忘れえぬ言葉

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忘れえぬ言葉

 港構内から続く殺伐とした通路を抜けて外に出ると、潮の匂いのする生暖かい風が頬を撫ぜた。空はどんよりとした雨雲に覆われている。幸いなことに雨は降っていない。

 観光シーズンではない六月半ば、佐渡島の裏玄関である小木港に降り立つ人は少なかった。バス停の待ち人は自分以外に腰の曲がったお婆さんだけだった。

 今回の帰郷は、祖母の他界によるものだった。三カ月ほど前、最後に祖母に会ったとき、すでに意識が混濁しており、会話を持つことはできなかった。おそらく俺を認識していなかっただろう。最後に元気なときを見たのは、去年の夏だっただろうか? 故郷を出てからの記憶は断片的だ。いつも着ていた紺の割烹着やよく通る声が目耳に付いている。

 バスが来た。艶消しシルバーのボディが特徴の通称「銀バス」だ。乗客二人を乗せて、バスがゆっくりと動き出した。海沿いの道を走る。子供の頃よく自転車で行き来した道のりだった。あれから世紀が変わり、インターネットの時代になり、さまざまなことが変わった。

 町の風景も昔とは違っている。田んぼの跡地にコンビニや一戸建ての住宅ができた。この島も他の田舎と同様過疎化が進み、この三〇年で人口は八万人台から六万人台にまで減った。自転車屋は高齢者向けの乗り物を扱うようになり、地域最大の商業施設の隣に巨大な老人ホームができた。

 急速に進む高齢化の中で、将来を担う新しい生命も産まれている。去年、弟夫婦に子どもができた。俺も「伯父さん」になったのだ。かつてパンクロックに心酔していた同級生は、勤労青年になり、子煩悩なパパになっているかもれない。同級生の半数以上が結婚しているだろう。彼らは俺にはないしがらみの中で生きている。俺には家庭も職場のコミュニティもないから糊口を凌ぐための仕事以外に自分を拘束するものはない。しかし、なけなしの自由を活かす術もない。「人は自由の刑に処されている」という誰かの言葉がしっくりくる。

 実家に着くと、鯨幕が家屋を飾っていた。通夜を明日に控え、近所の人たちが準備を手伝っていた。母親によると祖母の遺体は、病院に預けてあるということだった。俺は二階の自室に閉じこもった。

 自室の本棚は故郷を離れたときの状態とほとんど変わっていない。日に焼けて無残な背表紙を晒している参考書や漫画本などが並んでいる。『鉄則数学Ⅰ』も『頻出英熟語問題集』も以前熱心に取り組んだ教材だ。過去の遺物を見ていると、にわかに息苦しくなってきた。

 俺も島を出てからの年月で成長した。長い学生・アルバイトの期間を経て、やりたい仕事に就いた。しかし、島で過ごしていた一七歳の頃の自分と今の自分は地続きで、俺はその当時の自分と本質的に変わっていないと思う。一七歳――。多くの人にとって人生で最も華やで躍動的な頃、俺は最低だった。

 思春期の悲惨さは、一生消えないスティグマを残したのではないだろうか? 大人になって、それなりの地位に就けば笑い話になるとは思えない。大学の社会学の先生が人生は高校卒業時でほぼ決まると言っていたが、それは正しいかもしれない。今の自分は決して幸せではない。つまり愛し合う相手がいない。友人もほとんどいない。人間関係の面では、一〇代後半の状況と変わっていない。

 高校時代に何があったのか? 簡単に言えば、大学進学という目標のために学業に明け暮れ、そうすることで貴重な青春を失ったのだった。俺の通っていた高校では、学業に熱心な生徒は例外的存在だった。また、俺はひどく内気な性格だったため、校内で孤立し、孤独を強く感じるようになった。今から思えば、一七の夏に一人で二週間もの間、ホテルから予備校に通った体験が決定的な出来事だったように思える。ホテルの部屋では、机の前の壁に取り付けられた鏡により、勉強しているとき、常に自分に向き合う形になった。それは拷問に近かった。コミュニケーションへの飢餓感でどうにかなりそうだった。俺はまだ覚えている。夏の暑さの最中で青春がのたうちまわりながら、死に絶えていくような感覚を。

