常夜

北見 柊吾

月もまた見えぬ夜

 あぁなんだ、君だったのか。


 いやぁびっくりするじゃないか。

 時計を見たまえ、もう丑三つ時も過ぎている。

 場所が場所だからなぁ、幽霊を思わず疑ったよ。


 ははっ、まったく。来るなとあれだけ言ったのに。君もしょうがない奴だ。

 おっと、小雨が降ってきた。まあまあそう慌てなくてもいいだろう。たまに雨に濡れるのも自分の小説に書く経験としていい影響を与えるかもしれないじゃないか。

 しかし、空を見上げてみるがいい。今宵もまた月さえも見えないもんだ。


 うん?なんだね。何も怪しくなんかないさ。見ればわかるだろう。

 なんて事はない。通っていた高等学校がこの辺だったとは言っただろう。高等学校の知人は大抵このあたりに住んでいるのでな。ただ昔関わりのあった知人の墓参りさ。


 まぁそうかそうか。人目をはばかって来ているようにも見えなくないだろう......実際、そうなのかもしれんしな。


 いやぁ独り言だ。大したことじゃない。気にしないでくれ。

 まぁしかし、そんなに気になるもんかな。例え本当に人目を憚るように墓参りに来ていたとしても。


 そんなに気になるのならば話してやらなくもないが、大して面白くもないと思うぞ。自分で言うのもなんだが、聞くに耐えない話だと思うがね。

 ただ、今でも思い出すよ。生憎、此奴のことは色々とよく覚えているもんで。懐かしいなぁ。特に、今宵のように月も見えない夜は、なぁ。


 あぁいやいや、少し昔の思い出に酔いしれてしまっていた。それでは一緒に宿まで帰ろうではないか。一応墓参りも終えたことだし。いやぁ大丈夫だ、大丈夫だ。手を合わせるだけでいい。水なぞ掛けなくてもいいだろう。花も持ってきたのが何故かさえ分からない。

 あぁ此奴との思い出話を聞きたいか。その話は是非歩きながらにしよう。

 そうだ、近くに誰も知らないような夜明けの名所があるんだが、行かないか。僕も久々だ。何年ぶりだろう。卒業以来行っていない。しかし、綺麗な夜明けが見られるんだ。なかなかの絶景だよ。見ておいて損はない。多分未だに誰にも知られてない場所なんだが。

 おぉ、では行こう。当時の僕のお気に入りの場所だ。多分この辺に住んでいる人でもなかなか知られていない穴場というやつだからね。

 では、丁度いい。そこに辿り着くまで僕と此奴の話をしよう。




 昔、僕がまだ高校に通っていて、若造だった頃の話だ。


 僕はこの近くの山にある小さな村の生まれだという事は昼に皆にも話しただろう。僕はそこでは村一番の秀才だった。

 通っていた高等学校はこの近く、すぐそこの道を曲がってしばらく歩いて川を越えたところにあったのだ。まぁ先刻行ってみたら、もう既に廃校になって役場へと変わっていたが。


 話が逸れたな。元に戻そう。

 高等学校に入った僕はすぐに本に没頭した。なにせそれまでは家が貧しかった事もあって、本など殆ど読んだ事もなかった。

 そもそも僕の生まれた村に入ってくる本は村一番高齢の原の婆さんが営んでいる雑貨店に月に二、三冊並ぶくらいだった。その本も農業や林業に関する参考書ばかり。僕が読む本などはなかったよ。酷いもんだろう。

 都会に一度出てみれば、本屋自体も沢山あった。一軒でさえ読みきれないほどの色々な本が無数にあった。僕はただ単純に嬉しかった。

 ましてや世にこんなにも本の種類があるとは思いもよらなかった。いい意味で裏切られた気分だった。

 うーん、そうだなぁ、今にしてみれば思うよ。ただ単に想像力の足りない子供なだけだった。まぁそりゃそうだ。世界は広い。小さな村出身で世間というものを知らなかった僕でも自分の住んでいた村なんてちっぽけなものであることは分かっていた。それでも、村がそれまでの僕の世界の総てであったことは間違いない。


