希望的観測だけれど。

 お前が、雰囲気にのまれて単に手を握りたいだけだろうと、言われればそれまでなのだけど。

 僕は手を伸ばす。彼女の手が近くにあり、つまりいつでも実行可能だということを確かめた。水に潜る前のような心の準備をし、僕は思い切って彼女の手をつかんだ――――かと思われたが、その手は彼女の手の甲を軽く弾いただけに終わった。僕は慌てて「ごめん」と言って、頭をかく。

「……あ、あのさ」

「うん」

「今日はもう遅いから帰ろうか」

 何たる臆病。僕はぼそぼそとそう言って、立ち上がった。彼女も、大人しく立ち上がる。

 その時だ。

「そこに、誰かいるのか?」

 時刻は、確かにいつもより遅かった。なるほど、と僕は思う。

 一応ちゃんと、警備員を雇っていたわけだ。こんな時間に巡回をしていたとは思わなかった。それとも、正式な警備員ではなくボランティアか何かなのだろうか。シルバー人材センターとか、そういうところの人なのだろうか。以前にもこの時間まで話していたことはあると思ったし、気まぐれで真面目に巡回することもある、ということかもしれない。これで明日、友人に話すことができてしまった。『警備の人、普通にランニングシャツ着てたよ』と。

 僕はとっさに、彼女の手をつかんで走り出した。運のいいことに、ここは野外だ。すぐに校庭へ出て、柵を越えれば林がある。林を出れば田舎道が続く。そこまでは追いかけてこないだろう。

 肩で息をしながら、学校を後にする。夏の夜の、湿った空気が心地よかった。星が見える。ぼやけて空の色をわからなくするほどのたくさんの星が。プラネタリウムよりも明るく見える。薄い紺色の空に、瞬きをするたび星が生まれていく。僕たちは走った。そのうち笑った。繋いだ手を空に掲げて、「ここにいるよ」と彼女が言う。僕も、空を見て「ここにいるよ」と手を振った。

 名無しの僕たちが、空から見れば小さくて顔も見えないだろう僕たちが、それでもそこにいた証明に、星の数を2人でかぞえた。

 僕らは立ち止まって、握ったままのお互いの手を恥ずかしそうに見た。そのままにしておいた。

 あのさ、と僕は頭をかく。

「ハンバーガー、食べない?」

 それは、精一杯のお誘いだったのだけれど。彼女は軽い調子で、「行く」と答えた。

 彼女は、ハンバーガーを食べるのが下手くそだった。食べようとすればその反対側から必ず具材が落ち、ぼとぼととプレートを汚した。僕はそれを見て、まるでハンバーガーを食べたことがないみたいだ、と思う。彼女は言った。「ハンバーガー、食べたことないの」と。

「まさか」

 冗談だろうと聞き流す。彼女は真剣に、「初めてなの」と繰り返す。

「だって、友達とこういうところに来ないの?」

「外で食べてこないように言われてるから」

 僕の食べる様子を見て、彼女はようやくパンと具材を一緒に口に入れるのだと気付いたらしい。大きな口を開けて、何とかかぶりつく。

 どこか感嘆して、僕は「友達が多いのに、大変だね」と言った。あれだけ友人がいれば、遊びに誘われるのは日常茶飯事だろう。そのたびに彼女は断っていたのだろうか。僕はあまり友人が多いほうではないけれど、誘いを断るというのは人間関係において一番くらいに気を遣う。彼女の両親は厳しいのだろうか、そういえば以前にも『褒めてくれない』なんて言葉が聞かれたような気がする。だとすれば、こうして夜に娘が抜け出しているのは由々しき事態に思われる。そこら辺を聞こうとして口を開く前に、彼女が言葉を発した。