 またその年の秋に、俺は同じクラスの菊川結衣という子が好きになり、ラブレターを送ったが、当然のごとく振られた。あの当時、俺は最低の地点にあった。学業成績がどうあれ、精神面は恐ろしく幼かった。俺は愛や友情に飢えていたが、人と接することが怖かった。女の子との会話は途方もないことに思えた。

 高校時代を通して、俺は学校が終わるとすぐにこの部屋で学業に励んでいた。それは他にやることがないからだった。とはいえ、勉強は嫌いではなかった。努力は偏差値というわかりやすい指標に反映されるので、やりがいはあった。しかし、いくら学業成績が上がっても、毎日が空虚だったし、何よりも自分に対して尊厳を持てなかった。

 そういうわけで、俺にとって大学進学は人生を変える大きなチャンスだった。大学進学を機に、新しい自分を構築するつもりだった。しかし、人はそんなにうまく立ち回れるものではない。孤独は大学時代も続き、社会人になってからも続いている。

 俺は机の一番上の引き出しを開けてみた。高校時代菊川さんに宛てたラブレターの返事がテストの結果などのプリントの山の一番下にあった。複雑に折りたたまれたその断りの手紙は、まさに俺の高校時代を象徴する物だった。

 この部屋はそんな暗黒時代の残滓に満ちている。この部屋で俺は青春を台無しにした。この部屋は青春の墓標になっている。

 祖母もまた俺にとってはこの生家とそこでの生活に強く結び付いた存在だった。高校時代はほとんど会話もなかったが、熱心に料理を作ったり、家事をしたりして世話をしてくれた。俺は当時そのことを何とも思っていなかったが、それは無条件の献身だったのだ。学生の頃、帰省したとき、祖母と二人で食卓で話したことがあった。

 夕食後だった。台所のテーブルに並んで座った。たぶん学生最後の年だっただろう。そのとき今後のことを訊かれたのだった。俺が東京で職を探すと答えると、祖母は言った。「羽茂とはゆわんけど、せめて佐渡には戻ってこいさ。篤がおらんとおら寂しい」。短い言葉だったが、重く胸に響いた。俺は家族の絆を重視していなかったし、特に両親とは価値観の違いからなるべく関わりたくないとさえ思っていたが、祖母はまるで空気のようというか、あまり好悪の感情を持ったことはなかった。祖母から感情的な言葉を聞いたことが意外だったのと、島に戻る気がなかったため、俺はそのとき狼狽えてしまった。

 あれから、その言葉はずっと引っかかっていた。俺は最後に祖母を見たとき、祖母の言葉に対して、今からでも何らかの応答をするべきだと考えた。自分が親になり、家族の絆を再生することがその応答というのは、我田引水にすぎるだろうか? 三五にもなれば、家庭を持とうとすることは自然なことかもしれないが、俺には父親になる自信がなかった。しかし、女は欲しかった。そのジレンマの中で俺がいないと寂しいという祖母の告白は、高校時代も含めた全人格的な承認として大きな意味を持った。つまり、俺は祖母から受け取った承認を今度は自分の子どもに与えるべきだ、また与えたいと思ったのだった。


   *


 夏日に恵まれた五月下旬の土曜日、渋谷のモヤイ像前で待つこと一〇分、現れた女性は、写真よりもぽっちゃりしていた。写真と実物の違いは予想していたことではあったが、俺は出鼻をくじかれた。

 店までの道のりでお互いに仕事の話をした。俺は「翻訳業」の内容を話した。いわゆる産業翻訳というもので、云々。相手の美紀さんについては、「医療関係」という記載から看護師を予想していたが、耳鼻科で受付をしているということだった。

