●5、しがらみ

 もう、これ以上彼女を傷つけたくない。

 だから傍を離れた。

 そういうことにしておこう。


 さて。

 くるみとの距離はもう大分空いただろう。背後を振り返ってみるが、彼女の姿はない。追いかけても来なかった。

 きっと来ないだろうと、そう思っていたけれど。


「これからどうすっかなぁ」


 空を仰ぐ。

 ノエルに行く宛なんてない。

 十年前のあの日、くるみに拾われてからずっと一緒に暮らしてきた。

 それ以外に居場所なんて、あるわけがない。

 だけどあれ以上くるみと一緒にいることはできない。

 あの声に、自分が傷ついているだけならまだよかった。

 だけど交わることのない想いを持つ者同士がいるのは、ノエルだけではなく相手も傷つけてしまう。

 くるみが傷つくのなんて、見ていられない。

 だからいちばん良い選択として、ノエルはくるみの傍を離れることにした。

 そうすれば、くるみの傷は少しずつ癒えて、別の心の底から愛し合える相手に出会えることだろう。

 彼女には歌声がある。人を幸せにできる力がある。

 それを好きになってもらえる人に、出逢って幸せになればいい。

 ノエルには無理だが、きっとどこかにいるはずだ。

 彼女の思いを受け入れて、幸せになれる相手が。


「ん?」


 行く宛なく歩き続けていたノエルは足を止めた。

 背後から気配がする。

 腰に手を伸ばす。

 たしか銃弾は、あと五発。

 もしかして先程の〝異端者〟だろうか。

 気配は、結構近い。

 いや、すぐ後ろだ。


「誰だ」


 すぐ背後にいる人物に、低い声で問いかける。


「誰だろうね」


 気の抜けた、静かな男性の声だ。


「もう忘れたよ」


 適当な笑い声が聞こえる。

 殺気の籠っていない声に、ノエルは拳銃を掴んだまま振り返った。

 そこには男がいた。

 落ちくぼんだ目のひょろりと背の高い、緑色の髪の薄気味悪い男だ。

 にやりと口元を歪め、見た目とは正反対の、友好的な口調で話かけてくる。


「はじめまして、ノエルくん、だったかな」

「どうして俺の名前を」

「そう怖い顔しないでよ。別に私は君を取って食おうだなんて思っていないんだからさ。――名前を知っている方が、なにかと会話がしやすいだろう? だから、ちょっと盗み聞きした」

「……劇場か?」

「そうそう。私ね、君のすぐ後ろでルミの歌声を聴いていたんだよ」

「そうか」


 劇場にいたすべての人々の顔を、ノエルは覚えているわけではない。その中にこの男がいたとしても不思議ではないだろう。後ろの座席なら、なおさら振り返らなければ見えないのだから。


「あの声は素敵だよね。あんなに感動したのは何年ぶりだろうか。いくら異能の力だとしても、歌声というものはすべての人々を幸せにする力がある。だから、素晴らしい。それを、いつも特等席で聴いていた君が、どうしてあそこまで苦痛に歪んだ顔をしていたのかはわからないけれどね。よかったら、教えてくれないかな」

「……それは」


 なんで初対面の相手に、気軽に教えないといけないのだろうか。

 ずっと傍にいたからこそ、苦しかったというのに。

 三年前を境に変わってしまった彼女の声は、本来の彼女の声と全く違う。

 だから、苦しかった。

 それをどうやって説明すればいいのだろうか。

 ノエルが無言なのをなんと受けとったのか、男はそれ以上訊いてこなかった。

 別の質問を投げかけてくる。


「ところで君、〝異端者〟だよね。あ、ごめんごめん。〝異端者〟ってあまり良い言葉じゃなかったね。どうして、能力を持たない人間を〝異端者〟なんて呼ぶようになったのか、私にもわからないんだけど。それでも能力者と区別をするのに、〝異端者〟という言葉は都合がいいからさ。あまり気にしないできいてくれるかい」

「……別に気にしたことはないからな。で?」

「君は、能力を欲しいとは思ったことはないか」

「……」


 なくはない。自分に力があれば、もっと彼女を護れるかもしれないと考えたことはある。

 だけど三年前のあの日から、ノエルは〝使い魔〟と契約したいと思うことはなくなった。

 〝使い魔〟は、人から大切なモノを奪っていく。


「ないな」

「本当かい? 実は私はね、〝異端者〟に能力を斡旋あっせんしているんだ。能力者は多ければ多い方がいい。世界中すべての人々が、〝異能者〟になったら素晴らしいとは思わないかい?」

