◆ ◆ ◆


 日に一度、守護妖たちは交代で聖域を巡回する。

 何が起こるというわけではないが、さいおういわと、せい殿でんはさんだ奥地にある湖。そして、それらを囲む森や、点在している宮の様子をかくにんし、異常がないかどうかを己れの目で確かめるのだ。

 守護妖たちは、道反ちがえしのおおかみ巫女みこを妻としてめとった際に、大神が生み出した存在だ。彼らは巫女と、その血を受け継ぐ者と、巫女が治めるこの聖域のへいおんを守るためにある。

 で草をみながらのしのしと歩いていた蜥蜴とかげは、おだやかに流れる風の中に、ふと、らぎのようなものを感じ取った。

『なんだ?』

 聖域の風はせいじような神気の流れだ。その中に、異質なものがまぎれている。

 立ち止まった蜥蜴は注意深く視線をめぐらせた。太いがずずっと地をい、灰のうろこに黒のもんようが浮かぶ背中がのび上がる。

『…………』

 人界につながるびきのいわに向かい、蜥蜴はすさまじい速さでけ出した。この地に入り込むには、あの磐とそこにほどこされた守りの結界をとかなければならない。

 磐を動かし結界をとくには、守護妖か巫女の許しが必要だ。

 巫女もおお百足むかでも人界に出てはいない。のちほど京の都から安倍晴明に従う式神が数名おとずれることになっているが、千引磐につながるどうくつの前に彼らが降り立てば、神気がそれを伝える手はずになっていた。

 神将たちがやってきた気配はまだない。

 昼前に、まだ出立していないという報があった。都を出たら水鏡でそれをれんらくするといっていたが、人界の夕刻が近づいているいまも、晴明からの報はなかった。

 この調子では夜になるだろう。それもかなり遅く。

 それだったらいっそ、向こうを夜に出てこちらに朝とうちやくするようにすればよいものをと、先ほど百足と話をしたばかりだった。

 百足は聖殿で巫女とともにいる。蜥蜴も、巡回を終えて、ひめねむる青の宮を訪れたら聖殿にもどるつもりだった。

 が、じようきようが変わった。

 しつしながらのどの奥で低く唸る。

『己れ、またしてもぞくしんにゆうを……!』

 ここ数十年、たび重なる失態を守護妖たちは演じている。大神と巫女がかんだいな温情をもって許してくれているから彼らは生きながらえているのだ。本当だったら、巫女と姫をしきうばわれたあの折に、自害し果てるはずだった。

『この地は守らねばならん…!』

 道反大神と、道反の巫女の在る清浄なる地。そしていまは、いとしい姫が眠る場所。

 人界につながる磐の前に立った蜥蜴は、その周辺をくまなく見て回った。

 この聖域に人界から入るには、ここをとおるしかないのだ。

 磐を睨んでいた蜥蜴は、かわいたがんばんの一角が奇妙にゆがんだように見えることに気がついた。

 陽炎かげろうのようにぼうとりんかくの歪んだその場所から、きりにも似たものがじわじわとただよいはじめる。

 体勢を低くしてその場所をえていた蜥蜴は、漂い出てくるものが闇の色を帯びていく様を見た。

 さを増す闇色がいたるところにこぼれ落ち、地に黒いしみを作る。しみはいくつも生じ、やがてそこからけものの頭部が生え出した。

 蜥蜴は目をみはった。

 闇色の獣たちは水から這いあがるようにして土から生えいずる。

 どうもうきばつめを持つ、くまよりも大きな四足の獣。これを蜥蜴はよく知っている。だが、蜥蜴の知るものよりも、その体長は大きい。

 蜥蜴をぎようするがんは赤く、ひとみはない。

 獣たちはかくの唸りを発しながらいつせいに牙をいた。




 聖殿でいのりをささげていた道反の巫女は、かすめたかすかな音にまゆを寄せた。

「いまのは……」

 いぶかしんで視線を向けると、ひかえていた百足が頭をもたげるところだった。

『獣の…とおえ…?』

 数百ついの足をうごめかしながら聖殿を出た百足は、人界の磐のほうからき付けてくる異様な風にはっとした。

『これは……!?』

「百足、どうしました?」

 あとを追ってきた巫女をり返り、百足はいつかつした。

『巫女、出てはなりません!』

 足を止めた巫女の姿を認め、百足はそのまま聖殿のとびらを外側から閉める。

『様子をうかがってまいります。我らが戻るまでは、決してここを出ないよう!』

 それだけ言い置き、返事を待たずに大百足は駆け出した。

「百足! ……いったい…」

 扉を開けることも躊躇ためらわれて、巫女は不安げに視線を彷徨さまよわせる。

 聖殿の奥に戻り道反大神の声を聞くべきか。

 彼女はこの春に五十余年にもわたるふうこんの眠りから解き放たれた。彼女をかいさなければ道反大神は意思を示すことがかなわず、また彼女をとおさなければ地上で起こっているあらゆる事象を知覚することはできない。

