海底の歌姫

花 千世子

海底の歌姫

 私が歌い終えると同時にピアノの演奏もやむ。

りつ、最近、歌い方が雑になってないか?」

 兄のそうの言葉に私は、汗を拭いながら言う。


「えー? そんなことないよー。もし雑に歌ってたとしても溢れる才能がカバーしてくれるって」


 私は胸をはって答えると、踊るように防音室から出た。

 早く自分の歌声をアップロードしたい! みんなに聞いてほしい!

 はやる気持ちを抑えきれず、一段飛ばしで階段を駆け上がり、自室に戻る。


 動画サイトにアップロードし終えると、私はパソコンの画面から目を離す。

 カーテンの隙間から見えるのは薄闇に染まった空。


「学校から帰ってきて、ずっと防音室に篭ってたからなあ」

 私はそう呟いて、ベッドに寝転ぶ。


 部屋が――むしろ家が私以外に誰もいないかのように静まり返っているのは両親が仕事なのと、兄がまだ防音室にいるからだ。


 音楽家の両親のおかげで自由に防音室がつかえる環境があるのは、恵まれていたと思う。

 だからこそ、『海底の歌姫』が生まれたと言っても過言ではない。もちろん理由はそれだけじゃないけど。


 思い出に浸ろうとしたけれど、ひぐらしの鳴き声に我に返り、跳ねるように体を起こす。

 そしてパソコンの画面で動画サイトを確認する。


 私のハンドルネームである『うみ』として動画をアップロードしたのは今から五分前。

 それなのに再生回数はもう千を超えている。

  

「平日の夜にアップロードしても、この再生回数。さすが海底の歌姫」

 私はそう呟いて笑う。


 画面の中では、ペンギンのぬいぐるみだけが映し出された動画が再生されている。

 だけど音声はちゃんと私の歌声だ。


 私のようないわゆる『歌い手』の中には、動画で顔を映したり、首から下を映したりしている子もいる。

 だけどそれは女を武器にして男性ファンを集めているだけの愚かな行為でしかない。

 私はこの歌声だけで人が集まる。


「うーん。再生回数は増えるのに、コメントが少ないような……」

 私がパソコンの画面を見ながら言うと、背後で声がした。

「まだアップロードして十分も経ってないだろー。律は気が早いなあ」


 いつの間にか部屋に入ってきた兄が、笑いながら答えた。


「ちょっと! 勝手に入ってこないでっていつも言ってるでしょ!」

「そんな冷たいこと言うの? もう律の曲を作ってやんないし演奏してやんないからなー」


 兄はそう言ってわざとらしく頬をふくらませる。今年、十九歳になるとは思えない子どもっぽさだ。

 私はため息をついて、クーラーのスイッチを入れながら言う。


「それとこれとは関係ないでしょ」

「つーか俺の部屋、クーラー壊れちゃってさー。直るまで居候させて」

「えー。やだ」


 私が即答しても、兄は意に介していない様子でパソコンの画面を覗き込む。


「確かに最近、コメント減ったかもしれないなあ」

「でしょー。変だよ。やっぱりオリジナルの曲じゃなくてアニソンのほうがとっつきやすいのかも」


 私はそれだけ言うと、床にしゃがみこんだまま頭だけをベッドに預ける。

 兄はパソコンの画面を眺めたまま口を開く。


「そんなにコメントやファンに固執することはないだろ」

「そうじゃないよ。私も動画をアップロードを始めて二年が経ったし、実力もかなりついてきたと思うの。そんな私がアニソンを歌ったら今よりもっとファンが増えるに決まってる!」

