2
2
◆ ◆ ◆
ざわざわと、数百もの木を打ち鳴らすような音を
数ヶ月前にこの地を
その際に、たまたまこの地を
視界のすみに、青い屋根の宮が映る。その屋根を見つめていた百足は、ざわざわと足音を立てながら宮の前にその身を寄せた。
小さな宮は、百足には入ることのできない大きさだ。道反の巫女は遠い昔人間であったので、それに合わせて
『…………』
しばらくそうやっていた百足は、そっと障子を閉めて身を
宮の近くを通るときなるべく足音を立てないようにというのは、
足音が届かないほど
ざわざわと進んでいた百足を、呼ぶ声があった。
足を止めて頭をめぐらせた百足は、中央の
『どうした』
『巫女がお呼びだ』
身を翻す蜥蜴のあとにつづき、百足は同胞の
道反の聖殿は、
青白い鏡面に、
鏡に向けてひとことふたこと言葉を発した巫女は、
『巫女、いかがなされた』
蜥蜴の問いに、
「晴明
『頼みごと?』
「客人を
◆ ◆ ◆
こうやって自分の足でこの部屋に来られるようになったのもこの数日のことで、それまでは昌浩が足を運んでいた。
夏の終わりなのでまだ暑気がある。
「じゃあ、勾陣は出雲に行くの?」
「うん。みんなに言われて、
勾陣は常に冷静
「ひとのことはよく見えるくせに、自分のことには
「なるほど。でも、もっくんもそういうところあるよね」
ぶちぶちと文句を並べていた物の怪が、心外なと言いたそうな様子で昌浩を見上げる。
「なんだと? どこがだ、どこが」
「結構たくさんいろいろ。だからきっと、もっくんが自覚ないのとおんなじように、勾陣も自覚がないんだよ」
うんうんとしきりに
それをいうならお前もだ。
他愛ないやり取りをしている昌浩と物の怪を楽しそうに
「それで、いつ行くの? 出雲は遠いから、早くに出立するのかしら」
彰子の
あとになって、考えすぎだったと自分で自分がおかしくなったものだが。
「できれば早くにとみんなは思ってるみたいだけど……」
物の怪の両前足の下に手を入れて白い体を持ち上げる。
「実は俺も
「昌浩も? ……何か、あったの?」
「えっ? ないない、なんにもないよ」
問いに深刻な響きを感じ取り、昌浩は
おい、というどすのきいた唸りもなんのその、昌浩は物の怪の右前足をぱたぱたと左右に振って否定した。ここで、こら、という唸りが発されたがさらりと流される。
「考えてみたらちゃんと
それがなんのための神具なのかを彰子も知っていたので、ほっとしたように息をついて目を細めた。
「そういうことなの……」
「うん、だから心配しなくて
物の怪の両前足をぴょこぴょこと上下させる昌浩に、彰子は安心した
彰子を安心させることができたので、昌浩もほっと胸を撫で下ろす。ことあるごとに心を細らせているから、これからはできるだけそういうことのないようにしたい。
いいように遊ばれている物の怪は、
「まーさーひーろー」
「ん? なに?」
相変わらずぴょこぴょこと両前足を上げ下げしている昌浩に、物の怪は後ろ足をばたつかせながら
「お前は俺をなんだと思っとるんだーっ!」
じたばたあがく物の怪を高く
「え、俺なにかやったっけ?」
「…………」
無意識であったらしい。
物の怪は心の底から
「もっくん? どうかした?」
「……もういい」
「ん?」
そういえば、こんなふうにしてのんびり話をするのも
「おのれ、ひとのことをいったいなんだと……」
ふてくされる物の怪を撫でながら、昌浩は小さく笑った。
「そりゃあ、もっくんはもっくんだよ」
◆ ◆ ◆
ぴちゃんと、しずくが
ゆらゆらと広がる
映っているのは、子どもだ。烏帽子と
水辺に立ってそれを見つめていた者の背後から、声がした。
「──
草を
それを受け、獣は低く