 道反の巫女は、道反大神の目であり耳であり口であるのだ。

「大神は……」

 道反大神は、この聖域の最奥にちんましますきよだいな磐だ。黄泉よみにつながる黄泉よもつさかの出口をふさぎ、黄泉の軍勢が地上にめ入るのを防ぐためのとりでのような存在。

 大神自身もじんだいな神通力を有しているから、たとえてきしゆうがあったとしてもその存在はるぎもしないだろう。かみころから地上を、黄泉のしゆから守ってきただいな神だ。

 だが、道反の巫女は大神の代言者であり聖域のあるじであると同時に、の神の妻でもあった。

 聖域に侵入したものの正体もつかめず、守護ようたちからはなれたいま、必要以上に大神の安否がづかわれる。

 ああ、それに。

 巫女はぶるいした。この地には、神代の頃に道反大神がたくされたものがあるのだ。

 あれを外に出してはならない。気の遠くなるほどの長い間、この聖域で守り伝えてきたまがまがしいじゆぶつ

 道反の巫女は、おのれが眠らされていた間にあの呪物がだれの手にもわたらないでいたことに心底あんした。そして、自分が不在の折にも変わらずにこの地を守ってくれていた守護妖たちに、心から感謝した。

 その守護妖たちの妖力がうずいている。彼らの放つ妖力がこれほどの激しさを帯びたのは、智鋪のそうしゆまみえた折以来のことだ。

 激しいほうこうと、それをおおくすような遠吠えが聖域を駆けける。異質なれいが聖域に広がりを見せているのを、巫女の全霊が感じ取った。

「これは、これはいったい……!」

 人界の封印がとつされた。完全に破られたのではない、一部分だけこじ開けられたのだ。

 智鋪によって解かれた道反の封印は、巫女の力で再び施された。それが。

 聖殿を囲むようにして、獣の気配がぞうしよくしていく。おびただしい量の気配がしつぷうのように駆け抜けていく。低いうなりとけたたましい遠吠えが折り重なるようにだまして、彼らの放つ異様な霊気が聖域の清浄な空気をまたたく間にけがしていくのがわかった。

 巫女は扉にすがるようにしてくちびるんだ。

 蜥蜴と百足はどうしているのだろうか。三ヶ月前、二ひきだけでは心もとないから新たな守護妖をあたえて欲しいと彼女は道反大神にうた。大神はそれを受けて失われた守護妖と同じ数を与えてくれると約束してくれた。

 うちの一匹はいまかくせいしていない。しかし、覚醒したとしても、目覚めたばかりではどこまで力になれるか。

『─────!』

 遠方から蜥蜴のごうがかすかに届き、巫女はほっと息をついた。よかった、無事だったのだ。

「蜥蜴……!」

 声は届かないとわかっていても、彼女は忠実な守護妖の名を呼んだ。守護妖たちにはまことの名がある。しかし、それは道反大神がさずけた名なので、彼女がそれを呼ぶことはない。

 ただ一匹、幼い姫のために生を同じくして生まれたあのからすの名だけを、巫女が授けた。

 咆哮がとどろく。蜥蜴と百足の妖力が激しさとするどさを増す。

 だが、異質な霊気は聖域全体に広がりつつあった。

 巫女はおそろしさにりつぜんとした。彼女がこの聖域を預かってからいくせいそうの時が流れたかは判然としていない。その、とてつもなく長い時の中で、この地がここまでおかされたのは初めてだった。あってはならないことだ。

