この勝負だけは――勝ちたい

肥前文俊@ヒーロー文庫で出版中

第1話

 これまでの人生で何万回という勝ち負けをしてきた。


 何千、何万回と勝ってきた。

 それと同じくらい負けてきた。


 嬉しい勝利があれば、悔しい敗北もあった。

 実感の湧かない拾ったような勝ちがあれば、ずっと優勢だったのに手のひらから滑り落ちるような負けもあった。


 でも一つ一つに時間をかけて、手を抜いたことなんて一度もない。


 だって俺は、プロになるって。

 勝負の世界で生きるって、はるか昔、幼い自分に誓ったから。


 だから。

 だから神様。



 『将棋の神様』



 どうかこの勝負だけは、勝たせてください。









 藤井達也という一人の少年が将棋に出会ったのは、わずか三歳のときだった。

 当時面倒を見てくれていた祖父が、将棋を趣味にしていたためだった。


 将棋仲間を家の縁側に呼んで、将棋盤を囲むようにして日々打ち合いをしていた年配たちの姿。

 碁盤を挟んで打ち合う二人だけではなく、観戦している人間も、異様な熱気をはらんで熱中する姿。

 それを見て育った藤井は、育つにつれ自然と将棋に興味を覚え、駒の動きを覚えるようになった。

 構いたがりな周囲の大人たちに丁寧に教わり、歩を前に突き出しては歓声が上がり、香車を横に動かすとああっ、と年寄りたちの悲鳴が上がる。

 構いたがりな年寄りによる、過保護なまでの指導を受けて、藤井は幼くして早くも才能の片鱗を見せつつあった。


 藤井が棋士としての道を歩もうと決意しだしたのは、小学一年生の時のあるイベントであった。

 その時四冠を持つ名人が四十面指しをしており、藤井はそれに参加した。

 参加者の多くは普通、飛車角桂香の六枚落ちというハンデをもらって打つ。

 非常に大きなハンデであり、しかも四十人を相手に指すわけだから、長考するわけにもいかない。


 とはいっても、そこは名人だ。

 次々と素早く盤面を移動しながらも丁寧に指し、藤井はあと数手というところで惜しくも敗れた。

 自信を失わせないよう、そういう形にしてもらった。

 いわゆる指導対局というものだ。


 将棋を指すのは慣れているから疲れない。

 それよりも歩くのが疲れました、と名人は笑う。


 幼心でさえも、名人という響きは独特で、特別なものがあった。

 現在の格であれば竜王が筆頭とはいえ、やはり歴史の重みは名人が一歩上回る。

 雲上人を前に、上気した頬、キラキラと目を輝かせた表情の藤井少年に、名人は問いかけた。


「将棋は好きかい?」

「はい、だいすきです!」


 そして、藤井少年は質問した。

 人生を変える質問だった。


「あ、あの……ぼ、ぼくも名人みたいに、つよくなれますか!?」


 それは世間と現実を知らない子供だけに許された質問だろう。

 名人になろうと思えば、その時に日本で一番将棋が強い人間になる必要がある。

 それがいかに困難な道であるかは、想像に難くない。

 だが、その名人は少年の質問に笑顔で答えた。


「がんばって将棋を続けていれば、きっと、君も強くなれるよ」


 きっと、君も強くなれるよ。


 けっして名人になれるとは言わなかった。

 おそらく、誰よりもその言葉の難しさを実感している人だから。

 だが、その言葉は強く強く、藤井少年の心に響いた。



 ――ぼくは、しょうらいめいじんになる。



 藤井少年が、棋士を、将棋指しを、名人を志した瞬間だった。




 目標の出来た藤井はそれから成長した。

 小学三年生になるころには、もはや相手になる人間が近くにいなかった。

 縁側将棋の年寄衆を始め、近くの将棋センターの誰もが藤井に敗れ、その才を認めた。

