◆ ◆ ◆


 ざわざわと、数百もの木を打ち鳴らすような音をひびかせながら、すうじようもあるおお百足むかではぐるりと周囲をわたした。

 道反ちがえしの聖域は、百足が頭をもたげてもはしばしを見通すことができないほど広大だ。

 数ヶ月前にこの地をけがした黄泉よみしようは完全にふつしよくされて、清浄なれいと神気が満ちている。

 その際に、たまたまこの地をおとずれてじんりよくした十二神将ふたりを思い出し、百足はいきどおりを覚えて数百ついの足をざわざわと鳴らした。百足のげんを悪くしたのは、ふたりいた神将のうちの片方である。

 視界のすみに、青い屋根の宮が映る。その屋根を見つめていた百足は、ざわざわと足音を立てながら宮の前にその身を寄せた。

 小さな宮は、百足には入ることのできない大きさだ。道反の巫女は遠い昔人間であったので、それに合わせてこんりゆうされた。入ることはできないが、かべに造られた窓から中をのぞくことはできる。前足で障子を器用に開くと、ぎりぎり見える位置に据えられた方形の台座の上に、白い聖布がかけられていた。聖布はひとの形にふくらんでいる。

『…………』

 しばらくそうやっていた百足は、そっと障子を閉めて身をひるがえした。

 宮の近くを通るときなるべく足音を立てないようにというのは、づかいがそのまま習性になってしまったものだ。必要がなくなっても、それは変わらない。

 足音が届かないほどはなれてから、百足はようやくつうに歩き出した。ざわざわという足音が響く。昔は静かに足を運ぼうとして、よろめいてよこだおしになることが何度もあった。そんな日々がなつかしく思い出される。

 ざわざわと進んでいた百足を、呼ぶ声があった。

 足を止めて頭をめぐらせた百足は、中央のせい殿でんから顔を覗かせる蜥蜴とかげを見つけた。

『どうした』

『巫女がお呼びだ』

 身を翻す蜥蜴のあとにつづき、百足は同胞のとなりに並ぶ。

 道反の聖殿は、きよたいの守護ようたちが自在に出入りできるだけの大きさを持っている。広大な聖域において、彼らが入ることを許されているのはこの聖殿だけだった。ほかの建物はすべてひとの大きさに合わせてあるため、入りたくても入れないのである。

 さいおうの広間にたどり着いた二ひきは、あるじたる巫女が壁側を向いている様を見た。白い壁に、青くほの光る円がかんでいる。時折らめくそれは、安倍晴明の従える十二神将の水将が作り出す水鏡だった。

 青白い鏡面に、姿の老人の姿がある。その隣にはがらな水将とこんじきの髪をいあげた神将。確か、土将のひとりだ。

 鏡に向けてひとことふたこと言葉を発した巫女は、しようして頷いた。鏡面に映る老人が軽くしやくする。それを合図に、仄かな光が拡散し水鏡も消失した。

『巫女、いかがなされた』

 蜥蜴の問いに、り返った道反の巫女はおだやかに答えた。

「晴明殿どのより、いくつかのたのみごとをされました」

『頼みごと?』

 怪訝けげんそうな蜥蜴に、巫女は深く頷く。

「客人をむかえる準備をしましょう」


  ◆ ◆ ◆


 ゆうのあとで、彰子は昌浩の部屋を訪れた。

 こうやって自分の足でこの部屋に来られるようになったのもこの数日のことで、それまでは昌浩が足を運んでいた。

 夏の終わりなのでまだ暑気がある。しとみを上げた昌浩の部屋は夜風がよくとおった。だが、夜風は体にさわるものだから、風の当たらない場所に彰子はこしを下ろしていた。

「じゃあ、勾陣は出雲に行くの?」

 おどろきをかくさない彰子に頷いて、昌浩はかたわらの物の怪の頭をわしゃわしゃとで回した。

「うん。みんなに言われて、しぶしぶ折れてた」

 勾陣は常に冷静ちんちやくで大局をえる。だが、どうも自分がその対象になることに慣れていないようで、心地ごこちの悪そうな様子だった。そしてそれが、完全に復調していないことをはからずも実証していた。