「ファンを増やすためだけに歌うのはお兄ちゃん反対でーす」


 兄はそう言うと立ち上がり、「アニメの時間なのでリビングいってきまーす」と言いながら部屋を出て行った。

 再び静かになったので、私はパソコンでSNSサイトを巡回し始めた。


『海底の歌姫』は、ただネット上で自分の歌声を披露しているだけではない。

 同じように歌声を披露している『歌い手』仲間の女の子と交流したり、新人の歌い手の子の相談に乗ったりと結構、忙しい身だ。


 だからネットにもぐっていれば、あっという間に窓の外は闇に包まれるし、そしてすぐに空が明るくなってしまう。

 空が明るくなるにつれ、気持ちはどんどん落ち込んでいく。


 私は何度目かわからないため息をついて、とぼとぼと歩みを進める。

 太陽がじりじりと照りつけ、体が溶けてしまいそうだ。むしろいっそのこと一部だけ体が溶けたら早退できるかな。


 そんなバカみたいなことを考えながら、校門をくぐる。

 やけに新しい白い校舎は、雪山のように眼前にそびえたっていた。


「あーあ。いきなり校舎が爆発しないかな。できれば誰もいない日に爆発すれば被害者は出ないし」 


 心の中の本音が思わず、口から出た途端、背後で吹き出す声。


 驚いて振り返ると、そこに立っていたのはクラスメイトの二野宮拓海にのみやたくみ君だった。


「おはよう、小鳥遊たかなし。朝から物騒な妄想だなあと思ったけど、被害者が出ないでほしいっていう言葉にギャップを感じてさ」


 二野宮君はそこまで言うと、再び肩を震わせて笑い出す。


「あ、えっと、その……」


 私はなんて答えていいのか分からず、笑う二野宮君を見つめることもできず、俯いた。

 でもダメ。挨拶くらい返さなきゃ。そう思って意を決して顔を上げたとき。


「二野宮君おっはよー」

 クラスの女子がそう言って明るく二野宮君に話しかける。

 女子と二野宮君は何やら話しながら歩いて行ってしまった。

 

 私は拳をぐっと握り、女子の背中を睨みつける。

 二野宮君は私に話しかけてくれてたのに!     

 

 トイレの洗面台の前で私は自分の顔を見てため息を一つ。


 美少女に生まれたかったなんて贅沢は言わない。      

 せめて普通の顔なら、私の人生はまったく違ったんだろうな。

 二野宮君にだってどんどん話しかけることができたかもしれない。


 私は大きな大きなため息をつき、それから女子の騒がしい声を敏感にキャッチして急いで個室にこもる。

 洗面台を陣取って悪口を言いながら化粧を直す女子たちが去るのを、息を殺して待つ。


 女子たちの「戻ろー」という声に、私はホッと胸をなでおろす。

 すると、こんな声が聞こえた。


「トイレの住人さー? いるの知ってるんだからね。あんた朝からこもり過ぎ。汚ったなーい」


 女子たちは、下品な笑い声を響かせながらトイレを去って行く。

 私は拳をぐっと握って、歯を食いしばる。


『トイレの住人』とは私のあだ名だ。別にイジメられているわけではない。

 休み時間のたびにトイレにこもっていたら、そう呼ばれるようになっただけだ。


 教室はうるさすぎるし、それに自分の席をクラスの女子に取られるから居場所がなくなるだけ。

 だからトイレが唯一のくつろぎの場所。

 たまに変な奴らがからっていくだけ。それだけ。


 友だちならネット上にたくさんいる。ファンもいる。

 だから、学校で友だちなんかつくる必要なんてない。


 家に帰ると、すぐに自室にこもる。

 そして自分の動画を確認するべく、パソコンでサイトを表示させた。


 コメントを確認してみるけれど、なぜか今日は『キモイ』だの『うざい』だの妬みコメントが目立つ。好意的なコメントが少ない。


「なんでよー!」


 私はガックリと肩を落としつつも、SNSサイトを巡回する。歌い手仲間の女の子が『どうしたら歌がうまくなるのかな』とぼやいていた。


 その言葉を見た瞬間、閃いた。


「そうだ。それだ!」


 私は勢いよく起き上がり、早速、動画を撮る準備を始める。

 もちろん、顔は移さずいつものようにペンギンのぬいぐるみに登場してもらう。


 何をするのかと言うと、歌の上手な歌い方講座を開くのだ。

 私は独学で今の実力を身につけた。


 歌を褒めてくれるのは兄だけではない。カラオケでヒトカラをすれば、男子高生が部屋を覗きにくる(顔を見ると帰ってしまうけど)

