「割れた窓硝子」

【1】

 宅配ピザ屋のドライバーもこんな感じなのだろうか、と筧月春かけい つきはるはぼんやり考えた。

 場所は「喫茶店マイティ」にある、備品庫に偽装されたエレベータの中だ。向かう先は彼の職場である《魔術協定機構まじゅつきょうていきこう》の地下事務所だ。

 上司の迫水隼人さこみず はやとから招集の連絡を受けたのが四十分ほど前のことだ。

 筧自身、なんの前触れもない連絡にはもう慣れっこだ。しかし午後いっぱい、体育の授業で思う存分動かした彼の体は疲労でクタクタだった。

 突然呼び出されて事務所へ向かう自分と、注文が入ってすぐ配達に出かけるドライバーの姿を重ね合わせたのも、疲労によって思考が鈍化したことが原因だ。

 やがて秘密のエレベータは完全に停止し、ゆっくりと扉が開いた。

 扉の先にある殺風景な事務所にいるのは呼び出した張本人である迫水隼人と、同僚である比良塚真刀伊ひらつか まといのふたりだ。

「おっ、揃ったね。 じゃあ、早速で申し訳ないけど話を始めようか」

 と、言いながら迫水は一枚の地図を取り出した。

「さて、今回魔力の反応があったのはこの地域だ。 都心にほど近くて高層ビルも多い、いわゆるオフィス街ってやつだね」

「私たちに仕事が回ってきたということは……」

「また未登録の魔術師が使ったか」

 前者は比良塚、後者は筧の言葉だ。

 説明の手間が省けて気分が良いのか、迫水はニコニコ顔でうなずいた。

「その通り。

 前回と同じで詳しい場所や使用された魔術の種類までは特定できていない。 そこで君たちふたりには魔術師の捜索、および確保に取り組んでもらいたい」

 筧は慣れた手つきでスマートフォンのメモ帳機能を使い、現場住所を控えておく。

「分かりました。 早いうちに良い報告ができるよう取り組みます」

「おぉ、良い心がけで大変結構。 ただ、性急な捜査は必ずどこかでボロが出ちゃうから慎重に、あくまで冷静にね」

 ニコニコ顔を崩さない迫水のアドバイスに比良塚も無言でうなずきを返す。

「さてと、では捜査開始といこう」

 迫水は持っていた地図から指を離した。

 重力に引かれて地図は下へと落ちていく。しかし、その端が床に触れるよりも先に紅色の炎に包まれて、燃え上がった。

 後には灰も塵も残らない。化学の目線からでは絶対にありえない、完全なる燃焼だった。

 迫水の刻印魔術による「景気づけ」を見届けてから筧と比良塚は踵を返す。比良塚はエレベータの方に向かっていくが、筧は背後から迫水に呼び止められた。

「あぁ、筧くんにはちょっと話があるんだけど、いいかな?」

 筧は先を行く比良塚に目配せする。

「ではマイティで待機しています」

「頼むわ」

 比良塚が扉の向こうに消え、エレベータの上昇音を聞いてから迫水が話を切り出す。

「ちょっと、妙だね。

 登録のない魔術師が魔術を使うのは決して珍しいことじゃない。 でもこの頻度は気にかかる」

「先週捕まえたゴーレム使いはなにか喋ったんすか?」

「上は慎重に取り調べを進めているみたいだね。 でも、僕みたいな一拠点の所長にその情報を流すつもりはないだろうねぇ」

「その割には俺たちに仕事を投げてるんですよね、上の方々は」

「検出した反応を見る限り、使われている魔術そのものはそこまで大規模じゃないからね。 だから、ウチみたいな小さい事務所でも解決できると思われているのかも」

「見くびられてるのか、信頼されてるのか複雑な気分ですね……」

 筧の言葉に苦笑する迫水だったが、少し間をおいてから神妙な面持ちになる。

「……明らかに上はなにかを隠したがっている。 その片鱗であれ、君たちは関わりを持ち始めているのだから、よくよく用心するんだ、いいね?

