昌浩はやみの中にいた。

 何も見えない。自分の手のひらすら。

 きょろきょろと辺りを見回して、どうがんっても何も見えないことを確認し、昌浩は深く息をついた。

 ふいに、視界のすみを赤い光が横切った。

ほたる……?」

 つぶやいて、昌浩はいいやとかぶりった。

 赤い螢などいない。

 光が筋を引いているように見える。それを追った昌浩の目に、無数の赤い光が飛び込んだ。

 ゆらゆらとれ動く赤い螢に似た光。それらは絶え間なく動きながらを引いていた。

 飛びう光は、昌浩が思っているより遠くに位置しているのだ。にもかかわらず、その強さとはげしさがごく間近にただよっているようなさつかくを起こさせる。

 あの、赤は。

 昌浩はけんのんに目を細めた。

 まがまがしいあの光は、ふるえに似たものを呼び起こす。

 無数の赤がきらめいた。それが昌浩ののうに、別のあかを思い起こさせる。

 なんだったろうか。

「……ああ」

 得心がいって、まばたきをする。とうとつに思いかんだ紅は、六合の首にかかっているまがたまの色だ。

 あざやかな紅が光を反射する様が、無意識のおくに刻まれていた。

 禍々しい赤とは別の紅。預かりものだと言っていた。

 ぼんやり考えていた昌浩の耳に、小さな音が届いた。

 はっと顔をあげる。闇の中に響く、風の唸りに似ているような音。

 しゅうしゅうというかすかなそれは、少しずつ近くなってくる。

 それとともに、無数の赤い光がせまってくる。

 目を見開いた昌浩は、それらの光の奥に、燃え上がるほのおのようなものを見た───。


  ◆ ◆ ◆


 目覚めてから、みように心がはやる。

 直衣のうしの昌浩は、だいだいに向かうちゆうで足を止めた。

「どうした、昌浩」

 数歩先んじたものが不思議そうに振り返る。昌浩は低くうなってまゆを寄せた。

「今朝見た夢が、なんか、妙で……」

 予感に似たものが胸の奥でわだかまっている。こういう感覚は久しく忘れていた。

 あまり味わいたくないたぐいのものだ。おんみようの予感は、ときとして現実のものとなる。

「帰ったらじい様に話したほうがいいかなぁ……」

 再び歩き出しながら後ろ頭を押さえて、しかし昌浩はそくにその考えを打ち消した。

 そんなことを言ったら、絶対にこうくる。

 ──なんじゃ、昌浩や。ゆめうらもせずにまずじい様の意見を聞こうとは、お前はいつからそのようなものぐさになってしまったのだ。お前が幼いころから、自分で調べるくせをつけなさいとことあるごとに教えさとしてきたというのに、まだまだ骨身にみていなかったのか、そうなのか。ううっ、じい様の言葉はそれほどに無力であったのか……

「……そんなことは言ってないじゃないかーっ!」

 突然いきり立った昌浩に、物の怪はぎょっとした様子で目を丸くした。

「いきなりさけぶなよ」

「ごめん」

 我に返って、ばつが悪そうにこめかみの辺りをく。

 気を取り直して物の怪をかかえた昌浩は、ため息混じりにぼやいた。

「あんまりああいう夢は見たくないんだよ」

「なんでだ?」

 物の怪をちらとながめて、昌浩はしぶい顔になった。

いやな感じの夢ほど、あとになってあああれか、て思うことが多いから」




 しとみをあげた部屋には、朝のすがすがしい光がさわやかにし込んでくる。

 風のとおる簀子すのこの近くにえた文台に向かい、安倍晴明は料紙に何かを書きつけていた。

 よくすったすみを筆にふくませて、達筆の文字がさらさらと記されていく。書き物をするとき、またせんじゆつを行うとき。老人は背筋をぴんとのばして姿勢を正す。

 その後ろ姿を、柱に寄りかかってうでを組んだ勾陣は、静かなまなしで見守っていた。

 ちんもくしている勾陣がそこにいることを、晴明は知っている。他の十二神将たちが何を言っても異界にもどらないでそうやっているのは、彼女に思うところがあるからなのだろうと考えて、晴明自身はそれについて意見を差しひかえていた。