 びきのいわもさることながら、あの呪物の存在に敵が気づいたら。

 そのおくそくが巫女の心臓を冷えた指でにぎめた。戦慄が背筋をけ上る。

 同時に彼女はがくぜんとした。

 青の宮には、あの子が眠っている。

「風音……っ!」

 思わず扉を開きそうになったしゆんかんせい殿でんへきめんが大きく揺れた。

 しんどうが建物を揺るがす。り返し繰り返し聖殿をしようげきおそい、窓にはめ込まれた木れんがみしみしと音を立てる。少しずつこわれていく連子のへんが内部にこぼれ落ち、巫女のかたに降り注いだ。

 はっと振りあおいだ巫女は、半分破れた連子に鼻先をつっこんでいる獣の顔を認めた。

 しんの眼窩が巫女を凝視している。

 道反の巫女をとらえた眼光がえつかがやき、連子を嚙みくだいていた牙がえいにきらめいた。

 獣の遠吠えが聖殿内に木霊する。それに呼応したように、いたるところから恐ろしくもおぞましい咆哮が上がり、聖域に轟いた。

 巫女の瞳を戦慄がいろどる。

 やみの色をした、通常の数倍の大きさの、おおかみ。妖力ではなく、異質な、いなくうきよな霊力を放つつくられしもの。

 これは。

魑魅すだま……!」

 かすれた声でうめいた巫女の言葉に、けものはにいとわらった。

「……っ!」

 思わず息をみ、巫女はあと退ずさった。狼は牙と爪でついに連子を食い破り、開けた穴からしんにゆうしようと試みる。

 その間にも扉やかべに獣たちがとつげきしているのがわかった。聖殿を取り囲む霊気はいや増し、彼女を威嚇しあざわらうようにふくれ上がっていく。

 獣の咆哮がまくをつんざいた。それに背を押されるようにして、巫女は聖殿の奥に駆け込み、かんのん開きの扉を閉めた。

 扉にふうじのしんじゆほどこし、巫女はひどくろうばいした。

 自らここに閉じこもった自分はいい。だが、守護妖たちは。そしてむすめの体は。何よりも、大神と呪物の安否は。

「わたくしは……どうすれば……っ」

 そのとき、背後の扉が大きくたわんだ。

 はっと振り返ると、禍々しい霊力が彼女の神呪とあいまって、りよくそうさいしようとしているのが見て取れた。

 獣以外の何者かが、この地に侵入している。そしておそらく、それがこのしゆうげきしゆぼうしや

 少しずつ少しずつ、扉がひしゃげて向こう側が垣間かいま見えるようになっていく。

 すきに赤い光が見えた。一ついのそれは、狼のまなこだ。

 巫女の姿を捉えた両眼が、射るような激しさをともなった。

 これ以上はげられない。このままでは扉が破られ、向こう側に群がっているだろう獣の群れが大挙してなだれ込んでくるだろう。

 息を殺して扉をぎようする巫女は、かすかな会話を聞いた。

「………たゆら、ここは…」

「……では、……せた…」

 禍々しさを帯びた霊力の主が、遠ざかっていく。

 巫女の心臓ははやがねを打っていた。本能が告げている。あの者を行かせてはならない。

 恐ろしいことが起こる。それをしなければ、恐ろしいことが、この地に、否、この世に降りかかる。

 扉を押し破ろうとする獣たちのこうげきは一向にやまず、神呪もろともかいされる寸前に思えた。

 神呪にひびが入り、霊気がじわじわとしのび込んでくる。ひしゃげた扉の隙間からいく対もの赤い目がものらえてざんぎやくな光を放つ。

 無数のかたまりとびらに突進した。

 空気がびしりとかわいた音を立て、扉とともに神呪を打ち破った。

 ようやく扉を破った狼たちがいつせいに咆哮し、きばいた。

「─────っ!」

 巫女は声にならない悲鳴を上げた。

 そのせつ、湖底にしずせきひつから激しい力のうずき起こり、たたえられた水が柱となってき上がる様が、彼女ののうに映った。

 同時に、広大な聖域の彼方かなたから、湖水の吹き上がるごうおんが木霊し、この地全体をるがした。

 振動できんこうくずし、立っていられなくなった巫女があおけにたおれかかる。その首もとに狼の牙が食い込む寸前、ぜつきようが駆け抜けた。