 少しでも悪い予感がしたら必ず僕に報告してくれたまえ。 部下の身を案じ、守ることも上司の大切な仕事だからね」

「ありがとうございます。 気になったことは逐一報告するようにします」

 筧の返事を聞いて迫水はニコニコ顔に戻った。

「じゃあ、上に比良塚さんを待たせてるんで。 いってきます」

 改めてエレベータに乗り込み、筧は地上を目指した。


【2】

 魔力が検出された現場は、迫水が言っていた通り、オフィス街の一角であった。片側二車線の道路のそばにはオフィスビルがいくつも立ち並んでいる。

 また、道路に沿う形で街路樹が等間隔に植えられており、夕日を浴びた枝葉が歩道に影を落としていた。

 時刻の関係もあり、歩道上には業務を終えたサラリーマンの姿があちこちに見える。

「しかし……交通量と人が多く、建物も大きいこの通りで上手く原因を見つけられるでしょうか」

 比良塚の疑問には筧も共感する部分があるのか、苦い顔をしながら口を開いた。

「それが学生って身分の辛いところだよなぁ……。 警察手帳とかあるならすぐ聞き込みできるのに」

 自然と視線が下へ向く筧に対して、比良塚は前と上方向の観察を怠らなかった。

 そのためか、異変には比良塚だけが気づいた。

「あれは……」

「どうした?」

「道路を挟んだ向かい側のビルを見て下さい」

「ビルがどうかしたのか?」

「中ほどより少し上の辺り、窓に板のようなものが付けられていませんか?」

 眉間に皺を寄せながら、筧は比良塚に指示された場所を注視した。確かに、一枚の窓に内側から木の板が貼り付けられている。

「確かに、そうだな。 多分、窓が割れて応急処置として貼り付けたんだろ。

 それが気になるのか?」

「はい。 向かって右隣にあるビルの窓も同じように割れているので」

「なに?」

 驚きと疑問の声を上げつつ、筧は視線を右隣のビルに移した。

 すると、先ほどと同じ高さにある一枚の窓が内側から塞がれているのが見えた。こちらを塞いでいるものが木の板ではなく、カーテンにも似た布という違いはあるが。

「更にその右隣も、同じような割れ跡があります」

「……」

 つい先ほどまで浮かべていた苦い表情を消し、筧は更に右隣のビルを見た。

 やはり、同じ高さにある窓が一枚だけ割れている。こちらも木製らしい板で内側から塞がれていた。

 ビルの窓が割れること自体は珍しくもなんともない。しかし、三棟連続で、しかも同じ高さにあるものが割れている事実は筧に強い違和感を抱かせた。

 さらに、筧は気づいた。

「割れた窓が応急処置のままなのは、業者がまだ交換してないってことだよな。

 つまり――」

「あの三棟の窓が割れたのは比較的最近、ということですね。 あくまで推測ですが、一枚目からあまり時間をおかずに二枚目、三枚目が割れた可能性は非常に高いはずです」

「向こう側の歩道に行ってみよう。 もう少し詳しいことが分かるかもしれない」

 横断歩道を使って四車線を横切る。

 ビルが車道に沿って並んでいるのはこちら側も同じだが、やはり割れている窓がひとつでもあるとそれなりに目立つ。三棟連続なら尚更だ。

 少し歩いて、三棟のビルを観察する。

 入り口脇の案内を見る限り、右のビルから銀行系、商社系、IT系であることが分かる。

「業種はどれもバラバラ……ですね」

「共通点はビルの並びくらいか。

 さて、学生がこのビルに入るなんてできそうにないし……せめて【空木うつろぎ】が使えれば中の様子を探れそうだが」

 【空木】は言ってしまえば「瞬間移動」を実現する魔術だ。ものの一瞬で使用者を別の場所に移動させることができる。

 しかし、もともと膨大な魔力が必要な上、移動距離に比例した追加の消費も発生する。ゆえに【空木】での移動には距離的な限界があると《協定機構》内では認識されている。

「まぁ、俺は話にならないけれど比良塚さんは使えたりするの?」

「ほんの数メートルが限界ですね。 習得途中なのでそれ以上は到着地点に誤差が出てしまいます」

「それだと、ちと厳しいな」

 流石にビジネスビルの前を学生がうろついていたら怪しまれると思い、ふたりは三つのビルから離れ、歩きながら問答をした。

「魔術を使った潜入は難しいか……」

 IT系企業が入るビルの、ふたつほど左にある建物の前をふたりは横切る。

 筧は顎を撫でながら眉に皺を寄せた。

 あれらのビルから分かることが想定よりも少なかった以上、地道な聞き込みにシフトしようかと考えていた、その時だった。

 ふたりの頭上にてパリン、とガラスが割れる音が響いた。

 それを耳にしたふたりの行動は違った。

 比良塚は音のした方に視線を向け、筧はそんな彼女の手を引いてその場から離れたのだ。

 音が鳴って五秒と立たないうちに細かいガラスの破片が降り注いだ。幸い、刃のように大きなものはなく、いずれも砂粒のような欠片ばかりだった。

 比良塚はしかと見た。

 割れたのはIT系の左隣にあるビルの窓だ。しかも、窓の高さはこれまでと全く同じである。

 しかし、割れた窓の位置よりも比良塚はなぜ左隣で割れたガラスの破片が、自分たちの真上に降ってきたのかが気にかかった。

 その疑問も、筧の呼びかけで僅かに遠ざかる。

「大丈夫か、比良塚さん」

「は、はい、大丈夫です。 どうもありがとうございました」

 比良塚は筧に一礼した後、もういちど割れた窓の方を見たが、これ以上破片が降ってくる様子はない。

 歩道を行く人は多い。

 窓の割れる音を聞いたり、破片を避けた人は筧や比良塚の他にも数名いた。そのうち、背広を着た三十代ほどの男性が放った言葉を筧は聞き逃さなかった。

「ったく、またかよ……」

「また? 同じようなことが以前にもあったんスか」

「あぁ? ……いやこのところ、連日でビルの窓ガラスが割られてるんだよ。 決まって場所はこの辺り、しかも同じ時間に割られるときた」

 男性は忌々しそうな表情で筧の質問に答えた。

「窓ガラスがどの順番で割られたか覚えてたりします?」

「そんなの子供でも覚えられる。 そこ、そこ、そこの順番だ」

 男は銀行系、商社系、IT系の順番でビルを指差した。つまり、ビルの並びと窓ガラスが割れた順番は一致することになる。

 見知らぬ高校生からの質問を不機嫌に思ったのか、男は「もういいだろ」と言いたげな視線を筧に向けた。

 筧は苦笑しながらペコペコと頭を下げ、「どうもありがとうございました」と繰り返す。それを見た男はフンと鼻を鳴らすと立ち去っていった。

「なぁ、比良塚さん。 俺ちょっと気になることがあるからさ、明日は別行動してもいい?」

「奇遇ですね。 私も同じ提案をしようと思っていたところです。 少々、引っかかることがありますので」

「じゃあ明日の調査は別々に、ってことで。 なにか分かったら連絡する」

「了解しました」

 その日の調査はこれで終わりだった。


 翌日である土曜日の昼前、筧は都内のゲームセンターにいた。

 格闘対戦ゲームの筐体を前に、レバーとボタンを操作して攻撃するのだが、対戦相手の体力が減る気配は一向にない。その理由は対戦相手の方が筧よりも格上で、彼の攻撃をひらりと回避してしまうからである。