 けに昌浩が言った言葉を思い出し、勾陣はくちもとに指を当ててくすりと笑った。

 それを聞きつけた晴明の手が止まり、かたしに彼女をかえりみる。しわの刻まれた口元に、ほのかなみが宿っているのを勾陣は見た。

「どうした」

 老人の声は聞きなれたひびきで、耳に心地ここちいい。勾陣はもとなごませた。

「いや…、昌浩が」

「うん?」

 本格的に手を休めて、体ごと勾陣に向き直る。

 あさを終えて準備を済ませて、あとは出かけるだけになってから、あわてた様子で顔を出して言い張った。

『できるだけ早めに帰ってくるから、それまでは待っててよ。いつだったら休みが取れるかかくにんしてくるから』

 突然訪問したら失礼に当たると昌浩は考えた。だから、先発の勾陣にさきれのようなことをたのんできたのだ。

 勾陣はそれをりようしようした。もともと昼過ぎまではねばるつもりだったので、昌浩の頼みはわたりに船だ。

 それほどおそくならなければいつとうちやくしても構わないと、巫女みこは言ってくれている。遅くなるようでもそのむねしらせてくれれば問題はないとも。

 ならば、夜半を過ぎようがあかつきになろうが、れんらくさえしておけばいいということだ。

 出立の時間が決まれば道反ちがえしに到着するおおよその時刻は見当がつく。出ると同時に水鏡を通じて伝えてもらえば事足りる。

 というちからわざの主張を、勾陣は結局押し通したのだった。

「いっそ、ほかの貴族たちのようにものいみだの行き触れだのとでっち上げてしまえばいいのに」

 笑みをみ殺す勾陣の言い草にしようしながら、晴明はかたわらのちよくばんを軽くたたいた。

「それをせんのが昌浩らしいところだな。……わしならやっておる」

「お前が『占じた結果今日は物忌だ』と言って、それを否定できる者はいないだろう」

 何しろたいの大陰陽師だ。

 晴明もそれをわかっているから、めつにそういうまやかしはしない。だが、必要なときにはいつわりを真実だと言ってのける。それくらいできないようでは、陰陽師は務まらない。

 軽く目を閉じて、柱にもたれたまま勾陣は肩をすくめた。

「出立を先のばしにする大義名分がなった。太裳も天一も口は出せまいよ」

「まったく、お前は……」

 ため息混じりの晴明は、やれやれと言わんばかりに頭をひとりして、文台に向き直った。筆に墨を含ませて毛先を整え、さらさらと紙面に走らせる。

「晴明、さっきから何を書いているんだ?」

「うん? なに、大したものではない。わしがはかなくなった暁にいろいろと必要であろう物事を、いまのうちから書き留めておるだけだ」

 黒曜のひとみが老人の背に注がれる。それを感じ取ったのか、晴明は軽く言いえた。

「まぁ、必要になるのは先の話だが」

 それは、生来の天命だろう。彼の命は守られた。

 それをわかっているのに、言いようのないさびしさが胸をよぎる。

 十二神将たちは長命なので、人間の一生がまばたきひとつに等しいように感じられてならない。

 晴明が文台について筆を走らせる、その背をずっと見てきた。式にくだったあの頃から、ぴんとのびた背筋は変わらない。

「なぁ、勾陣や」

「うん?」

 筆を動かしながら、晴明は彼女を見ずにたずねた。

「天一たちにあれほど異界に戻れと言われながら、お前がここにじんっているのはどうしてだ? 紅蓮なんぞお前を見るたびにけんにしわを作って、まるでしようらんのようじゃ」

「それを騰蛇に言ったら本気で嫌がるからやめておけよ、晴明」

 とうのせいりゆうげんさが増すだろう。本当にあのふたりは水と油だ。

「言わんよ。にらまれたくないしのぅ」

 もっとも、聞こえているかもしれないが。いまは人界にいないが、異界でこちらの様子をうかがっていたらわからない。

「それはさておき。わしの質問には答えてくれんのか?」

 勾陣は困ったように笑った。

 ぴんとのびた背中は相変わらずで、烏帽子の下にあるとうはつが白いこと以外は昔のままで。

 ああ晴明だと、しように。

 彼がそこにいて、変わらぬ姿を見せてくれることが、無性に。

「大した理由はないさ。……ただ」

 まぶたを閉じて、おだやかに彼女は答えた。

「お前の背を見ているのが、私は好きなんだよ。昔から」

 晴明は手を止めて、肩越しに振り返った。

「……そうか」

 細められた目はこうこう然としていて、眼差しはどこまでもやさしくあたたかい。年輪を経て、彼はそのやわらかさを得た。当初はき身のやいばのようなするどさばかりが先にたって、彼が本来持っている優しさはすっかりかくれてしまっていたものだ。