「思わないな」


 変なことを言う。

 もし世界の人口全て〝異能者〟にしたいというのなら、いちいち〝使い魔〟という制度を作らずに、産まれた人間すべてに異能を授ける神的なものを作ればよかったのだ。

 それなのに、この世には〝使い魔〟がいる。

 〝使い魔〟と契約しなければ、〝異能者〟になれない。

 ふと、おかしいと思った。


「ノエルくん」


 男が静かにノエルの眼を見つめ、そして言った。


「君はなにが欲しいんだい?」

「なに?」

「君がいまいちばん欲しいものはなにかと訊いているんだ。それか、なにかと引き換えにしてでも手に入れたいと思う大切なモノや、ただの想いでもいいよ。君は、なんのために生きている?」

「なんのため? そんなの……」


 ノエルは口を噤む。

 いままで自分は、くるみの傍にいるためだけに生きてきた。

 そこに自分の存在意義があった。彼女を護れるのなら、それに勝る喜びはなかった。

 ノエルは、それを自ら断ち切ってしまった。

 もう、帰る場所はない。

 なんのために生きているのかもわからない。


「生きる目的は人それぞれだ。だから私はそれに口出ししたりしない。人の人生にいちいち口出ししていても、きりがないし、面倒なだけだしね。……ふむ、けれど君はもう目的がないようだ。それは淋しいだろ。だから、訊いたんだよ。君がいちばん欲しいものは、なんだい? 異能は個々の人間の望みを叶えてくれるものだよ」

「欲しいもの……」


 あっと、ノエルは思った。

 三年前のあの日から、ノエルがずっと欲しいと望んでいたもの。

 それは――。


「くるみの、元の歌声」


 偽物じゃない、彼女の歌声。

 それが手に入るのなら、それを聴くことができるのなら。もうそれ以上の、幸せはない。


「そうか。彼女の歌声か。ふむ、それは難しいな。――ああ、いや、ひとつだけあるよ」


 にっこり男が笑うと。


「君が彼女の本来の歌声をご所望とあれば、私がそれに答えよう。なに、難しいことじゃない。私の要求を飲んでくれればそれだけでいい。君が、私の言う〝使い魔〟と契約してくれれば、それだけで十分だ。君は、欲しいものを手に入れることができる」