 ネット上にもファンは大勢いるし、それに二野宮君にだって昔、褒められた。


 だから私が動画をアップロードし続ければ、いずれはレコード会社からスカウトの声がかかるはずだ。

 デビューをする前に、ファンを増やしておいたほうがデビュー後も有利になると思う。


 それには、もっと今よりもファンを増やさなきゃいけない。

 ファンを増やすためには、歌ってるだけじゃなくて、役に立つ動画もアップロードしなきゃね!

 

 そして、動画を撮り終えるとすぐさまそれをアップロードする。

 一階でアイスカフェオレをつくり、それを持って二階の自室に戻った。


 カフェオレを飲みながら、クーラーの効いた部屋で動画のチェック。なんて優雅なの。

 私は既にプロの歌手になった気分で自分の動画の再生回数を眺める。

 ものすごい勢いで再生回数が上がっていた。


「うんうん。こうでなくっちゃね」


 やっぱり実力がある人が伝授する歌い方のコツってみんな知りたいものなんだなあ。

 そんなことを思いながら、カフェオレを一口飲み、それからコメントを確認。


 一瞬、口にふくんだカフェオレを吹き出しそうになる。

 慌ててカフェオレを飲み込んで、画面をよくよく見た。


 私がさっきアップロードした動画には、すでに沢山のコメントがついていた。

 ただ、そのコメントは好意的なものではない。



   なにえらそうに伝授とか言ってんだよ

   お前、たいしてうまくないだろ



 私は口をぽかんと開けたまま、画面に溢れる批判を見つめていた。

 金曜の夜というのも相まって、再生回数もコメントもどんどん増えていった。


 バカだの死ねだのキモイだの、そういう妬みだったら気にしない。

『最近、調子に乗ってる』とか『プロになってから言えよ』とか、そういう一見まともなコメントも結構あるのだ。


 頭を抱えていたら、兄がノックもなしに部屋に入ってきた。


「律、お前『人気歌い手が教える歌い方講座』なんて動画アップロードしてるけど、これはちょっとどうかと思うぞ」

「なんで?!」

「話し方がすべて上から目線だし、『私はあんた達と違うのよ』っていう雰囲気が出てる」

「そんなの出してない!」

「心でそう思っていると自然と出るもんだ。律は態度に出るから」


 兄はそこまで言うと私の隣に座って続ける。


「そもそもタイミングが悪いよ。昨夜、ちょっとした騒ぎがあった後なのに」

「ちょっとした騒ぎ?」


 私は顔を上げて兄を見る。兄はこくんと頷いてから答えた。


「ほら、ギターの演奏動画をアップロードしてる『絶対零度ぜったいれいど』って男いるだろ?」

「いつも変な仮面かぶって演奏してるけど、すごくうまい人だよね」

「そいつがな、昨日、SNSで『俺は海底の歌姫のファン』って言ったらしいんだよ」

「ふーん。そうなんだ」


 私が興味なく答えると、兄は真面目な顔で言う。


「あいつは律くらい有名だし固定の女性ファンも多い。その男がファンだと言った歌い手の女子高生。さて、どうなると思う?」

「コメント欄を荒らされる。そういえばやたら『死ね』だの『キモイ』だのってコメントが多かったのはそのせいか」