『巫女─────!』




 道反の聖域は人界ではない。人界と黄泉よみはざの世界だ。

 人界とはちがしが降り注ぐこの世界もまた、人界と同様に黄昏たそがれ時をむかえていた。

 黄昏はものの領域、おうヶ時と呼ばれる。ならば、この広大な聖域に降り注ぐしよくは、魔物のうごめくこのおおまがとき相応ふさわしい。

 聖域を守る聖殿からはなれた場所にあるその湖は、なみなみと湖水を湛えていた。しかし、その湖水は周囲に飛散させられ、湖底が見えてしまっている。

 湖底の中央にかくされていた石櫃は無残に割られ、中に入っていたものは、布にくるまれ真鉄のふところにしまわれていた。

 全身を覆うほどの黒布をぶかにかぶっていた真鉄は、それをはらって顔をのぞかせた。

「もはやこの地に用はない」

 灰黒の狼の語調に、ちようしようふくまれる。その頭を一でして、真鉄はころもの上から懐をそっと押さえた。前に落ちかかる黒布をばさりと後ろに払う。

「ああ、しゆは上々。引き上げるぞ」

 身をひるがえした真鉄は、狼の背にひらりと飛び乗る。彼の背より体長のある狼は、まるで駿しゆんのように青年を乗せたまま駆け出す。

 様々な景色がまたたく間に通り過ぎていく。ところどころで闇色の狼たちが蠢いているのを横目に、真鉄は広大な道反の聖域を改めてながわたした。

「……ん…?」

 ふと見えた青屋根に目をとめる。

 宮だ。

「真鉄、どうした」

 気づいていぶかる狼の足運びがわずかににぶる。彼はおのれの見つけたその屋根を、ついと示した。

「あの宮……、何やら特別な力で守られている」

 見さだめるように目をらしていた真鉄を乗せたまま、狼はその宮に足を向けた。

 近づいていくにつれ、周辺の空気がちようめいえ渡っていくのを感じる。

 青屋根の宮は無人のようだった。しかし、せいじような壁がこの宮をおおっている。害意や悪意のあるものはてつてい的にきよぜつする、不可視の壁が築かれているのだ。

「……気に入らない」

 静かにつぶやいて右手をのばした真鉄は、不可視の壁に届いたたん生じた火花に顔をしかめた。

「っ……」

 指先がけて血がしたたる。火傷やけどを負ったがじんじんとして、彼をきわめて不快にさせた。

 すっと細められた眼がひようじんのような輝きを帯びる。彼を取り巻く空気が音を立ててこおりついたようだった。

「たゆら、下がっていろ」

 たゆらと呼ばれた狼が、命じられたままにきよをとる。

 真鉄は手のひらに己れの血でもんようえがき、それを壁に押しつけた。反発するように火花が散り、真鉄の霊力を押し返そうとするのがわかる。手のひらがしゅうしゅうと音を立て、肉の焼けるにおいがただよった。

「真鉄…!」

 色を失うたゆらを視線でだまらせ、真鉄はこうたんり上げる。

「道反の神気など、我らの血脈にねむるこの力が相殺してくれる」

 壁に押しつけられた手のひらが、ぜた。

 真鉄のまとう布が霊力の渦をはらんで大きく翻る。裂けた皮膚から血がき出し、飛び散った血潮が不可視の壁を無力化させ、ついにはじんに打ちくだいた。

 宮を覆っていた清浄な力がさんする。

 血のしたたる青年の右手を、そろそろと歩み寄ったたゆらがそっとめた。痛みを感じているはずの真鉄は、それをおくびにも出さずに手のひらをにぎる。

だいじようだ。それより……」

 扉を開いて宮内に足をみ入れた真鉄とたゆらは、ほぼ中心にえられた方形の台に目をとめた。

 白い布が盛り上がっている。それは明らかにひとの形だった。

 無言で手をのばした真鉄が、布を一気にぎ取る。

 狼がさすがに息を呑んだ。

「これは……!」

 横たわっていたのは、白いおもてに血の気のまったくない女。年のころ二十歳はたち前後。こしに届くぬばたまの見事なくろかみが背の下に広がり、かざり気のない白のきぬから覗く手足も紙のように白い。