 むしろ、筧が操作しているキャラクターの方が、反撃不能のコンボを受けて一気に体力を減らされている。やがて「KO」の文字が筧の敗北と、対戦の終了を告げた。

 筧は「はぁ」とため息をつきながら画面の前でうなだれた。

 一方、筐体の向こう側からはクスクスという笑い声が聞こえてくる。

「また、ボクの勝ちだね」

 そんな台詞と共に歩み寄ってくるのは、ゲームの対戦相手である。

 彼と同い年くらいの少女だ。

 顔は生気が吸い尽くされたように白く、常に薄ら笑いを浮かべている。それでいて、目には勝負師特有のギラついた輝きが浮かんでいる。

 着ているのが大きめのパーカーであるため、そのふわふわとした髪はフードで大半が隠れてしまっている。

「相変わらず強いな、真白マシロ

 真白、と呼ばれた少女は眠たげにも見える表情のまま口元だけでクスクスと笑う。

「まぁ、やりこんでる時間が違うからね。

 ……それよりも筧さ、ボクと遊ぶことが本当の目的じゃないでしょ。 要件があるなら受けるよ」

「察しが良くて助かる」

 筧は真白以外に聞き耳を立てている者がいないかそっと辺りを見回した。

 格闘対戦ゲームは店の隅にある上、周りの筐体からは効果音やBGMが常に鳴り響いている。小声で話せば内容を知られることはない。

 ゆえに注意を向けるのは周囲数メートルの範囲内で良い。

 「情報屋」と話す前の、筧の癖だ。

 ふたり以外に誰もいないことを確認した上で、筧は昨日訪れたオフィス街の住所を記したメモを真白に見せた。

「最近、ここに記した近辺のビルで窓が割られる事件が相次いでいる。 犯人がどうやって割ったのか、具体的な手段が知りたい。

 なにか情報は入っているか?」

「……あぁ、この辺りか。 その件ならボクも知ってる。 なんでも飛び道具を使って割られたって話らしいよ」

「飛び道具?」

 筧の質問に、今度は真白が一枚の写真を取り出した。

 どこかの建物内なのか、カーペットの上にガラス片がいくつかと、一本の矢が乗っている。

「矢……?」

「そう。 厳密には、リカーブボウの矢だね」

「アーチェリーか」

 真白は頷く。

「出処は話せないけど、この写真は窓が割られた直後に撮られたものだ。 恐らく、矢そのものへ細工はほとんどされてないだろうね」

「となると、犯人がどうやってこの矢を窓に命中させたか、だな」

 思案顔の筧を見て、真白が口を開く。

「お得意さまの筧に豆知識をひとつサービスしておくよ。

 洋弓における矢のヴェイン……つまり羽は、初心者だと大きいものを、上級者だと逆に小さいものを使うことが多い。

 さっきの矢はどちらかというと小さい羽を使っているね」

「……これを射ったのはアーチェリーの経験者。 しかもかなりの腕の持ち主、か」

「いまのところボクが持ってる情報はこんなところかな。 もう少し時間が経てば詳しいことも分かるかも」

「ありがとう、真白。 ひとまずは今教えて貰ったことから捜査を進めてみるよ。

 代金はいつも通り事務所の方にツケておいてくれ」

「はいはい。 まぁ、事件が少しずつ進展することを期待しているよ」

「…………『少しずつ』なのは、客足を絶やさないためか?」

「まぁね。 それと、下手の横好きも良いけどゲームの腕をもっと磨いておくことだね。

 君がさっき使っていたキャラクター、一撃は軽いけど技を繋げやすい。 まずはコンボを覚えてみなよ」

「ご助言どうも。 暇を見つけて練習しておくよ」

 手をひらひらと別れの挨拶代わりにして筧は情報屋のもとを後にした。

 残された真白は格闘対戦コーナーを離れ、今度は音楽ゲームの筐体へと足を向けた。


 ゲームセンターを後にした筧はスマートフォンを取り出した。比良塚に連絡を入れるためだが、迫水からメッセージが届いていることに気づいた。

『やっぱり、昨日も件の地域で魔術の使用が観測されていたみたいだね』

 今朝、迫水に送っておいた問い合わせに対する返信だ。

 聞いた内容は、昨日も魔術の反応が検出されたかどうか確かめるもの。窓が割られる事件と魔術の使用頻度が一致していることから投げかけた質問だった。

 メッセージを確認してから、筧は比良塚の電話番号をタップした。

 三回ほどコール音が鳴って比良塚本人が出た。

「もしもし比良塚さん、筧だけどひとつ分かったことがあるから報告しておく。

 窓ガラスはどうやらアーチェリーに使われている矢が当たって割れたらしい。

 しかも、入門者や初心者じゃなくてある程度経験を積んだ奴みたいだ」

『こちらもわずかではありますが、収穫がありました』

 そう話す比良塚の声に混じって、強い風の音がスピーカーから聞こえてくる。

「ちなみに比良塚さん、今どこにいるの?」

『昨日の現場近くにあるビルの屋上です。

 あの時は気が付きませんでしたが、事件が起きたビルの中層以上には強い風が常に吹いていることが分かりました。

 しかも、規則性を持っています』

 比良塚の説明はこうだ。

 風はビルの正面を走る片側二車線の道路に沿う形で吹いている。そして、風向きは銀行系―一番最初に窓を割られたビル―側から、昨日の四番目に割られたビルがある方へ、と決まっているらしい。

 複数のビルを屋上まで登った上で確かめたのだと彼女は説明した。

「屋上への入り口とか、普通なら閉鎖されていそうだけど……」

『侵入には【空木】を使いました。 鍵のかかった扉を越える程度なら、数メートルの瞬間移動でも十分だったので。

 ひとまず、ここまでの情報で犯人像は浮かび上がりそうですか?』

「まぁ、どうやって窓を割ったのか、方法については検討がついた。

 恐らく犯人が使っているのは【風の魔術】だろう。

 まず、それこそビルの屋上みたいな高い場所を射点にして、犯人は矢を放つ。 放たれた矢は強いビル風に乗るわけだが、この時に風を操る魔術を使って、進路や速度を調整したんだろう。 矢は通常ではありえない距離を飛んでいく。

