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昌浩は
何も見えない。自分の手のひらすら。
きょろきょろと辺りを見回して、どう
ふいに、視界のすみを赤い光が横切った。
「
赤い螢などいない。
光が筋を引いているように見える。それを追った昌浩の目に、無数の赤い光が飛び込んだ。
ゆらゆらと
飛び
あの、赤は。
昌浩は
無数の赤がきらめいた。それが昌浩の
なんだったろうか。
「……ああ」
得心がいって、
禍々しい赤とは別の紅。預かりものだと言っていた。
ぼんやり考えていた昌浩の耳に、小さな音が届いた。
はっと顔をあげる。闇の中に響く、風の唸りに似ているような音。
しゅうしゅうというかすかなそれは、少しずつ近くなってくる。
それとともに、無数の赤い光が
目を見開いた昌浩は、それらの光の奥に、燃え上がる
◆ ◆ ◆
目覚めてから、
「どうした、昌浩」
数歩先んじた
「今朝見た夢が、なんか、妙で……」
予感に似たものが胸の奥でわだかまっている。こういう感覚は久しく忘れていた。
あまり味わいたくない
「帰ったらじい様に話したほうがいいかなぁ……」
再び歩き出しながら後ろ頭を押さえて、しかし昌浩は
そんなことを言ったら、絶対にこうくる。
──なんじゃ、昌浩や。
「……そんなことは言ってないじゃないかーっ!」
突然いきり立った昌浩に、物の怪はぎょっとした様子で目を丸くした。
「いきなり
「ごめん」
我に返って、ばつが悪そうにこめかみの辺りを
気を取り直して物の怪を
「あんまりああいう夢は見たくないんだよ」
「なんでだ?」
物の怪をちらと
「
風のとおる
よくすった
その後ろ姿を、柱に寄りかかって
それを聞きつけた晴明の手が止まり、
「どうした」
老人の声は聞きなれた
「いや…、昌浩が」
「うん?」
本格的に手を休めて、体ごと勾陣に向き直る。
『できるだけ早めに帰ってくるから、それまでは待っててよ。いつだったら休みが取れるか
突然訪問したら失礼に当たると昌浩は考えた。だから、先発の勾陣に
勾陣はそれを
それほど
ならば、夜半を過ぎようが
出立の時間が決まれば
という
「いっそ、ほかの貴族たちのように
笑みを
「それをせんのが昌浩らしいところだな。……わしならやっておる」
「お前が『占じた結果今日は物忌だ』と言って、それを否定できる者はいないだろう」
何しろ
晴明もそれをわかっているから、
軽く目を閉じて、柱にもたれたまま勾陣は肩をすくめた。
「出立を先のばしにする大義名分がなった。太裳も天一も口は出せまいよ」
「まったく、お前は……」
ため息混じりの晴明は、やれやれと言わんばかりに頭を
「晴明、さっきから何を書いているんだ?」
「うん? なに、大したものではない。わしが
黒曜の
「まぁ、必要になるのは先の話だが」
それは、生来の天命だろう。彼の命は守られた。
それをわかっているのに、言いようのない
十二神将たちは長命なので、人間の一生が
晴明が文台について筆を走らせる、その背をずっと見てきた。式にくだったあの頃から、ぴんとのびた背筋は変わらない。
「なぁ、勾陣や」
「うん?」
筆を動かしながら、晴明は彼女を見ずに
「天一たちにあれほど異界に戻れと言われながら、お前がここに
「それを騰蛇に言ったら本気で嫌がるからやめておけよ、晴明」
とうの
「言わんよ。
もっとも、聞こえているかもしれないが。いまは人界にいないが、異界でこちらの様子を
「それはさておき。わしの質問には答えてくれんのか?」
勾陣は困ったように笑った。
ぴんとのびた背中は相変わらずで、烏帽子の下にある
ああ晴明だと、
彼がそこにいて、変わらぬ姿を見せてくれることが、無性に。
「大した理由はないさ。……ただ」
「お前の背を見ているのが、私は好きなんだよ。昔から」
晴明は手を止めて、肩越しに振り返った。
「……そうか」
細められた目は
ふと、晴明は視線をめぐらせた。
「玄武」
晴明が名を呼ぶと、玄武は
それを眺めていた勾陣は、玄武が最近元気がないと言っていた
晴明の命令で働いていたことは聞いているのだが、その
いつもだったら昌浩に指示する
しばらくうつむき加減だった玄武は、別の
ほどなくして、天一と朱雀、太陰が姿を見せた。
「勾陣、昌浩が戻ってから出発するんですって?」
首を
「そういうことだ」
天一は
朱雀はそのまま玄武の横に
三人がしきりに玄武を
「なんだか、この間からずっと玄武が元気ないんだけど、勾陣は理由を知ってる?」
勾陣は首を振った。
「いや……。さすがにわからないな」
「本人に
黒曜の瞳が興味深げな色を宿す。
ちらりと晴明を
「あの件はちゃんと解決したし、なんにも問題ないはずなの。最後はいいこと
だからきっと、知らなくてもいいことなのだろう。少々気になることは気になるが、訊かれたくないことなのだとしたら