 ふと、晴明は視線をめぐらせた。

 がらな玄武が傍らにけんげんする。幼い子どものふうぼうが、晴明をじっと見下ろして物言いたげな様子だった。

「玄武」

 晴明が名を呼ぶと、玄武はもくしたままうなずいて老人のとなりこしを下ろした。正座したままだまりこくっている子どもの頭を、節くれだった指が優しくでる。

 それを眺めていた勾陣は、玄武が最近元気がないと言っていたてんこうの言葉を思い出した。

 晴明の命令で働いていたことは聞いているのだが、そのころの彼女は異界で静養していたのでくわしいことを知らないのだ。

 いつもだったら昌浩に指示するたぐいのことを、めずらしく晴明は玄武と太陰に任せていたという。そこに朱雀と白虎もかかわっていたようだが、それ以上のことは勾陣にはわからない。

 しばらくうつむき加減だった玄武は、別のどうほうが顕現する気配を感じ取ってまっすぐに顔をあげた。

 ほどなくして、天一と朱雀、太陰が姿を見せた。

「勾陣、昌浩が戻ってから出発するんですって?」

 首をかたむける太陰に頷き、勾陣は天一を見やった。

「そういうことだ」

 天一はていかんした様子でそっと息をつく。その隣の朱雀が勾陣を軽く睨むが、それ以上のこうはない。

 朱雀はそのまま玄武の横に胡坐あぐらいた。天一もそれにならって腰を下ろす。

 三人がしきりに玄武をづかう様子なのをいぶかって、太陰が声をひそめた。

「なんだか、この間からずっと玄武が元気ないんだけど、勾陣は理由を知ってる?」

 勾陣は首を振った。

「いや……。さすがにわからないな」

「本人にけるふんでもないし。だからわたし、晴明に訊いてみたのよ」

 黒曜の瞳が興味深げな色を宿す。

 ちらりと晴明をながめやり、太陰はぼそぼそとつづけた。

「あの件はちゃんと解決したし、なんにも問題ないはずなの。最後はいいことくめだったのよ? でも晴明、なんでかとぼけるのよねぇ」

 だからきっと、知らなくてもいいことなのだろう。少々気になることは気になるが、訊かれたくないことなのだとしたらついきゆうするのは玄武に悪い。

 ふうと息をつきながら、太陰は玄武を肩越しに見やった。

「ああいう根暗な顔されてると、こっちまで気が重くなってくるんだもの。ちょうどいいから道反で気分てんかんしてくればいいんだわ。あっちには山も海もあるし」

 物見さんに行くかのごとき太陰の物言いに、勾陣は小さく苦笑した。




 しようひびく。ひつじの刻だ。

 ひと段落ついた昌浩は、りよう簀子すのここうらんりようひじをついていた。

「うぅぅぅ…」

 じゆうめんを作っている昌浩の肩に、ものがちょこんと乗っている。

 おんみよう博士にそれとなくおうかがいを立ててみたのだが、やはりこうでんが過ぎるまではきゆうを取ることは難しそうだった。

 やっぱりなと肩を落とす昌浩に、陰陽博士の安倍よしひらはさりげなくこう言った。

『……念のため、父上に日のきつきようせんじてもらうとよいかもしれないぞ』

 それを聞いた昌浩はいつしゆんきょとんと伯父おじを見た。伯父はひとりでしきりに頷いていた。しばらく考えてその言葉の意味を解した昌浩は、いまこうやってうなっているのだった。