 あとは、目標に近づいたところで一気に方向を変えるだけ。 窓は速度のついた矢に激突されて砕けるって寸法だ。

 比良塚さんが調べた通りなら、風向きから射点を割り出すことはできる……けど」

『けど、どうしましたか?』

「犯人が魔術に頼ってまで窓を割ろうとする理由がまだ分からない」

『その射点をつきとめれば新しい手がかりが見つかるかもしれませんね』

「……そうだな。

 とにかく、一度合流しよう。 俺もそっちに向かう」

 通話を終えた筧の足は、最寄りの駅に向いた。


「絶対、とは言い切れないけど、ここだな」

 とあるビルの屋上で筧は呟く。

 眼下には片側二車線の道路が伸び、その両脇にビルが立ち並んでいる。まるで巨大なサンドイッチの断面みたいだと筧は思った。

 今回、窓は四つのビルの並びに従って順番に割られた。向かって右側から一、二、三、四と数える形だ。

 その一番目のビルよりもさらに右へ進んだ先にある建物こそ、筧がいるビルである。

 先に挙げた四つのビルの前を走る道路は、この建物の正面で別の道路と直角に交わり、T字路を作っている。

 このビルの屋上は平らな部分が多い。緑化活動の一環なのか、レンガで囲われ、土を敷き詰めた花壇が設けられているほどだ。

 そんな花壇の近くにしゃがみ、犯人の痕跡を探していた比良塚が筧を呼ぶ。

「筧さん、ここに靴跡が残っています」

 彼女が指差すのは花壇の一角だ。

 確かに、その一部分だけ土が窪み、足裏の型がしっかりと残されている。

 さらによく観察してみると、花壇以外の床上にも土によって靴跡が残されていた。

「靴裏に土を付けたまま歩いたな……歩幅から考えて、身長は一七〇から一七五、靴のサイズは二七センチメートルくらいか」

 腹ばいになった筧はスマートフォンのカメラを使って、残された靴跡をなるべく詳細に撮影しておく。

「今回の事件を起こした犯人とはまだ断定できないけど、この場所に人の出入りはあったらしい。 しかもごく最近だ」

 比良塚が挙手する。

「あの、筧さん。 ここが射点だとしたら待ち伏せして犯人を捕まえることができるのではないでしょうか」

「良い提案だ。 早速やってみよう」

 こうしてふたりは、屋上の片隅で犯人を待つことになった。

 「きっと今日中にカタがつく」、筧も比良塚も言葉にこそしなかったが考えていることは同じであった。

 待ち伏せを始めてから一時間が経ち、二時間が経ち、やがて犯行時刻の夕方になったが屋上には誰も現れなかった。

 念のため更に一時間待ってみたが、やはりそれらしい人物が現れることはなかった。

 この日、魔術の使用が協定機構によって観測されることはなかった。


 帰り道で筧は思わず唸った。

 一歩分遅れてついていく比良塚も思案顔のままだ。

「なぜ犯人は現れなかったのでしょうか」

「…………」

「昨日まで窓は連日で割られていました。

 でもどうして今日だけ……あぅ」

 比良塚が思わず声を上げたのは、前を歩いていたはずの筧が突然足を止め、彼の背中に額を当ててしまったからだ。

「筧さん?

 急に止まってどうしたんですか」

 筧は比良塚の言葉に応じない。

 軽く握った左手は下唇を抑え、右手の人差し指は腿の辺りでリズムを刻んでいる。

 筧が熟考する時の癖だ。

 その視線は前を向いているが、焦点は自分の正面ではなくずっと遠くに合わせている。

 まるでその先に答えがあるかのように。

 ひとりで自分の世界へと没入した姿に気圧され、しばらく比良塚は筧に声をかけることができなかった。

 彼女が我に返ったのは二、三十秒ほど経ってからだ。慌てて筧の肩に手を伸ばす。

「筧さん、考え事なら一度どこかに腰を落ち着けてからの方が――」

 比良塚の指先が触れるか触れないか。そんなタイミングで、筧の目の焦点はようやく真正面を捉えた。

「そういうことか」

 比良塚は伸ばしかけた手を止め、筧の顔を見た。真正面を見ていた彼の視線は、わずかに変わって斜め前の方を向いた。

 その先にあるのは、駅近くに位置するビルの壁面に取り付けられたデジタルサイネージだ。画面上には様々なコンテンツが並んでいるが、一番目立つ位置には今日の日付と曜日、そして時刻が表示されている。

「比良塚さん」

 ぐるんと筧の体が比良塚の方を向いた。

「は、ひゃい」

 突然のことだったので返事が裏返る。

「今日の捜査はここまでにしておこう」

「で、では明日は何時頃に集まるか決めておきませんか?」

「いや、明日は休みにする。 理由は後日話すけど、きっと明日も犯人が射点に現れることはない。

 集合するなら明後日だ。 そこで勝負を決める」

 明日も犯人が現れない理由。

 明後日なら勝負を決められる理由。

 そして、筧がサイネージを見た理由。

 全てをこの短時間で考えてみたが、比良塚は答えを導き出すことができなかった。

 だが筧の様子を見て、彼が答えを掴みかけていることだけは分かった。

 自分には分からず、彼が分かっている状況に悔しさと頼もしさの両方を感じつつ、比良塚は首を縦に振った。


 翌日、日曜日。

 昼の十二時を少し過ぎた頃、筧は真白とはまた別の情報屋を訪ねていた。

 場所は東京、原宿にある服飾店だ。筧と歳の近い若者たちで賑わう店内だが、目当ての人物はすぐに見つかった。

「あーら、ツッキーじゃないの」

 屈強な上腕二頭筋に、綺麗に剃り上げられたスキンヘッド。そしてレンズが薄い赤色のサングラスをかけた、身長二〇〇センチ近い大男がのっしのっしと近づいてくる。

「もーう、ダメじゃなーい!