 予定していた店は結婚式の二次会で貸し切られていたが、その店はcocotiというショッピングモール内にあったため、俺たちは労せずして代わりの店――同じフロアにあるカフェ――を見出すことができた。

 喫煙可能なテラス席を避け、室内のテーブルに着いた。一つテーブルを隔てた隣の席には、ドレスを纏った結婚式帰りと思われる三人の若い女性がいた。お互いにドリンクを注文すると、メニューをテーブルの中央に置いて、二人で閲覧していたが、美紀さんがてきぱきと料理を決めた。俺は指先のネイルアートに気づいた。

 今回は最初にメールをしてから一週間ちょっとという比較的短期で実現した「面接」だった。美紀さんからのメールは長文で、関係を前進させたいという意志を感じた。ただ顔文字を多用したメールはどこか感情が篭っていないようにも思えた。

 実際に会ってみて、写真のイメージを裏切られ、いくぶんトーンダウンした感はあるが、これからが本番だと俺はビールで乾杯したとき自分に言い聞かせた。

 俺は比較的精通している分野である映画や本の話をしながら、美紀さん胸や表情をチェックした。周到に選択したであろう、ゆったりとしたシルエットが出ない服を着ていたが、胸がないことは伺い知れた。顔は悪くはないと思えたが、写真が良すぎたせいか、実物に対して積極的に惹かれることはなかった。

 俺は隣の結婚式帰りの女性に気をそらされたが、可能なかぎり美紀さんとの会話に集中した。恋愛の話はなく、趣味の話や休日の話が中心だった。約一時間半かけてお互いにアルコール飲料二杯を飲み、料理を食べ終えると、予定していたもう一つの店に行くことにした。

 店を出た後、トイレに行った美紀さんがなかなか戻ってこなかった。女のトイレは長いと相場が決まっているが、一〇分が経とうとしていた。俺がしびれを切らして、三階まで直通の長いエスカレーターに乗って降下しているときに、美紀さんが戻ってきた。俺はかなりの距離を隔てて、エスカレーターの上にいる美紀さんを、どれだけ待たせるんだよという怒りを込めて見たが(といっても、睨んだりするのではなく、ただ苦笑しただけだが)、美紀さんは俺を無表情に見返しただけだった。それはまさしく、友達でも恋人でもない、単なる赤の他人に向ける眼差しだった。

 予定していたもう一つの店はブックカフェで、渋谷のんべい横丁にあったが、店の前まで来て、あまりに狭そうなので俺が違う店にしようと提案した。美紀さんは入る気だったが、俺の意見に従った。彼女はブックカフェに興味があるらしく、iPhoneで検索した円山町にある店を提案した。美紀さんは「円山町って近くですか?」と訊いたので、円山町を知らないのか、と俺は訝ったが、円山町がホテル街だからと言って避ける理由はないはずだった。

 とはいえ、恋人候補と週末の夜にホテル街の只中に足を踏み入れるのは、スリリングだった。美紀さんはホテルやすれ違うカップルたちを無視して、ときどきiPhoneのGoogleマップに視線を落としながら目的地だけに集中して歩いているように見えたが、俺は今にも手を取ってホテルに滑り込むこともできることを意識した。店への急な階段を上るとき、黒のタイトなパンツを履いた美紀さんの尻が目に入り、俺は思わず凝視した。適度なボリュームがあり形も良かった。好きなだけ撫で回したかった。

 結局、その店は営業していなくて、入れる店を求めてふらついた挙句、道玄坂の頂上付近にあるワインバーに入った。俺たちは入り口付近のテーブル席に着いた。これまでの「冒険」で多少は近親感が湧いた気がしたが、美紀さんも同様なのか、笑顔が多くなった。美紀さんは俺の足が細いと言って褒めた。俺はO脚気味なのにタイトなジーンズを履いていたので、お世辞でも嬉しかった。この歳になると(美紀さんは同級生で三五だった)、すぐに太っちゃうからね、と美紀さんはダイエットの話の中で言った。