 田舎故に都会に比べ競技人口は少なかったが、それでもその異才は特別に輝いて見えた。


 神童、藤井達也。

 その名がさらに高まるのは、小学五年の時、小学生将棋名人戦において。

 後の名人や竜王を輩出する、棋士の登竜門とも呼べる今大会で、見事四位入賞を果たしたのだ。

 プロの目に止まり、立川八段の下で弟子入りが決定した。

 奨励会には八級からスタート。

 藤井達也十二歳のことである。

 棋士としての第一歩は、明るくその先行きを照らしていた。




 それから月日は流れる。


 九月十三日。

 まだ残暑というのもおこがましい、ギラギラと太陽が照りつける真夏。

 それが彼、藤井達也という名の将棋指しの人生を決める、運命の日だった。


 東京都渋谷区千駄ヶ谷にある東京将棋会館。

 半年をかけて行われる奨励会三段リーグ戦の最終二局が一日で行われる。


 奨励会三段リーグ戦は半年で一期。

 日本全国から選りすぐりの猛者たちが鎬を削り合って、半年で十八局指す。

 奨励会三段に在籍しているのは、およそ四十人弱。

 最後にプロになれるのは、その中の『たった二人』だけだ。


 プロの数を制限することで、プロ棋士の生活水準を保つ、という意図のもと、厳しい篩い分けが行われている。

 日本全国から集まった将棋指しの上澄みの、更にごく一部だけの上等な才能だけを選出する。

 そういう意味で、将棋棋士とは究極の選良と言える。


 かつて、ときの名人がこんなことを言った。

 兄は馬鹿だから東大に行った。

 俺は頭が良かったから、将棋棋士になった。


 藤井達也がこの将棋会館に通い始めて、はたして何年が過ぎただろうか。

 三段リーグ戦に参入することが出来て、はや十期。


 ああ、今年で十四年か。

 もう、そんなになるのか……。


 藤井達也はこれまでの人生を振り返って、半ば呆然と心中で呟いた。


 奨励会に入ったときは十二歳。

 世界はまだまだ何も分からなかった。

 ただ勝った負けたの日々を繰り返した。無心だった。


 三段になったとき、彼はまだ二十歳だった。

 周りの同い年が大学に進むとき、一人将棋の道を選んだ。

 その時はまさか、これほど足踏みを続け、退会を考えるなんて、思いもよらなかった。


 将棋棋士になるには厳しい勝負の中を勝ち抜けていく必要がある。

 最もネックになるのは、年齢制限だろう。

 二十一歳の誕生日までに初段、二十六歳の年までに四段に昇段していなければ、問答無用で退会となる。


 四段の年齢制限まで、まだ六年もある。

 その間には、きっと昇段できているだろう。

 気楽に考えていたわけではない。

 これまでの昇段のペースと、手合の手応えから、相応の自信はあったのだ。


 奨励会の三段リーグ戦を突破するには、十八戦して最低十三勝する必要がある。

 十四勝すればほぼ確実に昇段できる。

 十三勝だと、前期の順位によっては頭ハネされてしまったり、そもそも十四勝した人間が昇段するため、昇段できるかどうかは周りの成績次第になってしまう。

 十二勝六敗で昇段できる可能性は、過去の例からはほぼない。


 藤井自身は奨励会の中で弱い方だと思ったことは一度もない。

 これまでの成績だって常に勝ち越してきた。

 今年も後一歩で昇段というところまで勝ち星を挙げている。


 だが、足りないのだ。

 奨励会の三段リーグを勝ち抜き、昇段するには例えまぐれでも勢いでもなんでもいい。

 突き抜けた成績を残す必要がある。


 奨励会でつまづく人間にとって、初段の足切りは怖い。

 三段の足切りはもっと怖い。

 二六歳で昇段できなければ終わりだ。