 生気のまったく感じられないたいおもし。だが、それでもなお女のそうぼうは美しさをそこなっていなかった。

 決して生者のそれではないはだの色と、その体を取り巻く神気が、これが時から切り離されたちることのない肉体であることを物語っている。

 念のため首筋にれてみたが、かすかな脈動も感じられなかった。

「……むくろか。しいな」

 道反の聖域に安置されているということは、道反のえんじや。道反の巫女みこにはむすめがいるという話を聞いたことがある。

 では、これがその娘か。ということは、ここはこの娘のためのもがりの宮だろう。

 真鉄は女の額に手を当てた。

 たましいざんが放つれいりよくも、欠片かけらすら残っていない。こんぱくが離れてだいぶっている様子だった。

 女の白いほおに血のしずくがこぼれ、赤い筋を描いた。まるで頰が裂けているようだ。

「魂もそろっていれば、言うことはなかったが……」

 言い差して、真鉄は冷たく笑った。それでも、骸だけでも役立てることはできる。

「どうするつもりだ?」

 女の顔を覗き込むおおかみの顔を押しのけるようにして、真鉄は腰にいていたつるぎを引きいた。

「この体にもすさまじい力が残されている。それを見過ごす手はないだろう」

 そう言いながら青年は、女のまとう衣のかたぐちに鈍く光るはがねやいばをあてた。





 かんいつぱつけつけた蜥蜴とかげが、けものたちをようりよくはじき飛ばす。

 巫女はくずおれたままぴくりとも動かない。それを認めた蜥蜴の胸に、最悪の事態がいつしゆんよぎった。

『巫女! 巫女よ!』

 狼たちをらして巫女のもとに駆け寄った蜥蜴は、彼女が気を失っているだけだとさとってあんの息をらした。

 もんどりうった狼たちが体勢を立て直すより早く、蜥蜴は巫女を己れの背にすくい上げ、敵の前に立ちはだかった。

 無数の赤いまなこがあと一歩のところでじやをした異形をいている。

 蜥蜴はしつこくの目にいかりのほのおを宿すと、のどの奥から激しいうなりを上げた。

せよ!』

 先ほどよりもりよくを増した妖気のうずばくはつする。大きく開かれた蜥蜴の口から、とうの渦が放たれた。ちよくげきを受けた獣たちは瞬く間に凍結し、音を立てて砕けていく。直撃をまぬがれたものたちもひどい損傷を受けた様子で身動きが取れなくなる。凍りついたがぱきぱきと音を立てて割れ砕け、狼たちはぞうたけびをあげた。

 蜥蜴の放つ凍気がたびさくれつし、せい殿でん内に蠢いていた狼たちが一ぴき残らずしようめつした。

 氷のけつしようが雪のようにった。厳寒の風が聖殿内にれ、獣たちの放っていた霊力を覆いくしはらい消す。

 くうきよな霊力もあとかたもなく吹き飛ばした蜥蜴は、それでも注意をおこたらずとうき出しにしたまま辺りの様子をうかがった。

 しばらく気配をさぐって、近くには敵の姿がないことをかくにんし、蜥蜴はようやく息をついた。

 その背に横たわっていた巫女が、かすかに身じろぎをする。

 蜥蜴ははっと首をめぐらせ、あるじの体がずり落ちないように静止した。

 ややあって、巫女の白いまぶたがのろのろと開く。

『巫女、気分は……』

 漆黒のそうぼうづかうような色を宿しているのを認め、道反の巫女は何度かまばたきをしてからゆっくりと身を起こした。

「ああ…、大丈夫です……」

 のうにかかるかすみを頭をってはらい、巫女は額に手を当てた。

 きりが晴れていくように意識がはっきりしていくに従って、絶体絶命のきゆうをからくもだつしたのだという実感がわいた。同時に、えもいわれぬおそれとせんりつが彼女の心をてつかせた。