「それに律は最近ちょっと、ファンを増やすことやコメントをもらうことに固執し過ぎてる。ここで少し動画のアップロードを休んでみてもいいかもな」


 兄は穏やかな口調だけれど、どこか突き放すような言い方だった。


「休むって! だって私はその辺の歌い手じゃないの! 私は期待されてるの!」

「律。調子に乗り過ぎだ。今日の動画を明日、もう一度見てみろ」


 兄はそれだけ言うと部屋を出て行った。

 私は怒りで頭に血が上り、クッションをドアに向かって投げつけた。


 そして、動画に溢れる批判コメントに向かって叫ぶ。


「せっかく教えてやったのになんで私が責められるのよー!」



 月曜日の朝。

 私は鉛のような体を引きずってなんとか学校へ行った。

 今日で始業式。今日を生き延びれば夏休みがやってくる。


「でも、もう私の居場所はネットにはなくなっちゃったけど」


 そう呟いて自嘲したように笑う。


 私が歌い方のコツを教えた動画は批判コメントで荒れに荒れ、さらには他の歌の動画にまで批判コメントがつく始末。

 これもすべて絶対零度が悪い。あいつが私のことをファンだなんて公言しなければ……!


 怒りを抱えたまま教室に入ると、私の席はいつものように女子グループに占領されていた。


 トイレに逃げ込もうとした時、こんな声が聞こえてくる。


「じゃあ、ルナのメイクレッスンー」


 そう言って一人の女子が他の女子たちに化粧の仕方を教えていた。

 ただ、その光景は周囲が教えてと言っているのではなく、ルナという女子が勝手に始めただけのような雰囲気だ。


 少し離れたところからその光景を見ていた別のグループの女子がひそひそ言う。


「ルナってさー。メイク大してうまくないのにやたら人に教えたがるよね」

「そうそう。確かにルナは元の顔がいいからメイク下手でもマシに見えるけどさー。はっきり言ってあの子から教わることはなにもないでしょ」


 そう言ってくすくすと笑い合う二人に心の中で納得する。

 確かにルナは、普段メイクをしない私から見ても下手なほうだと思う。

 それなのにうまいと勘違いして、挙句の果てに人に教えるだなんて……。


 私はそこでハッとする。

 もしかして、私のあの歌のコツを教える動画もこれと似たようなもの?

 だけど私は下手じゃない。実力がある。

 そう思って急いで教室を出た。


 トイレの個室にこもり、そして息を吐く。

 私、本当に、実力があるの?



 家に帰って、自分の動画を恐る恐る見てみた。


『こんばんは! あなたの海こと海底の歌姫です。今日は私が特別に歌がうまくなるコツを教えちゃいまーす!』


 私はそこで動画を停止させる。もう画面が直視できない。なにこれ痛々しい。

 すぐにその動画を削除し、それから今まで歌った動画も聞いてみる。


「そんなに思っているほどうまくない」


 私はそう判断して、動画をすべて削除し、それからベッドにダイブした。

 目を閉じると、今日、ルナに付き合わされていた女子たちが苦笑いを浮かべている光景が浮かぶ。


 あれと同じことを私はネット上でやっちゃったんだ。全世界から見られる動画だけに私のほうが断然、たちが悪い。

 私は枕に顔をうずながら、ほとぼりが冷めるまでこのまま寝てしまおうかと本気で考えた。

 

  