 特例で勝ち越せば、三一歳まで在籍することは許されるが、そこまでして勝ち昇れた人間は、これまでで一人いるか、どうかだろう。


 いつからだろうか。

 毎年、誕生日が来るのが怖くなった。

 ひたひたと後ろから押し寄せてくる期限。

 追いつめられていくのが否応なく分かった。


 逃げ切らなければ。

 逃げ切らなければ……。


 そんな思いに捕らわれ、いつしか雁字搦めになってしまっていた。


 小学校に通う前から将棋を指してきた。

 勉強もせず、大学に進学もしなかった。


 趣味は持たなかった。

 彼女を作る時間があれば、将棋を指してきた。

 ただひたすらに将棋に人生を捧げてきた。


 酒は飲まない、タバコは吸わない。ギャンブルもしない。

 彼女はいない、趣味はない。将棋以外に好きなことは、週末に銭湯でゆっくりとお風呂に浸かること。


 全部勝つためだ。

 自分の全てを擲なげうってきた。

 それでもこれまで、一度も届いたことがない高み、それが四段だ。


 ーー子供の頃、自分は天才だと思っていた。


 根拠がなかったわけではない。

 どこの将棋道場でも、並みいる大人をたやすく打ち負かし、誰もが自分を誉めてくれた。

 どうしてこんな簡単な手筋が読めないのか、不思議で仕方がなかった。

 相手がプロで負けたとしても、経験を積みさえすればきっと勝てると信じていた。

 自分はきっと、いつか名人や竜王になって、将棋界に名を残すと――――信じていた。


 その自信が打ち砕かれたのは、奨励会に入ってからだ。

 そこで自分は天才ではない……いや、天才たちが集う集団の中では、自分は並みでしかないのだと、成績という形で突きつけられるのだ。



 これで負けたらただの人……いや、社会経験もない親のすねかじりが一人生まれる。

 きっと、一般社会に入っても苦労するだろう。

 これまで世間を知らずに生きてきた。

 年下にこき使われ、使えないと笑われる生活。

 そもそも、自分のような人間を雇ってくれる会社はあるのだろうか。


 負ければそんな人生が待っている。


 いや、なによりも、人生を擲ってすら自分はプロとして生きていけないのだ、と分かってしまう。

 そんな人間が果たして他のことに手を出して、まともにこなせるだろうか。


 そう思うと、毎日のんきに寝ることも出来なかった。

 夜中、焦燥感に駆られて冷や汗をかきながら飛び起きて、いったい何度、布の将棋盤の上で定跡の研究をしただろうか。

 何度詰め将棋を解いただろうか。


 藤井は物思いに沈みながら、将棋会館の中に入っていく。

 三段リーグ最終日の将棋会館は、いつも押し殺した息苦しい空気で満ちている。

 人々の話し声はひそまり、囁くようにして交わされる。


 この日を境に人生が決まる人がいる。

 二度と棋士としての道を歩めない人が出てくる。

 その重みを知っているのは、やはり同じ棋士だけだろう。

 その事実が、誰もが態度を厳粛にさせる。


 藤井は誰かと目を合わさないように下を向いて移動する。

 気心の知れた相手もいないではないが、気軽に会話をする気にはなれなかった。

 エレベーターに乗り四階に。

 将棋会館の四階が対局室だ。


 最終日にはすでに昇段の目がない者も来ている。

 逆に降段がかかっていて、尻に火のついている者もいる。

 一度落ちれば這い上がるのは並大抵のことではない。

 下手をすれば昇段間際の人間よりも必死だろう。


 そして、すでに退会の決まった者もいる。

 それでも将棋を指しにやってくるのは、ともに死力を尽くして戦った戦友たちの一局を汚さないためだ。

 お互いの実力を発揮して、最後まで勝ち負けの数を競い、来期の成績に繋げる。