「ひとのことはよく見えるくせに、自分のことにはとんちやくなんだ、あいつは」

「なるほど。でも、もっくんもそういうところあるよね」

 ぶちぶちと文句を並べていた物の怪が、心外なと言いたそうな様子で昌浩を見上げる。

「なんだと? どこがだ、どこが」

「結構たくさんいろいろ。だからきっと、もっくんが自覚ないのとおんなじように、勾陣も自覚がないんだよ」

 うんうんとしきりにうなずいている昌浩をすがめた目で見やって、物の怪は口の中でつぶやいた。

 それをいうならお前もだ。

 他愛ないやり取りをしている昌浩と物の怪を楽しそうにながめながら、彰子が首をかたむける。

「それで、いつ行くの? 出雲は遠いから、早くに出立するのかしら」

 彰子ののうに、出雲に出立する朝の昌浩の姿がよぎった。何かをめたような横顔に、しばらく声をかけられなかったのを思い出す。言いようのない不安が胸をめつけて、どうしても心が静まらなかった。

 あとになって、考えすぎだったと自分で自分がおかしくなったものだが。

「できれば早くにとみんなは思ってるみたいだけど……」

 物の怪の両前足の下に手を入れて白い体を持ち上げる。ばんざいするような体勢でどうがのび、投げ出された後ろ足の裏が屋根裏を向く。夕焼けのひとみが半眼になり、尻尾しつぽがぱたぱたゆかたたいて無言のこうをするのをもくさつし、昌浩は小さくうなった。

「実は俺もいつしよに道反に行きたいんだけど、きゆうが取れるかわからないんだよねぇ」

「昌浩も? ……何か、あったの?」

「えっ? ないない、なんにもないよ」

 問いに深刻な響きを感じ取り、昌浩はあわてて手を振った。つかまえられたままの物の怪が手の動きに合わせて揺すられる。

 おい、というどすのきいた唸りもなんのその、昌浩は物の怪の右前足をぱたぱたと左右に振って否定した。ここで、こら、という唸りが発されたがさらりと流される。

「考えてみたらちゃんとれいを言ってないんだよ。ほら、道反の巫女みこにもらった丸玉の……」

 それがなんのための神具なのかを彰子も知っていたので、ほっとしたように息をついて目を細めた。

「そういうことなの……」

「うん、だから心配しなくてだいじよう

 物の怪の両前足をぴょこぴょこと上下させる昌浩に、彰子は安心したみを向けた。やめんか、という物の怪の文句がどこかに消えていく。

 彰子を安心させることができたので、昌浩もほっと胸を撫で下ろす。ことあるごとに心を細らせているから、これからはできるだけそういうことのないようにしたい。

 いいように遊ばれている物の怪は、けんに幾つものしわを刻んだ。

「まーさーひーろー」

「ん? なに?」

 相変わらずぴょこぴょこと両前足を上げ下げしている昌浩に、物の怪は後ろ足をばたつかせながらふんぜんと抗議した。

「お前は俺をなんだと思っとるんだーっ!」

 じたばたあがく物の怪を高くかかげてぶらぶらさせながら、昌浩は首をかしげた。

「え、俺なにかやったっけ?」

「…………」

 無意識であったらしい。

 物の怪は心の底からだつりよくした様子で苦虫をつぶした顔をした。

「もっくん? どうかした?」

「……もういい」

「ん?」

 げんの悪い物の怪をひざに下ろし、頭をわしゃわしゃときまわす。

 そういえば、こんなふうにしてのんびり話をするのもずいぶん久しぶりだ。

「おのれ、ひとのことをいったいなんだと……」

 ふてくされる物の怪を撫でながら、昌浩は小さく笑った。

「そりゃあ、もっくんはもっくんだよ」


  ◆ ◆ ◆


 ぴちゃんと、しずくがみなに落ちた。

 ゆらゆらと広がるもんが幾つも生じる。それがしずまるのを待って、暗い水面に何かの姿が映った。

 映っているのは、子どもだ。烏帽子と直衣のうしの小柄な少年。何もいないところに向けて言葉を発している。少年の視線の先には、小さな生き物のうっすらとしたりんかくがかろうじて浮かび上がっていた。

