●6、歌声

 彼女の家の前に、ノエルはいた。

 今朝まではノエルもこの家に暮らしていたが、数時間ぶりに見ると、どこか懐かしい感慨が胸に押し寄せてくる。

 扉を開くか、そう迷っていると、後ろから声をかけられた。


「ノエル?」


 なんてことだ。

 ノエルは扉から手を離して、声の主に背を向けたまま答えない。


「ノエル」


 掠れた声だ。声を枯らすほど泣いたことを、思わせてくる。

 【歌姫】の能力を持っている彼女の声は、疲れを知らないはずなのに。

 掠れた声に、二重の意味で胸が痛くなった。


「ノエルッ! 帰ってきてくれたのね!」


 口を開いて「違う」と言いたい。

 だが、掠れたニセモノの声に、胸が締め付けられて何も言うことができない。

 背中に温もりを感じた。

 彼女の華奢な腕がノエルの腹の前に伸びてくる。

 腰に抱き着かれてしまった。甘い吐息を、背中に感じる。

 その温もりに、ノエルは口を開くことも動くこともなく、腕をだらんとさせた。


「ノエルッ。バカ! どうして、いきなりいなくなったりするのッ! 本当に、私のことが嫌いになったかと思ったじゃない! 私は、まだこんなにも好きなのに……ひぐ、ノエル……」


 彼女がニセモノの声で泣いている。

 ――涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を背中に押し付けられているのかなぁ、せっかくくるみにプレゼントされた服だけど、ああでもくるみから貰ったものだから、別に彼女の涙と鼻水なら平気かもしれない。声はニセモノだけど、それ以外は三年前から変わらないし。

 ぼぅとした頭で、ノエルは適当なことを考えていた。


「ノエルッ。家に入りましょう。外は寒いわ」

「……あったかいですよ」


 やっと絞り出した声は、どこか冷たかった。

 彼女の温もりはあたたかい。けれど、目の前の扉を開けてしまえば、決断したあの時の自分を戒めたくなる。

 くるみの歌声が嫌いなノエルが、彼女と一緒にいるわけにはいかない。


「お嬢様」

「もう、ノエル。お嬢様じゃなくて、くるみって呼んでって」

「お嬢様」

「……なによ、もう」

「俺があなたの傍を離れたら、あなたは歌うのをやめてしまうのですか?」

「え?」


 温もりが離れる。

 振り返ることなく、ノエルはくるみの声だけを聴くことにより冷静さを保つ。

 暫くして、戸惑うように彼女が答えた。


「そんなの……」


 違うだろ? 違うと言ってくれ。


「当たり前じゃない」


 くっそっと叫びたい口を、奥歯を噛み締めることにより堪える。


「私は、あなたのためにいままで歌ってきたのだから」


 なんで。


「あなたが幸せそうに私の歌声を聴いてくれるのが好きだったの。あなたのあの幸せそうな笑みを見られるだけで、私はとても幸せになれたの。それなのに、あなたがいなくなったら、私の歌声を聴いてくれるあなたがいなくなったら、意味がないじゃない」


 くるみが早口に捲し立てる。


「三年前、あの時私はあなたのためだけに〝使い魔〟と契約をしたの。炎でのどが焼き切れる思いがして、痛くて、苦しくて、喉がなくなると思って、そうしたらあなたがいなくなると思って、あなたがいないと、私はどうしたらいいのかわからないし。あなたがいないと、私、もう自分の気持ちを素直に歌えない。やっと、自分の気持ちに正直になれたのに、どうしてノエルに気持ちを伝えた瞬間にどうしてあなたは私の元から離れようとしたの? どうしてッ! 私のこと、嫌いになっちゃった?」


 違う。

 嫌いなのはくるみ自身じゃなくって、その声で。


「どうして、ノエルはあの日から私の声を聞く度に苦しそうな顔をするの?」


 え?