 そこには自分の成績ではなく、相手を思いやる心がある。

 だが、その未来は暗い。

 もはや、プロに至る道は永久に閉ざされたのだ。


 藤井は結局誰とも挨拶をせず、対局室に入った。

 そこには将棋盤が並び、持ち時間を知らせるチェスクロックとそれぞれの荷物と、点呼をする指導係が一人いる。

 奨励生は対局開始までに指導と点呼が最初に行われる。

 将棋盤の前に座って、呼吸を整える。


 胸に手を当てると、いつもよりもはるかに早く鼓動を打っていた。

 落ち着け。


 これで負けたら、最後になる。

 だからこそ、勝てても負けても悔いのない、最高の将棋を指そう。

 深呼吸を続け、雑念をなんとか捨てようと努力する。


 だが、藤井の心臓の鼓動は早く、焦る心はいや一層に増す。

 どくり、どくりと脈打つ心臓の拍動は強く、手先まで震えるようだ。


 対局案内図を見る。

 最終日二局を残して、トップは黒田大地の一四勝二敗。

 勝率やこれまでの対局成績から、今日の対戦相手ではそのまま二連勝が有力視されていて、昇段は確実だ。

 残る枠は僅か一席。


 二位以下は団子になっている。

 藤井、先崎、前田、柏木の四人が一二勝四敗。

 確実にいえるのは、この二局で連敗すれば確実に昇段の目はないということだ。

 一勝一敗でも厳しい。

 出来るならば二連勝。


 一局目の相手は、三段リーグでも下位の人間だった。

 藤井が先手なこともあって、まず負けることのない相手だ。

 冷静に、一手ずつ落ち着いて。

 悔いのないように……。


 駒を並べ時間を待つ。

 そして、お互いに頭を下げ合った。


「お願いします」

「お願いします」





 一局目は順当に勝利を収めることができた。

 対戦前からおよそ分かっていたことだが、勝利に必ずという言葉は存在しない。

 気を許す暇はなく、終わってみればずいぶんと精神が消耗していることに気づいた。


 午前の対局を終えて、藤井は将棋会館を出た。

 昼休憩は弁当が出るが、今度ばかりはまともに食事をとれそうにもなかったからだ。

 誰かと顔を合わせてのんびりと勝敗を報告し合うような余裕はなかった。


 会館の近くのコンビニに入り、おにぎりを一つだけ買うと、無理やり飲み込むようにして食べた。

 胃は重たく、食事を受け付けるような状態ではない。

 だが、脳はその重さの割に非常に多くのカロリーを消費する器官だ。


 タイトル戦のような長時間の勝負にもなると、思考だけで一日に二キロや三キロ体重が落ちていることもあるという。

 だから将棋指しはその外見に見合わず、大食漢が多い。

 頭をしっかりと働かせるためにも、食欲がなかろうと食べないという選択肢はない。


 藤井は非常に簡潔な食事を終えた後も、対局時間まで外で過ごすことを決めた。

 近くの公園を周り、時間を潰す。

 真夏の暑さの中だというのに、不思議と暑さを感じなかった。


 いや、それどころか現実感をまるで感じられない。

 圧倒的に感覚が鈍くなっていた。


 視界は狭まり、考えられるのは次の対局のことだけだ。

 次の対戦相手は後藤だった。

 最終戦に相応しく、なかなか強い相手だ。


 これまでの奨励会での対局成績は一勝二敗。

 中盤から終盤の寄せが強く、前半に優勢と思っていた局面をねじ伏せられた。

 序盤の構成でリードを広げ逃げ切ってやる。


 これまで研究し、温めていた秘策があった。

 とはいえ実戦で使うのは初めて。

 他者の評価を聞いていないため、思いがけない反撃を食らう恐れもあった。

 序盤の構想は抜け道の多い、何が出るかわからない玉手箱のようなものだ。

