「見つかっちゃった」
神田 るふ
「見つかっちゃった」
私は子供が好きである。子供を見ると、つい笑顔になってしまうし、時々、手を振ってしまうこともあった。
だが、この話を聞いてからは無暗に手を振るようなことは控えるようになった。
相手が、この世のものであるという保証はないのだから。
その話は、仕事の同僚Hから聞いた話である。
現在、Hは隣の県から車で二時間かけて通勤している。
所謂、転勤あるあるというやつで、念願のマイホームを建てた直後に転勤が決まってしまった。
最初は単身赴任を考えたそうだが、建てたばかりの家を空けるのはもったいないし、何より子供がまだ小さいので奥さんに負担がかかるのを心配したHは自宅からの通勤を選択することを選んだ。
つくづく、殊勝な男だと思う。
この立派なマイホームパパが何とも不思議な出来事と遭遇した。
昨年の晩秋の頃である。
一年で最も昼の時間が短くなるこの時期、Hが帰宅する時間帯はいつも真っ暗になる。
通勤路にはいくつかの山道があるのだが、そこに差し掛かると人家はもちろん照明もまばらになる。車一台で通るとさすがにあまりいい気持ちがしない。そんな時、前後に車が走ってくれていれば心強いものだ。その時も、Hの前には一台の軽自動車が走っていた。
ほっとしながら車を走らせていたHだったが、よく目を凝らすと後部のリアガラスの向こうに動くものがある。
よく見えないが、どうやら小さな女の子が乗っているようだった。
後部座席から、そーっと頭を出して、Hと目が合いそうになると、すっと隠れる。
まるでかくれんぼである。
きっと退屈なのだろう。後ろに車が来るとこうやって遊んでいるに違いない。
Hはなんだか微笑ましくなった。ガラスを隔てて女の子と遊ぶのが楽しくなってきた。
そこで、女の子が隠れた後、Hは眼をそらさず後部座席をじっと眺めていた。
女の子が顔を出した。
ミラー越しに、目があった。
Hは思わず手を振っていた。
それを見た女の子はびっくりした様子で顔をひっこめた。
かわいいなあ。俺も早く家に帰って子供と遊びたいな。
そんなことを想いながらHは女の子が次に顔を出すのを待っていた。
ところが、何時まで経っても女の子は顔を出さない。
ひょっとしたら見つかってしまって拗ねてしまったのだろうか。
それとも飽きてしまったのだろうか。
Hは急にさびしくなってきた。
そのまましばらく車を走らせていたHだったが、ふと、妙な気分に襲われた。
後ろから、気配がする。
妙な圧迫感がある。
先程まで自分の後ろには誰も走っていなかったはずだったが、何時の間にか後ろから煽られていたのだろうか。Hはバックミラーを覗き込んだ。
何かが、後部座席の後ろでさっと頭を下げた。
え、と思わずHは声を出していた。
自分以外には誰も乗っていないはずだ。
山道に入る前にコンビニに寄り、子供へのお土産にお菓子を買って後部座席に置いたではないか。誰かがいたらその時に気づかなければおかしい。
Hは気持ちを落ち着かせた。疲れているんだ。今日は木曜日だしな。暫く車を走らせれば落ち着くさ。
そう思いながらハンドルを握り直し、バックミラーから目を離したが、ミラーから視線を移すと、また圧迫感が後ろから迫ってくる。
誰かが、後ろから見ているような気がする。
Hは恐る恐るバックミラーに目をやった。
さっと、何かが頭を隠した。
絶対、何かいる。
俺の知らない間に変なのが入り込んでる。
隠れている者は何者なのか。
我知らず、Hはバックミラーをずっと注視していた。
何かが。
ゆっくりと頭をもたげてきた。
ミラー越しに、目があった。
先程まで、前の車に乗っていた、あの女の子だった。
「見つかっちゃった!」
笑いながら、女の子が頭を下げた。
Hはぎゃああああだのうおおおおだのという獣みたいな叫び声を上げて反射的にブレーキを踏んだらしい。
急ブレーキのものすごい音と衝撃に思わず目をつぶったHが恐々と目を開けると、目の前にはずっと前を走っていた軽自動車のリアガラスが眼前にあった。フロントガラスを見上げると、軽自動車の向こうに信号機の赤いランプが光っている。
危うく、信号で停止していた軽自動車に追突するところだった。
Hの急ブレーキにびっくりしたのだろう。軽自動車から若い女性が降りてきたのでHも車を飛び出し、女性に平謝りした。
「お互い事故にはなりませんでしたから」