 つまり吉平伯父は、晴明に物忌ということにしてもらってはどうかと言っているのだ。

 ちなみに物の怪はその場で言葉の裏を察した。何せ吉平とは彼が産まれた頃からの長い付き合いだ。

 あの親にしてあの子あり、というところだろう。

「なんだなんだ弟よ。やけにしぶい顔をして」

 頭上から降ってきた声に、昌浩は顔をあげた。

「兄上」

 ちようけいなりちかが笑っている。

 高欄に飛び移った物の怪が辺りをきょろきょろと見回すのを見て、成親は怪訝けげんそうにまゆを寄せた。

「何をしてるんだ、騰蛇」

 片前足を顔の前にかざして背のびをしながら、物の怪は軽く答えた。

「いやなに、いつものようにだつそうした博士をれきせいたちがさがしてるんじゃないかとな」

 昌浩より頭ひとつは高い成親の顔が険しくなる。

「お前は俺をなんだと思ってるんだ」

「じゃあ今日はまっとうに出てきたのか? 珍しいな」

 本気で感心している風情ふぜいの物の怪に物言いたげな目を向ける成親を、昌浩はあわててとりなした。

「あ、兄上。俺に何か用ですか」

 用がなきゃ来ちゃいかんのかと口の中でぼやき、成親は息をついた。

みような夢を見たものでな。一応お前の意見を聞いておこうと思ったんだ」

「え……?」

 昌浩の心臓がどくんとねた。今朝方見た夢の、赤いほたるが視界のすみによぎった気がした。

 わずかにこわった昌浩の様子に訝りながら、成親はつづける。

「こう、やみの中にうごめくものがいてな。しゅうしゅうというみような音がして…」

 ただ、見えるものは何ひとつなく、音と気配だけが感じられた。

「それ…、ほかには、何も?」

「ああ。もっとも、暗かったから見えなかっただけだと思うが」

 まぁあれだ、俺の夢にそれほど深い意味はないだろうが、一応念のため。

 そう言うとかたをすくめて、成親は話題を変えた。

「ときに、おじい様のご様子はどうだ?」

「晴明だったらかなり元気になったぞ」

 成親の肩にひょいと飛び乗って、物の怪が前足を上げる。

「本人いわく、天命までしぶとく生きるそうだ。……天命がいつなのかは俺も知らんが」

 だが、そういうからにはまだまだ時間があるのだろう。

 現時点でも相当長命で人外のしようとひとくくりにされそうなのに、今後もしばらく健在とは、さすがというべきかなんというべきか。

 そのときがきたら悲しいだろうが、いつまで生きるんだという疑念もなくはない。

 じっと何かを考えている様子の昌浩をちらと見て、成親は内心で思案した。とりあえず、昌浩とふじの花がどうにかこうにか形になるまでは生きていてもらわないと。

「では、十二神将たちにはおじい様をちゃんと見ていてもらわないといかんな」

「なんだ、それは」

 ろんげに顔をしかめる物の怪に、成親はからりと笑った。

「おじい様はああいう方だからな。俺たちが何か言うよりも、ずっと昔から付き合いのある神将たちに言われるほうが効き目がありそうじゃないか」

 それは確かに。

 思わずなつとくする物の怪である。特に、天空あたりが出てくるとさしもの晴明も形無しとなる場合が多い。あれは、式にくだした当時の晴明が、老人である天空にはくりよく負けしていたことが大きな要因なのだろう。いくらとしを取っても、第一印象と初戦敗退の事実は変わらない。