 このところずっと来てくれなかったから、アタシずっと寂しかったのよ!」

 そんな大男が腕を広げて、筧の体を抱擁した。かと思うと、わずかに青い顎で筧の頬を撫で回す。

「いたたたた、ごめん、ごめんって!

 謝る、謝るから仕事の話をさせてくれ!」

 筧を強く抱擁していた人物は彼の懇願を聞いて我に返ったらしい。恐る恐るその手を離して頭を下げた。

「あらやだ!

 アタシったらまた……ツッキーももう高校生で色々あるのに、ごめんなさいね。

 ホント、悪い癖だわ」

「あぁ、いや、でもこうやって十四郎じゅうしろうさんに抱きしめられること自体はホッとするというか、懐かしい気分になるというか……。

 加減さえ分かっていれば大丈夫だから、そんなに頭を下げないでくれよ、な?」

「……やっぱり優しいわね、ツッキー。

 ぐだぐだしちゃってごめんなさい、仕事の話はいつも通り奥でしましょうか」

「助かるよ」

 十四郎は近くにいたスタッフに一言告げて、筧を店の奥へと案内した。いくつかの仕切りや扉をくぐると、商品を保管している倉庫に辿り着く。

 ふたりはそこで足を止めた。

「さてツッキー、今日はなにを知りたいの?」

「この靴跡についての詳細だ」

 筧が見せたのはスマートフォンに記録された靴跡の画像だ。昨日、ビルの屋上で撮影したものだ。

 筧のスマートフォンを渡された十四郎はサングラスを外すと、真剣な表情で靴跡を見始めた。

 数枚の画像を見比べたり、あるいは拡大したりして細かい部分を観察する。

 ……上遠野十四郎かみとおの じゅうしろうは、副業として服飾店を営んでいる情報屋だ。

 同業者である真白が「うわさ話」や「表に流れない情報」を扱うのに対して、十四郎は服飾の知識を常人以上に有している。

 流行りのデザインから、靴紐に使われている原料名まで。服飾に限れば、彼が知らないことを探すことの方が難しいだろう。

 筧は以前にも、衣類の切れ端や割れた眼鏡のレンズなどを十四郎へ持ち込み、事件解決のために何度も手を借りている。

 つまりは、馴染みの情報屋であった。

 入念なチェックを終えた十四郎はスマートフォンを筧に返しながらこう切り出した。

「なかなか珍しい靴ね」

「と、いうと?」

「靴跡のちょうど真ん中辺り、薄っすらとだけどマークがあるでしょ」

「この横棒一本が、並んだ縦棒二本と交差しているやつか?」

「そうそう。 これ、タケダスポーツっていうメーカのロゴよ」

「……あまり聞いたことないな」

「まぁ、そうでしょうね。 タケダスポーツはプロアスリート向けを意識したスポーツ用品で業界内の地位を確立しているの。

 大衆品と違って値段は張るけど、その分品質も良いからプロの動きについていけるわ。

 プロのスポーツ選手以外だとまず持っていないだろうから、『珍しい』って言ったのよ」

「じゃあ、この靴跡の主は……」

「なんらかのスポーツにプロの選手、あるいはそれと同等の立場で関係している人物が可能性としては一番高いわね。

 ただ、特定の競技用シューズって訳ではなさそうだからスポーツの種類までは絞り込めないわ。 そのところ、ツッキーには目星がついているのかしら?」

「まぁな。

 やっぱりここに来て正解だった。 おかげで犯人像がかなり細かいところまで見えてきたよ。 ありがとう、十四郎さん」

「どういたしまして。 この後、時間あるならお茶とか用意させるけど?」

「いや、今の情報を聞いて行かなきゃいけない場所ができたから、また今度にな。

 その時に、ここの服も買っていくからさ」

「ツッキーに合いそうなのを用意しておくわ。 なんならアタシがコーディネートしてあげるわよ」

「助かる。 依頼金については事務所名義で振り込んでおくから。 じゃあ、また」

「えぇ、困ったことがあったらいつでもいらっしゃい」

 十四郎の言葉に、筧はわずかに笑顔を浮かべてその場を後にした。小走りで来た道を戻り、店を出る。

 店先で筧はスマートフォンの検索アプリケーションを立ち上げた。そして、検索欄には次のような文字列を入力した。

 「最寄り スポーツ用品店 アーチェリー」

 スマートフォンに内蔵されたGPS機能が働き、画面には筧が求める店舗の一覧が表示された――。


【3】

 オフィス街は夕日に照らされ始めていた。

 休日が開けた最初の業務であったからか、建物から出てきて帰路につく会社員たちは皆一様に疲れた顔をしている。

 そんな背広姿の波をかき分け、いくつかの荷物を持ったひとりの男がとあるビルへと入っていく。そのビルは低層階にいくつかの飲食店や貸ホール、診療所などを含んでいるのに対して、上層階には企業のオフィスが収まっている。