と女性はHを責めることはしなかった。
女性に謝りながら、Hはそっと軽自動車の後部座席の中を覗き込んだ。
後部座席には、誰も乗っていなかった。
信号が青に変わった。
「いいですから、本当にいいですから」
女性は頭を下げ続けるHにそう言いながら軽自動車に乗り込み、走り去っていった。
後ろから車が来たら大変である。
Hも急いで自分の車に戻り、ドアを閉めた。
念のため、バックミラーを恐る恐る覗いてみる。
其処には真っ暗な夜道しか映っていなかった。
やっぱり疲れていたんだ。変な幻覚を見たんだ。
ほっとしながらHがアクセルを踏んだ時だった。
「あぶない。あぶない。気を付けようね」
後部座席から、女の子の声が聞こえてきた。
「それから先はもう必死で車を運転して帰ったよ。ラジオを爆音でかけてバックミラーは絶対に見ないようにしてさ」
語り終えたHはそう言って煙草の煙を吐いた。
そういえば、Hは一時期、自分のワンボックスではなく奥さんの軽自動車で通勤していたことがあったことを私は思い出したので関係を聞いてみた。
「ドンピシャだよ。もう怖くて自分の車に乗れなくなったんだ。昼間なら大丈夫かと思ってワンボックスはかみさんに乗らせていた。もちろん、“あれ”の話はしてないぜ。どうやら昼は出ないらしい。かみさん、何も言ってこないしな。ひょっとしたら、俺の前、いや、後ろにしか出ないのかもしれないが」
「でも、H君。今は何時ものワンボックスで通勤してるじゃないか。もう大丈夫なのかい?」
「いや、それがだな……」
二本目の煙草を取り出しながら、Hは続きの話を語り始めた。
三日前の日曜日、“あれ”を見てからは十日後のことである。
Hの奥さんはお昼からママ会に出かけていた。Hは子供と家で遊んでいたが、ママ会が終わるはずの夕方になっても帰ってこない。Hは焦った。行きはママ友の車に乗っていった奥さんだったが、帰りはHが迎えに行く約束をしていたからだ。しかも、悪いことに奥さんの車は近くに住んでいる奥さんの両親に夜から貸す約束までしていたのだ。
案の定、奥さんからの連絡はなく、義父母は奥さんの車に乗っていってしまった。
まずい。
残されたのは“あれ”がいるかもしれない自分のワンボックスだけである。
ようやく奥さんから電話と通じたのは、午後七時半のことであった。
ママ会が盛り上がってそのまま居酒屋まで繰り出したらしい。
すぐに迎えに来てという奥さんの要請にHはタクシーを使ってくれと頼んだらしいが、いい感じに出来上がっていた奥さんは話を聞こうとはしなかった。
意を決したHはあのワンボックスで迎えに行くことを決めたのだった。
あの日と同じようにラジオを大音量にしてHはワンボックスを走らせた。
やっぱり、いる。
Hは気配でわかったそうだ。
後部座席の後ろから、何かが見ている感じがひしひしとHの背中を圧迫していた。
Hが冷や汗と胃痛に苦しみながら奥さんが待つ居酒屋まであと信号二つという場所まで来た時だった。
「見つかっちゃった!」
うわ!とHは思わず悲鳴を上げた。
俺はお前を見てないぞ!いったいどういうことだ!
半狂乱になったHだったが、その言葉を最後に、ふと、あの少女の気配が消えたらしい。
いなくなった。
Hは感覚的にそう悟っていた。
その後、奥さんを助手席に乗せて家路についたが、あの女の子の視線は全く感じることはなかった。
翌日の月曜日、Hはワンボックスに乗って通勤してみた。もし、出てきたら途中で引き返そうと考えていたが、女の子はもう現れることはなかった。
そのまま、現在に至るのである。
「よかったじゃないか。これで一件落着だ」
能天気な私に対し、Hの顔は何故か沈んでいた。
「そうだといいんだがなあ。なあ、ひょっとしたらさ。日曜のあの晩、俺のワンボックスの後ろにいた車に乗っていた人がだよ、もし、あれに向かって手を振っていたとしたら、どう思う?見つけたのは俺じゃない。ということは、やっぱり……」
今もどこかで、誰かの車の後ろで、その女の子はかくれんぼをしているのだろうか。
Hの話を聞いてから、私は夜道で前を走る車のリアガラスの中をまじまじと見ることはしなくなったし、無暗に子供に手を振ることもしなくなった。
「見つかっちゃった」 神田 るふ @nekonoturugi
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