 だが、嵌まれば大きな有利を築くことができる。


 対局時間三分前に対局室に向かった。

 後藤はすでに将棋盤の前に座っていた。

 ガラス玉のように透き通った目が、ジッと盤上に注がれていた。


 藤井は対局結果を見た。

 藤井だけでなく、先崎と柏木が勝っている。

 やはり、この勝負も負けるわけにはいかない。

 負ければ後がない。


 勝つ。勝つんだ。

 勝ってプロの道を自分の力で切り開く。

 藤井は未来を想像した。

 プロ棋士となって活躍する自分、タイトル戦に挑戦する姿、解説でテレビに出る姿。


 ーーふと、将棋を指さず、スーツを着て頭を下げる自分の姿が思い浮かんだ。


 駒を並べ、頭を下げる。

 時間はちょうど、対局開始に迫っていた。


「お願いします」

「お願いします」




 冷静に、序盤の構想を活かして、逃げ切るぞ。

 焦るな、心を落ち着けて、一手ずつ慎重に打て。


 藤井は自分に何度も言い聞かせる。

 後藤の得意戦法は、飛車先の歩を突く居飛車。

 藤井は四間飛車を得意にしている。


 最序盤はお互いの最善手を打ち続けるため、テンポ良く局面が進む。

 序盤で持ち時間を使えば、あとで考える時間が足りなくなり、不利になる。


 角道を開き、金銀が上がり、王を囲む。

 歩が上がっていき、お互いの桂馬が上がり、やがて激戦への備えとなる。

 お互いが駒を取り合えば、そこからはすぐに中盤だ。



 藤井は後手だから、相手の攻撃をいったん受けることになった。

 歩が突かれ、それを同歩ととる。

 一度戦端が開かれれば、もはや後戻りはできない。


 定跡に任せた打ち合いなどもってのほか。

 近年は常に研究され、同じ局面を常に指していたら、すぐに打開されてしまう。

 一手一手慎重に、時間は許す限り限界まで使って、頭を働かせる。


 ピシリ、ピシリと盤を打つ駒音が対局室に響く。


 その中盤、藤井は猛烈な尿意におそわれていた。

 対局中は極度の緊張のためか、多量の汗をかき、とにかくのどが渇く。

 そのため棋士たちは水を多量に用意して、次々と飲むことも珍しくない。

 ペッドボトルを傾けながら、藤井は懊悩に苦しんだ。


 ……どうしよう。

 どうすればいいんだ、打開策はあるか?


 盤面は少しずつ、少しずつ劣勢になっていくのが分かった。

 最初は強固だった陣営は崩され、形を失っていく。

 後藤は駒のねじり合いがとにかく尋常ではなく強いのだ。


 ああ、だめだ。ここは厚く防御を固めてなんとか攻勢をしのぎたい。

 くそ、後藤め。強い、いつもいつも中盤からねじり込んできて、こっちの構想が全て台無しになってしまうじゃないか。

 やめろ。それ以上入ってくるな。


 盤上に揃っていた駒は取り合いになり、やがて駒台に駒が並ぶようになっていく。

 手に大量の汗が出て、ズボンの裾でたまらず拭う。


 藤井は盤面を見据えたまま、知らず呟いていた。


 負けたくない。負けたくない。負けたくない。

 負けたくない。負けたくない。負けたくない。負けたくない。

 負けたくない。負けたくない。負けたくない。負けたくない。負けたくない…………。


 藤井は盤面に集中し次の一手を考えている。

 その形相は必死の一言だ。

 そうでありながらも、今日まで応援してくれていた家族のことを思いだしていた。


 父さん。

 生活が苦しくなることを承知の上で、応援してくれたよね。


 母さんは僕が将棋で上京してから、朝から夜までパートで働きづめだった。

 東京で一人暮らしをするのは、多額のお金がいる。

 そのお金を稼いでくれた母さんは、でも一度も苦しい表情を見せたことがない。

 本当は辛いんじゃないの?