「どうした。見えないのか」
「いや」
暗い水面には先ほどの少年の後ろ姿が映っている。
真鉄の
「
「我らを
「ほう?」
うっそりと細められた目に、
「このちっぽけな子どもに、いったい何ができるという」
「さぁ?」
水面が
獣が興味深そうにして水面を
「……これは?」
「
◆ ◆ ◆
翌日、いつものように出仕した昌浩は、いつもより少し
それでも去年よりは要領が良くなったのか、それほど
「成長してるんだなぁ、俺」
自分自身に感心している昌浩に、物の怪が
「そりゃなぁ。成長しなかったら、日々の努力はどこに消えているのかということになっちまうわな」
「うん」
こくりと頷いて、両手をわきわきと開閉させる。
乞巧奠が過ぎたら多少は
昌浩がそう言うと、物の怪は
「まぁ、行って帰ってくるだけだったら三日もあればいいからな」
「だね。さすがにそれ以上は、
物忌はともかく、昌浩にとって行き触れなどはある意味日常
それとも、雑鬼程度だったら行き触れにならないのだろうか。
いやしかし、そもそも雑鬼などの
首から下げている丸玉に
「ずっと見えないままだったのに、いざ見えるようになったら、見えないのがこんなにつらくなるんだもんなぁ……」
「ん? なんだって?」
よく聞こえなかったらしい
「ほら、去年の春まで
物の怪は合点がいった様子で瞬きをした。
「そうか。……もう一年以上、
「うん」
物の怪に笑いかけて、昌浩は目を
「早いねぇ」
「そうだな」
忘れられない日々は、
そんな日が来るのだとしても、それははるか遠い未来なのだろうが。そして、いま隣にいるこの子どもは、そのときにはいないのだ。
物の怪の
「……もっくん、なんだか痛そうな顔してる。どうした?」
はっと視線を向けると、心配そうな様子の昌浩がいた。
物の怪は
「なんでもないって。あれだ、あんなに半人前で
わざとおどけた口調で言うと、昌浩の
「ま、
「孫言うな!」
くわりと
「孫は孫だからなぁ」
「うるさいっ」
「そういうところがまだまだなんだよなぁ」
「うるさいったらうるさいっ、物の怪の分際で!」
「俺は物の怪と
反射的に本気で反論する物の怪を見下ろして、
それを感じた昌浩は、ばつの悪さを感じながら口をへの字に結ぶ。
夏の終わりはまだまだ日が長い。退出したのが
西の空を
あのはるか
失いかけた大切なものを、昌浩は取り戻すことができた。だが、あの聖域を治める道反の
ずっと昔、見鬼の力を封じられた
だが昌浩は、その場面を見ていない。そして物の怪は、死んだと
自分たちのことで手いっぱいで、彼女の
「……もっくんは、さ」
「ん?」
肩に前足をかけるような体勢なので、物の怪には昌浩の顔が見えない。目を見て聞こうかとも思ったが、なんとはなしにそれもはばかられて、物の怪は後ろを眺めながら次の言葉を待つ。静かな昌浩の
「
物の怪の
「……憶えてるさ。忘れられるわけがない」
あの女がしたことは、どんなことよりも深く重く記憶の底に刻みつけられているのだ。
だが、物の怪は、
それをしたら、紅蓮もまた
物の怪の背を軽く
「ええと、俺」
剝き出しの敵意と殺意と、最後に見た血まみれの弱々しい
「すごく大変で、しんどいこともほんとにいっぱいあったから、よくもやったな、て思うんだけど、……でも」
長く白い耳がそよぐ。昌浩は彼方を見はるかすように目を細めた。
「それでも、それでも……、悲しいな、て思うんだ」
死んでしまったらそこで終わりで、やり直すことができなくなってしまう。
大切な人に会えなくなってしまう。大切な人の声が聞けなくなってしまう。こんなふうにあたたかな毛並みを
「どこで
息をつく昌浩に、物の怪はほろ苦い
「……それを、俺に