「ところで、ブックカフェにこだわってますよね」

 俺はトイレから戻ると言った。美紀さんは将来ブックカフェを経営することを考えていることを話した。

「そのために何か準備しているわけではないですけど。わたしも今の仕事をずっと続けるつもりはないですし。といっても、別の仕事を探しているわけでもないですけど。今の仕事、結構待遇がいいんで。……篤さんは将来のビジョンみたいのってあります?」

 俺はジントニックを一口飲んでから話した。

「僕もいい年なんでね。結婚したいって最近思うようになりましたよ。これからどんどん家族もいなくなるじゃないですか。……実は祖母が長くないんですよ。春に実家帰ったとき、すでに意識が混濁してて、夏まで持つかどうか」

 美紀さんは真顔になった。

「そうでしたか。……実はわたしも去年、母親を亡くしました。脳溢血で。突然死でした。もう半年以上経っているんですけど、今になって辛くなってきました。後から骨身に染みてくるものですよね……。わたしもそれから家族や子どもが欲しいって強く思うようになりました」

「人は皆、消えてしまいますからね。僕らも限られた時間しか生きられない。生きた痕跡として子どもをつくりたいという人もいますが、僕は必ずしもそうは思いません。でも愛し合った結果として子どもをつくるのはいいんじゃないかって思います」

「ですよね。愛が何よりも大切ですよね」

 美紀さんは一オクターブ高い声を上げた。

「だけど、現代は男女が愛し合うのが難しい時代かもしれません。少なくとも僕にとっては、難しいことです。実は三五年も生きてきて、深く愛し合ったという経験がありません。美紀さんはどうですか?」

「わたしは……、愛は時間に比例すると思います。今までで一番長く付き合った人で三年半ですね。その人とは一年くらい前に別れました。相手を愛していた時期もありましたけど、いろいろあって、気づいたときには愛は枯渇していました」

 俺は「いろいろ」の内容に興味を持ったが、同時に訊くのが怖かった。若い男の店員が注文したドライフルーツを持ってきた。そのとき店内の照明が低くなった。

 店員が去ると、はじめて美紀さんと打ち解けた眼差しを交わした気がした。「暗くなったね」。美紀さんはそう言って微笑んだ。

 時刻は午後一一時になろうとしていた。そろそろ電車に乗らなくてはならなかった。しかし、自分からいとまを告げるのは嫌だった。このまま何も言わずにいたら、お互いに終電を逃すかもしれない。そうしたら、ホテル以外に選択肢はなくなる……。しかし、最初のデートでホテルというのはあり得るのか? 美紀さんは父親との伊勢志摩旅行の話をしている。俺は美紀さんが時間に気づいていないのか、あるいは今夜は朝までコースを視野に入れているのか知りたかった。そこで俺は話の合間に鎌をかけた。

「ところで、そろそろ別の店行かない?」

「えっ、時間まだ大丈夫ですか?」

 美紀さんは驚いた顔でそう言うと腕時計を見た。

 帰りの電車の中で美紀さんに携帯メールを送ると、一時間くらいして、メールの返信があった。「今夜はありがとうございました(^^)ぜひまた誘ってください」


   *


 葬式後の飲み会では、俺が未婚であることに親戚の人たちから集中砲火が浴びせかけられた。俺は結婚する気があることは伝えた。美紀さんのことは話に出さなかった。彼女とは最初のデートからすでに一カ月近くが経っていたが、まだ二度目のデートをしていなかった。一度デートのアポがキャンセルされ、次のアポはまだ取れていなかった。

 葬式の翌日、俺は高校時代に好きだった菊川さんが地元に戻ってきて、銀行の受付で働いているという数年前に風のたよりに聞いた話を思い出した。二六の頃に開催された同窓会で会ったきりの菊川さんを急に見てみたくなった。俺はシャワーを浴びた後、ポロシャツとジーンズに着替えて徒歩五分もかからない銀行に出かけた。