 水辺に立ってそれを見つめていた者の背後から、声がした。

「──がね

 草をみ分けてくるのは、けものの足音だ。呼ばれた真鉄はちらとかたしに視線を向けた。

 それを受け、獣は低くのどを鳴らす。

「どうした。見えないのか」

「いや」

 かぶりを振って、真鉄は顔を水面にもどした。

 暗い水面には先ほどの少年の後ろ姿が映っている。

 真鉄のとなりに立って水面をのぞいた獣のりようがんが、あやしく光った。

魑魅すだまの目か。これは?」

「我らをはばしようへきだそうだ」

「ほう?」

 うっそりと細められた目に、ちようしようがにじむ。

「このちっぽけな子どもに、いったい何ができるという」

「さぁ?」

 ちようはつするような獣の言葉を軽く受け流し、真鉄は水面に手をかざした。

 水面がしつこくになり、別の映像をかび上がらせる。

 獣が興味深そうにして水面をぎようした。

「……これは?」

あらみたまよみがえらせるためのかぎだ」

 んだ水をたたえる湖。水面に映る、さざなみひとつない湖面を見下ろして、真鉄はうっそりと笑った。


  ◆ ◆ ◆


 翌日、いつものように出仕した昌浩は、いつもより少しおそくに退出した。

 こうでんが近いため、雑務が増えているのだ。

 それでも去年よりは要領が良くなったのか、それほどつかれることがない。

「成長してるんだなぁ、俺」

 自分自身に感心している昌浩に、物の怪があきれ半分の目でしようした。

「そりゃなぁ。成長しなかったら、日々の努力はどこに消えているのかということになっちまうわな」

「うん」

 こくりと頷いて、両手をわきわきと開閉させる。

 乞巧奠が過ぎたら多少はゆうが生まれるだろうから、そうしたら少しまとまった休暇を願い出ても許されるだろう。

 昌浩がそう言うと、物の怪はまばたきをして肩にひょいと飛び乗ってきた。

「まぁ、行って帰ってくるだけだったら三日もあればいいからな」

「だね。さすがにそれ以上は、ものいみとか行きれとかでもない限り、心苦しいし……」

 物忌はともかく、昌浩にとって行き触れなどはある意味日常はんだ。異形のものとそうぐうしたら身がけがれてしまうというが、毎日のようにざつと会話している身で、いまさら行き触れも穢れもあったものではない。

 それとも、雑鬼程度だったら行き触れにならないのだろうか。

 いやしかし、そもそも雑鬼などのあやかしただびとは遭遇しないし、第一見えないものなのだ。自分や祖父や彰子を基準に考えてはいけない。自分の周りにいる者たちはほぼ全員が見鬼なのである。見鬼はとくしゆな能力なのだ。それをきもめいじておかないと。

 首から下げている丸玉にころもの上から触れて、昌浩は難しい顔をした。見鬼の才がなくなってしまうとおんみようとしては非常に困る。だが、徒人はそれが当たり前なのだ。それに昌浩は、去年の春まで異形が見えなかった。