 心臓がはやがねを打っている。かたかたとふるえる全身からは瞬く間に血の気が引き、からからにかわいた喉の奥からかすれた声をかろうじてしぼり出す。

「……湖は…きんじゆせきひつは……」

 蜥蜴はらくらいに打たれたようなしようげきを覚えた。

 巫女の許に駆けつけることしか考えていなかった蜥蜴は、そのさなかにごうごうという水音を確かに聞いていたのだった。

『まさ……か…っ!』

 信じられない思いでうめく蜥蜴の双眸が、がくぜんと凍りつく。

 そこに、ざわざわという足音をひびかせながら、おお百足むかでが飛び込んできた。

『巫女、蜥蜴よ……!』

 巫女と蜥蜴ははっと百足をぎようする。よろよろとした足取りの百足は、たおれかかる己れの体を気力でもたせながら、振り絞るように告げた。

『禁呪の石櫃が破られ、呪物がうばわれた……』

「……っ…!」

 衝撃で呼吸を忘れた巫女は、あえぐようにしてむなもとを押さえた。

 おそれていた事態がおとずれた。あれが地上に持ち出されたというのか。

 息も絶え絶えな巫女に、百足はさらなる絶望を告げなければならなかった。

『それと……』

 苦しげに言いよどむ百足の様子をいぶかり、蜥蜴がつづきをき立てる。

『何があったというのだ、いったい何が……!』

 しばししゆんじゆんする百足の双眸をじっと見つめていた巫女は、ふいにこれ以上ないほど目を見開いた。

 常にはげしさを宿す百足の赤いけいがん。それが、ろうばいふんのない交ぜになったような、複雑な色に染まっている。

 百足は押し殺したこわをようやく発した。

『……ひめおんが……奪われた……』

 言葉にならない金切り声がだまする。

『巫女…っ』

 百足と蜥蜴が異口同音にさけぶ声も、すでに届かない。

 真っ青になった巫女の体がぐらりとかしぎ、彼女はそのまま力なくくずおれた。




 びきのいわにつながるずいどうの入り口に、一匹の狼がはいかいしている。

 通常の狼より格段に大きなかいはくの獣は、周辺をうろうろと動き回りながら、時折隧道の奥の様子を窺っていた。

 どれほどそうやって待っていたか。日が完全に暮れ落ち夜のとばりが世界を支配した頃に、彼の兄弟たちがようやく姿を見せた。

「たゆら!」

 真っ先に飛び出してきた兄弟の名を呼び、狼はその首に自分のそれをすりつけた。

おそかったので心配したぞ、何かあったのじゃないかと……」

「心配するな、もゆら。ぬかりはない」

 そうしてたゆらは後ろをかえりみる。その視線を追ったもゆらは、やみの中から現れたかげを認めて声を上げる。

「真鉄!」

 闇色の獣の背に、白い布にくるまれたものが乗っていた。それが落ちないように、黒布をまとった真鉄が手をえている。布にかくれたもう一方の手には、はがねの剣がたずさえられていた。

しゆはどうだ、真鉄。……真鉄?」

 隧道にめ入ったときと同じように黒布をぶかにかぶった真鉄は、もゆらの頭をでた。もゆらはかんを感じてまゆを寄せる。怪訝けげんそうに兄弟を見やると、たゆらは意味ありげに目を細めた。

「もゆら」

 呼ばれて、もゆらは顔をあげた。顔を隠す布の奥にするどくきらめく眼が、いつもと同じかがやきを発している。

「これは、道反の姫のむくろだ」

「骸…!」

 そうだとうなずき、真鉄は姿を隠す布の下でこくはくみをかべた。

「骸だけでも役に立つ。この骸に残る力を得て、俺のれいはいままでとは比べものにならないほどに強まった」

 実にいい拾いものだと笑う真鉄を、もゆらは目を輝かせて見つめていた。

「一昼夜もかからなかったな。道反の聖域などといっても、もろいものだ」

 真鉄は白い布包みを指した。

「もゆらよ。これを守り、王の許に運べ」

「真鉄とたゆらは?」

「我らは……」

 真鉄はたゆらをいちべつし、布のはざかられいしようのぞかせた。

「あとを追ってくるだろう道反のあやかしどもを、みなごろしにしてから帰る」

「わかった」

 灰白の狼は白い布包みを背負い、闇色の狼たちを率いてその場からしつぷうのように駆け去った。

 見送っていたたゆらと真鉄は目配せをすると、隧道の奥を窺うように息をひそめた。

 唸りが響く。次いで、ざわざわという足音が近づいてくるのがわかった。

「行こうか、たゆら」

 黒布をひるがえして灰黒の背に飛び乗り、真鉄は高らかにうたいあげた。

「永久にも等しかったふういんが解かれる。よいは祝いのうたげもよおすぞ」

 狼のとおえが響きわたる。その語尾に重なるように、守護妖の憤怒のごうとどろいた。

 背にさるほど烈しい叫びに、真鉄の双眸がせいさんな光を帯びる。

彼奴きやつらのしかばねを取り囲み、その血潮をさかずきに注いでな……!」

 さつりくの宣言を受け、狼は静かにきばを剝いた。

「───心得た」


  ◆ ◆ ◆






道反を襲った彼らの目的とは――!?

続きは本編でお楽しみください。

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少年陰陽師 いにしえの魂を呼び覚ませ/結城光流 角川ビーンズ文庫 @beans

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