 銀行に入ると案内係のおばさんが話しかけてきたが、俺は「ちょっと」と言って、受付係の女性を調べた。二人いたが、二人とも菊川さんではなかった。

「菊川結衣という人がこの銀行に勤めていると聞いたのですが」と俺はおばさんに訊いた。

「そのような人はおりません」

 おばさんは無愛想に答えた。俺は失望して銀行を出た。

 俺は銀行の近くにある地域最大の商業施設であるホームセンターを訪れた。俺が高校生の頃にできた店舗だった。そこには生活に必要な雑多な物が売られていた。カー用品、農業用品、レジャー用品、生活用品、スナック菓子まである。食料品と衣料品以外の生活必需品がここでそろった。俺は何を買うでもなく、ただ見て回った。

 田舎の飾りのない生々しい暮らしが雑多な品々を通して垣間見えた。ここには、お洒落な服もブランド品も売っていない。田舎には基本的に知らない人はいないから、自分をより良く見せる必要がないためだ。昔、俺は知った人ばかりの環境を息苦しく感じた。しかし、今はどうだろう? 都会では、基本的に自由意志に基づいた人間関係で、会いたくなくなった場合は、随時自由に関係を切ることができる。だが、俺は基本的にそういう考え方に馴染めない。それは田舎育ちであることと関係があるのかもしれない。

「篤くん?」

 店を出た後、駐車場で小学低学年くらいの女の子を連れたおばさんに話しかけられて驚いた。

「あっ、やっぱり。圭子です。覚えてます?」

 小中高といっしょだった本間圭子さんだった。太っておばさん臭くなったとはいえ、その顔には見覚えがあった。圭子さんは地味な子で中高時代はクラスも違ったので、たぶん話したこともなかっただろう。

 俺たちは彼女の軽自動車の前で立ち話をした。圭子さんは今、老人ホームで介護の仕事をしているということだった。お互いに仕事の話をした後、同級生の話になった。彼女の口から何人か懐かしい名前が出た。俺はちょうど気になっていた菊川さんのことを訊いた。

「えっ、知らない?」

 圭子さんは目を丸くした。

「何がですか?」

「菊川さんのこと」

「第四銀行で働いてるということ以外、何も知りません」

 にわかに緊張が高まった。

「彼女は今たぶん留置所にいます」

「リュウチジョ」という言葉の意味するところを把握するまで一瞬を要した。圭子さんによると、菊川さんは恋人の借金返済ために銀行の金を横領したかどで、今年の春に逮捕されたということだった。

 俺は走って家に戻り、自室に駆け上がると、昔、菊川さんからもらった手紙を読み返した。「突然の告白にびっくりしています」で始まるその手紙には彼女の誠実な人柄が表れていた。読み終えたとき、俺は泣いていた。

 俺は家の自転車で自転車道と呼ばれる川沿いの道を走った。アスファルトの舗装がところどころ劣化していて凸凹ができていた。そのうち雨が降ってきて、徐々に激しくなった。高校時代、菊川さんに数学の問題を教えたとき、彼女が俺に見せた笑顔を思い出そうと努めた。俺は悲しみの雨に降られながら、その遠いイメージに焦点を合わせて、力強くペダルを漕いだ。


   *


 美紀さんから他に好きな人ができたから、もう会えないというメールが来たのは、東京に戻って数日後だった。しばらくメールのやりとりが途絶えていたので、それはある程度予想していたことだった。

 七月最初の土曜日――デートの日として美紀さんに提案した日だったが――は、午後二時で三二度を記録した快晴の真夏日だった。俺は昼間からポルノサイトにアクセスし、オナニーしようとしたが、何かもっと非日常的なことでないと荒廃した気分に収まりがつかない気がして、数年ぶりに性風俗の店に行くことにした。