 一般人の利用者も多いため、エレベータは誰でも乗ることができる。男も例に漏れず、エレベータへ乗り込むと屋上にほど近い階のボタンを押下した。

 目的の階に到着して扉が開く。

 エレベータホールはふたつの出入り口があり、片方は広い廊下に繋がるが、もう片方は薄暗い非常階段へ出られる。男は迷うことなく後者を選ぶ。

 彼が一歩進むごとに、反対側の出入り口から聞こえてくるオフィスの喧騒は遠くなっていく。

 非常階段を少し登ると、すぐ屋上の入り口に辿り着く。しかし扉は厳重に施錠されているため開けることはできない。

 そこで男は扉の隣にある窓を内側から開け放った。大人が半身を乗り出すことができるほどの大きさだ。

 開いた窓からビルの外壁に吹き付けていた風が一気に流れ込み、男の髪は強く煽られる。

 身に付けている服の裾がバタバタと鳴るのを聞きながら、男は右手を差し出し魔術を講行使する。

「【疾風はやて】よ」

 さながら男の言葉がスイッチであるかのように風の音が一瞬で止んだ。そして指揮者のごとく男が右手の人差し指を振ると、風が彼の体を中心にして渦を作り上げた。

 自分の体が風に包まれていることを確認した男は、ひと思いにその身を窓から投げ出した。重力に引かれて落ち行くはずの体は、その周囲を流れる風に引き上げられていく。

 ビルとビルとの狭い隙間から解き放たれるまでほんの数秒。

 空中で身をひるがえした男は軽やかに屋上へと降り立った。

 もう一度男が人差し指を振ると思い出したように風鳴りが響き始める。

 強い風の中で男は準備を始めた。

 取り出すのは使い慣れたリカーブボウと、ヴェインが数本。この弓と矢が、自分の可能性をどこまでも高めてくれる。

 これまでもそうだったし、恐らく今だってそうだ。

 男は位置につく。

 眼下に広がるのは車と人が行き交う大通りだ。その両脇には街路樹とオフィスビルが並んでいる。

「【疾風】よ、道筋を作れ」

 今度はより強い風鳴りが響く。

 男の背後から正面方向に流れる「風の道」が、空の中に浮かび上がった。

 不思議と、男が風鳴りに煩わしさを感じることはなかった。むしろ荘厳な瀑布を目の当たりにしたような心地よさを感じるほどだ。

 目を閉じ、深呼吸をして風を体の中に通す。

 弓を構え、ヴェインを握り、弦を引く。

 男は今、孤独だった。

 世界には男と、彼が狙うものと、彼を取り巻く風の音しか存在しない。

 その孤独も、男には心地良かった。

 風と一体になり、いよいよ矢を放とうとしたまさにその瞬間、

「――そこまでだ」

 風の音に声が混じった。

 男は、孤独ではなくなってしまった。


 筧は強い風の中で、犯人の男がリカーブボウとヴェインをそっと床に置くのを見た。

「随分と聞き分けがいいみたいだな」

「事前に決めていたんです。 もしこの企みが他者に露見してしまったら、潔く諦めようと」

 こちらが指示した訳でもないのに、男は両手を上げて無抵抗の意思を示した。

 筧は比良塚に目配せして、男の背後に回り込ませた。

「じゃあギリギリセーフだった訳だ。

 今日、決めるつもりだったんだろ」

 男は驚きの表情を一瞬浮かべ、感心した口調で言った。

「なるほど、やろうとしたことは全てお見通しみたいですね。

 素晴らしい推理力です、あなたたちに捕まるのなら惜しくはない」

「だが俺の推理も結局のところ、まだ仮説に過ぎない。 犯人の口を借りることでようやく実証できるんだ、答え合わせには付き合ってもらうぞ」

 男はなにも言わない代わりに、頷くことで同意を示した。

「さて、まず俺たちが捜査を始めた段階で知っていたのはこの大通りを中心に魔術が使用されたということだけだった。

 そこで実際にこの通りを歩いていると、連続したビルの窓が割られていることに気がついた。 これ以外に大きな異変を感じ取れなかったから、魔術によって窓が割られたと消去法で決めた訳だ」

