藤沙 裕

 それは、青い何かだった。揺蕩うような、曖昧な意識の中で、青い何かに触れている。

 ふわりと浮かぶ体の軽さに自分でも驚いた。いったいこれはなんだろう。ただ、気分はとても良い。このまま、ずっと、ここにいたいと思わせるような、そんな心地だ。


 僕の視界は一面青色だった。顔の前で手を開けたり閉じたりしてみると、薄く青い、空気とも霧とも言えないような何かが、僕の手を満たす。

 ぷかぷかと空を浮かんでいるような、それとも水の中をただ悠々と漂っているような、そんな感覚なのだ。前者ならば、僕は雲にでもなったのだろうか。息は苦しくないし、水中にいるわけではなさそうだ。いやでも、もしかしたら僕自身が水なのかもしれない。もしそうならば、苦しさがなくてもおかしくはないだろう。

 しかし、僕にはそれはどうだっていいことだ。

 ただ、この心地の良い夢にすべてを任せていれば、なにか救われるような気がする。


 何だか懐かしい。この感覚を、知っているような、もしくは、これと似た何かを、僕は以前にも体験したことがあるような。

 思い当たるとすれば、それは木登り。そんなものだと思う。

 幼い頃、木から落ちたことがある。今でも鮮明に思い出せる、小学五年の夏。田舎の祖父母の家に、家族と遊びに行った。裏の山にはカブトムシとか、蝉とか、とにかくその年齢の男児が喜びそうなものがたくさんあったのだ。その小高い山のてっぺんまで登り、中でも一番高い木に登った。そこから見た景色は、正に絶景と呼ぶに相応しい、見事なものだった。

 僕は、一瞬でその田舎が大好きになったし、祖父母の家に泊まっている間は、毎日山頂まで足を運び、同じ木に登った。もちろん虫取りもたくさんしたが、虫取りは当時僕の住んでいた家の方でもできた。さすがに大きいクワガタやニイニイゼミはいなかったけれど、それでも僕はある程度満足していた。けれど当時の僕はそれよりも、あの山の、あの木の上から見る景色に心を奪われていた。きっと美術が得意だったら、僕はあの景色を何枚も描いていたと思う。いや、今でも描けるはずだ。

 何度木に登っても、その景色は変わらない。それでも僕はその木に登ることをやめなかった。一度、祖父に見つかりかけて、直感的に木を急いで降り、そのまま落ちたことがある。

 今僕がいるここは、その時の感覚と似ているのだ。眼前に広がる田舎の風景がぐるりと回転して、青い空がどんどん遠のいていく。ただただ、綺麗だと思った。あの空に浮かべたら、浮かべる雲になれたなら、どれだけ心地良いのだろうと思った。いつか空にすべてを預けたいなと思った矢先、木々の間に体が挟まったのだ。

 あの後、どうやって木から降りたのかは覚えていない。落ちた直後のあの感覚と、田舎の景色だけが、僕の思い出として残っている。空から落ちていくあの瞬間が、この何とも言えない青の世界とぴたりと一致するような気がした。


 けれど、水の中を泳ぐ感じにも似ている。これもあの田舎でのことだが、祖父母の家と山の間に、それなりの川幅のある、透き通った川があった。深さはだいたい、子どもの僕の股下くらいだったと思う。暑い夏にはうってつけの川遊びには少し深いような気がしたが、祖父母も父母もそこで僕を遊ばせてくれた。沢蟹とか、名前もわからない小さな魚、両手で持てないくらい大きな魚もいた。遊びに夢中になっていると、つい深さのある方まで進んでしまい、何度も怒られたことを覚えている。一か所だけ、何故か深くなっているところだった。幸い、川の流れがそれほど速くなかったから、溺れることも流されることもなく、大事には至らなかった。しかし、大丈夫だとわかっていても、水中で足を掬われると焦ってしまう。落ち着いて冷静になれば何てことはなくても、焦っているとそうはいかない。


 ただその思い出も、怖いというよりも綺麗な思い出なのだ。清流の中を、泳ぎながら、体を流れに任せるあの感覚。

 思い出してみても、結局これが何の青で、何なのかがはっきりしない。言うなれば、空に溺れている、そんなところだろうか。空とも水とも取れない青の世界。

 ただ僕は、ここに体も心もすべて預けている。溺れているのに苦しくないのも、落ちているのに苦しくないのも、あの夏のおかげだ。

 だからきっと、ここは夏の空の中。僕は夏の空に、気ままに溺れている。嗚呼、なんて心が軽いのだろう。体も軽い。すべて手放しでも、何も怖くない。このまま、ここにいて、しばらく溺れているのも悪くない。一面の青になら、呼吸を奪われたって構わない。少年時代の僕が、どこか遠くで顔を出した。

 あの夏でないのなら、もう夏なんて来なければいいのに。


















 ピピピとやかましい目覚ましの音が部屋に鳴り響く。電光表示は、ぴったり朝の六時。月曜の朝。

 重くなった体に鞭を打って、何とか体を起こした。何だか懐かしい夢だった。いったいどうして、今頃あんな夢を見るのだろう。

 朝食のバタートーストと、経済新聞を取りにリビングへと入る。いつも通りのバターの味にうんざりしながら、玄関に新聞を取りに行く。一面の政治問題にざっくり目を通し、モーニングコーヒーを淹れた。嫌な世の中になったものだ。朝食もコーヒーも、誰も用意してくれない。それは自分が結婚していないからだけれど。

 あんな夢の後だと、何もかもを投げ出したくなる。

 大人はどうして、子どもになれないのだろう。

 子どもはいずれ大人になるのに、大人から子どもになれないのはどうしてだろう。

 そんなつまらない疑問を自嘲しながら、すっかり薄くなった頭を撫でた。

 体と心の代わりに、お前は軽くなってくれたんだな。

 ……なんて、な。

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藤沙 裕 @fu_jisa

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