「ずっと見えないままだったのに、いざ見えるようになったら、見えないのがこんなにつらくなるんだもんなぁ……」

「ん? なんだって?」

 よく聞こえなかったらしいものが聞き返してくる。昌浩はり返した。

「ほら、去年の春までふうじられてたから、見えないのが当たり前だったのにな、と思ってさ」

 物の怪は合点がいった様子で瞬きをした。

「そうか。……もう一年以上、ってたか」

「うん」

 物の怪に笑いかけて、昌浩は目をなごませた。

「早いねぇ」

「そうだな」

 尻尾しつぽをぴしりと振る物の怪が、ついと目を細める。様々なことがまたたく間にのうけて、ほんの少しだけ胸の奥がきしんだ。

 忘れられない日々は、わずかずつだが痛みをにぶく遠いものにしていく。完全に消え去ることはなくても、ゆっくりとゆっくりとおだやかなおくになっていくのだろうか。

 そんな日が来るのだとしても、それははるか遠い未来なのだろうが。そして、いま隣にいるこの子どもは、そのときにはいないのだ。

 物の怪のひとみいつしゆんだけれた。

 さびしさというものは、実はとても身近にあるものなのだった。

「……もっくん、なんだか痛そうな顔してる。どうした?」

 はっと視線を向けると、心配そうな様子の昌浩がいた。

 物の怪はかぶりを振った。がらにもないことを考えていたから、余計なづかいをさせてしまった。

「なんでもないって。あれだ、あんなに半人前でたよりなかったお前が、まだまだ要しゆぎようと晴明になげかれつつもなんとかやってきたんだなぁと、かんがいにふけっていたわけよ」

 わざとおどけた口調で言うと、昌浩のけんにしわがよる。物の怪はにやりと笑った。

「ま、がんれや、晴明の孫」

「孫言うな!」

 くわりときばく昌浩のせいすずしい顔で聞き流し、物の怪はひょいと飛び降りた。ぽてぽてと歩く足取りは軽い。

「孫は孫だからなぁ」

「うるさいっ」

「そういうところがまだまだなんだよなぁ」

「うるさいったらうるさいっ、物の怪の分際で!」

「俺は物の怪とちがうっ!」

 反射的に本気で反論する物の怪を見下ろして、おんぎようしている六合が肩をすくめる気配がした。

 それを感じた昌浩は、ばつの悪さを感じながら口をへの字に結ぶ。

 夏の終わりはまだまだ日が長い。退出したのがとりの刻過ぎだったのに、東の空がじわじわとあいを帯びはじめている程度だ。

 西の空をながめて、昌浩は目を細めた。

 あのはるか彼方かなたに、道反の聖域がある。

 の地にはたくさんの思い出があって、そのひとつひとつは胸に痛い。けれども、それを乗りえたからいまがあるのだということもわかっている。

 失いかけた大切なものを、昌浩は取り戻すことができた。だが、あの聖域を治める道反の巫女みこや、彼の地を守る守護ようたちは、大切な存在を失ったのだ。

 ずっと昔、見鬼の力を封じられたころ。昌浩を池にき落とそうとした妖を放ったのは、道反の巫女のむすめだった。

 いつわりを教え込まれて、疑うことを知らずに生きたあの女性は、黄泉よみしようへんぼうした化け物にめいしようを負わされて、そのまま息絶えたのだ。

 だが昌浩は、その場面を見ていない。そして物の怪は、死んだとひとづてに聞いただけで、実際に何があったのかをいまだによく知らない。

 自分たちのことで手いっぱいで、彼女のさいに心を向ける余裕がなかったことも一因だ。

 しんみようおもちで手をのばし、物の怪をかかえ上げた昌浩は、考えながら口を開いた。

「……もっくんは、さ」

「ん?」

 肩に前足をかけるような体勢なので、物の怪には昌浩の顔が見えない。目を見て聞こうかとも思ったが、なんとはなしにそれもはばかられて、物の怪は後ろを眺めながら次の言葉を待つ。静かな昌浩のこわがそうさせた。