「気づいていたよ。だって、ノエルと十年も一緒にいるんだもん。あなたの小さな表情の変化に気づかないわけないじゃない! 私は、ずっとあなたのことが好きだったから! やっと自分の気持ちを自覚したと思ったのにッ。ノエルは、どうして私と、私と、一緒にいてくれないの? 私の声を聞く度に、どうしてそんなにも苦しそうな顔をするの。私だって、もう、声が、嗄れて苦しいよ」


 泣き疲れた声でまた泣き声を上げるくるみの声が掠れて、痛んで、苦しそうで。

 ノエルは、やっと彼女の顔を見ることができた。

 目を真っ赤にさせた彼女は、色素の薄い茶髪をぼさぼさに振り乱して、マーメイドドレスの裾は汚れて、履いていた赤い靴は脱げて裸足のまま、ノエルの腕を縋りつくように握っていた。


 くるみも、苦しんでいたのだ。

 自分だけだと思っていた。

 自分だけが、この痛みに耐えていると思っていたのに……。

 くるみも、この三年間、ずっと傷ついていたのだ。


 自分のことしか考えていなかったおのれに、思わず乾いた笑いが出る。


「ノエル」


 嗄れて苦しそうな声。

 胸を締め付ける、ニセモノの声。


「お嬢様」


 ノエルは、静かに口を開いた。


「俺は……」


 彼女を傷つけたくない。いままでそう思っていたが、どうやらもうずいぶんと前から彼女を傷つけていたらしい。だったら、はっきりと自分の気持ちを伝えて、きっぱりと別れた方がいいだろう。

 ずっと痛みと一緒にいるより、いまだけ痛みで苦しんだほうが、後から忘れることができるのだから。


「俺は」


 言葉が止まる。

 数刻前に出会った黒髪の〝異端者〟の言葉を思い出した。


 クリスマスの幸せな舞台は中途半端に終わってしまった。だから、もしかしたらくるみの歌声まやくに物足りずにこんなところにやってきたのかもしれない。


 腕に縋りついていたくるみの手が離れ、戸惑うように辺りを見渡す。

 二人の男がいた。


 これが、狂信的な信者か。

 厄介だ、と脳の一部が警鐘を鳴らした。


「だれ」


 掠れたくるみの声。


 眼鏡をかけた優男の風の男が口を開く。


「お迎えに上がりました、我らが姫君」


 意味わからないと言ったくるみの顔。

 ノエルも意味が分からない。


「先ほどの会話を聞いていましたよ。我らが姫君は、どうやらそこの男のためだけに歌っていた模様。ですが、安心してください。我々は用意をすることができます。あなたの歌うための居場所を。我々は、【歌姫ルミ】の歌声を聴くためなら、なんだって致します。必要とあれば、そこの男を姫君のためにどこにも逃げられないように縛って差し上げることもできますよ?」


 優男は陶酔したように、恍惚と微笑んでいる。隣の男も似たようなものだ。

 背筋を嫌な汗が流れていく。


「安心してください。あなたが必要とするその男を、我々は殺すつもりはありません。いくら哀れな〝異端者〟だとしても。我々は、姫君の歌声が聴きたいだけなのです!!」


 狂っていやがる。

 ノエルは腰に手を伸ばした。


 そこにある冷たい感触に寒気がする体を抑えて、ノエルは銃口を男に向けた。

 忠告する前に一発。

 銃弾は、男にあたらずに逸れていく。


「く、くくっ、ちょっと〝異端者〟なにやっちゃってくれるんですかぁ? 〝異能者〟を殺そうとするなんて、汚らわしい〝異端者〟如きが!」


 空気がなった。

 ねじ曲がった外気が襲ってくる。


 くるみが掠れた小さな声で、を囁く。


「やめて」


 空気が振動して、男の異能を粉砕した。


「やめてよ! もう、これ以上ノエルを傷つけないで!」


 掠れた叫び声のを聴いた男が、体を震わせて、背筋をピンと伸ばすと、後ろに斃れた。その隣の男も、同じように倒れる。


 なにが起こった?

 嫌な考えが浮かぶ。


 途切れた息を吐き、くるみが、口を押さえた。


「は……ッは、……くっ」


 言葉を紡ごうとしてもうまくいかないようだ。


「お嬢様」


 男は起き上がらない。

 ノエルは伸ばしかけた手を止めて、蹲るくるみの背中を眺める。


 ああ、そうだった。


 は、人を幸せにするだけのものとは限らない。

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