「律。新曲できたし、そろそろ歌う?」


 兄がご機嫌で私の部屋に入ってきたのは、それから十日後。


「もう歌わない」


 私はタオルケットですっぽり顔まで覆って答える。


「え?! なんで?!」

「もう恥ずかしくて歌えないよ。動画もSNSサイトも全部アカウント削除した。海底の歌姫は死んだの!」


 くぐもった声で叫ぶと、兄は黙りこんだ。


「お前が歌う理由は、ネットでチヤホヤされるためなのか?」

「違う!」

「違わないだろ!」


 兄の強い口調が部屋に響き渡る。

 私はタオルケットをぎゅっと両手でつかむ。


「俺が律の曲をつくっていたのは、ネットでチヤホヤされて調子に乗るためじゃない!」

「じゃあなに」

「律が歌うことが楽しいって言ってたからだよ!」


 私はそこでハッとする。楽しい。最近、そんな気持ち、感じてない。


「いつか二野宮君とカラオケに行くことがあったら、褒めてもらうんだって言ってた律が懐かしいよ」


 兄は寂しそうに言うと、部屋を出て行った。

 ため息をつき、それから目を閉じると、自然とあの日の記憶がよみがえる。

 二野宮君と初めて話した日。



 中学二年生の時に、私はクラスの男子にイジメられていた。

 その日も男子にさんざん悪口を言われ、ブスという理由だけでばい菌扱いをされ、泣きながら下校をしたのだ。


 目が真っ赤に腫れ過ぎて、こんな状態を両親に見せると心配をされるから少し冷やして帰ろうと土手に座った。

 オレンジ色の夕焼けを見ていたら、また涙がこぼれそうになって、慌てて私は顔を上げる。

 そして、元気になれる曲を口ずさんだ。


 歌を歌うような気分じゃなかったけれど、泣くとまた目が腫れる。それだけの理由だったけれど、歌っていたら悲しみが吹き飛んでいった。

 結局、一通り歌い終えてしまい気づくと背後で拍手が聞こえた。


 驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、二野宮君。

 二年生の時はクラスは違ったけれど、一年生の時に同じクラスだったからかろうじて覚えていた。


『歌、すっごくうまいんだな! プロになれるよ!』


 二野宮君はそう言うと、優しい笑みを見せた。

 その言葉はとてつもなく大きくて、そして私を包み込んでくれたのだ。


 胸がすっと軽くなり、幸せな気持ちで満たされる。

 二野宮君の言葉で私は救われた。

 それと同時に彼を好きになったのだ。


 海として歌い手を始めたのは、それからすぐのこと。


 最初は歌うことがただ楽しいという理由だった。

 歌っていられればそれだけで幸せだって思っていたんだ。

 またあの頃のように純粋に歌うことを楽しみたい。

 そう思って兄に演奏を頼んで、防音室へ向かった。


「何を歌う?」


 兄にそう聞かれて、私は迷わずこう答える。


「『タイガー』って曲。アニソンの」

「懐かしいな。わかった」


 兄が伴奏を始めると、私は目を閉じた。


 土手で歌っていて、二野宮君に褒められた曲だ。

 初心に戻るためにも、この曲を歌って気持ちを切り替えたい。

 息を吸って歌い始めた。


 異変に気づいたのはその直後のこと。

 兄がピアノを弾く手を止める。


「どうした?」

「なんだかうまく歌えない」

「気合い入れすぎだよ。久々だし、忘れたのかもな。じゃあ最近の曲な」


 兄が別の曲を弾き始め、私は再び歌い始める。


 おかしい。声がうまく出ない。

 散々、練習した曲だから歌い方を忘れるはずはないのに。


「律、どうした? 顔が青いぞ」

「え?! そうなの?」


 慌てて頬に手を当てると、そのときにようやく額に汗をかいていることに気づく。

 暑いからじゃない。

 調子に乗っていた自分を思い出して、声を出したくても出せなくなる。


「今日はやめておこう」


 兄がそう言って防音室を後にした。

 私は目の前が真っ暗になってしゃがみこんだ。


 歌えなくなるかもしれない。

 それがこんなに怖いことだとは思わなかった。


 歌えなくなったんじゃない。精神的なストレスのせいだ。一時的なものだ。

 兄はそう言ってくれたし、自分でもそう思う。


 それでも、私はなぜか焦りがあった。

 動画をアップロードしたいわけじゃない。

 もし、このまま歌えなくなったら……。


 そう思うと居ても立っても居られなくなる。

 私はそれだけ歌うことが好きなんだ。

 今さら気づくなんて、遅すぎるよ。

      