「そんなに大変じゃないよ。私、友達はそんなに多くないもん」

「え?」

「あんまりよくわかんないんだ。みんな私と仲良くしてくれるけど、本当はどうなのかなって。うーん、嘘つかないタロくんにはあんまりわからないよね、ごめん」

 いきなり謝られて、いっそ滑稽な気分で僕はハンバーガーにかじりつく。それから彼女は、こうも言った。

「私、引っ越すんだ」

 それはあまりにも青天の霹靂というべき言葉だったので、僕もハンバーガーの中に入っている食べかけの目玉焼きを落とした。彼女が慌てて、「引っ越すっていうのとは違うかな」と続ける。

「居候するの、おじいちゃんとおばあちゃんちに」

「学校……来ないの?」

「行くよ。ごめん、大袈裟で。学校には今まで通り行く。でも、」

 ちょっと苦笑して、彼女は口元をナプキンで拭った。

「家が遠くなっちゃうから、おじいちゃんが送り迎えしてくれるの。もう、夜に学校行ったりはできない」

 率直に言って、僕はとても残念な気持ちになった。だけど、僕は完全に雰囲気にのまれていて、その言葉が本当に意味することというのがわからないままでいた。「そっか」と僕は言って、「残念だね」とも言った。それが、彼女の目にどれほど淡泊に映ったか、その時の僕にはわからなかった。

 ただ彼女は唇をきゅっと閉めて、封筒を一つ差し出した。僕はそれを受け取って、ただ戸惑う。彼女が笑って、「君が、手紙を受け取ったその場で読む人じゃなくて良かった」と言った。それから彼女は、小銭をいくらか(自分の食べた分)おいて、足早に去っていく。こういう時は男が全部出すものと思っていた僕は、やはり当惑してその綺麗に並べられた小銭を眺めた。彼女の、『さよなら』を見た気がした。ただ、住む場所が変わるだけで。学校では変わりなく会えるというのに。






“ママは、少し不安定な人だった。子供のころからそんな不安定なところで、いくつも割に合わないことがあった。今ではそんなところも、少女みたいで可愛いママだけど。子供のころ、よく言われた。『仲には、ママしかいないんだから』『誰も仲を好きにならないけど、ママだけは仲のこと大好きなんだから』って。泣きながら、言われた。今では、そんなことないってわかっているんだよ。だけどね……ううん、やっぱりやめよう。

 今度、ママが入院することになったの。やっぱりちょっと不安定みたい。それで私、おじいちゃんたちの家で面倒見てもらうことになった。安心してる、ちょっとだけね。

 あの日、君にあった日は、ママを病院に連れて行った後だった。ママからメールがあって、早退して、なだめて、病院に連れて行って、疲れたから学校に行ったの。なんか、疲れたら水があるところに行きたくなるでしょ? ならない?

 そうだ、まず言っておきたいんだけど。私たち、あの日がはじめましてじゃないからね。君は覚えていないかもしれないけど、私と君は入学式の前にあっているんだよ。

 私が歩いていたら、自転車を押した君が歩いてきて、私に挨拶した。まだ学校は遠いのに自転車を降りちゃって、この人どうして自転車なんか持ってきたんだろうって不思議だった。でも、何度か違う自転車の人に抜かされるたび、『ああ、あの人、歩いてる私に気を使って自転車を降りたんだな』って思った。ねえ、歩きの人を見るたびに自転車から降りてるの? そうだとしたら、自転車通学なんてやめたほうがいいよ。それとも、私だったから……とか自惚れていいのかな。それはないか。君、私の名前も知らないもんね。

 変な人だな、って思った。真面目で不器用な人なんだな、とも思った。そんな風にちょっとだけ、君が気になってた。

 だからあの日、プールサイドで君に声をかけられた日、思わず『神様』って言っちゃった。だって落ち込んでた日に、夜の校舎で、ちょっと気になってた人に声かけられたらさ。なんかちょっと、運命感じちゃうでしょ。君と付き合いたいと思ってたわけじゃないよ、『気になってる』って恋愛感情じゃなくて、もうちょっと……ううん、難しいな。好奇心、かな。どんな人だろう、って思ってた。だからあの日は、なんだかレアな感じだったの。ごめん、よくわからないよね。

