2、紫陽花の庭で、また

紫陽花の庭で、また -新年編-

 朝露に陽が射した。

 尾根が徐々に透き通り、白い光が境界線を曖昧にする。

朝を知らせる寺の鐘は、聞こえない。変わり映えのない早朝ながら、行き交う人の数が、その理由を示していく。

 新年を迎えて、初めての朝がきた。

「おはようございます」

 可愛らしい鈴の声が、代わりと言わんばかりに響いた。

 店主の腰にも届かない身長から、幼い客の年齢が伺える。いつも背に負う水色のランドセルは白いぬいぐるみのリュックに代わり、黄色い帽子だけが彼女のお供になれたらしい。

 マフラーにミトン、白いタイツにミニスカート。好きなもので包まれた少女の顔は、朝日に負けない輝かしい笑みを浮かべていた。

「おはようございます。よく、見つけましたね」

 掃除を終え、中へ戻ろうとしたばかりの店主は、驚く素振りも見せず少女に応える。

 門の前に立ったまま、少女は首を振った。

「お婆ちゃんにお願いしたの。雨が止まないうちに、初詣に行かせてって。今は、その帰り道なだけ」

 聡い子供だ。この喫茶店が雨に関連して存在することを、たった一回の経験で導いた。

 二つ結びの髪を揺らし、少女は門から内へ入らない。門の前、水溜りに長靴を浸せたまま、ポタ、と黄色の傘から零れた雫が波紋を広げるまで、少女はそこに立っていた。

 何も言わない店主を見上げて、少女は眉尻を下げる。

「……今年も、ハニーミルクをよろしくお願いします」

「これはこれはご丁寧に。こちらこそ、本年もよろしくお願いしますね」

 お婆様にも。

 付け足した言葉にそれまで大人びていた少女の顔は幼く変わり、年相応な純粋さのために左右を見渡す。

「貴方が、一人で喫茶店に来られる日が来るのを、楽しみにしていますよ」

 店主がそう言葉を投げかけると、紫陽花の葉雫に写る少女の揺れる髪が、消えた。

 軒下に入るや、雨の音が近付いた。

 澄み晴れていた空はいつの間にか曇り、掃除をしたばかりの玄関マットだけが、新しい朝を形に残す。

「安治佐為の──」

 そらんじたのはある歌の始まり。

「八重咲く如く やつ代にを いませわが背子 見つつ思はむ ……ですね」

 季節狂いの紫陽花が咲くこの庭で、また、店主は決まりのように詩を読み上げる。

 天井側に構えられた一角。そこに掛けられた額縁には、小さい文字ながらこの喫茶店の存在理由が記されている。

 四季に惑わされない想いはここに。

 店主はただ、守り人としての生を果たさんと、慣れた手つきで珈琲を淹れ始めたのであった。

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掌編 森越苹果 @Morietsu1

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