ふうと息をつきながら、太陰は玄武を肩越しに見やった。
「ああいう根暗な顔されてると、こっちまで気が重くなってくるんだもの。ちょうどいいから道反で気分
物見
ひと段落ついた昌浩は、
「うぅぅぅ…」
やっぱりなと肩を落とす昌浩に、陰陽博士の安倍
『……念のため、父上に日の
それを聞いた昌浩は
つまり吉平伯父は、晴明に物忌ということにしてもらってはどうかと言っているのだ。
ちなみに物の怪はその場で言葉の裏を察した。何せ吉平とは彼が産まれた頃からの長い付き合いだ。
あの親にしてあの子あり、というところだろう。
「なんだなんだ弟よ。やけに
頭上から降ってきた声に、昌浩は顔をあげた。
「兄上」
高欄に飛び移った物の怪が辺りをきょろきょろと見回すのを見て、成親は
「何をしてるんだ、騰蛇」
片前足を顔の前にかざして背のびをしながら、物の怪は軽く答えた。
「いやなに、いつものように
昌浩より頭ひとつは高い成親の顔が険しくなる。
「お前は俺をなんだと思ってるんだ」
「じゃあ今日はまっとうに出てきたのか? 珍しいな」
本気で感心している
「あ、兄上。俺に何か用ですか」
用がなきゃ来ちゃいかんのかと口の中でぼやき、成親は息をついた。
「
「え……?」
昌浩の心臓がどくんと
「こう、
ただ、見えるものは何ひとつなく、音と気配だけが感じられた。
「それ…、ほかには、何も?」
「ああ。もっとも、暗かったから見えなかっただけだと思うが」
まぁあれだ、俺の夢にそれほど深い意味はないだろうが、一応念のため。
そう言うと
「ときに、おじい様のご様子はどうだ?」
「晴明だったらかなり元気になったぞ」
成親の肩にひょいと飛び乗って、物の怪が前足を上げる。
「本人いわく、天命までしぶとく生きるそうだ。……天命がいつなのかは俺も知らんが」
だが、そういうからにはまだまだ時間があるのだろう。
現時点でも相当長命で人外の
そのときがきたら悲しいだろうが、いつまで生きるんだという疑念もなくはない。
じっと何かを考えている様子の昌浩をちらと見て、成親は内心で思案した。とりあえず、昌浩と
「では、十二神将たちにはおじい様をちゃんと見ていてもらわないといかんな」
「なんだ、それは」
「おじい様はああいう方だからな。俺たちが何か言うよりも、ずっと昔から付き合いのある神将たちに言われるほうが効き目がありそうじゃないか」
それは確かに。
思わず
「ああ、もうひとつあったんだ。おい、昌浩」
呼ばれて昌浩は、熟考の
「はい?」
「そろそろ
「あ、はい」
昌浩がこくりと
「博士───!」
成親の
胡乱な様子で
彼の肩に乗っていた物の怪が、
「まっとうに出てきたんじゃなかったのかよ」
「出てきたとも。何ごとだ、まったく」
少々
後ろ手を振って暦生たちの
「あ、俺も仕事に戻らなきゃ」
まだ退出までは一刻ほどある。時間までにすべてを終わらせたら、今日は定刻で終わっていいという許可をもらってあるのだ。
「あとはなんだ?」
ぽてぽてと歩き出しながら
「ええと、
ふいに昌浩は
「この間、だいぶ読みやすくなった、てほかの省庁の方から
自分の
そうかと笑う物の怪は、ふと鳥の声を聞いて視線を向けた。
屋根の上に、二羽の
物の怪と目が合うと、鴉は
「最近妙に鴉が目につくなぁ」
別に
職場に戻っていく昌浩のあとを追いながら、物の怪はそう結論づけた。
昌浩に視線を注いでいた鴉は、その場でしばらく動かなかった。
そこに、先ほど飛び去ったはずの鴉が再び舞い降りてきた。
やがて、どちらからともなく高く長く鳴号すると、翼を羽ばたかせてともに大空に舞い上がった。
安倍
それは塀の近くに植えられていた
あげられた
「………」
険しさの
ひとことも発しない晴明のまとう気配が険を帯びていくのを感じて、勾陣は怪訝そうに口を開いた。
「晴明よ、どうした」
晴明は無言で視線だけを向けてくる。勾陣は
やがて老人は白い
「う…む…」
晴明の様子が変わったのは、書き物を終えて何かを思い出した
正体のわからないものをつまびらかにするはずの
現れた結果を見た晴明は、先ほどからずっと厳しい顔で
勾陣は庭に目をやった。
絶対に早く帰ってくると断言していた昌浩がそれを実行するなら、そろそろ
それまで
やがて朱雀が口火を切った。
「晴明、何を読んだ?」
静かな問いかけに、老人は
「……
「夢、ですか?」
「どのような夢だ、晴明」
柱にもたれて
「
眼下に広がる闇を
「燃える、川…?」
胡乱げに
何気なく目をやった先には、柳にとまった鴉がいる。
「あの鴉……」
勾陣が
飛び去ったのは
漆黒の鴉。
「───晴明様」
天一の語調が
老人の横顔に、それまでとは別の
神将たちが無言で
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