 正直、サラリーマンのおっさんに窓が割られた順番を聞くまでは半信半疑だったけどな、と筧は付け加える。

「ではなぜ魔術を使ってまで窓を割る必要があったのか。 窓を割ることそのものを目的とした愉快犯の可能性もなくはなかったが、その線は薄いと考えた」

「窓の高さが同じで、割られた順番に規則性があったからですね」

 比良塚の補足を筧は肯定した。

「そうだ。 だから犯人が通り沿いにあるビルの、特定の階を狙っていたことは容易に推理できた。 窓が割れたのはあくまでその過程にすぎないこともな。

 日を分けて四回矢を放ったのは距離感を掴むためだ。 魔術を使うとはいえ、ここから標的まではかなり距離がある。 だから『練習』する必要があったんだ。

 幸い、メジャー代わりになるものが近くにあるから、そこまで苦労はなかったみたいだが」

 筧の言葉で比良塚はふと眼下を見下ろした。

 この屋上からは大通りを真下に見下ろすことができ、さらにその両脇には等間隔で街路樹が植えられている。

「なるほど、街路樹を目盛りにしたわけですか」

「あとは比良塚さんが気づいた風向きを考慮することでここが射点だと割り出せた。

 じゃあ、こんなことをする犯人は一体どんな奴なのか。 手がかりは窓を割った矢にあった。

 洋弓の矢は羽が大きいものと小さいものに大別できる。 初心者が大きいものを使うのに対して、経験者は小さいものを選ぶようになる。 そうだな?」

「その傾向はありますね」

 男は足元に置いたヴェインを傍目で見た。

 そこについている羽はごく小さいものであることが分かる。

「それともうひとつ。

 あんたはこの場所に最低でも四回は出入りしていたわけだが、そのどこかで靴跡を残した」

 筧は片手でスマートフォンを取り出し、花壇に残されていた靴跡の写真を見せた。

 靴跡の中心部には十四郎から教わった、タケダスポーツのロゴが残っている。

「このロゴを使っているメーカは、プロ向けのスポーツ用品を中心に展開している。

 矢と靴、このふたつから犯人はアーチェリーのプロアスリートという可能性が非常に高いことが分かった。

 あとは犯人の目的とその動機だが、これを語る上で避けては通れないのが、なぜ俺たちが待ち伏せした日に、あんたは現れなかったのかという点だ」

「おや、まさかずっとここで待機していたのですか。 それは申し訳ありませんでした」

「犯人に謝られると変な気分になりますね……」

「……変わってるなあんた。

 いやそれはともかく、四枚目の窓が割られた翌日、俺とそこにいる比良塚さんはこの屋上であんたの靴跡を見つけて、数時間張り込んだ。

 だがあんたは現れなかった。

 これは些細なことだが、十分悩まされたし、逆にヒントにもなった」

 筧は切り出す。

 まず考えたのは窓が割られた日と、割られなかった日の違いはなにかという点だ、と。

「要素が多すぎるから考えるのに時間はかかったが、たまたまビルのサイネージが目についてようやく分かったんだ」

 比良塚はあの時、筧が突然足を止めてビルの壁に設置されたデジタルサイネージを凝視し、なにかを得ていたことを思い出した。

「曜日だ。

 四枚の窓が割られたのは全て平日中のことだったが、あの日は土曜日だった。

 平日と土曜日で変化するもの……これもいくつか候補があるが、現場がオフィスビルの多い通りだということを考慮すると――」

「出勤してくる人、ですか」

「正解だ、比良塚さん。

 つまりあんたの狙いはビルの中にいる人を狙撃することだった訳だ。

 しかも相手は平日に出勤してくるが、土曜日は決まって休んでいる人物。 なら翌日の日曜日も休んでいるだろうし、やるとしたら更に翌日の月曜日。

 つまり、今日だ」

 筧は「さらに」と付け加える。

「土曜日に狙撃がおこなわれなかった時点で、『練習』はもう必要ないことも分かった。 次にあんたが矢を放つのは、人を射抜く『本番』の時。

 だから言ったんだ、『ギリギリセーフ』だって」

 筧の推理を聞き終えて、男はかすかに笑った。

「本当に……本当に、素晴らしい推理力ですね。 僕がやろうとしたこと、その目的、全て見透かされてしまって恥ずかしい気分ですよ。

 この分だと、ここまでやろうとした動機まで分かっているのでしょうね」

「まぁ、大体は。

 あんたが狙っていた人物の名前は、工藤正武くどう まさたけ、日本アーチェリー連合の役員。

 そして彼を狙うあんたは……高司八雲たかつかさ やくも

 オリンピック出場経験もあるアーチェリー界のレジェンド、高司夜一たかつかさ やいちの息子、そうだな?」

 笑みを消すことなく、犯人――高司八雲はゆっくりと頷いた。


「高司、夜一」

 比良塚にもその名前は聞き覚えがあった。

 高司夜一……ほんの数年前まで活躍していたアーチェリーの選手だ。

 彼はオリンピック出場の経験があるだけでなく、齢四十を過ぎてなお、活躍の場があったことから「レジェンド」と称される人物であった。

 しかし故障と体力の衰えを理由に、惜しまれつつ競技人生を引退。後進の育成を目標に第二の人生を歩んでいる、というのが比良塚の持ちうる知識だった。

「しかし、その息子さんというのは」

「あまりメディアに出ていないから知らなくても無理ないが、次のオリンピック出場も期待されている有望株だ。

 もちろん、プロとして既に活躍している」

「目の前でそう言われるとこそばゆいですね」

 八雲は苦笑する。

「標的のビルに入っているオフィスとの関係、歩幅から割り出した身長、そしてプロの選手という人物像を元にして、アーチェリー用品を扱うスポーツショップに聞き込みをしたらあんたが浮上してきた。

 ああいう店には業界の事情通がいるからな、一種の情報源さ」

「筧さん、では高司さんの動機というのは……」

「工藤への復讐。 あってるか?」

 八雲は例によってなにも言わず、ただ頷くだけだった。これまで絶やさなかった笑みを消し、静かに口を開く。

「話は二年前に遡ります。

 これもあまり世に出ていないことですが、父は車の事故にあい、他界しています。

 当時の僕は、不幸な事故にたまたま父が巻き込まれてしまったのだと、そう考えていました」

 でも、と八雲は拳を握った。

「父は殺されたんです、あの工藤によって」

「殺された……?」

 比良塚の疑問に対して筧が補足する。

「工藤もアーチェリーの選手として活躍していた時期があった。 八雲の父親、高司夜一とは同世代で、ふたりは友人であると同時によきライバルだったらしいな」

「えぇ。 引退後、父が後進の育成のため指導者の道を進んだのに対して、工藤は日本アーチェリー連合という組織での地位を築き上げていきました」

「しかし、当時の工藤にはよくない噂があった」

「…………競技強化支援のため、国からアーチェリー連合に割り当てられた助成金を一部横領していたんです」

「横領……」

「そして、幸か不幸か横領についての噂が僕の父の耳へと入ってしまいました。

 父は正義感が強く、競技者としてアーチェリーを愛していました。 本来であれば、若手選手の育成に充てられた資金でもありますから、工藤のやったことは絶対に許せなかったのだと思います」

