●7、まぼろし

 空を見上げる。


 真っ白の雪が降っている。

 地面に降り積もる前に、くるみの頭にあたった雪が、静かにとけて消えて行く。


 言葉が出てこない。

 彼女に、なにを言えばいいのだろうか。

 泣いているわけでもなく、笑っているわけでもなく、苦しんで蹲るくるみの呼吸は乱れている。

 息がうまくできないのか、それともをうまく紡げないのか。

 〝使い魔〟という存在を、契約していないノエルはよく知らない。

 けれど、という文字がつき、なおかつ〝犠牲〟を欲しているのだから、いくら天使のような歌声を持っていたとしても、それは綺麗なものではないのだろう。


 《現実主義リアリズム》が、どうして彼女を殺そうとしたのか、理由はわからずじまいだったが、これが原因なのかもしれない。


 歌声というものは、人を楽しませて幸せにさせるものだと思っていた。

 けれど、人の精神を揺さぶるは、逆の現象も引き起こしておかしくないのだろう。ノエルはやっと気づいた。


 歌声は、人を幸せにすると共に、同時に不幸にすることもできる。

 命を癒すとともに、命を穢すこともできる。

 それを聴いた人の命を、奪ってしまうこともできる。


 くるみはいままで、【歌姫】の力をを幸せにするためだけに使ってきた。

 けれどいま、それは別の現象を引き起こしてしまった。


 くるみはノエルを護るために、ノエルのためだけに歌い、人の命を容易く奪ってしまった。


 それがすべてノエルのためだと、本人が言わなくても分かってしまい、自分の愚かしさを疎み、ただ静かにくるみの背中を眺めていた。


 いまの彼女に、自分が触れる資格はない。




 暫くして呼吸が落ち着き、我を取り戻しつつあるくるみが、涙を浮かべた瞳で首を持ち上げる。


「の……え……る」


 痛々しく、聴くだけで苦しくなるような声。

 縋りつくようなその声に、ノエルは返す言葉がない。


「……ど、う……して?」


 それは自分が訊きたい。

 ノエルは、ただ彼女の傍を離れたかっただけ。

 一緒にいたら互いを傷つけることになるから、それを断ち切るために傍を離れただけ。

 それがいちばんだと思った。

 それがいちばん悪い選択だった。

 いままでと同じように、ずっと彼女と一緒にいればよかったのかもしれない。傷つくのは、ノエルひとりで済んでいたのだから。彼女の嘆きに気づかずに済んでいたのだから。

 彼女の手を取り、好きだという自分の偽りきもちに素直になればよかったのだ。

 そうすれば、彼女が自分の真の能力に気がつくことはなかった。

 ずっと、幸せに歌うことができた。


 ノエルが、それを奪ってしまった。


 ふと、ノエルは考える。


 彼女の声を聴いて傷ついてしまうのであれば、それがなくなれば彼女とこれからも一緒にいられるのではないだろうか。

 耳がなくなれば、鼓膜がなくなれば。

 ひんやりとした冷たい感触を思い出し、自分の耳に銃口を向けた。


「え? ……の、のえ……る?」


 戸惑うくるみの声。

 それはもう聴きたくない。

 彼女の声は、あの頃から変わってしまった。


 引き金に指をかける。

 同時に、どこからか声が聴こえてきた。


【やれやれ、やはり人間は愚かしいね。とんだ幻想に浸るだけで、自ら真実に目を向けようとしない。いくら変わったとしても、その声は彼女の声だというのに】


 男性の声を少し幼くしたような、くたびれた青年の声。


【やあ。ノエル君でよかったかな。きこえてるのかなぁ。呼ばれた気がしたから出てきたんだけど。――ぼくの力、欲しくないかい?】


「誰だ」


【〝使い魔〟、って人間が呼んでいる存在だよ。ぼくはね、いま契約者がいなくて退屈していたんだ。君の大切なモノをぼくにくれるのなら、ぼくのをあげるよ】


「力?」


 どうして、〝使い魔〟が。


【ぼくはね、幻術を使えるんだ。嫌な現実から目を背けたいときに、楽しい日々を思い出せる。そんな、幻術をね】


 くすりと笑い、〝使い魔〟が視えない手でノエルの額に触れる。

 ひんやりと冷たい雫が滴ったような感触がした。

 染み渡るそれに、気持ちが安らいでいく。


 この声は……たまに聴こえたこの幻聴は――彼女の――


【どうだい?】

「……悪くないな」

【契約、成立かな】

「……もう、痛みはこりごりだ」


 彼女の声を聴くと、心が痛んだ。

 彼女の嘆きを聞いて、痛みに気づいた。

 彼女の罪を見てしまい、傷が深くなった。


 もうこれ以上。

 彼女も自分も傷つかないようにするのにいちばん良い方法は、彼女の歌声を真摯な心で聴いて、彼女の傍にいてあげることだろう。

