16話 夢でもなければ幻でもない

 見慣れた部屋の風景にいるのは、僕だけだった。カーテンの隙間からは太陽が差し込み、ベランダではスズメが鳴いている。いつも通りの朝だ。

 僕はヨウの名前を呼ぶ。あったはずの温もりを取り戻そうとする。

 しかし、どこからも彼女の返事は返って来ない。僕はベッドから起き上がった。

 風呂場を覗き、トイレをノックして、それからベランダを見やる。けれどいくら探しても、彼女の姿はない。彼女がいたらしき痕跡もなかった。彼女はこの部屋に何も残していかなかったのだ。置き手紙もなければ、あのときのように髪留めもない。昨日のことを事細かに思い出した。もちろんそれは夢でもなければ幻でもない。彼女の唇の感触はまだ残っている。

 自分自身の唇をなぞりながら、彼女を強く求めていることに困惑した。それは僕の全身を包み込むほどの大きな欲求だった。


 僕はテレビをつけて気を紛らわそうとした。ちょうどそのとき朝のニュースがやっていた。どこかの遠い田舎町で起こった殺人事件が取りざたされていた。僕はその内容を頭の中に押し込もうと努力した。画面のテロップを何度も読み返し、アナウンサーの単調な言葉に耳を傾ける。しかし、僕の頭はその一片すらも受け付けてはくれなかった。

 僕は舞の携帯電話に通話をかけた。胸の中に湧いた空白をなんとして埋めなければならないと思ったのだ。


3コール目に彼女は出た。

「どうしたの?」

「今から会えないかな?」と僕は言った。「少しでもいいから」

 彼女はしばらく考えているようだった。電話越しには車の走るような音が聞こえた。

「朝の講義には出なきゃいけない。午後はサークルがある。その後は薬局のアルバイト。何か大事な話?」

「いや、いいんだ。ちょっと声が聞きたかっただけだから」

 少しの沈黙があった。

「また、今度でいい? 近いうちに時間を取るようにするから」

「ありがとう」

「ねえ、何かあった?」と舞は尋ねた。

「大丈夫。なにもないよ」

 どうやら、しばらくこの空白と付き合わなければならないようだ。僕は携帯電話をベッドに放り投げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜の月は静かに語る 影月深夜のママ。 @momotitukumo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