 ネットでじっくり調べて選んだ伊勢佐木町近辺にあるファッションヘルスの店の前に来たとき、ちょうど店から出てくる風俗嬢とすれ違った。その子はいわゆるギャル系で俺が苦手とするタイプだった。俺は気が削がれてしまい、その店を素通りした。その後別の店も検討したが、もう風俗店に入る勇気が出そうになかった。

 俺は横浜駅に戻ると、駅からほど近い激安居酒屋に入った。俺は狭い一人客用の席で、ときどき笑い出す初老の男の隣で、ウイスキーを生ビールで割った店のオリジナルドリンクを煽った。俺は思った。これが現実だ、と。休日に羽を伸ばそうと思っても、安酒場で孤独に一人飲みをすることくらいしかできない。相手をしてくれる女と言えば商売女だけ。俺は他のあり得た可能性を思い描いた。あの道玄坂のワインバーで時間を気にせずに美紀さんの話を聞いていれば良かった。そうすれば、別の展開があったかもしれない。あるいは昔、職場で出会った安田さんに告白していれば……。今の俺は失敗を重ねてきた帰結なのではないだろうか? まさにどん詰まり(デッドエンド)だ。菊川さんは犯罪に手を染めたが、それは好きな男のためだ。そこには欲望や希望があったのだろう。俺にはそんな対象もない。希望とコミュニケーションのないこの無間地獄から脱出するには、犯罪とまではいかなくても何か大きな行動を起こすべきかもしれない。恋愛にしても、そもそも出会い系サイトを使用して横着をするから結果が出ないのだ。恋愛にはもっと直感的なものが必要だ。

 俺はドリンク一杯と頼んだ料理三品を食べ終えると店を出た。外はすでに暗くなっていた。俺は女の子に声をかけようと汗を拭き拭き、駅前をぶらぶらした。

 しかし、いざ声をかけようとすると声が出ず、足が固まった。ナンパは二〇代前半にほんの数回しただけで、成果はゼロという苦い前歴があった。三五でナンパして突然成功するとは思えない。そんな後ろ向きの思いに捕われつつあったとき、タイプの娘が視界に入ってきた。色白で華奢な体つきの黒髪の娘だ。白いスカートとそこから伸びるほっそりした脚が魅力的だった。彼女は駅ビルの中に入り、女性向けの服屋などを見て回った。俺はずっとつかず離れずの距離おいて彼女を追跡していたが、やがて店員の視線が気になり、ビル内の下りのエスカレーター前で待った。一五分くらい待ち、あと五分で帰ろうとしたとき、その娘が降りてきた。俺は彼女を追ってビルから出た。俺はその子の背後から声をかけた。

「こんばんは。あ、あの、タイプです。少しお話しませんか?」

 彼女は一瞬こちらに驚いたような、または怯えたような視線を投げただけで、無言で歩を速めた。

 俺は西口五番街の立ち飲み屋に入った。そこは細長いカウンターだけの店だった。ほとんど自棄になって、ビールを喉に流し込んだ。ものの数分でジョッキを空けたが、先ほどの娘の眼差しは鮮やかに脳裏に残っていた。

 店に入ってきた五〇代くらいの男が近くに来た。男は野球帽を被り、首の部分が緩くなったTシャツを着ていた。競馬場でよく見かけるタイプのおっさんだった。他の二人の客も自分よりも年上のくたびれたオヤジだった。おそらくは独身であろう人生の先輩がたを観察しているうちに、自分はまだ大丈夫なのではないかという気がしてきた。

 ナンパなんてこんなもんさ。そもそもナンパというのはあまり現実的ではないだろう。婚活パーティなどの方が現実的だ。あるいは結婚相談所とかの方が。ギャル男みたいな真似はすべきではない。俺は大学教育を受け、ホワイトカラーの職に就いた。俺には女をゲットできる能力がある。冷静になるべきだ。まだ三五じゃないか。