 それから数日後に、私はヒトカラへ行った。


 気楽に楽しく歌うにはカラオケが一番だと思ったから。

 狭くて煙草くさい部屋で、私は何を歌おうかと曲を選ぶ。


 本当は、歌うのが怖い。

 だから、なかなか曲を入れられない。


 タッチパネルを操作する手を止めて、ドリンクバーのジュースに口をつける。

 頭の中でぐるぐる回るのは『タイガー』の曲。

 昨夜、久しぶりに何度もリピートして聴いて、感覚を取り戻したからいつもなら完璧に歌えるはず。


 だけど、今は違う。うまく歌える自信がない。


「とにかくまずは歌わないと」 


 私は意を決して、タッチパネルの『送信』ボタンを押す。

 何度も何度も聞いた前奏が流れる。

 私はマイクを握り、大きく深呼吸。


 緊張で心臓がとくとくと早くなるけれど、気にしない。

 画面に字幕が映り、私は歌い出す。


 頭の中に、偉そうに動画を撮ったり、仲間を見下したりしていたことが思い出される。

 途端に、声が出なくなり冷や汗が額に滲む。


 やっぱりダメだ。歌えない。こんな気分で歌いたくない。

 そう思って、マイクの電源を切り、テーブルに置こうとした瞬間。

 ギターの演奏が聞こえてきた。


 驚いて辺りをキョロキョロと見回してから、ここのカラオケの壁が薄いことを思い出す。

 ギターは隣の部屋から聞こえてくるのだろうけど、まるですぐそばにいるみたいだ。

 マイクをテーブルに置いたところで、気づく。


「あれ? これ『タイガー』だ」


 私はそう呟いて、隣の部屋がある右側の壁を見る。

 隣人がギターで演奏しているのは、私が今歌えないと判断した『タイガー』だった。


 センス良くアレンジされた演奏には聴き覚えがある。

 私はスマホを操作して、スマホの画面に動画を表示させた。

 動画には『生演奏中』という文字と共にこの部屋とそっくりの内装が映し出されていた。


 変な仮面でギターを弾くのは『絶対零度』だ。

 ちょうど動画の中でも『タイガー』を弾いている。


「じゃあ、隣の部屋でギターを演奏しているのは……」


 私は驚きと共に、闘争心が湧き上がってきた。


 きっと『絶対零度』は私がこの曲を入れて、歌おうとしたから演奏したのだろう。

 どういうつもりか知らないけど、ここで歌わないのはなんだか負けた気分だ。


 私は大きく頷くと、再びマイクを握る。

 そして途中から歌い始めることにした。

 蘇る嫌な思い出を振り払う。


 この曲は、二野宮君が褒めてくれた曲なの! 嫌な思い出なんかに上書きされてたまるもんか!

 私はマイクを強く握り、震える手を無視して、額の冷や汗を吹き飛ばし、歌に集中する。


 すると、頭の中で二野宮君の優しい笑顔が浮かんだ。

 私は彼の笑顔に向かって歌う。


 隣のギターの演奏に私の歌がぴったりとはまる。

 まるで私の歌声を優しく包み込むようにギターの音色が響く。

 私が高音を出せば、ギターも合わせてくる。


 テンポの速い部分では、私の気持ちを高めるようなアレンジをしてきた。

 カラオケの伴奏など、すでに耳に入っていない。


 私は、絶対零度の演奏で歌っているんだ。

 なんて気持ちいいの!


 優しく包み込むような演奏が、まるで二野宮君と一緒にいるみたい。

 

 歌い終えて、私はハッとする。

 二野宮君と一緒にいるみたいな演奏。

 それは、絶対零度の正体が、ううん。まさか。


 でも、もしかしたら……。

 確かめにいこう!


 興奮が冷めない私は、勢いだけで部屋を飛び出す。

 すると同時に隣の部屋のドアも開く。


 隣の部屋から出てきた人を見て、私は驚きというよりはうれしさでいっぱいになる。


「中学の頃よりずっとずっとうまくなった。またファンになったよ」


 二野宮君がそう言って照れくさそうに笑う。

 私は精一杯の笑顔を見せた。

  

<了>

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海底の歌姫 花 千世子 @hanachoco

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