 村の小中学校なんぞに当然の如く図書室のようなものは無かった。僕はひたすらに本を読むことができる悦びを噛み締めた。


 僕は授業の合間や放課後の度に図書室に入り浸った。そこで僕は百々瀬に初めて会ったのだ。

 百々瀬、そう先程僕が参ったあの墓で安らかに眠っている輩だ。


 彼奴は何時行っても図書室にいた。


 田舎の小さな学校から新しく出てきた僕みたいな者はなかなか都会の学校に馴染めなかったこともあって、友達もなかなかできなかった。入学すぐに図書室に入り浸るようになったのだ。すると、わかるだろう、毎日五、六度も顔を合わせる百々瀬とは次第に色々な話もするようになって、僕は誰よりも百々瀬と意気投合した。まぁ文学にのめり込んで日の経たない文学少年なんぞは案外簡単に文学少年、という類いの仲間を作りたがるもんだと多少僕は今でも思い続けている。


 僕も彼奴も小説が好きだったし、僕も彼奴も丁度自分で書いてみようともしていたところだった。


 なんの事はない。本好きの高等学校生なんて、当時ならそんなものである。僕以外でも女子が何人も、図書室で自作の小説を書いて読みあっていた。僕も当時、授業なんてそっちのけで原稿用紙に書いていた。


 そのうち僕が百々瀬が小説を書いてあることに気付いて、ふたりとも書いている事をお互いに打ち明けて見せあうようになった。初めて見せあった時だったな。僕の小説を一読した彼奴は突然言い出したのだ。

 俺達はまだ文章自体も上手くない。だから暫くふたりとも書き溜めて力をつけよう。そうしてその後ふたりでともに文学賞に応募しよう。僕もそれを聞いて胸が高鳴るのを感じた。僕と百々瀬は強く手を握りあってそう約束したのだ。


 はははっ、その時百々瀬に見せた小説か。あれは処女作だったか。あれももうとうに棄てたよ。後で読み直して、自分の文章の拙さに呆れ返ってな。あぁ、[邂逅]っていう原稿用紙十枚くらいかな、短編小説だった。

 知りたがりだなぁ。それも別に没作品だよ。

 なるべく簡潔に言えば、戦争で離ればなれになった幼馴染の男女がいてなぁ。男は敵軍に捕まって奴隷となって、敵軍の偉い奴の妻になっていた女と再会するという話だ。

 大して面白くもない。勿論今でも売れないだろう。今思い起こしてもどう足掻こうが上手くいきそうにない小説のひとつだ。


 そんな作品しか書けなかったから、僕はことごとく賞に応募しても一次審査も通らなかった。

 あぁ、百々瀬には内緒で何度も文学賞には作品を提出したよ。百々瀬に何度も何度も推敲を重ね重ね頼んでね。まあまあ自信はあったからなぁ。二、三回出せば賞くらいは取れるだろうくらいの気分だった。それでも、当然の如く通らなかった。当時僕は何故落ちるのか全く理解できなかった。若かりし頃、僕は井の中の蛙だった。蛙といってもまだ後ろ足が出ていたおたまじゃくし程度だろう。井の中の後ろ足生えたおたまじゃくしだ。いや、なんでもない。変な創作慣用句は忘れてくれ。なにせ元村一番の秀才であったから、そんなことに気付くことができるはずもなかった。

 それから僕は、賞を取れない自分の作品と才能に不甲斐なさともどかしさを感じるようになった。これなら賞を取れるだろうと確信するくらいの出来だったものがまったく評価されない。精神的にもやられた。早い話が書けなくなったのだ。物書きならあるだろう。無名の頃、なかなか芽の出せずに自暴自棄になる時期が。君もあったなぁ。あんな感じだ。しかも、百々瀬の約束を破ってまで出していたものだから、勿論百々瀬にも相談もできなかった。罪悪感が芽生えていたころでもあったろうしな。しかし、本来ならその経験が将来いい小説を生みだす糧となるのだが。今の君があるのも、あの経験があるからだろう?


 それから暫くして、あれは二年の夏だったと思う。百々瀬が文学賞に応募しようではないかと言い出した。丁度百々瀬はその時、処女作を完成させたらしかった。僕と違って丁寧に書くやつでもあったし、何より彼奴の書く小説はいつでも長編だった。