 翻弄されているような気がした。

 だけどこの男の誘いは甘く、そこに少しでも望みがあるのであれば、手を伸ばしたいとも思った。


「君はまだ彼女と一緒にいたいのだろう? 彼女の歌声を聴きながら、毎日幸せに暮らせる日々を取り戻したいのなら、この要求を飲むべきだ」


 そうすれば誰も傷つくことなく幸せになれると。

 にっこりと、気味の悪い男は笑った。



「ところで、彼女を一人にしていいのかい?」

「……あ」


 くるみはまだあそこで蹲っているのだろうか。

 男に言われて、ノエルは彼女を一人にしてきたことに気づいた。

 でも、その心配は杞憂だろう。

 くるみは〝異能者〟だ。

 〝異能者〟を殺そうとするとち狂った考えを起こすのは、〝異端者〟しかいない。

 〝異端者〟に、〝異能者〟の彼女を殺せるわけがない。

 だから、だいじょうぶだ。


「心配いらない」


 自分に言い聞かせるように、ノエルは呟いた。


「そうか」


 まあいいけどね、という顔で男が笑う。


「で、どうするんだい。ノエル君? 君は、私の手を取ってくれるのかな」


 まるでなにかの芝居のように、男が恭しく右手を差し出してくる。

 目の前のそれを、ノエルは見下ろした。


「時間が欲しい」


 考える時間が欲しい。

 この男の甘美な誘いに惹かれる思いはあるが、同時に〝使い魔〟という存在を疎む思いも湧きたつ。

 彼女をにした〝使い魔〟と契約をして、〝異能者〟になるのを躊躇っている。


「そうか」


 困ったように男は微笑み、右手を戻してどこからか出したシルクハットを被る。

 恭しく一礼をしてから、男は名乗ることなくその場から姿を消した。


「それでは、またね。ノエル君。もし、私の力が入用になったら、いつでも声をかけてくれたまえ。私は、この世界のどこにでも居るからね」





 男と別れてから、ノエルはまた行く宛なく歩き始めた。

 本当にどこに行こうか。

 どこに行けば、自分の居場所はあるのだろうか。


「もうないかもな」


 どこか達観しように呟く。

 いや、実際にないのだから仕方ない。

 彼の居場所は、彼女の傍だけだったのだから。

 自ら傍を離れたのにもかかわらず、ノエルは物悲しさを覚えて、右手を握りしめる。


「えっと、ちょっとそこの人」


 声をかけられたのはまたもや背後からだった。

 拳銃を構える気力もなく、ノエルは振り返る。


 知らない少年がいた。

 長めの黒髪を一つに縛り、前に垂らしている十八歳ほどの少年は、頬をぽりぽりと掻いて言い難そうに言葉を続ける。


「あんた、さっき劇場にいた」

「〝異端者〟か」


 拳銃を構える。

 体が勝手に動いていた。


「え、ちょっとそれやめてよ! 僕は確かに〝異端者〟だけど、その、〝異端者〟であるあんたを殺すつもりはないんだから!」

「問答無用」


 むしゃくしゃしていた。


「あ、あんたは標的に入っていないんだから、殺すつもりないッていってんのにああもうなんでこうも血気盛んなんだよ。さっき女と別れたからか!? そんなもん、〝異能者〟と〝異端者〟が一緒にいること自体が無理に決まってんだろうが!」


 確かに、そうだな。

 ノエルは拳銃を構えながら、うんうんと頷く。

 特に武器を持っている様子のない少年は、早口で捲し立てる。


「僕があんたに声をかけたのは、殺すためでもあの女の居場所を教えてもらうわけでも、だからといってどうして別れたのかそんな恋愛談議に花を咲かせるためでもないんだ! ただ、ボスが、あんたを気にしていて……それで」

「なるほど、俺に仲間になれと。おもしろいな」


 歯を見せて笑ってやる。


「そうそうそう、そうだよ! あんた、〝異端者〟なんだろ? だったら、〝異能者〟と一緒にいるんじゃなくって、僕らの仲間になるといい!」


 悪くはないかもしれない。

 ノエルは考える。

 さっきの男ほどではないが、この誘いも甘美に感じられた。


「なるほど」


 ノエルは呟く。

 少年は笑顔を浮かべた。

 拳銃の構えを解くことなく、ノエルは頷いた。


「だが断ろう」

「なんで!?」

「お前ら《現実主義リアリズム》は、彼女を殺そうとした。それだけで、理由は十分じゃないか?」

「あっそ」


 少年は笑顔を消し、どこか気だるげな表情でつまらなそうにふーんと囁く。


「だったらもうあんたに用はないよ。じゃあね」

「帰すと思うのか?」


 いま、ノエルはむしゃくしゃしている。

 人をひとり殺したら、それは治まるかもしれない。


「帰るよ。ボスに報告しないと――。あ、帰る前にひとつだけ良いことを教えてあげようか?」

「冥土の土産か?」

「違うよ! あんたなんかに殺される僕じゃないからね。――あの【歌姫】、ルミと言ったっけ」


 引き金に指をかける。


「あんたがいないと、死んじゃうんじゃない?」

「何でだ?」


 というか、こいつはなにを言っている?

 意味が分からない。

 ノエルは首を傾げる。

 少年は両手を上げて下げるとういう奇妙な行動をしながら、口を引き攣らせて最後の言葉を口にする。


「だって彼女は、彼女の狂信的な信者以外、ほとんどの人間から嫌われているからさ。麻薬はね、量が多くても少なくても、いけないんだよ。程よくないとね。異能が人を狂わせるように、彼女の歌声も人を狂わせる。彼女の歌声を慕っている人間は、彼女が歌わなくなったらどうすんだろうね?」


 銃声が鳴った。

 少年の頬に、つぅと赤い線が奔る。


「こっわ! 近ッ! 死ぬかと思ったよ。もういいや、帰る!」


 少年は身を翻すと、もう一発撃つかどうか迷っていたノエルの視界から消える。

 残弾はあと四発。

 大事に使うことにしよう。


 ノエルはぼうとした頭で考える。

 くるみは、ノエルがいなくなったからといって、本当に歌うのを辞めるのだろうか。

 生きるのを諦めるのだろうか。


 くるみには、できれば彼女を愛してくれる人間と幸せになってもらいたかった。

 くるみを心の底から想う人と幸せになってくれれば、それだけでノエルは満足だった。

 ノエルには無理だから。

 それを望んでいるだけで、満足だった。


 けれど――。


 ノエルは拳銃の背で頭を掻いた。


 なんのしがらみもなく、彼女の元を離れることは無理なのだろうか。

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