かざおぼえてるよね」

 物の怪のどうがどくんとね上がる。大きくみはられた夕焼けの瞳がくうを見つめ、やがて弱々しくせられた。

「……憶えてるさ。忘れられるわけがない」

 あの女がしたことは、どんなことよりも深く重く記憶の底に刻みつけられているのだ。

 だが、物の怪は、れんは。風音にされたたくさんのことを憶えていても、彼女を本当の意味で断罪することはできない。

 それをしたら、紅蓮もまたしよくざいを求められる。救いのないやみの中で、たがいを果てなく傷つけあうようなものだ。

 物の怪の背を軽くたたいて、昌浩は言葉を探しているようだった。

「ええと、俺」

 剝き出しの敵意と殺意と、最後に見た血まみれの弱々しいたい。残る力をしぼって行くべき道を示したのは、おのれの流した血潮にあかく染まった細い指だった。

「すごく大変で、しんどいこともほんとにいっぱいあったから、よくもやったな、て思うんだけど、……でも」

 長く白い耳がそよぐ。昌浩は彼方を見はるかすように目を細めた。

「それでも、それでも……、悲しいな、て思うんだ」

 死んでしまったらそこで終わりで、やり直すことができなくなってしまう。


 大切な人に会えなくなってしまう。大切な人の声が聞けなくなってしまう。こんなふうにあたたかな毛並みをでて、背を叩いて、名前を呼んで答えが返る、そんな当たり前がなくなってしまう。

「どこでくるっちゃったんだろう」

 息をつく昌浩に、物の怪はほろ苦いみをかべた。

「……それを、俺にくか」

「何言ってんだ、もっくん悪くないじゃんよ」

 力のない物の怪の言葉をあざやかに否定できるのは、それが昌浩の中にあるたったひとつの揺るぎない真実であるからだ。

「もっくんも風音も、いろいろなことはしたけど。それはそうなんだけど。悪いのは、その原因を作ったやつ。……でも、まぁ」

 あいまいな言い回しをしながらかりかりと頭をいて、昌浩はつけ加えた。

「そんなふうに思えるようになったのは、つい最近になってからなんだけどさ」

 平和の中で、静かに考えるゆうが生まれて、いろいろなことを思い返して、自分なりに出した結論だ。

 すぐに心が軽くなるということはない。昌浩自身も、世界とはかりにかけて紅蓮にとどめをした事実を胸の奥に刻んでいる。それを忘れられるわけはないし、忘れたいとも思わない。

 忘れないから、二度と同じあやまちをおかさないようにと、考えることができるのだ。

「やっぱり初心に返るのって大事だと思うんだよねぇ」

「……そういうのとは違うと思うんだが」

「そうかな? あー、ちょっと違う? でもま、いいじゃない。最終的に間違ってなければ、真ん中があやしくてもなんとかなるもんだよ」

 めちゃくちゃな理論をまことしやかに打ち立てている昌浩の横顔を眺めて、ものあきれた風情ふぜいで息をつく。

「ほんとお前、晴明の孫だよなぁ」

「孫言うな」

 たんげんそうになった昌浩のかたをばしばし叩き、そのままひょいと飛び降りる。

 並んで歩き出した物の怪は、かすかな気配を感じて視線をめぐらせた。

「……?」

 見られているような気がしたが、異形やあやかしたぐいではないようだ。

《六合、何か感じたか?》

 かたわらにずいじんしているはずのどうほうに向けた問いに対する返答は、予想に反してなかった。

 物の怪は背後を振り返ってまゆを寄せる。

「六合?」

「ん? なに、六合どうかした?」

 思わず立ち止まる昌浩も、物の怪にならってかえりみる。完全に隠形している神将の姿は、相当のけんでもとらえることが困難だ。物の怪の視線の先にいるのだろうとあたりをつけて見上げる。