 あぁそうだね、少し意外だったかもしれんな。今でこそ僕の小説は長編だが、高等学校時代、私の小説は短編ばかりだったのだ。というか、短編しか書けなかった。

 そして、数日後に彼奴は自分の処女作である[吉原の女達]という長編小説を、僕は[母ひとり子ひとり]という短編小説をその夏にあった大きな文学賞に応募した。

 聞いたことないかな、この題名は。まぁ君も生まれる前の出来事だろう。彼奴の[吉原の女達]は審査員特別賞のような、それなりに優秀な賞を取ったのだ。

 文章にところどころ高校生らしい拙さはあるものの、作品や構成自体は名作に引けを取らないとても素晴らしいものである、といったような評価を貰ってきた。そう、なかなか素晴らしい高評価を文壇から得ていたのだ。正直に言おう、あの時は羨ましい気持ちでいっぱいだった。


 僕はそれから百々瀬を恨んだ。自分がどれだけ頑張っても手が届かなかった文学賞という称号を彼奴はいとも簡単に手に入れたのだ。気持ちは分かってくれるだろう。約束を裏切ってまで応募していた自分が何度も惨めに思えた。陰で何度も吐いたし何度も泣いた。

 だが、彼奴は謙虚だった。賞を取れなかった僕にも今まで通りに接した。僕にしてみれば、その方がやるせなかった。僕の小説を何度も読んで何度も批評した百々瀬に言わせれば、その時応募した[母ひとり子ひとり]は文章の上手うまさが際立っていると言った。それが彼奴なりの慰めの言葉らしかった。しかし言葉を裏返せば内容が薄いと言われていたのだ。その言葉を聞いた僕は同時に何かがけたたましく崩れる音を聞いた。

 今思い返して客観的に見ると、百々瀬は一番波風の立たない選択肢を選択していた。

 僕はその時百々瀬になにかして欲しかったわけじゃない。慰めてほしかったわけでもなければ、そっとしておいてほしいわけでもなかった。百々瀬がどの選択肢を選んで慎重にも大胆にも行動していたとしても、どっちにしても恨んでいただろう。そうだろう、分かってくれるかい。人間なんて、所詮そんなもんだ。僕の人間性が悪いんじゃない。これが人のさがだ。本性というものだ。人間の本性はこういう時に出るのだろう。あの時の僕と同じように。


 ところで僕はその後、百々瀬が当時書いていた[傷を癒す天使ないちんげーる]という作品に強く惹かれた。彼奴の十作目とかだとおもう。いや、別に大したことはない話だ。特に意味はない。題名が?いや何もない。気にするな。気にするな。話を続けよう。


 彼奴はその後、その評価によって自信もつけて更に書く事に没頭した。書く速さは格段と上がった。あの高等学校を卒業するまでに二十六もの作品を書いた。なかなかの本数だろう。彼奴は本当に才能に満ち溢れていた。


 素晴らしい輩だったよ。ただな、僕は彼奴の事をその夏から少しずつ嫌うようになった。謙虚だったからなんていう陳腐な理由じゃない。彼奴は度を超えた素晴らしくいい奴だった。俺は一旦賞を取れたから、俺も協力してやる、ふたりで一緒に頑張って今度は君が賞を取るのだ、と言った。その為に俺は君が賞を取るまで一作品も出さないとまで言い出した。

 それからすぐに彼奴は有言実行した。僕が今まで通りに小説を書いて持ち寄って、それを基本に百々瀬がここは直した方がいいと赤く入れていくというものだった。

 何度も僕は彼奴の推敲という手伝いのもと、小説をまた幾つもの文学賞に提出した。返ってくる結果は無かった。どれも落選しかなかった。僕がどれだけ努力を重ねようとも更に悪い結果にしかならなかった。


 僕は更なる窮地に追いやられた。百々瀬が賞を取っていった時よりも更に強く落ち込んだ。横で受賞経験者が僕の落ちた小説を読み返してうーんとずっと唸っているんだ。唸りながら彼奴は何度も新底悔しそうな顔と不思議がる顔をした。何故か僕が悪いような気分にさせられた。その顔はさも俺が手伝っているのに、と言いたげにしていた。

 長編だから賞を貰えたのではないかと思い込んで長編を書こうと奮闘したこともあった。まぁ失敗したけどな。[五十音のでき方]だったか。寺子屋で習う子供が先生に五十音の成り立ちを聞くというテイストでそれをいわゆる五十回繰り返す。ただそれだけの面白みも無ければ支離滅裂な内容の小説だった。あれは百々瀬にさえ見せもしなかった。

 それがその後卒業まで続いた。だから何回応募しただろうなぁ。1年半か。応募できうる限りの賞すべてに送って毎回毎回今度こそはと期待して、落選という結果でまた百々瀬に対しても縮こまる。この期間は本当に辛かった。そのせいだろう。高等学校時代はその辛辣な思い出しか僕には思い出すこと自体ができない。