 君と話すのは楽しかった。どんどん、君のことを知りたくなった。だって君って、時々すごく突拍子もなくて、私の言えたことじゃないけど……変だよ、君。でも話すたび、『そっか、そうやって考えちゃっていいんだ』って思った。頭の中に、ショートカットキーを置かれたみたい。君、ほんとは頭いいでしょ。

 ……もっと色々なことを、話したかったんだけど、やっぱり君の相槌なしじゃきついね。そろそろおしまいにしよう。

 明日、私はおじいちゃんたちの家に行く。もう、夜に合うことはできないと思う。私の名前も知らない、興味のない君とは、きっと夜の魔法がかかっている時だけ楽しく話せて、学校じゃ魔法がきかなくて、だから。きっとこれで最後だね。私たちは、名無しだから上手く話せたんだよね。名無しのままじゃないと、名前がついちゃうと、途端に遠くなっちゃうね。

 私、名無しの花子が結構好きだった。よりどころ、って言ったら大げさすぎるけど、もう名無しの花子になれないのは、ちょっと怖いな。

 バイバイ、太郎くん。今まで、こんなことに付き合ってくれてありがとう。もう、夜の学校に忍び込むなんて悪いことしちゃだめだよ。――――名無しの花子”






 僕は、僕の間違いにようやく気付いた。手紙を読んで、何度も読んで、ようやく。

 まず一つ、彼女は僕のことを知っていたということだ。その上で彼女を知らないと言った僕に、合わせてくれていた。その次に、彼女は僕が思っているよりも、夜の校舎で会うことを特別に思ってくれていた。もちろん僕だって、彼女と会う時間はいつでも特別だった。だけどそんな僕の浮かれた気持ちよりずっと、彼女にはあの時間が必要だった。“僕が”と自惚れたことは言わない。あの時間が、彼女には必要だったんだ。

 たくさん誤解していたことがあった。きっと僕は、たわいない会話の中で何度も彼女を傷つけたと思う。それでも彼女は必要としてくれていた。

 この手紙には、『助けて』がいくつも隠れているような気がした。

 それでも僕は、と思う。彼女は手紙の中で、一度も僕の名前を書かなかった。彼女自身の名前も、書かなかった。僕らは名無しだからこそ、嘘をつけて、無責任なことを言えて、言外に好意を伝えるリスクを感じなかった。

 僕らは『名無し』という仮面を被れば、何でも無責任にやれたのだ。だから、それを剥がされた時にどうすればいいか見当もつかない。

 いつか、胸を張って名前を名乗り、彼女に好意を伝え、そして彼女を幸せにできる人が現れるだろう。僕よりも、ずっと強くて、自分に自信があって。

「……」

 もし、そんなやつが現れたとして。

「それで、いいんだっけ」

 僕がそれでいいんだっけ。彼女を幸せにするのが、別に自分じゃなくてもいいんだっけ。

 今日は土曜日。僕は部屋着のままで、いつもよりもっと情けない顔で、寝癖なんかがついていて。それでも、僕は、

 君に伝えたいことがあると思った。

 勢い込んで自転車にまたがり、僕は思い切り地面を蹴る。坂道を、ぐんぐんと上っていく。彼女の家は、坂道を上って、そして下りたところだ。坂を上り切れば否が応でもそれが見える。間に合えばいい、と思った。間に合わなくても、きっと学校で会える。それでも、その前に彼女に会いたかった。名無しのままで、まだ伝えたいことがあった。

 坂を上り切った時、彼女の家の前にトラックが停まっているのが見えた。初老の男性に連れられ、トラックに乗り込もうとしている彼女の姿も。僕は坂の上で思い切り深呼吸をし、そして腹に力を込めた。

「――――ハナっ!」

 彼女が、背中を向けたまま立ち止まる。僕はわざと彼女を見ずに目を閉じていた。彼女に恥をかかせたいわけじゃない。僕がこれから言うことすべて、彼女は知らんぷりしてくれて構わない。『変な人だね、誰に言ってるんだろうね』と苦笑してくれて構わない。