 いつもならそれを受けてけんげんしてくる六合が、今日はなぜか姿を見せなかった。

「もっくん、六合いるよね」

「いることはいるが……」

 ちんもくしている。

 六合はきよくたんもくな男だが、ここまで無反応というのもめずらしい。必要最低限の言葉くらいは返してくる奴なのだが。

 しばらくそうしていた昌浩と物の怪だったが、やがてあきらめた様子で身をひるがえし、歩き出した。

 何か気にさわることを言ってしまったのだろうか。だが、思い返しても心当たりがない。

 あとで勾陣にでも、こういうことがあったんだけど、と訊いてみよう。彼女は同胞たちをよく見ているから、答えを導き出してくれるかもしれない。

 そう決めて、話題を一番最初にもどした。

「勾陣たちが道反に行くのは明日だっけ?」

 白い尻尾しつぽをぴしりと振って、物の怪はうなずいた。

「ああ。白虎の風で運んでもらうそうだ」

 白虎と天一とげんが同行することに決まっている。玄武は以前六合とともに道反の聖域におもむいたことがあるので、ほかの者より慣れているだろうということだった。

「そっか。うーん、明日か。やっぱり無理かなぁ」

 難しい顔をする昌浩を見上げて、物の怪が目をしばたたかせた。

「本気でいつしよに行くつもりだったのか? それはさすがに、急すぎるだろう」

 月末にくわえてこうでんひかえているおんみようりようは、いつもよりせわしない。

 ため息をついた昌浩は、それでも諦めのつかない風情で少しうなった。

 こうなったら、勾陣にさきれの任を務めてもらおうか。昌浩がまとまったきゆうを取れる日程をかくにんして、そのくらいの時期にお訪ねしますと道反の側に伝えてもらうのだ。

 そうすれば非礼に当たらないし、筋も通る。

 よし、そうしよう。

 うんうんと自分の中でなつとくした昌浩を、物の怪が興味深そうにながめている。昌浩は考えていることが表情に出やすいので、ある程度は予測がつく。

 昌浩自身は思考が読まれていることにまったく気づいていない。

「勾陣が向こうにいるのって、ちゃんと快復するまでだよね。どのくらいかかるのかなぁ?」

「うーむ。あの聖域は、時間の流れ方が人界とちがうからなぁ」

 会話をしながら物の怪は、注意深くあたりを見回して先ほど感じた気配の主を探した。が、それらしいものは見受けられない。やはり気のせいだったのだろうか。

 ふいに、ごく近くでからすの鳴き声がした。

 何気なく視線をやると、へいの上にとまった鴉がつばさをばたつかせている。鴉の声はおどろくほどひびくので、やけに大きく聞こえたのだ。

 物の怪が見ていると、もう一羽の鴉が羽音を立てながらい降りてきた。きよを置いて塀にとまった二羽の鴉は、そうほうとも自分たちを見ているようだった。

 鴉は頭がよく、光るものを好む。昌浩は特にそういったものを持っていないから、すぐに興味をなくすだろう。

 鳥はそろそろ見えなくなる時刻だ。あのままあそこで夜明かしするのかもしれない。

 そんなことを考えながら昌浩の肩に飛び乗った物の怪は、背を叩いてかした。

「ほれ、急げ急げ」

「なんだよもっくん、自分で歩けよなぁ」

「いーからいーから」

「よくないよ、まったく……」

 不満げな昌浩の声は、鴉のあげた鳴号に搔き消される。

 二羽の鴉は、小さくなっていく背を冷たい目でぎようしていた。


  ◆ ◆ ◆


 魑魅すだまの目を通してそれを見ていた真鉄は、険しさのにじんだ目をして低く唸った。

「それは、困る……」

 真鉄の傍らにうずくまっていた灰黒のけものが上半身を起こす。

彼奴きやつらがこの地に来るとなると、せんの示したとおりになるな」

「それは願い下げだ。なんとかして足止めをしなければ……」

 思案するようにしてあごに指を当てた真鉄は、せがちの目でみなへいげいする。

 しばらくそうしていた真鉄は、やがて静かに息をつき、顔をあげた。

「───仕方がない」

「真鉄」

 立ち上がる獣の頭をひとでして、真鉄は身を翻した。

「新たな魑魅を放つか。目をそむけさせるために」

「ときをかせぐのか」

「ああ。一昼夜あればことたりるだろう」

 それまで彼奴らの目をらし、そのすきに目的をすいこうする。

め入るための手はずは」

「幸いにしてかべもろくなっている。いまたたけば造作もないはずだ」

「では、みなを集めよう」

 真鉄は灰黒のごうもうおおわれた獣の頭を撫で、木々のはざに広がる山野を見やる。

「はじまるぞ、たゆら」

 たゆらと呼ばれた獣は、のどの奥で低く唸った。


  ◆ ◆ ◆




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