 姉は憎まれ口をよく叩いた。

 あんたのせいで私は公立しか大学いけないんだからね、と言いながらも、バイトで溜めたなけなしの小遣いを、これで食事でも食べろ、と手渡してくれた。


 みんな、苦労して送り出してくれた。


 最初に将棋を教えてくれた祖父は、二年前病に倒れ亡くなった。

 達也の棋士になる姿が見たかった、と最後に言い残して、彼は一人暮らしで少しでも裕福に生活できるように、遺産を分けてくれた。


 プロになった姿を見せてあげたかった。

 ……どうして自分はこんなにも弱いんだろうか。

 頑張っているのに、どうして結果が伴わないんだろうか。


 勝ちたい。

 だけどそれだけじゃない。

 負けられない。

 自分一人の勝負ではない。

 多くの人の助けと、犠牲がかかった勝負だ。



 ……負けられないんだ。




 □7八銀打つ ■6八と □同金 ■同桂……だめだ。

 □8九銀 ■6八と □同金 ■同桂 7七銀打つ……


 藤井の顔色がどす黒く変色してくる。

 緊張と極度の不安、興奮などがない交ぜになって、自律神経が狂ってしまっていた。


 全身から汗が噴き出し、頭髪はベタリと頭に張り付いている。

 タオルで顔を拭い、扇子で顔を扇ぐが、それでも熱は消え去らない。

 真冬であれば頭から蒸気が見え隠れしただろう。




 対局室の一部でどよめきが起きた。

 藤井が一瞬意識を向けると、なにが起きたのかはすぐに分かった。

 そこではトップの成績を走っていた黒田大地を、周りの奨励生が囲んでいた。

 黒田大地が下馬評通り勝ったのだ。

 これで一六勝二敗。

 抜群の成績での合格だ。

 嬉しそうな表情で笑っていた。頬が紅潮しているのがわかった。


 まだ三期目じゃないか。

 彼と自分、いったいなにが違ったのだろうか。

 同じ天才と称されて奨励会に入り、片や一年半でプロの世界に軽く上っていく。

 片や何年と足踏みを続け、今まさに負けようとしている。

 奨励会を去ろうとしている。


 才能か。

 やはり才能なのか。

 努力では覆せない、持って生まれた者の差なのか。


 藤井の息苦しさは解消されない。

 胃の不快感はいや増すばかりだ。

 目は血走り、瞳孔は開く。

 荒い呼吸を繰り返し、少しでも鎮めようと頻繁に水を口に含む。


 負けるのか。

 勝てないのか。

 すべてを失うのか。


 これまでの努力を、家族の苦労を。

 全て無意味なことにしてしまうのか……?


 怖い。

 負けるのが怖い。

 失うのが怖い。


 自分には将棋しかない。

 将棋を失ったら何も残らない。

 菜種油を搾るように全力を尽くして、それでも報われない現実を迎えるのが、いっそ死にたくなるほどに怖い。


「持ち時間のこり三分です」


 すでに手合いの終わった奨励生が、持ち時間を教えてくれる。

 手を進める度に、敗勢は確実になった。


 もはや囲いはなくなり、最後の望みと王は入玉を目指して逃げ出す始末。


 いやだ、負けたくない。

 いやだ、いやだ、いやだ……!


 だが、どれだけ形勢が不利になろうと、詰めろや必至になりそうでも、手を止めない。

 最後の一手まで、指すことは止められない。

 どれだけ勝ちが見えていても、ちょっとした打ち間違い、読み間違いで勝敗がひっくり返ることは多々ある。

 将棋指しとしての人生がかかった一戦だけに、最後の最後まで指し続けたかった。


「残り時間ありません……五〇秒……」


 冷徹なまでに静かに響きわたる秒読みの声。

 刻々と読み上げられる数字が減っていく。


 駒台の駒をきれいに並べる。

 いつ席を立っても良いように。

 盤と体と、心の準備をする。


「あ、ああ、あ゛、あ、ああ……」


 言わなければ。 ――――負けたくない。

 終わらせなければならない。

 そう思っていながらも、藤井の口は震えて言葉にならなかった。

 漏れ出た声は甲高く、頭にキンキンと響いた。――負けたくない。


 だが、誰も何も言わない。

 藤井自身の口で、言葉で決着を付けるのを、誰もが静かに優しく待っていた。


 決着は付けなければならない。

 たとえ、どれだけそれを望んでいなくても。

 それが、ともに人生を賭けて戦ってきたライバルたちへの、唯一の誠意だ。


 頭を下げる。

 盤面が滲んで見えた。

 もはや大駒もなにも、見えはしなかった。


 負けたくない。

 将棋を止めたくない。

 続けたい。


 好きだ。

 大好きだ。

 将棋が大好きなんだ……!