 うん、あぁなんで彼奴が死んだのか?大丈夫、安心したまえ。話はこれからそこへむかう。


 三年の春、僕達は無事に卒業することとなった。百々瀬には何度も本を出す話があったようだが、頑なに次の作品を断ったせいもあって、文壇の関係者からの受けは悪くなっていたらしかった。

 卒業式が終わった後、百々瀬は皆と酒を飲んでいた。あの受賞の一件以降、段々暗く変わった僕と違って、受賞してから百々瀬に対する級友の態度も変わり、百々瀬には明るい大勢の仲間ができていた。賞というものはやっぱり大きい意味を持つのだ。知っていたことが強く実感した。

 その日、級友の誰かの家が営む居酒屋で、僕はその宴会中ずっと百々瀬の隣で肩身が狭く縮こまっていた。

 級友達は代わる代わる百々瀬を褒め讃えた。そこには将来に対して明るい言葉ばかりが並んでいた。凄い。素晴らしい。是非とも読ませてくれ。まだ高等学校生なのに。才能がある。将来は有望だ。天才だ。秀才だ。文豪だ。有名人だ。今のうちにサインをくれ。百々瀬先生。百々瀬先生。百々瀬先生、次回作は。

 百々瀬も酒がまわって酔っていたし、次回作は既に出来ていると豪語した。周りはおぉーっとさらに盛り上がる。ちょっと盛るものなら級友達はいい反応を見せてくれる。百々瀬も次第に気分もあげていった。

 次回作は前回を越える出来だ。おぉーっ。次回作で僕は本を出す。おぉーっ。もう既に出版社に内定されている。おぉーっ。百々瀬が口を開ける度に大きくなる歓声は僕に上を向かせる機会を与えなかった。

 僕は何も飲まなかった。何も喉を通る気がしなかった。ただただ百々瀬が褒められて乗せられていく度に唇を噛んだ。酒を飲んで忘れようという気になれなかった。


 その夜中にその会がお開きになった後、僕は彼奴に酔いを醒ましに歩こうと誘われた。僕も賛同してついていくことにした。百々瀬はずんずん進んでいった。鼻歌さえも歌った。僕は腫れあがって痛む唇を押さえながら離れまいと懸命に彼奴の後を追った。百々瀬は酒に酔っていたのもあって、道中ずっと文豪になるという将来の夢を語っていた。百々瀬は明日には出版社に送り始めると言った。

 俺は君を手伝う間、君の手伝いなど全く頭になかった。ひたすら書き溜めていた。なんと聞いてくれたまえ、二十五もの小説を新しく書きあげたのだ。しかもすべて長編さ。大体ひとつ平均四十枚くらいか。何度も推敲を重ねたからかなりいい出来に仕上がっているはずだ。先程皆に言った通り、賞は取れるだろうし、出版社から話はすぐにでも来るだろう。別に嘘を言ったつもりもない。未来におこる現実だ。それら俺の自信作はすべて君には見せなかったが、俺の自室の机の引き出しに入っている。

 今後、明日からか。君とは違う道を歩むなぁ。いやはや君には失望したよ。いや、正しく言えば失望していたよ。最初に君の小説を読んだ時から。あれはなんだったっけなぁ。面白みもなにもなかった。[邂逅]だ、それだそれそれ。あっはははっ、その時思ったよ。あんなに分かりにくく酷い物語なんぞ見たことがない。いや、物語に失礼だな。あんなに屑の文章の羅列なんぞ見たことがない。あれが君の物語?あっははっ、君には才能というものはまるでない。諦めるんだな。俺は君の友人から言おう。感謝してよく聞くんだな。君には文豪なんぞ、ましてや本を出すことなど無理だ。生まれ変わって才能を貰ってくるんだな。

 しかし、良かったよ。到底小説は書けないような奴だが、れっきとした文章の綺麗さはあった。僕に足りなかったものだ。ありがたい。俺が友人という立場にありさえすれば、俺が友人を演じ続ければ、君は添削してくれる。確実に君には利用価値があった。