「ああ、もうひとつあったんだ。おい、昌浩」

 呼ばれて昌浩は、熟考のふちからようやくもどってきた。

「はい?」

 まばたきをする弟の額を軽くはじき、かつたつな長兄はさわやかなみをかべた。

「そろそろふじ殿どのも元気になられた頃だろう。いずれまさちかいつしよに見舞いに伺うから、そのつもりでいてくれ」

「あ、はい」

 昌浩がこくりとうなずいたところに、どたどたというにぎやかな足音が響いた。

「博士───!」

 成親のけんにしわが刻まれる。

 胡乱な様子でり返った視線の先には、暦部署の暦生たちがけ寄ってくる姿があった。

 彼の肩に乗っていた物の怪が、しんげに横顔を眺めやる。

「まっとうに出てきたんじゃなかったのかよ」

「出てきたとも。何ごとだ、まったく」

 少々いきどおった様子の成親の肩から物の怪はひらりと飛び降りる。

 後ろ手を振って暦生たちのもとに足を進める成親の背を見送りながら、昌浩と物の怪はやれやれといった風に肩をすくめた。

「あ、俺も仕事に戻らなきゃ」

 まだ退出までは一刻ほどある。時間までにすべてを終わらせたら、今日は定刻で終わっていいという許可をもらってあるのだ。

「あとはなんだ?」

 ぽてぽてと歩き出しながらたずねてくる物の怪に、昌浩は指を折りながら答えた。

「ええと、なかつかさしようからの書類整理は終わったから、乞巧奠の準備と、来月のこよみの書写かな」

 ふいに昌浩はうれしそうに笑った。

「この間、だいぶ読みやすくなった、てほかの省庁の方からめられたんだ」

 自分のひつせきがあまり、というよりまったくりゆうれいでない自覚のある昌浩だ。かざり気のないぼくな言葉がしように嬉しかった。

 そうかと笑う物の怪は、ふと鳥の声を聞いて視線を向けた。

 屋根の上に、二羽のからすがとまっている。

 物の怪と目が合うと、鴉はつばさをばたつかせた。一羽はそのまま飛び去っていき、もう一羽は相変わらずこちらを見ている。

「最近妙に鴉が目につくなぁ」

 別にようたぐいは感じない。どんな生き物も長命になると化生のものの括りに片足をっ込む。あの鴉たちもそれなのかもしれない。

 職場に戻っていく昌浩のあとを追いながら、物の怪はそう結論づけた。




 昌浩に視線を注いでいた鴉は、その場でしばらく動かなかった。

 そこに、先ほど飛び去ったはずの鴉が再び舞い降りてきた。

 やがて、どちらからともなく高く長く鳴号すると、翼を羽ばたかせてともに大空に舞い上がった。




 安倍ていを取り囲むへいすれすれのところをかつくうする、黒い鳥がいる。

 それは塀の近くに植えられていたやなぎの枝にとまり、一番北東にある晴明の部屋を見ているようだった。

 あげられたしとみの向こうに、老人がいる。

 りよ深げな顔をして、晴明はせんの結果をにらんでいた。

「………」

 険しさのふくまれた目は、先ほどからちよくばんえられたまま動かない。

 ひとことも発しない晴明のまとう気配が険を帯びていくのを感じて、勾陣は怪訝そうに口を開いた。

「晴明よ、どうした」

 晴明は無言で視線だけを向けてくる。勾陣はあるじが答えるのを待った。

 やがて老人は白いひげをたくわえたあごに手をえて、低くうなった。

「う…む…」

 晴明の様子が変わったのは、書き物を終えて何かを思い出した風情ふぜいで式盤を手にしてからだ。

 正体のわからないものをつまびらかにするはずのせんは、しかし彼の意にこたえることができなかったらしい。

 現れた結果を見た晴明は、先ほどからずっと厳しい顔でちんもくしているのだった。

 勾陣は庭に目をやった。

 さるの刻をだいぶ過ぎた。もうじきとりの刻に入る。酉の刻に入れば日暮れがはじまるから、できればそのころには出立したいものだ。でないと天一たちだけでなく、道反の守護妖どもからもさすがにおそいと文句を言われそうだ。

 絶対に早く帰ってくると断言していた昌浩がそれを実行するなら、そろそろおんみようりようを退出してについているはずだ。

 それまでおんぎようしていた天一と朱雀、玄武がけんげんした。老人の険しいまなしにおんなものを感じ、声をかけるべきかいなかをしゆんじゆんしている風情だ。

 やがて朱雀が口火を切った。

「晴明、何を読んだ?」

 静かな問いかけに、老人はまぶたせた。

「……みような夢を見て、な」

「夢、ですか?」

 づかわしげに瞬きをする天一のあとを、玄武が引きいだ。

「どのような夢だ、晴明」

 柱にもたれてうでを組んだ勾陣が静観するなか、晴明はようやく重い口を開いた。

やみの中を流れる川が……」

 眼下に広がる闇をくように、赤く燃え立っていた。

「燃える、川…?」

 胡乱げにつぶやいた勾陣の耳に、鳥の声が聞こえた。

 何気なく目をやった先には、柳にとまった鴉がいる。しつこくの羽をたたんだ鴉は、おのれに向けられた神将の視線を受けて、視線をらさなかった。

「あの鴉……」

 勾陣がかんまんな動作で立ち上がろうとすると、鴉は高く声を上げ、翼を広げて飛び去った。

 飛び去ったのはぐうぜんか、それとも。

 漆黒の鴉。きよがあったためよく見えなかったが、自分に向けられた視線はみように静かでくうきよだった。

「───晴明様」

 天一の語調がとうとつかたさを帯びた。

 老人の横顔に、それまでとは別のきんぱくが走る。

 神将たちが無言でこしかせたしゆんかん、異形の気配が都中に生じた。






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