「ありません……」







 その声は、古くなった工業油のように、べったりと鼓膜にこびりついた。

 ……終わった、と思った。

 この一局がという話ではない。

 奨励会三段リーグの話でもない。


 棋士を目指してきたこれまでの日々。

 少年の頃から持ち続けた、光り輝く夢、目標、希望。

 全てを擲ってきた、己の将棋人生。



 将棋は人生だった。

 人生は将棋だった。


 趣味を持たないことなんて苦労ではなかった。

 彼女ができないのも我慢できた。

 友達も要らない。


 ーー将棋さえあればいい。


 八十一マスと四〇の駒が、自分の人生の全てだった。

 なんて狭い世界だろうか。

 そしてなんて深い世界なんだろうか。

 小学生がノートに升目と紙の駒を作っただけで出来て、日本中の歴代の天才たちが一生を注いでもまだ解明されないさまざまな対局。


 だが、それも今日で終わりだ。


 奨励会の年齢制限は、二六歳まで。

 勝ち越しさえすれば、一年の延長が認められ、最高で三一歳まで挑戦できる。

 だが、はたしてこれからこのような好成績をあげることが出来るだろうか。


 ……出来ない。

 ただ勝ち越すことと、昇段するほどの好成績をあげることの間には、とてつもない大きな壁がある。

 その壁に何度も挑戦し、ぶつかり、そしてこれまで一度も乗り越えることが出来なかった。


 これを最後と心に決めていたのだ。




 ――退会しよう。



 対局室は静かだった。

 誰も何も言わなかった。

 盤面を直すこともなく、負けたままの状態を保っていた。


「感想戦は、いいかな……ごめん」


 かすれ震える声で、それだけ言った。

 これ以上現実を直視したくはなかった。


 負けた。

 夢は叶わなかった。



 きっと、君も強くなれるよ――



 そう、言ってもらえたのに。

 ごめんなさい。


 僕は、強くなれませんでした。


 将棋の神様の言葉を裏切ってしまった。

 かけてもらった言葉が間違っていたのではない。

 神様の言うことは絶対だ。

 ただ、俺がそれに応えられなかった。


 対局が終わったら、勝者が判子を押して貰うか、自分で押す。

 藤井はその姿を見届けることもなく、対局室を後にした。


 終わった、のだ……。

 これまでの日々は、無駄だったのだろうか。

 それとも勝負の世界で生きてきた経験は、これからの人生の役に立つのだろうか。


 分からない。

 何もかも分からない。


 ただ、暗くなりつつある外の景色と同じように、自分の未来の展望も今は暗くなりつつある。


 ……死のうか。

 ふと、そう思った。




 未来を思って立ち尽くす藤井に近寄る一人の影があった。

 奨励生の一人、立花三段だ。

 二十一歳。棋力も伸びていて、この二三期後にはほぼ確実に合格しているだろうと言われている。


 だけど・・・、僕のほうが強い・・・・・・・。


「藤井さん」

「立花くん?」

「惜しかったですね。最後は押し負けてしまったけれど、序盤の構想は見事でしたよ」

「いえ……、ありがとうございます」

「それで奨励会のことだけど」


 退会します。

 もう、続けて来期も指すことなんて出来ない。


 藤井はそう言おうと思った。

 だが、口は凍ったかのように動かなかった。


 あれほど覚悟を決めてきたのに。

 今日負けたら最後だと決めてきたのに。


 まだ年齢制限に猶予があるからと、蜘蛛の糸に縋りつこうとしてしまう。


「藤井さんは次点二回目だったんですよね? フリークラスに編入できるけど、どうするつもりですか?」

「は……?」

「ええっ、知らない訳じゃないでしょう。それとも辞退して来年、もう一度四段の昇段を狙うつもりですか? そう言う例もなかったわけじゃないけど……」

「あ、いや、その……」


 フリークラスか……。

 考えてもいなかったな。


