蝉の恋

紀(のり)

第1話

 お父様、お母さま、私はおふたりに謝らなければならないことがふたつございます。ひとつはこの手紙を読んでらっしゃるということはお分かりでしょう。親より先立つ無礼をどうか許してくれとは申しません。存分に私を恨んでください。そして、もうひとつ、折角おふたりが私を心配して医師を呼び、薬を出していただいたにも関わらず、それをただ一度も口にしなかった無礼をお詫び申し上げます。

 きっとおふたりは、何故私がこのような行動に至ったのか理解できないでしょう。当然でございます。そのきっかけは二か月前、一年間居候させていただいた高橋様のお屋敷から私が最期を迎えるこの平山家に戻る汽車のなかで起こったのです。

 私は汽車の中で桜のような薄い桃色の封筒に入った手紙を読みました。その手紙を読み終えた時、私はこの運命を望んだのです。そして、運の良いことに私は風邪をこじらせました。ここまで読んでいただいたならおふたりはもうお察しでしょう。私は病状を悪化させるために努力しました。深夜、おふたりが床についたのを確認し、薄着で外を徘徊するなど、井戸水を頭からかぶるなど、毎晩私は欠かさずに努力してまいりました。その甲斐ありまして、ついに私はこうして天に召されることが叶いました。

 私がこのような遺書を残した本当の意味をおふたりはまだ察してらっしゃらないでしょう。私の最後の願いを実行して欲しいのです。難しいことではありません。ただ、おふたりとしましては十九年間愛情を費やしてきたわが子にそのようなことをするには抵抗がきっとおありでしょう。


 私の唯一の願いでございます。私をおじい様と同じ火で還さず、土に還して欲しいのです。



 一年と二か月前、おふたりのご存じのとおり、私は遠い親戚にあたる高橋さまの屋敷に厄介になりました。それは、近所づきあいを疎かにし、反感を買った私をおふたりが逃がしてくださったからでしたね。高橋のご主人様は私に大変よくしてくださいました。親戚というだけでいきなり転がり込んできた私を本当によくかわいがってくださいました。私が戻ってきたさいに増えていた荷がその証です。高橋のご主人様はわが子同然に物を買い与え、私が慣れない土地で退屈しないように気遣ってくださいました。

 そのような人の良いご主人様、美しく、非常にお若い奥様、そして、ひとり娘の亜矢子ちゃん、あとはあまり接する機会のなかった使用人の皆さま、この方々と共に私は一年間おふたりの知る由もない日常を送ったのです。

 私がこの一年間もっとも行動を共にしたのは亜矢子ちゃんでした。亜矢子ちゃんは当時十五歳でした。四歳年下の親戚の娘とはいえ、私の自宅より、大層立派なお屋敷に住むお嬢さん。さらに私は御厄介になっている身でしたので亜矢子ちゃんのことは、お嬢様、と呼んでおりました。

 亜矢子ちゃんは奥様とは異なる類の美しい少女でした。しかし、私はその少女をひと目みるなり、地味な少女であると失礼ながら感じたのです。その理由は私以外の皆様に対する態度でしょう。少なくとも、私の見てきた一年間、ご主人様と奥様の言いつけを亜矢子ちゃんが破ることも、それに反抗したことも一度もなかったのです。はい、わかりました、とふたつ返事で素直に従うのです。

 その態度は使用人皆さまやご近所の皆さまにもとっておりました。そのため、亜矢子ちゃんは屋敷でもご近所でも素直な良い娘であると言われていた。

 しかし、亜矢子ちゃんは私にだけまるで別人のような態度をとっておりました。私にあてがわれた部屋の引き戸を突然引き、押し入ってくるのです。はじめこそ驚きましたが、毎日のことなのですぐに慣れてしまいました。

 亜矢子ちゃんは押し入ってくるなり、茶屋だの屋台だの、連れていけと命令するのでした。私が見てきました一年間ともにした亜矢子ちゃんはわがままで傲慢な少女でした。私はその時、きっと亜矢子ちゃんは兄弟がいなくて寂しいのか、否、私という身分の下の者ができて喜んでいるのだろうと考えておりました。しかし、それは愚かな考えでした。ご両親に対してでさえわがままを言わぬ少女が兄弟にわがままをぶつけるでしょうか。雇っている使用人にさえ傲慢な態度をとったことのない少女が身分が下というだけのものにそのような態度をとるものでしょうか。私は亜矢子ちゃんのことを理解できていなかったのです。

 亜矢子ちゃんの態度ははじめこそ不快かつ、憎たらしく思うことがありました。しかし、次第に亜矢子ちゃんのことが妹のようにかわいく思えてきたのです。ご両親や使用人の目が届かない場所では亜矢子ちゃんは草履や靴でさえ自分で履きませんでした。