 いやぁそれでもこの一年半はひたすら苦痛以外のなにものでもなかったな。なぁ?わかるだろう?なにせ才能の欠片もない奴の文章をただ何度も何度も読ませ続けられる。友人の演技の為に書いていることをあまり言えないから、俺の文章は箇所箇所でしか添削されない。上手いこと少しでも添削してもらうのは苦労したよ、まったく。それに比べてどうだ、君の文章はただ上手いだけ。それを推敲してくれ?笑わせるな。のぼせあがるのもいい加減にしてくれ。

 そんな感じだったな。そんなようなことを延々と僕は彼奴に言われ続けた。いわゆる卒業前に言い残したことは全部言っておくという感じだった。僕は陽気に歩く彼奴を涙を流しながら追いかけた。何度も足は止まりかけた。ただなんとなく、そこで足を止めてしまえば、僕の中ですべてが終わる気がした。


 暫く歩いていくと、人が寄りつかないような崖があった。そこからの夜明けはまさしく素晴らしいものだった。山から橙色の光が空に広がっていく。綺麗だった。少し前で百々瀬は食い入るようにその陽を見つめていた。瞳は純粋な少年のようだった。確かに夜明けは美しかった。それでも、何かが違っていた。この場所は僕には真の綺麗な夜明けを見せてくれないような、そんな気がした。

 百々瀬は僕に、俺しか知らない穴場の名所だと語って、そこから陽に向かって夢を大声で叫んだ。

 百々瀬なら叶えられそうな夢だった。僕なら到底叶えられなさそうな夢だった。


 さぁ、着いた。此処が彼奴が叫んだその崖だ。夜明けより前に着くことができたようだね。ちょっと話していれば、すぐ陽は昇ってくるだろう。この場所は、今度は僕にも綺麗な夜明けをみせてくれるだろうか。いや、答えは分かりきっているんだが。


 あぁ彼奴の最期がどうなったのか、何故死んだのか、その話が終わっていなかった。僕が彼奴の生きている姿を見たのは、卒業式の後のその時に此処で叫んでいる様子を見たのが最後だ。

 この崖の下に小川が流れているだろう。見えるかい。どう流れていくのかは知らないが、僕達の卒業した高等学校にある恋池に流れていくの。鯉が泳いでいるから鯉池だったのだが、そのうち其処にある小さな橋で告白すると成就するとかいう、くだらない伝説のある池だ。

 その恋池で卒業式の次の日の夜に百々瀬の死体は浮かびあがっていた。死因は溺死だったそうだ。死亡推定時刻も昨晩だし、あちこち打撲していたから、だいぶん遠くから流されたのだろう。そう警察は言っていたのを僕はよく覚えている。


 あぁ、そう。崖に血の跡が付いているかい。人は皆来たことすらないだろうこんな崖だ。多分百々瀬、彼奴の血だろう。いやぁそんなに青ざめなくてもいい。多分だ。単に可能性の話だ。飛び降りたら簡単に自殺できる高さだ。人生に失望した誰かが自殺したかったら此処に来るのかもしれないじゃないか。


 さて、もうすぐ夜も明けるだろう。

 ここから君にはいい事を教えてあげようではないか。

 百々瀬は賞を取った[吉原の女達]以外の二十五作品を発表する事のないまま、死んでしまった。それらの作品は彼奴が僕に語った通り、すべて彼奴の自室の机の引き出しの中で大切に保管されていた。あぁ全部素晴らしいものだよ。多少文章の拙い箇所をなおしさえすれば馬鹿のように売れた。確かに賞なんて幾つも取った。出版社もすぐに食いついた。


 よし、さらにいいことを教えよう。もはや答えにはあと一歩というところまで。

 僕がこれまでにこの名前で世に生み出してきた作品の数は二十五。そして僕は──君も知っていることだが──今まで出した二十五本で作家を引退することを決めた。理由はもう作品を生み出すことができない、物書きとしての能力の衰えだ。実際のところ、次回作はどう頑張ってもただ達筆な駄作にしかならない。僕の売りであった長編でもなくなってしまう。


 さて、これで話は終わりだ。

 懐かしい話ができたよ。この話を人に話したのはこれが初めてだ。ありがとう。とても楽しかった。昔を色々と思い出すことができたしね。

 しかしながら、この話は門外不出だ。当然か。知れ渡ってはいけない話だからな。僕の作品が売れなくなる。


 あぁ空を見上げてみろ。今宵も月さえも見えないもんだ。真っ暗だ。


 まるであの日のように。




 あぁまた手が滑った。




 さよならだ。

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