 それはまるで想定にない身の振り方だった。


 将棋棋士には順位戦というものが存在する。

 成績によって各クラスに分けられる。

 その内訳はA級、B級1組、B級2組、C級1組、そしてC級2組だ。

 頂点であるA級の順位戦でトップの成績を残した棋士だけが、名人に挑戦することが出来る。


 順位戦で戦っていた棋士は、フリークラス宣言をすることで順位戦から離れて将棋を指すことが出来る。

 その理由は様々だ。

 降段が続き、順位戦で戦っていくには辛いと考える棋士が宣言することもある。

 フリークラスは順位戦以外では普通に対局できるから、棋士生活が終わるわけではない。

 また、フリークラスから条件付きで順位戦に編入することもできる。


 奨励会三段リーグの順位で昇段の次の成績「次点」を二度取った棋士は、希望すればフリークラスに編入することができる。


 そんな道があることを、今の今まで藤井は忘れていた。

 勝って勝って、勝ち続けて。

 実力で枠をもぎ取ることしか、考えていなかった。


 心配してくれている立花に、藤井は枯れた声で答えた。

 喉が引っかかって、なかなか言葉が出てこなかった。


「そうか……フリークラスか……入ります」

「え、ちょっと、大丈夫ですか! 藤井さん!」


 首の皮一枚でつながった。

 自分は順位戦にはまだ出られないけれど、それでも棋士として生きていけるのだ。


 それは達成感では断じてない。

 藤井の望みは、やはり三段リーグを勝ち抜いて、堂々と棋士になることだ。

 その願いはもう一生かなわない。


 だが、それでも棋士として生きていける。

 そう思うと、安堵して腰から力が抜けてしまった。

 背中が壁にぶつかり、ずるずると滑るようにしゃがみ込んでしまった。


 あわてて駆け寄り肩を貸してくれる立花には悪いが、しばらく立てそうもない。


 諦めた世界が、棚ぼたのように目の前に転がってきた。

 納得はいかないけれど、手放すには惜しすぎる。


 藤井は運命のままならなさを感じていた。






 外に出ると、真昼の暑さはずいぶんと和らいでいた。

 そんな暑さが分かるようになっていた。


 人の寄らない端に移動して、周りに誰もいないことを確認して電話をかける。

 これまでずっと応援してくれていた家族に、いち早く報告してやりたかった。

 きっと今も身を切るような思いで電話を待ってくれているだろう。


 携帯を操作し、電話をかける。

 これまで何度もかけた先だというのに、指が震えて、正確に操作ができない。

 ああ、チクショウ。もどかしい。


 着信音が鳴り響き、相手が出るほんの一瞬がひどく長い。

 早く繋がってくれ。


 かけた相手は母親だった。

 今日はパートを休んで、報告を待っているはずだ。


「もしもし?」

「ああ、俺……」


 電話に出た母親の声は、全ての感情を押し殺していた。

 きっと、変に期待してプレッシャーを受けたくないのだろう。

 これまでの何度にも渡る昇段失敗の報告で、母は少し臆病になっている。


 そんなことが容易に推察できて、藤井は言葉に詰まった。

 なによりも、報告すべき内容に困った。


 自分は棋士になった。


 ――それが嬉しくて


 だが、今のままではあれほど憧れた名人の道は閉ざされている。


 ――それが悔しくて。


「ねえ、どうしたの、ねえ……?」


 受話器の向こうから、母の心配する声が聞こえてくる。

 早く答えてやらなくてはならない。

 そう思うのに、出てくるのは声ではなく、涙と嗚咽ばかりだった。



 悔しい。

 強くなりたい。

 誰にも負けないくらい、強く、強く。



 むせかえるような夕暮れの残暑の中、時差ボケの蝉が鳴いていた。

 藤井の口からはいつまでも、いつまでも、唇から言葉が出てこなかった。

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