「あんたの父親は、工藤に詰め寄った」

「そうです。 横領の事実が表に出れば、破滅することは目に見えています……だから工藤は、事故に見せかけて父を殺害し、口封じをした」

「あなたは、どうやってそのことを知ったのですか?」

「諸用で日本アーチェリー連合―僕が四番目に窓を割ったビルの隣にある建物ですね―を訪れた時に知りました。

 扉の外に僕がいるとは知らず、工藤本人が電話口で喋っていたんです。

 『高司を殺せて本当に良かった。 これほど清々しい気持ちは始めてだ』って」

 八雲の言葉を聞いて、筧は苦虫を噛み潰したような顔をして、比良塚はそっと視線を逸らした。

「……悔しいと思いました。

 父は皆から尊敬されるスポーツマンでした。 非道を正そうとした父は殺され、その犯人である工藤は警察の手さえ逃れて今もこうして生きている。

 この事実に僕は心底絶望し、工藤に復讐できるのならどんな手段でも使おうと心に誓いました」

「そこで【風の魔術】を使った狙撃を思いついた」

「工藤の居室は何度か訪れたことがあったので、部屋が窓際にあること、週末は出勤してこないこと、夕方のこの時間帯はひとりになることは知っていました。

 僕がやろうとしていたことは、これで全てです。 良い答え合わせにはなりましたか?」

「そうだな、おおむね満足だ。

 ……だがひとつ解せない。

 ここで俺たちが呼び止めた時、あんたは警告を無視して矢を放つこともできた。

 なのになぜ、あそこまで潔く弓と矢を手放せたんだ? そこまでの復讐心を持っているなら尚更だ」

 無表情だった八雲の顔に、再び苦笑が戻る。

「なんででしょうね。

 正直なところ僕にもよくわかりません。 あなたの声を聞いて、自然と手が止まっていました。

 でも……」

 八雲が言葉を止める。

 彼と、筧と比良塚、三人の間に強い風が吹き抜ける。

「でも……もしかすると、自らの企てを誰かに止めて欲しかったのかもしれません。

 工藤は絶対に許されないことをした。 復讐したいという気持ちが今後晴れることはないでしょう……。

 それでも、……それでも、父が愛したこの弓と矢を使って罪を犯すことを、心のどこかでは拒否していたのかもしれません」

「勝手な言い分だな」

 なんの気無しに筧は呟く。

「ちょっと、筧さん」

「いや、いいんです。 僕自身も、本当に身勝手なことだと思いますから」

 ほらな、と言いたげな筧の顔を見て比良塚はため息をついた。

 そのため息も、風に乗って遠くへ運ばれていく。

「ところで」

 八雲が口を開く。

「あなたたちは一体、何者なのでしょうか? 警察……にしては、僕と同い年くらいに見えますし」

 そこから説明しなきゃいかんのか、と筧は思わず頭を抱えた。


「やっぱりひと仕事終わったあとのメシは格別だな」

 マイティの一席で筧は言った。

 今回注文したのはジェノベーゼのスパゲッティだ。緑のソースを麺と絡め、フォークで丸めてからよく味わう。

「……あの、筧さん」

 例によってふたつ隣の席でクロックムッシュを食べていた比良塚が口を開いた。

「なに?」

「ひょっとしてこれ、筧さんの仕業ですか?」

 紙ナプキンで口まわりのパンくずを取りながら、比良塚が見せたのはスマートフォンの画面だった。そこにはネットニュースの記事が表示されているが、見出しにはこうあった。

《日本アーチェリー連合の重鎮、国からの助成金を横領か!?》

 見出しの下には、工藤正武に国から出された助成金を横領した疑いがあるとして、警察による取調べがおこなわれている旨が記されている。

 筧はスパゲッティを味わいながらその記事に目を通した。飲み下してから比良塚の疑問に答える。

「いや。

 あぁ、でも知り合いの情報屋真白に横領があったことはリークしたっけ……まぁそこから先は俺のあずかり知らぬトコロ、ってことで」

 筧は二口目のため、もう一度スパゲッティをフォークで丸め始める。

「まぁ、これで高司のやつも多少は気が晴れるだろ」

「気持ちは分かりますが、どうしてここまでやったんですか?」

「答えは単純。

 復讐したくなる奴の気持ちが分かるから」

 二口目のスパゲッティを口に運びながら筧は答える。

「よく、『復讐からはなにも生まれないからよせー』なんて言われるけどさ、俺はそう思わない。 だってやられっぱなしって、ムカムカするし、やり返せばスカッとする。

 だから、俺は復讐を否定しない」

 三口目をフォークで巻く。

「もちろん、それを仕事には持ち込むことはしないさ。 この仕事をやってて俺が判断する基準は、許可された魔術か、そうでないかだけ。 復讐が正しいか間違っているかなんて考えない。

 だから、今回のは俺の個人的なアフターサービス。 仕事とはまた別、ってことで。

 ……ひょっとして、今の発言で信用なくしちゃった?」

「い、いえ。 そういう訳ではありませんが」

「まぁ、それよりも気になるのは八雲が言っていたことだよ」

 スパゲッティを平らげた筧はアイスコーヒーの入ったグラスに手を伸ばした。

 今回の事件を起こした八雲も迫水の所へ連行した訳だが、その道中で筧は彼が魔術を使えるようになったいきさつを聞き出していた。

『始めて会った男から教わったんです』

『男? どんな男だ』

『フードを被っていたので顔はよく見えませんでした。 工藤の話を盗み聞く直前、その男が突然現れて【風の魔術】を使えるようにしてくれたんです』

『その男に関して、なにか分かりやすい特徴はなかったか?』

『体格も声も、普通だったので…………あ、いや、そういえば腕に妙なマークがありましたね』

『マーク?』

『はい。 確か、正方形の中に方位磁針の絵が描かれたマークでした』

『正方形と、方位磁針……』

 比良塚も紅茶に一口つけた。

「魔術の世界で、正方形は『箱庭』を象った《協定機構》のものです」

「んで、方位磁針は他者に魔術を教える、魔導師の象徴だ」

「となると、八雲さんは《協定機構》の魔導師から魔術を教わったことになります。

 一体、どういうことなんでしょうか」

「さぁね。 判断材料があまりにも少なすぎる。 まぁ、迫水さんにもそのこと伝えたし、前に捕まえたゴーレム使いにも追加で聴取が入るって言ってた。

 重要なことは上が判断するだろ。 俺たちはあくまで使いっ走りな訳だし」

 そうは言いながらも、筧の中では迫水から聞いた言葉が再生されていた。

『……明らかに上はなにかを隠したがっている。 その片鱗であれ、君たちは関わりを持ち始めているのだから、よくよく用心するんだ、いいね?』

「用心、ね」

 食事を終えた筧は荷物の中から、特性の手甲である『黒御簾くろみす』を取り出してテーブルに乗せた。

 彼がこれからやることを考慮してか、初老のマスターが静かに食器を下げる。

 ふたつ向こうの席から比良塚が問いかける。

「点検ですか」

「まぁな。

 ほら、コレがないと、俺ダメだから」

 比良塚はしばらく無言で筧の作業を見ていたが、しばらくすると【銀糸ぎんし】で使う刀の柄を取り出して自らも点検を始めた。


 ふたりの少年少女が黙々と作業を進めるのを見届けて、マスターは洗い物に取り掛かった。


(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

箱庭捜査 大地黒須 @ground_cross

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