琥珀色の喫茶店

御手紙 葉

琥珀色のの喫茶店

 私は喫茶店の片隅で、原稿用紙に万年筆を走らせて小説を書き続けていた。それは琥珀色の蜂蜜を溶かしこんだような、とても甘い至福の時間だった。私にとって文字を綴るということは、煌めく淡い陽射しを筆に乗せて描いていくのと同じだった。ふわりと紙に琥珀色の色彩を描いて、綺麗な絵を描いていくような。

 私の手元には、一冊の本が置かれていた。それは私が先日出した最新作で、ハードカバーの表紙を何度見ても嬉しさが胸を突き抜けて、私は口元を緩めながら何度も表紙を撫でるのだった。頭上を流れるジャズピアノを遠くに感じながら、一人物語の世界に浸って小説を書いていく。その執筆の時間が、私にとっての生きていることの実感に繋がっていた。

 原稿用紙をひらりと捲り、さらに書き続けていると、そこでふと、誰かが店に入ってきて、私の隣の席に座ったのがわかった。心地良い優しいコロンの香りが私の鼻先を撫でた。ひなたぼっこして、お日さまの匂いが髪にこびり付いたような、そんな匂いだった。

 私は何気なくペンを走らせる手を止めて、隣に座った彼女を見つめる。ちょうど私と同じくらいの歳の、若い女性だった。長い栗色の髪をかんざしで留めていて、すらりと背が高い肢体が印象的だ。ブラウスから覗く肌がとてもきめ細かで羨ましく感じられるほどだった。

 彼女はそっと鞄から何かを取り出して、机の上で広げた。私はそれを見つめて、そして胸がドクン、と高鳴るのがわかった。そう、それは――。


『彩(いろどり)のあやか』 田原美津香


 私は思わず声を零しそうになってしまう。そう、それは私が出したという最新作だったのだ。

 彼女はにっこりと微笑みながらページを捲り、薄らと頬を上気させて夢中で読んでいた。ページを捲る度にほう、と息を吐いたり、身を乗り出したり、とにかくその物語にどっぷりと浸かっているのがわかる。私は彼女のそんな表情を見つめて、胸に暖かな感情が突き抜けていくのがわかった。

 こんなにも嬉しそうに読んでくれるなんて……本当に、嬉しい。

 私が彼女の横顔を見守って胸が一杯になっているうちに、彼女の元にブレンドコーヒーが運ばれてきた。私はそっと視線を外し、再び原稿用紙に向き合ってペンを動かせ始める。こんなにも楽しみに読んでくれる人がいるのだから、私も精一杯書こう、そう思ったのだ。

 そうして一時間近く没頭して書き、ようやくペンを置いて、アイスコーヒーを一口飲んだ頃、ふと隣で私の作品を読んでいた彼女がこちらへと振り向き、目が合った。彼女が私を見た瞬間に、目を丸くしたのがわかった。私は緊張しながら、彼女の言葉を待つ。

「もしかして――」

「はい」

 彼女は目を見開き、私を数秒間じっと見つめていたけれど、やがて私の手元に置かれた本を指差して言った。私は大きく唾を呑み込み、彼女の言葉を静かに待った。

「あなたは――」


 田原美津香さんですか?


 そう名前を呼び掛けられるのか、と私はその瞬間を待っていたけれど、しかし彼女がつぶやいた言葉は、全く別の意味を持つものだった。

「私と同じで、田原美津香さんの本を読んでいるのね!」

 女性はとても興奮した声でそう言うと、自分が読んでいたそのハードカバーの本を顔の前に掲げ、本当に嬉しそうな表情を見せた。私は思わず言葉を失ってしまったけれど、それでもそんなにも私の書いた本を大切にしてくれる人がいて、喉が喜びに塞がってしまった。

「は、はい。ちょうど読む機会があって、」

 自然とそんな言葉を漏らしてしまった。女性は何度もうなずきながら、私の本を叩いて高揚したように語った。

「とっても主人公に共感できる、素晴らしい作品よね。女性視点の物語なのに、時折男気のあるところを見せるというか、気丈な主人公の人物像が私には本当に格好良く見えるのよ。ストーリーも世間の荒波はすごいけど、とてもユーモアに溢れてて楽しいわ」

「はい……ありがとうございます」

「彼女がデビューした頃からずっと読み続けているんだけど、今一番読みたい作家なのよね。まだまだマイナーだけど、あなたのように読んでいる人がいるってわかって嬉しいわ、本当に」

 女性はそう言って、空から氷の結晶がぱらぱらと降り注いだような、綺麗な宝石のような笑顔を見せた。それは私にとって、心の奥深くまで貫くほどの衝撃があり、そして同時に心を解き放って優しさに溶けてしまう穏やかさがあった。

「じゃあ、お互い彼女が賞を取るまでずっとずっと見守っていきましょうね」

 彼女はそう言うと、本をすっと鞄に仕舞い、頬から零れ落ちるような微笑みを見せながら席から立ち上がった。私はただ何も言うことができないまま、薄らと霞んだ視界の中で、彼女の溌剌とした様子を見守った。

 本当に、太陽が弾けたような女性だった。

 私は小さく頭を下げ、ありがとうございました、と彼女が聞き取れないような声で言った。女性は一度足を止めて改めて私へと顔を向けると、親しい友人に囁くように優しく言った。

「またこの店で会えるといいわね。それじゃ、またね」

 女性はそう言うと小さく手を上げ、颯爽と店を出て行った。彼女の残していったコロンの香りが、私の鼻に涙の余韻と共に薄らと甘い匂いを染み付かせた。それはいつまでも、目を閉じて彼女の言葉を反芻しても、消えることはなかった。

 透明な水に、彼女の琥珀色の息吹が吹きかけられたように、綺麗な色彩が心に染み渡っていった。それはやがて私の心にほんわかとした暖かさを与えて、何度も本をぎゅっと握り締めてしまうのだった。

 本当に、私の本をここまで愛してくれる人がいたことに、嬉しさにどんな言葉も涙に溶けてしまうのだった。彼女のような人がいるなら、私はずっとずっと書き続けていけるだろう、と原稿用紙に再びペンを走らせ始め、強い決意が根付くのがわかった。

 誰かが私の作品を読んで、陽だまりを感じていられるように……そして、私自身が陽だまりに戻ってこれるように、私はいつまでも文字を綴り続けるだろう。

 それは琥珀色の蜂蜜のように甘く、心地良いコロンのように優しく――。

 ペンを握る手が、ひとしずくを受けて、弾けて、心の淡い色彩に溶けていった。


 了

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