「太郎さん、やって頂戴。」

  一言ぶっきらぼうに命令するのです。私はその小さな白い足に草履やら靴やら履かせてやります。亜矢子ちゃんは命令するとき、能面のような顔をしています。私がその命令を実行したとき、本人は気が付いていないようですが口元が緩みます。ご両親や使用人の皆さまの前での貼り付けたような地味な笑顔でもなく、私に命令するときの能面のような表情とも違う。へにゃり、と緩んだ亜矢子ちゃんの笑顔を私は愛しく思っておりました。

 亜矢子ちゃんとは色々な遊びをしました。春は花見、秋は月見、冬は雪遊び。最も思い出深いのは夏の遊びでございます。避暑に出掛けた川、鮮やかな浴衣や提灯で彩られた夏祭り、駄々をこねられご主人様お願いして買っていただいた花火。すべて、冥途の土産に相応しい宝石のように輝く思い出でございます。

 亜矢子ちゃんのわがままで連れ出した夏祭り、黒地に真っ赤な金魚があしらった浴衣を纏った亜矢子ちゃんは美しく、はじめて出会ったときの地味な印象を払拭するには十分でした。このときには私たちは非常に仲良しになっておりました。

 この夏祭りの夜、亜矢子ちゃんは非常に奇妙な話題を振ってきたのです。

「ねえ、太郎さん。生まれ変わったら何になりたい。」

 亜矢子ちゃんはいつも以上に能面をしっかりかぶっておりました。

「人間がいいよ。お嬢様だってそう思われているでしょう」

「私は蝉になりたいわ」

 能面をかぶったまま亜矢子ちゃんは祭囃子に掻きけされてしまうほどの小さな声で言いました。皆様のまえの亜矢子ちゃんではなく、勿論、私の前でのわがままな亜矢子ちゃんでもありません。

「蝉だって。蝉は五月蠅いし、たった七日で死んでしまうではないか。何故蝉になりたいのだい」

 私の目の前にいる女は皆様の亜矢子ちゃんでも私の妹でもなく、奇妙な女だったのでございます。

「蝉はね、孵ってすぐ土に潜るの。長い間土の中で夢をみているのだわ」

「へえ、どんな夢なんだい」

 女は私の目をずっと見ている。私は気まずくなり何度も目をそらしたが女の目は動かなかったのでございます。

「恋を夢みているのよ。いつか土の中から飛び出して、運命の人と結ばれるの。そのたった七日間のために夢をみるの。私、生まれ変わったらきっと蝉になるわ」

 私はその女が恋をしているのだと察しました。蝉になりたいとまでいうその女の痛いほどの恋に私は心を打たれたのです。

「太郎さん、私足が疲れてしまったわ」

 気が付くと目の前には私の愛しい妹の亜矢子ちゃんが足をさすっておりました。私は黙って背を向けしゃがみ込みました。亜矢子ちゃんは小さな白い手を私の首にまわし、身を預けました。亜矢子ちゃんの膝の裏に手を差し込み、私は立ち上がりました。私におぶさっている少女は間違いなく私の妹でございました。

 例の夏祭り以来、亜矢子ちゃんの命令がひとつ増えたのでございます。亜矢子ちゃんは私に真っ白な封筒を差し出しました。

「太郎さん。これをナカムラのシンゴさんのところへ持って行って頂戴」

 私は夏祭りで出会った蝉女を思い出しました。きっとこの女はそのシンゴという男に恋をしているのでしょう。シンゴという男こそあの日、妹を女に変えた男だったのです。

 私はこの愛しい妹、蝉女の恋を成就させたいと強く思いました。なんていじらしい蝉女よ、面と向かって差し出すのが恥ずかしかったのでしょう。私はいつもどおり命令に従いました。

 非常に残念なことに私は蝉女の恋の行方を見届ける前に帰郷することになったのです。お父様、お母さま、おふたりのお力添えでご近所の方をなだめ、私が戻ってこられるようにしてくださったからでございます。誠にご迷惑をお掛けしました。

 私は高橋家の皆さまにお別れの挨拶をいたしました。奥様には優しい言葉をかけていただき、ご主人さまはまるで息子との別れのように熱い抱擁をかわしてくださいました。妹の亜矢子ちゃんはといいますと口を聞いてくれませんでした。唯一、わがままを聞いてあげた私が居なくなってしまうので寂しくてしょうがないのでしょう。私も一年間本物の妹同然にかわいがった亜矢子ちゃんと離れ離れになってしまうのは身をふたつに裂かれるような悲しさでいっぱいでした。