 帰りの電車は通勤ラッシュ並みに混んでいた。俺は長椅子の端の席に座っていたが、手すりに掛けた左手がちょうどミニスカートの真下に入った。ときどき太ももの内側に指が触れた。この惨めというほかない日の終盤にこんな好運に遭遇するとは! 俺は左手の指先に全神経を集中した。指先に触覚だけでなく、視覚や嗅覚も備わっていていれば良かったのに。

 女は後ろ向きだったが、タイトなTシャツが似合う華奢な体躯と白くてスラっとした手から美人かもしれないと期待できた。この千載一遇の状況により、女だけがリアルな存在になった。大勢の人にもかかわらず、今や車内には女と自分だけしかいないかのようだった。

 俺は少しずつ指を太ももの内側に当てた。女は動かなかった。息をするのを忘れるくらいの昂奮の中で俺は上へ進むかどうか逡巡した。指はあと数センチでデリケートな部分に触れてもおかしくない位置にあった。俺は女の気持ちを知りたかった。女はなぜ俺にされるままになっているのか? この状態をどう思っているのか? 今の状態は、据え膳だから許されるとしても、その奥は明確な意志なくしては触れられない部分だ。アソコには死ぬほど触れたいが、こういう形で触れるのは本望ではない。今彼女は俺を試しているのかもしれない。

 一〇分余りが過ぎ、降りるべき駅に着いた。その間、俺は女の肌の温もりと柔らかさを享受しながら、指先に思いを込めていた。すてきだ。きっと俺たちには縁がある、と。

 車内の人ごみが動き、女の体勢が解けた。彼女は人ごみに押され、車内から吐き出された。俺も立ち上がり、車内から出た。女はドアの脇に立ち、出てくる人たちを避けていた。俺は彼女の隣に立った。女は二〇代前半くらいに見えた。大柄ながら可愛げのある横顔だった。彼女は俺の視線に気づいて、こっちを見た。俺は際どいアプローチに込めた思いが伝わることを願って、おずおずと微笑んだ。女は一瞬考えるような間をおいてから小さな笑顔を返した。その瞬間、世界が一変した。彼女の笑顔は、暗い空に打ち上がった花火のようだった。

 女は俺の手を握って、顎を動かすゼスチャーをしながら、「行きましょう」言った。俺は女の手の暖かい湿った感触に感動した。

「お酒飲んでますか?」

 改札に向かう間に女は高い声で訊いてきた。

「えっ? あっ、はい。……ところで、名前教えてもらえませんか? 僕は谷川と言います」

「アサミです」

 ハイヒールを履いていたせいもあるが、アサミは俺よりも高かった。

「スタイルいいですね」

「ありがとう」

 アサミは改札の前で俺の手を離して、駅員のいる窓口に早足で向かった。乗り越しかと思って、改札を出て待っていると、駅員二人が出てきて俺に話しかけてきた。「痴漢行為」の言葉だけで頭の中が真っ白になった。

 俺はアサミを見た。アサミは、先ほどとは打って変わって、険しい表情で俺を睨んでいた。俺は「痴漢なんかじゃない」とアサミに抗議した。

「触っていましたよね。ずっと」

「……だけど、アソコは触っていない」

「バカ! ヘンタイ! どこを触ろうと痴漢じゃないですか」

 時計は午後一一時を回っていた。俺は駅員室でパイプ椅子に座った状態で、駅員二人に見張られながら、警察が来るのを呆然と待っていた。「変態」という言葉は、どこか漫画的な感じがして、今ひとつ罵倒された実感が湧かなかったが、彼女が俺との接触に嫌悪を抱いていたと思うと辛かった。しかし、これで痴漢扱いは酷じゃないか? もしチャンスを与えてくれたならば、恋人同士になれたかもしれないのに。

「俺も寂しい」。俺は死んだ祖母を思いながら、声に出さずに言った。(了)

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