「君がどんな風に思ってもいいけどッ! 誰も君を好きにならないなんて! 今後そんなの笑い飛ばしちゃえばいいと思う! だって! だって、僕が君を好きだから! ほら、もう君を好きなやつがここに確実に存在しちゃってるんだからッ!」

 見ない、見ない、見ない。言葉だけ、届けばいい。

 僕はひときわ大きく息を吸い込んで、言った。

「好きです!!! 一目惚れでえぇぇえええす!!!」

 言った。言い切った。泣きたいくらい、情けなく、みっともなく、告白した。僕はなぜだかツンと涙の予感を感じ取って、彼女に背を向ける。目の前には下り坂だ。僕はゆっくりと、自転車にまたがった。

「ユタカくんっ」

 不意に、名前を呼ばれる。僕は信じられない気持ちで振り返った。

「橋下ユタカくん」

 それは、確かに僕の名前だった。彼女はしっかりと僕を見て、口を開く。

「私も……城崎仲も、君のことが好き」

 呆然と彼女を見ながら、それでも僕は、笑うしかなかった。

 ――――なんだ、彼女のほうが、強いや。




 次の登校日に、僕は彼女のクラスを訪ねた。あの公開告白の顛末は、すでに学校で知らない者はいないビッグニュースになっていたようで、僕の行動はどんなものでも視線を集めた。それならばいっそ、と僕は意を決して彼女の机まで進んだのだ。どうせ、彼女はそういう面で強い。

 案の定というか、彼女はにやにやしながら僕を見た。

「おやぁ? ハイジャック犯じゃないか」

「……“よう、太郎”犯でなく?」

「実際のところ、ジャックでも太郎でもなく花子だったしね」

 大体僕は何も盗ってないよ、と弁解する。彼女は、ひどく呆れたような顔をしていた。そんなことより、と僕は目をそらして頭をかく。

「謝っておきたいことがあるんだ」

「何? どの部分?」

「ええっと、僕、ほんとは入学式の日に君に会ったのを覚えてたんだ。というか、僕の一目惚れってあの時のことだったんだけど……ごめん、そんなこといきなり言ったら引かれるかなと思って言えなかった」

 彼女は驚いた顔で、「はあ?」と声をあげる。「ってことは何?」と慌てた様子で彼女が立ち上がった。僕は正直に言う。

「あの夜、君に会った時点で……僕は君を好きだったし、もちろん名前も知ってました……」

 立ったまま彼女は震え始め、泣きそうな声で「最初に言ってよ! 嘘言わないって言ったのに!」と叫んだ。僕は、ただ「ごめん」と謝るしかない。彼女は心底腹が立った様子で、膨れ面のまま左手を差し出してきた。何かと思っていると、「手紙」と彼女が苛立って催促してくる。

「これは、その、僕の家宝にするので」

「いいから!」

 渋々差し出すと、彼女はそれを奪取してペンで何か書き加えた。それを、強引に僕に押し付ける。『バイバイ、太郎くん』と、『名無しの花子』の部分が消され、新たな文になっていた。当惑しながら、読む。そして、

 思わず吹き出して言った。

「こちらこそ。こんな僕ですが、よろしく……ナカ」

 彼女は、それでもまだ膨れ面のままだったのだけれど。

 ――――きっと僕らは、“名無し”なんて仮面を被らなくたって、何も成してはいない名無しの子供なのだと思う。

 弱くて強がりで、不器用で嘘つきな、大きな世界から見れば知る必要のないただの名無しなのだと思う。だけど、彼女に名前を呼ばれた時。彼女の名前を呼んだ時。何も成していない子供は、名無しの僕は、

 名無しのままで名を持つことを、誇りに思えると思った。






“今まで、こんなことに付き合ってくれてありがとう。もう、夜の学校に忍び込むなんて悪いことしちゃだめだよ。これからもよろしくね、泰くん。――――城崎 仲”

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