 亜矢子ちゃんはうなだれたまま、私に桜のような薄いピンク色の封筒を差し出しました。悲しみでいっぱいの妹は喋らない代わりに私のために手紙を書いたのです。私は感激のあまり涙を流しました。妹も目を潤ませておりました。

 おふたりの元へ帰る汽車の中で私は亜矢子ちゃんの手紙を読みました。そして悲しさのあまり再び涙を流しました。

 その内容についてきっとおふたりはさぞ気がかりに思ってらっしゃるでしょう。そのため、亜矢子ちゃんの手紙を同封いたします。その代りお願いがございます。その手紙を私の亡骸とともに土に還してください。どうかその約束だけは破らないでください。私の努力が水の泡と化してしまうのです。










平山太郎さまへ


 太郎さん、私を許してくださいませ。この一年間私は貴方様に傲慢な態度をとってまいりました。それが他の皆さまとのそれと違ったことはとっくにお分かりになっている事でしょう。

 太郎さん、私の正体は蝉なのです。私にとってこの一年間こそが恋の七日間だったのです。私はあと一か月で誕生日を迎え十六歳になります。その日に嫁に行くのでございます。私をかわいがってくださった太郎さんならきっと早すぎると驚いてくださるでしょう。

 お父様は私が女であることを残念に思っておりました。お母さまは私が十歳の時に病に侵され亡くなってしまいました。お父様はその四十九日も明けぬ間に今のオカアサマと再婚したのでございます。私は悲しいやら悔しいやらの気持ちでいっぱいでございましたが、おふたりに笑顔で祝福の言葉を捧げました。

 私はその時から土の中で夢を見ていたのでございます。お父様は私を残念に思っている、それは私が女だからでございます。私は切望しました。女としての私を求めてほしい、ありのままの私を受け止めてほしいと。

 十五歳の時、私は土から這い出しました。そして夢の矛先は太郎さん、貴方様でございます。

太郎さんは私の醜いすべてを受け入れ非常にかわいがってくださいました。そのぬくもりはお母さまが亡くなって以来はじめて貴方様から注がれたのです。貴方様は樹液を惜しみなく与えてくださる樹でございます。樹に恋をした蝉が私でございます。愚かなことにこの蝉女は樹に愛されたいと思ってしまったのです。貴方様は確かに愛してくださいました。しかし、私の求めた愛は、土の中でみた夢なのです。女として愛して欲しいと。

 私は恐れ多いことに太郎さんのお気持ちを試しました。先日の恋文でございます。貴方様は私のためにそれを届けてくださいました。それが私の夢の終わりでございます。

 私は嫁に参ります。お父様は大変お喜びになり、安心してオカアサマと兄弟をお作りになるでしょう。それでよいのです。

 私は七日の命を終えました。あとに残るのは高橋亜矢子、否、亜矢子という抜け殻の肉体です。本当の亜矢子はこの手紙でございます。

 太郎さん、私の最後のわがままを聞いてください。この手紙を読み終えた後、土に還してください。土の中で私は蝉に生まれ変わります。土の中で太郎さんと過ごした日々を夢にみます。そして、幸せな気分で地上に戻ります。大きな声で太郎さんへの愛を叫びます。そのときは五月蠅いなどと言わないでくださいね。

 たった七日間、貴方様への愛を叫び、再び土に還ります。そして、来年再来年愛を伝えに行きます。

私の最も大切な太郎さん、どうか多くの喜びがあなたに訪れますように。


                                             亜矢子






 お父様、お母さま、お願いいたします。私をこの亜矢子とともに土に還してください。かわいそうな亜矢子。私は亜矢子の孤独を理解してあげられませんでした。決して罪滅ぼしではないのです。私は亜矢子ちゃんを妹として見ておりました。しかし、この恋文を読んで気持ちが変わらないはずがありません。

血のつながった父にさえ見せなかった亜矢子の本性を私にだけ見せてくれていたのです。つまり、本当の亜矢子を知るのはこの世でこの私だけなのです。そのような熱烈な愛を受け、心変わりしない男などありません。たった七日間の恋に私を選び、未来永劫愛の七日間を私に捧げる亜矢子のいじらしいこと。

そんな亜矢子をひとりぼっちで鳴かせはしません。私も蝉に生まれ変わります。亜矢子とともに土の中であの輝く日の夢をみます。そして地上に戻りお互いの愛を叫びあうのです。

 この愛の儀式を未来永劫繰り返します。それが私と愛しい女、亜矢子、二人の愛のカタチなのです。

 お父様、お母さま、ごきげんよう。


                                            平山太郎

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蝉の恋 紀(のり) @arunori248789

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