 そのために、自分のいちばんいらない大切なモノを〝犠牲〟にして、幻想に浸るのも悪くはない。


 くたびれたような声が、どこか労わるように響き、消えていく。


【ありがとう】





 朝は、彼女を起こすことから始まる。

 くるみは歌うこと以外は不器用なので、彼女のマネージャーである自分が面倒を見なければいけない。いや、いまはマネージャーではなく……。


「ノエル、おはよう!」


 耳元で彼女の声がした。幻聴のように懐かしさを感じる、彼女の声だ。

 目を開けて顔を横に向けると、微笑む彼女がいた。


「今日はお寝坊さんね」

「……お嬢様……あと、五分……」

「ダメよ! 早く起きなきゃ!」


 掛布団をひっぺがえされた。冬だというのに、容赦のない行為から浴びた冷気に背筋を震わせる。

 体を起こすと、頭上に温かいものが降りかかる。息ができなかったのでそれをかき分けて見てみると、あのクリスマスの日にくるみから貰った服だった。

 ――着替えろということか。

 立ち上がり、寝間着を脱ごうとしたとき視線を感じた。


「お嬢様……どうしてまだ居るんですか?」

「まあ、ノエルってば乙女じゃないんだから」


 クスクス笑いながら、くるみが部屋の外に出て行く。

 部屋の中に一人になったので、ノエルは寝間着を脱ぎすてると、服に着替えた。くるみから貰った服ではなく、いつもの仕事着――スーツに。


 部屋の外に出ると、くるみが目を真ん丸にしてからぷっくりと頬を膨らませる。

 面白かったので、指でつっついてやると、ぶうという音が出た。面白い。


「ノエルの意地悪」

「ところでお嬢様、今日は休日となっておりますが、いかがなさいます?」

「……デート」

「はい?」


 ダメだ。聞き取れなかった。彼女の幻聴は聴こえているはずなのに、はて、いまの単語の意味はなんだったかな。

 すっとぼけていると、くるみがにやりと口元を歪め、ノエルの腕をとる。


「デートをしましょう!」

「……はい?」


 はは、やっぱり気のせいだ。

 ノエルはうんうん頷く。

 耳を引っ張られた。

 あるはずのない鼓膜が破れるほど大きな声が、幻聴を奏でる。


「デートよ! ノエル!」

「……かしこまりました」


 彼女の自称護衛騎士足るもの、命令とあれば仕方がない。

 姫君のお願いは絶対なのだ。


「どこに行きたい? やっぱり遊園地かしら。初デートなんだから!」


 デートじゃないんだよなぁ、と思いながら、ノエルは浮かべた笑みのまま「いいですね」とうそぶく。

 嬉しそうなくるみを見ていると、それだけで許せる気がした。


 くるみの手が離れていく。

 彼女の声は、三年前と変わらず、そこにあった。

 人を惑わせるあの声は聴こえてこない。

 代わりに聴こえるのは、彼女の本来の声だ。


 これでもう、ノエルが傷つくことはなくなった。

 くるみも、ノエルが傍にいれば歌うことを辞めないはずだ。

 これからも【歌姫】として君臨して、人々に幸せを振りまいていく。そこに、あの夜の光景は存在しない。悲しみも、傷みも、苦しみも、罪も、全てノエルがいればどうとでもなる。

 幻想は、幻惑は、幻聴は、彼の思いのままだ。


 あとはくるみが真実を思い出さないように、くるみがこれ以上罪を行わないように、ずっと人を幸せにする歌を歌えるように、傍で見守っていよう。

 護衛として。騎士は自称だが、物は使いようだ。


 〝異能者〟になったいまでも、昔と変わらない風景がそこにある。

 あれから〝使い魔〟の声は聴こえてこないが、それでも優しく撫でる冷たい雫を感じることがある。は、すぐそこにいるのだろう。

 【まぼろし】は、ノエルを幸せにしてくれる。

 彼女も、幸せにしてくれる。

 だから、それだけでもう十分だろう。



 ステップを踏むようにくるりと、くるみが振り返った。

 笑顔で彼女が手を差し伸べてくる。

 それを戸惑いながらも握りしめ、ノエルは幻聴に耳を澄ませた。


「行きましょう、ノエル!」

「はいはい。お嬢様の仰せのままに」



 ノエルは知らない。

 このとき、くるみが「絶対にノエルを振り向かせるんだから!」と心に決めていたことを。

 これからノエルに困難な日々が待ち受けていることを。


 ノエルは、まだ知らない。







『声のない歌姫と孤高の騎士』完

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声のない歌姫と孤高の騎士 槙村まき @maki-shimotuki

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