「何言ってんだ、もっくん悪くないじゃんよ」
力のない物の怪の言葉を
「もっくんも風音も、いろいろなことはしたけど。それはそうなんだけど。悪いのは、その原因を作った
「そんなふうに思えるようになったのは、つい最近になってからなんだけどさ」
平和の中で、静かに考える
すぐに心が軽くなるということはない。昌浩自身も、世界と
忘れないから、二度と同じ
「やっぱり初心に返るのって大事だと思うんだよねぇ」
「……そういうのとは違うと思うんだが」
「そうかな? あー、ちょっと違う? でもま、いいじゃない。最終的に間違ってなければ、真ん中が
めちゃくちゃな理論をまことしやかに打ち立てている昌浩の横顔を眺めて、
「ほんとお前、晴明の孫だよなぁ」
「孫言うな」
並んで歩き出した物の怪は、かすかな気配を感じて視線をめぐらせた。
「……?」
見られているような気がしたが、異形や
《六合、何か感じたか?》
物の怪は背後を振り返って
「六合?」
「ん? なに、六合どうかした?」
思わず立ち止まる昌浩も、物の怪に
いつもならそれを受けて
「もっくん、六合いるよね」
「いることはいるが……」
六合は
しばらくそうしていた昌浩と物の怪だったが、やがて
何か気に
あとで勾陣にでも、こういうことがあったんだけど、と訊いてみよう。彼女は同胞たちをよく見ているから、答えを導き出してくれるかもしれない。
そう決めて、話題を一番最初に
「勾陣たちが道反に行くのは明日だっけ?」
白い
「ああ。白虎の風で運んでもらうそうだ」
白虎と天一と
「そっか。うーん、明日か。やっぱり無理かなぁ」
難しい顔をする昌浩を見上げて、物の怪が目をしばたたかせた。
「本気で
月末にくわえて
ため息をついた昌浩は、それでも諦めのつかない風情で少し
こうなったら、勾陣に
そうすれば非礼に当たらないし、筋も通る。
よし、そうしよう。
うんうんと自分の中で
昌浩自身は思考が読まれていることにまったく気づいていない。
「勾陣が向こうにいるのって、ちゃんと快復するまでだよね。どのくらいかかるのかなぁ?」
「うーむ。あの聖域は、時間の流れ方が人界と
会話をしながら物の怪は、注意深くあたりを見回して先ほど感じた気配の主を探した。が、それらしいものは見受けられない。やはり気のせいだったのだろうか。
ふいに、ごく近くで
何気なく視線をやると、
物の怪が見ていると、もう一羽の鴉が羽音を立てながら
鴉は頭がよく、光るものを好む。昌浩は特にそういったものを持っていないから、すぐに興味をなくすだろう。
鳥はそろそろ見えなくなる時刻だ。あのままあそこで夜明かしするのかもしれない。
そんなことを考えながら昌浩の肩に飛び乗った物の怪は、背を叩いて
「ほれ、急げ急げ」
「なんだよもっくん、自分で歩けよなぁ」
「いーからいーから」
「よくないよ、まったく……」
不満げな昌浩の声は、鴉のあげた鳴号に搔き消される。
二羽の鴉は、小さくなっていく背を冷たい目で
◆ ◆ ◆
「それは、困る……」
真鉄の傍らにうずくまっていた灰黒の
「
「それは願い下げだ。なんとかして足止めをしなければ……」
思案するようにして
しばらくそうしていた真鉄は、やがて静かに息をつき、顔をあげた。
「───仕方がない」
「真鉄」
立ち上がる獣の頭をひと
「新たな魑魅を放つか。目を
「ときを
「ああ。一昼夜あればことたりるだろう」
それまで彼奴らの目を
「
「幸いにして
「では、
真鉄は灰黒の
「はじまるぞ、たゆら」
たゆらと呼ばれた獣は、
◆ ◆ ◆
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます